第2話

 デブ、ガリ、ハゲ。

 今日の『初めて運動教室』で私が担当する新規会員の特徴だった。

「はぁ~……」

 私はメモ帳をユニフォームのポケットにしまうと、背もたれに寄りかかった。扉の前にある姿見に映る自分を見ても、身だしなみを整える気力が湧かない。

 セミショートのくせ毛を摘むと、隠れていた寝癖がちょこんと顔を出す。せめて片側だけ立っている襟を整えた。

「ふ~、さっぱりしたぁ」

 奥の更衣室から満足げな声がもれる。

 出てきたのは同僚の大前おおまえコトカ。一年前に入社した私の同期。良い汗を流したと言わんばかりにバスタオルでロングヘアの黒髪を拭いている。

「さっきのエアロバイクすごい盛り上がったよー。勢い余ってバイク強度をどんどん上げちゃった」

 コトカは対面の席にストンと座ると、頭にバスタオルをかけたまま楽しげに話し始めた。

「しかも格好良いおじさんがいて、苦しそうな顔しながら頑張ってるの。思わず頑張れてって応援したくなっちゃったよ」

「いじめたくなったの間違いでしょ。しかもおじさん趣味。良い趣味とは言えない」

「何言ってるの~。おじさん良いよー? きっとゴールド会員だし。平日の昼間にも来るってことは普通のサラリーマンじゃない証拠。もしかしたら企業の社長とか」

 頬づえを突きながら首を左右へリズミカルに振る。ご機嫌な妄想を膨らませていた。

「マチだってこれから初めて運動教室でしょ。どれどれ? リストを見せてごらん」

「あ、返せ」

「ふむふむ。うわ、三人とも男じゃん。私に文句言うなんて百万年早いよ~」

 コトカがリストを挟んだバインダーを不満そうに放る。

「こんなところでのんびりしてる暇はないでしょ。ほら、早く更衣室に戻って髪の毛整えて、唇ぷるぷるにしておいで。彼氏に振られたばかりだからって油断してちゃ駄目だからね」

 コトカは私を無理やり立たせると、更衣室の方へ押しやった。立つのもだるい足が無理やり前へ進む。


「そろそろ染め直さないと」

 茶髪の根元が黒い。プリンの一歩手前だが、どうにかグラデーションで止まっている。

 ブラシで髪をとかし、鏡に映る眠そうな一重まぶたに力を入れた。自分の垂れ目は好きではない。けだるそうに見られるから。せめて眉だけ釣って少しはやる気のありそうな顔を作る。

「マチー、最近やせたー?」

 ユニフォームの裾を伸ばしていると、後ろからドライヤーのやかましい風音が響いた。

「筋トレしまくったから締まってきたと思う」

「出た。これが噂に聞くやけ食いならぬやけトレ。まさかマチがそのタイプとは」

 ウエアの裾を捲って腹部をみる。うっすらと縦に一本の線がある。うん、自分で言うのも何だが締まってる。

 コトカの言う通り人生初の失恋をした後に筋トレに打ち込んだ結果だ。悲しいけど。

「そのナイスくびれで男はイチコロだね。今度はどんな彼氏が欲しい?」

 どんな彼氏。

「どうしたのマチ? あ、さすがにちょっといじり過ぎたかも。謝るね」

 コトカはドライヤーを止めると、少し慌てて駆け寄ってきた。人の傷口をこれ見よがしにえぐる割には気にしい。

「じゃあ、行ってくる。私のタイプは背の高い細マッチョ。薄い顔。以後よろしく」

「それって元カレじゃん」

 冷静なツッコミを無視して私は更衣室を出た。アンダーシャツをハーフパンツにしまい、控え室からジム内への扉を開ける。

「はいりまーす」

 今日も一日、仕事に打ち込もう。気だるかった足はいつのまにか大きな歩幅になり、気持ちも引き締まる。

 ここからは先は仕事。プライベードを持ち込むのは愚行なのだ。


「挨拶回りしてきまーす」

 私の働くフィットネスジム『ヨミカキ』には出勤時と休憩あがりにジム内を一周する習慣がある。自分がジム内にいますというアピールのためだ。

 しかし今日に限ってはもうひとつ重要な目的があった。

「こんちはー」

 スタジオを左手に見ながらバイクゾーンからストレッチゾーン。ランニングマシンの並ぶ窓際へ。

 有酸素運動をしている人は挨拶をしても基本は会釈のみ。挨拶を返して呼吸を乱したくないのだ。頑張ってもはにかむ程度。

「こんちはー」

 中央の筋力トレーニングのマシンゾーンを通り過ぎると、フリーウエイトゾーン。マッチョな人たちがひしめくある意味で聖域と呼ばれる場所だ。

「おー、マチちゃん。相変わらず眠そうだね」

 バーベルなどの高重量を扱うフリーウエイトゾーンは独特な雰囲気がある。話しかけるなオーラを出す人も多いが、インターバルも多いせいか気さくに挨拶を返してくれる人もけっこういた。

 挨拶を返してくれたのは常連の通称マッチョさん。平日の昼間から毎日のようにトレーニングに明け暮れている筋肉質なおじさん。一体どんな仕事をしているのかいつも控え室で話題になっている。

 最後に乗馬マシンが傍にある受付へ戻ってくる。一周する頃には数分が経っており、都内でも有数の広さらしい。

 一〇台ある乗馬マシンのひとつに理想体型の男性が跨っている。明らかに不似合いだが妙に慣れた雰囲気。しっかりと骨盤から動かしている。

「じゃあ私は初めて運動教室に入るから。カウンターよろしく」

「はい、頑張ってください!」

 唯一の後輩でもあり、唯一の年下でもある入りたての新人君が目を輝かせる。見習い期間はまだ指導もサポートもできない。指導に当たる姿は純粋に羨ましいのだろう。

 研修期間はこうして受付で挨拶をするのが主な業務。私にもこんなフレッシュな時代があった。まだ二年目のペーペーだけど。

 短髪で私よりも背が小さく、一六五センチくらい。人懐っこい性格は後輩の名に相応しい。

 私は参加者をリスト化したバインダーとペンを持って、ちらりと最奥部のストレッチゾーンへ目をやった。

「そりゃあいるよね」

 時刻は午後二時の五分前。

 長机の辺りには挙動不審に私をチラ見する細身の青年が一人。

「準備万端ってやつだ」

 リストと特定人物の顔を見返す。

「これより二時から初めて運動教室を行いまーす。予約をされている方は受付前の長テーブルにお集まりくださーい」

 フロア全体に声を響かせる。私の目測に誤りはない。目をつけていた人物らがゆらりと長テーブルへ集まってきた。

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