2 私の知らない彼

 一夜明けて、祝日の今日は学院もお休み。

『休みの日の彼を見てみたい』って急に思い立った私は、彼の自宅へ初突撃することに!


 通学路に立ち並ぶ、古いアパルトメントの一室のドアを、私はドキドキしながらノックした。

 ちょっと時間が経ってから、分厚い扉が耳障りな音をたてて少し開き、その隙間から、ぐちゃぐちゃ頭にヨレヨレパジャマの彼が、恨めしそうな顔で「何だ君か」と呟いた。


(うわぁ、ヒドい……。これホントに先輩?)


 私は戸惑いを押し殺しながら、挨拶をした。

「おっはよ。抜き打ち査察に来ちゃったよ♪」


 彼は、ウザねむそうに髪をかき上げ、

「今は死ぬほど眠いんだ。帰ってくれ……」


 と、普段からは想像できないようなドスの効いた声で言うと、ドアを閉めようとするの。

 どんだけ寝起き悪いのよ、まったく!


「や、やだ~~~っ」

 私は反射的に、ドアノブを掴んで抵抗した。


 彼は急に無言になって、私の全身に粘っこい視線を何周か這い回らせ、

「ダメ。いま飢えてるから」と耳元で囁いた。


「う~~~~~~~ッッッ!」

 私は耳から顔まで、一瞬で熱くなった。


「喰われるのがイヤなら、とっとと帰るんだ」


 と彼がダルそうに言うと、またドアを閉めようとするの。

 でも、せっかくここまで来て引き下がるわけにはいかない。

 私はドアのへりに手をかけ、さては中に誰かいるんでしょ、と詰め寄ったら彼は急に「バン!」とドアを全開にして、


「な、なんだって!? まさか、君は僕が浮気してるとでも言いたいのか!!」

「ぷっ。ふはははっ。やっと目が覚めたね先輩。コーヒー淹れてあげる。キッチンどこ?」


 血相を変えた彼は、一旦落ち着くと、はぁと大きくため息をついて、


「……君が朝のコーヒーを淹れてくれるのは大歓迎なんだが、飲んだらすぐ帰ってくれよ」と、疲れた笑顔で部屋の奥を指さした。


(さぁ~て、先輩のお宅・拝見っと……)


 部屋に入って中を見回すと、まるで安ホテルのような素っ気なさ。

 壁に一着の黒いロングコートが掛かってる他は、数個の木箱だけ。


「キッチンならあっちだけど。ん……ミラ、どうかした?」

 急にテンションの下がった私に気が付いた彼が、気遣わしげに声をかけた。


「ひどく寂しい部屋ね。生活感がまるでない」

「ああ……。越してすぐ君と付き合い始めたから、今まで部屋に構うヒマがなかったんだ」


 そう言うと、彼は普段の柔らかい表情に戻った。


 狭いキッチンには、シンクと、作り付けの簡素なカウンターと食器棚。カーテンがないため、朝日が部屋の中程まで差し込んでいた。


(せめて、お花のひとつもあればいいのに)


 こんな寂しい生活を一人でしていたなんて、ちっとも知らなかった。


 ……彼は何も教えてくれない。


 暮らしぶりだけじゃなく、何もかも。


 いくら恋愛初心者の私だって、そろそろ愛玩動物は卒業しなきゃって思ってる。でも手の内見せてくれない先輩も悪いんだから……。



 神速で髪を整え、私服に着替えた彼は、私の隣で、まだ眠そうにコーヒーを啜っている。


「先輩、眼鏡は?」

「あれは伊達眼鏡。あった方が助手っぽいでしょ? かけた方が君の好みなら……」


 無理にかけなくてもいいよと言うと、彼は残念そうな顔で、再びコーヒーを啜り始めた。


「ねえ……先輩は私のどこが好きなの?」

「い、いきなりどうしたの? ……全部だよ」

「ごまかさないで! おかしいじゃない。先輩みたいな大人が私なんかに入れ込んで……」


 ふぅむ、と顎に手をあてて彼は暫し思案を巡らすと、

「……知りたい?」

 と意味深な顔で言って、隣の部屋から一枚の写真立てを持ってきた。


 つたかたどった青銅ブロンズ製のフレームに囲まれたセピア色の世界の中で、少年と綺麗な女の人が、ソファに腰掛け微笑んでいた。


「……先輩と、お母様?」

「ああ。母はこの写真を撮ってすぐ病で亡くなった。ここを見て」


 と彼が指さした先には、柄織物の民族衣装をまとい、黒髪を眉でまっすぐ切り揃えた、丸顔の少女人形があった。


「ヤシマ・ドールだわ」


 それは、私の両親の故国「八州ヤシマ」で作られる伝統人形のことだ。


「母の形見だったんだ。その数年後に父が再婚してね。新しい母親が、懐かない僕への腹いせに、この人形を捨ててしまったんだ」


 そう淡々と語りながら写真を見つめる彼の細い横顔は、不思議と悲しそうじゃなかった。


「この人形を無くしてから、僕の心には長らく大きな穴が空いていたんだ。でもね……」


 彼は写真立てを私の手から、そっとカウンターの上に移すと、潤んだ瞳を私に向けた。


「やっと見つけたんだよ。

 僕だけの『ヤシマ・ドール』をね」


「……私が、貴方の、人形?」


 彼は愛しさに満ちた眼差しで私に微笑みかけると、私の手を取り静かに頷いた。


「済まない。どう思われるか心配で、今まで君に言い出せなかったんだ……」

 そう言って彼は私の顔をしばらく伺うように見ると、

「ダメかな、こんな理由じゃ」と苦笑した。


「ダメじゃない」

 私は頭を小さく横に振って、言葉を続けた。

「重い理由ですこしびっくりしたけど、話してくれてありがとう、先輩」


 彼は、蝋のように白い顔をほんのりと赤く染めて、少しはにかみながら語りだした。


「初めて君を見たとき、僕は心臓が止まる思いがした。

 それから頭の中は君のことで一杯だったけど、こんな動機で君に求愛していいものかとしばらく悩んだ。

 でも……どうしても諦めきれなくて、あの日君に告白したんだ」


 そんなに思い詰めて……。

 でも、いくらなんでも学食で告らなくったっていいのに。

 ……なんて微妙な顔で考えていたら、


「ねぇ、君ってもしかして僕のこと、物好きなロリコン男だとでも思ってた?」

 と彼。


(ば、ばれてたんだ……)


「うぐっ……………………ごめんなさい」

「やっぱり。でも、ちゃんと言わなかった僕が悪いんだ。

 色々不安にさせてごめんね……」


 彼はいつものように微笑んで、私の髪を優しく撫でつけた。そして、気付いたら私はいつのまにか彼の腕にやさしく抱かれていた。


 なんでだろ……なんか胸が苦しい。誰かを好きになると、こんな風になるのね。

 やっと彼の本音が聞けたからなのかな……。


「ううん。私ね、今までずっといらない子扱いだったから、誰かの役に立ったり、心を埋められるなんて……何だか、とてもうれしい」


「いらない子だなんてとんでもない! 君はいつも無邪気で可愛くて、本当に可愛くて可愛くて見飽きない、僕の大事な宝物なんだよ」


「ありがと……」

 そこまで言われると、嬉しいけど……ちょっとくすぐったい。

「ミラ……大好きだ。ずっと一緒にいたい」


 彼は私を抱く腕にぎゅっと力を込めた。


 男の人って、華奢に見えてもやっぱり力は強い。

 頭を胸に押しつけられてるせいで、イヤでも彼の激しい鼓動が聞こえてくる。

 こっちまでつられてドキドキがひどくなってきちゃった。


 今まで彼に好きだと言われても、どこかリアリティがなかった。

 でも今日の彼は……。


「私も……好き」


 先輩が息を飲んだ。

 数秒固まると、私の肩を掴んで体を僅かに離し、まだ信じられないのか、目を見開いて私の顔を覗き込んだ。


「ほ……ホントに? 僕のこと……?」

「ずっと、片思いさせてごめんね、先輩」


 先輩は感極まった様子で、

「う、嬉しいよミラ、ああ……嬉しいよ」


 そう言って、本当に文字通り嬉しそうに私を抱き上げると、彼は何度も私の名前を呼びながら部屋の中をぐるぐる回った。


 そして私をカウンターの上に座らせると、先輩は今までの想いを吐き出すように、私を激しく抱擁し始めた。

 私は八洲ヤシマで言う『俎の上の鯉』のように、彼に身を委ねることしか出来なかった。

 でも、自分を求められることが、こんなにも心地良いなんて……。

 心を埋めてもらったのは、本当は私の方だったのかもしれない。


 彼が、うわごとのように耳元で囁いた。

「君は……僕のものだよ。誰にも君を渡さない。

 どこにも……絶対……行かせやしない……もう、二度と……手放しはしない……」


「どこにも……いかないよ……せん、ぱい」

 いつしか私は、彼の首に腕を絡めていた。こんな悲しそうな彼、もう見たくないから。

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