第1話 私達の今 -5- (終)

 別に泣いたっていいんじゃねぇの? という貫太の声が頭に染み付くこともある。もう大分だいぶん前のことだったような気がして、でもそれは結果が出なくなった頃のものだということを思い出して、結局の所一年弱しか経っていないことを思い出してまた気分が沈む。時折こうして頭を過っては脳のどこかをチリチリと通りすがりに焼き付けていくんだ。

 父は全盲でありながら剣道で現在五年連続日本一に輝く、所謂タイトリストになっている。障害者スポーツではない。健常者と斬り結び、そして結果を出している。そのことは本人だけでなく、幼い頃の私達姉弟にとっても大変にほまれなことだった。そんな父を持っていることはハンディキャップを跳ね除けるに十二分過ぎるほどの誇らしい実績であった。

 一方で、鬼神きじん、鬼才と持てはやされる男の息子――更に付け加えれば長男――である貫太は全国一位に輝いたことは一度もない。現在中二の弟は、小学一年生の時からただの一度も全国出場を逃したことがないが、ただの一度も全国一位になれずに終わっている。

 その結果を受け、周囲が口々に漏らすのだ。

――鬼才の息子は大したことがない、と。

――遺伝子は大抵隔世遺伝よ、と。

――鬼神の息子はただのガキ、と。


 その言葉に陰で貫太が泣いていることを私は知っている。今し方子供だと思ったばかりではあるが、今以上に子供で、幼かった時分じぶんには食ってかからんとしたこともあった。

 でも、父はそのことを褒めてくれたことはない。むしろ、怒られる。叱責を受ける。それは貫太に勝った相手のことも、何より貫太のことを一番おとしめる行為だ、と。何度も言われる内、私は弟の試合を見に行かなくなった。ピアノで忙しかったのが表向きの理由で、父の言葉の意味や意図がわからないまま貫太の試合を見て、また憤慨したり落胆したりするような気持ちを抱きたくなかったのが、裏側の理由だったりする。

 とうとう私もピアノで賞は取れなくなってしまった。結局私も凡人。凡才のただのガキなんだ。……そう思いつつも、涙の一粒も流れやしない。結局の所、私は悔しいなんて微塵も思ってはいないようだった。あれだけこだわってやってきたつもりの、積み上げてきたつもりのものが、もろくも目の前で崩れ落ちようとしているのに、私はその崩れ落ちるものに腕の一本を差し出すこともせずに傍観しているんだと、そう感じずにはいられなかった。そうして、染みが生み出すモノクロの音色と向き合い続ける故に生まれる思考は白黒サイレント映画のフィルムネガのようにくるくるくるくる。狂ったように回転し像を映し出す。それがもたらす効果なんてたかが知れている癖に、不思議なくらい不自然に染み付いた音の響きと映像は心の中に不協和音を生み出す。


「姉貴! 風邪引くぜ姉貴!」

 という貫太の声に起こされる。どうやら、眠りこけてしまっていたらしい。

「晩飯、だってよ」

 心配半分、畳の部屋に寝転がっているような無精な女とあざける気持ち半分、という具合であろうか。寝ぼけまなこ夢現ゆめうつつの思考で私を呼びに来た貫太の表情を捉えつつ、一体誰の言葉のせいだと思っているんだと、理不尽に蹴りつけたいような気持ちになってしまって。

「良い。今日は夜ごはん、いらない」

 不機嫌にそう告げた。

「良いのかよ。せっかくお袋が姉貴の好物作って待ってんのに」

 貫太がそう言って私の右腕を軽く引っ張ってくる。

『私の腕に触れるな!』

 乱暴に蹴り剥がしてから手話で訴える。貫太は自分の失敗に気付き少しだけの悪そうな顔をしたが、

「良いんだよな。お袋にも親父にも伝えるからな!」

 それでもやはり苛立つ気持ちもあるのだろう。乱暴な物言いと襖の締める音が響いたと思ったら、貫太の姿はなくなっていた。私はこれ見よがしに溜め息を吐く。何もかも、嫌気がさしてたまらない。机で勉強道具を開いて課題を進めながら、隠して買っていた小腹梅こばらうめという名前のお菓子を啄ばんでいる。課題を進行させるのに集中できない中、ふと例の幼馴染のことを思い出した。

 あれだけ派手に負けて幼い頃の私に醜態を晒した琥太の方はといえば、順風満帆、という言葉がこれ以上似合う人間はいないような存在になっていた。ムカつく程に、だ。

 小学校入学以来、公式の大会においては負け知らず、という奇跡的な成績を残している。いや、全戦全勝、という都合のいい話では流石に無い。が、あいつが負けるのは団体戦の消化試合程度の話で、琥太はいざ、という時には百パーセント白星を手にするという相撲人生を歩んでいる。

 テレビであいつが特集された時、当然その無敗伝説は取り沙汰され、インタビュアーから質問された。それに対して、

「稽古をするだけ。本当にそれだけなんですよ」

 とにこにこした笑顔で愛想良く答えるあいつの顔を見て、私はチャンネルを速攻で変えてやった。貫太が、

「何すんだよ! 俺見てたのにさ」

 と言うのも無視してテレビのリモコンを放り投げ、私はピアノの部屋に向かっていった。行ってやることは決まっていて、乱暴な気持ちで乱暴に音楽を奏でるのだ。

 ハードな楽曲を選べば、そういう気持ちに乗せてもそれらしく聴こえるのだから便利だ。だから、そういうのに甘えている、ということも私はわかっている。わかっていて、やっている。世話が無い。

 あーそういえばさ。そもそも、今私ピアノ禁じられてんだっけ。そうだったっけね。もう知らないわ。知らねぇ。あぁ。どいつもこいつも!

 こういう時、家族も、父の門下生も、誰一人顔を出さないし、部屋には近づかない。そりゃそうだ。どいつもこいつも! なのだから。どいつもこいつも私をイライラさせるばっかりで。

 そうやってピアノにぶつけるくらいしか、私はストレスを解消する手段を知らないし。がっちゃんがっちゃんズジャンズジャンと鳴り響くピアノの旋律が、私の心を慰めるどころか、余計にかき立てる。もっと叫べ。もっと奏でろ。打ちつけろ。

 どこからもそんな明示されて指示は飛んでこない。これは私の脳が。頭の中が勝手に叫んでるだけの夢想。思い込み。

 でも、私はまるで私以外の何かに導かれるようにして、そしてその誘いに乗っかるだけ乗っかって、のめり込む。のめり込んで、私は消えていく。いや、溶けていく。

 音の中に、私は溶けていくんだ。

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