3 分かち合う、痛み

「んぐ……ぅぐぐ……ぐぐ」


 夢中で私の唇を貪っていた彼が、急に苦しみ出した。

 時折歯ぎしりに呻き声が混ざる。


「どうしたの? 具合……悪いの?」

「なん……でもない」


 と苦しそうに答えると、彼は私を抱き上げてカウンターから下ろした。


「……済まない。こんな……はずじゃ……なか、た。

 お願いだ、帰ってくれ。ミラ……ここにはもう……二度と…………来ないで」


 と、彼は口元を押さえて苦しそうに言うと、私をキッチンの外へと強引に押しやった。


「来るなって、どういうこと? ねえ、どこか具合悪いの?

 先輩、ちゃんと教えて」


「帰れ!」

 と叫ぶなり、彼は壁を強く叩いた。


「私じゃ役に立てないの? 子供だから?」

「違う! とにかく今は帰れ!」

「やだああぁっ、やだやだぁぁ!」


 パニックを起こした私は、必死に彼の腰に抱きついた。


「違う、違うんだっ……ぐッうううッッ!」

 頭上で彼がくぐもった叫び声を上げた。


 一瞬我に返った私の目に入ったのは、鮮血に染まった彼のシャツの袖と、そこに深く打ち込まれた彼自身の白い牙だった。


「……い、いやあぁぁぁ、血、血がぁっ」


 彼はその場に膝を突き、噛んだ腕を庇うように手で押さえると、顔を背けて俯いた。

「……大丈夫。すぐ止まる……」


 パニックの最中だった私は、彼が吸血鬼バンパイアだと気付くのに、しばらく時間がかかった。


「せん……ぱいに、き、牙……?」


「……ごめん。ごめんよ。君には隠し事ばかりで……もう、ダメかな……僕たち……」

 と彼は床にうずくまり、震える声で言った。


「え……で、でも……昼間も平気で……え?」

 混乱したまま私も床にペタリと座り込んだ。

 このときの私の感情は、『怖い』よりも、『何故』の方が勝っていたのかもしれない。


 私がおとなしくなったせいか、落ち着きを取り戻した彼は、ゆっくり話し始めた。


「……君の想像は、半分は合っているよ。

 僕はね、吸血鬼バンパイアと人間のハーフ、半吸血鬼ダンピールだ」


 誰もが『人外』を空想上の生き物だと思っていたのは、もう百年も前のこと。

 ダンピールの存在くらい、知識としては知っていた。

 でも、たとえ彼等が合法的に血液を調達していたとしても、あまりいい気はしない。残念だけど、それがわたしたち一般市民のふつうの感覚だった。


「そう……だったんだ。さっきの『飢えてる』って、このことだったのね……分かってあげられなくてごめんね……先輩」


「分からなくて当然だ。君は悪くない……」

 彼は力なくそう言った。


「今度こそ、僕のことイヤになったろう?」


「ううん……その程度のことで先輩をキライになりたくない。せっかく先輩のこと好きになれたのに、キライになったり出来ないよ!」


「ミラ……ありがとう……愛してるよ」


 どちらともなく抱き合うと、血で滲んだ彼の腕が目に入った。

 きっと吸血の衝動を抑えるために、自分の腕に噛みついたんだ……。




 こんなに先輩を追い詰めたのは、私のせい。

 彼は何も悪いことしてないのに……。




 傷見せて、と私は彼の袖をまくり上げると腕は無数の噛み傷で、ひどい状態だった。


「どうして……」

「君を傷付けるわけにはいかないだろう?」


 と言いながら、彼は私の髪を撫で付けた。


「……普段はその……血は、どうしてるの?」

「注射器で自分の腕から採血して飲んでる」

「へぇ。他人のじゃなくても、いいんだ……」


「あまりうれしくはない。その場しのぎさ。何かと忙しく、買いに行くヒマがなくてね。血液は保存の効かないものだから、タイミングによっては時間がかかるんだ」


(やっぱり、私のせいなのかな……)


「じゃ、この腕は?」

 と、新しい噛み傷にハンカチを巻き付けながら彼に尋ねた。


「あんまり君が可愛くて、出先でついつい欲しくなってしまった時、噛んで紛らわしてた」

 と言って、彼はにやけた顔で頭をかいた。


「ああ、やっぱり私のせいじゃない! 今日から噛むの禁止! 私の血を飲みなさい!」

「バカ言うな。誰が大事な君の血を……」

「先輩が苦しむ方がイヤなの! 体の傷よりも心の傷の方が痛いの!

 だからお願い!」


 う~、としばらく睨み合う私と先輩……。


「そりゃ……愛しい君の血は欲しいけど……」

「先輩が嫌がっても、自分で血を採って、先輩の口に無理矢理流し込んでやるからね!」

「……わかったよ。言い出したら本気でやりかねないからなぁ君は。じゃ、少しだけね」


 彼は『素人が勝手に採血なんかしたら大変なことになるんだぞ』とお説教した後、私を抱いて寝室に連れて行き、ベッドに横たえた。


「注射の方がイヤって、おかしな子だなぁ」


 そう言って彼はベッドの傍らにひざまずくと、そっと私の首筋にキスをして、静かに牙を立てた。

 最初チクっとしたけど、その後は大して痛くないので、拍子抜けしちゃった。


「ねぇ~先輩、ちゃんとやってる? あんまり『噛まれてる感』がないんだけど?」

「……やってるよ。勘違いしてないか?

 血が欲しいだけで、噛みたいんじゃないんだよ」

「ふぅん……」


 そう言うと、彼は遠慮がちに、チュッと小さく音を立てて、私の血を啜りだした。


「えーっと、……おいしい?」

「……うん。最高だよ。もう、落ち着いて味わえないじゃないか、大人しくしてくれよ」

「えへへ……でも私のだけにしてよ。他の子の血は絶対吸っちゃだめなんだからね?」

「分かってる。ありがとう、ミラ」


 一生懸命横目で彼の顔をのぞき込むと、本当にうれしそうに血を吸っていた。

 よかった。やっと先輩が笑顔に戻ってくれた。これからは、先輩のためにたくさんホウレンソウ食べるからね。

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