第5話 1983年8月3日

 

八月三日 「起きなさい。遅れるよ」その朝は母ちゃんの声で目が覚めた。しかしまだ眠い僕は頭から布団を被った。カーテンが開けられ、窓まで開けられたのがわかった。窓からの風は薄手の布団の中まで通り抜け気持ちがよかった。「今何時?」僕が聞くと、「六時だよ」答えがあった。「まだ早いよ」そう返すと、「何を言っているの、今日はバーベキューに行くんでしょ」と母ちゃんが答えた。怒られているのに心地よかった。それでも眠さには勝てず布団に潜っていると、急に布団が体から離れた。だから大急ぎで布団にしがみ付いたが、「まだ太郎には負けないよ」そう言って嬉しそうに、しかし容赦なく母ちゃんは僕から布団を剥ぎ取った。このときの僕はまだ母ちゃんに力で勝てなかったのだ。結構情けない気がしたが、まだ子供なんだと大人の僕が喜んだ。つまり父ちゃんには力で到底及ばないわけだ。この先高校二年生ぐらいのときに、ふとしたとき僕は力で父ちゃんに勝ってしまう。そのときうれしさよりも親の衰えを感じ言いようのない寂しさがあった。だからこのときまだ勝てないことが嬉しかったのだ。昨日と同じように母ちゃんが作ってくれたご飯を食べた。でも今日は嬉しかったが昨日のようには涙は出なかった。人は一度感動して涙したことでも何度か繰り返すうちに感謝さえしなくなってしまうようだ。そして最後には当たり前のことのようにとらえてしまうのだ。人間の慣れは恐ろしいものだ。でも今回はそう何度も母ちゃんの手料理を味わえるわけではないのでいっかい一回を大切にしなければならない。すると今度はまだ三回目なのに悲しくて、結局今日も涙が出た。母ちゃんがおでこに手を当ててきて大丈夫と心配していた。「どこか痛いなら無理しては駄目、今日はバーベキューやめて病院行く?」僕はどこも痛いわけではないので、大丈夫だと答えた。でも恥ずかしくて顔が真っ赤だっただろうから熱があると思われたかもしれない。二日間もご飯を食べながら泣いていたら誰だってどこが悪いと取るのは当たり前である。だからといって感動したからや悲しいからと言うのもおかしな気がした。父ちゃんはまだ寝ているようだった。母ちゃんは、夜は帰りが遅い父ちゃんを待ち、父ちゃんより遅く寝る。朝は誰よりも早く起きて朝ご飯の支度をする。「母ちゃんはいつ眠っているの?」すると、「それが、がんばっているみんなに出来る母さんの唯一の仕事だから」そう言う母ちゃんが少し悲しそうな顔を見せた気がした。が、すぐに笑顔になって、「ありがとう。でも父さんには内緒だけど、昼間みんなが出かけたあとに昼寝しているから大丈夫よ」そう笑う母ちゃんは、半年後にこの家を出ていく。だからこうは言っているが実は無理をしていて、我慢の限界なのだろうと思うと辛かった。しかし反面これから出ていく母ちゃんの痛みが少しだけ分かれた気がした。

 少しして大島君のおじさんの運転する車が迎えに来た。バーベキューをする下平川の河川敷へは電車で行くのだが、僕らの住む高瀬村には電車が通っていないので駅もない。仕方がないから車かバスで隣町の新川の駅まで行かなければならない。しかしバス停に行くのでさえ歩いて二十分以上かかる。八十年代とはいえこれほど不敏なところはそうはないだろう。ちなみに僕の家には車がない。父ちゃんが仕事に行くにも、母ちゃんが買い物に行くにもいつもバス停まで歩かなければならない。だから僕は年に数えるぐらいしかこの村から出ない。母ちゃんの買い物のつき合いやサッカーの試合やこんな時ぐらいだ。この村は僕にとって国であり、乗り物に乗って行く隣町などは子供の頃は異国の地だったのだ。だから当時のこういった時はウキウキしていたのだろうが、今日は勝手が違う。腕時計に従っているとはいえ、こんな呑気に楽しんでいていいのだろうか。車に乗ると大島君と篤志が先に乗っていた。篤志の顔を見るとホッとした。この時代はどんなに母ちゃんといて嬉しくても、所詮僕らは余所者だ。だからこの時代に一緒に来た他の三人と会うと心が安まるのだろう。そして他人には言えない四人だけの秘密を共有していることも大きいのかもしれない。車は走り出した。大体二十分ぐらい走ったところに駅はある。信号などは町に入らなければなくいかに高瀬村が田舎であるかが分かる。僕は昔から車が得意ではない。おじさんの車はトヨタのセダンなのだが、窓を開けるには黒い握りをぐるぐる回して開けなければならない。やっとの思いで窓を開けると、田舎の田園の匂いがしてきた。少し外の風に当たっていると気持ち悪かったのも治まった。駅に着いて大島君のおじさんに礼を言うと、みんなとの待ち合わせの改札まで急いだ。別に時間ぎりぎりなわけではないのに、何故か僕の体が勝手に走り出した。子供の体は元気だ。必要じゃなくてもどこでも走ってしまう。改札には見覚えのある顔が十数個並んでいた。そこには玉田コーチもいた。いっちゃんや中村君、懐かしい顔ばかりだ。ブッシュマンもいる。ちなみにブッシュマンとはニカウさんというアフリカの人が出演した映画の題名だ。ニカウさんはこの年来日して、ブッシュマンは大ヒットした。そこから誰かが取って付けたあだ名だ。ただ地グロなだけで付けられたあだ名で本名は小谷君という。本人も結構気にいているみたいだが、僕だったら嫌なあだ名だ。でも小谷君は中学・高校とモテモテだった。懐かしい顔に僕と篤志だけがはしゃいでいて他は朝も早かったので元気がなく、二人は妙に浮いていた。切符を買ったが改札には駅員はいなかった。この駅の改札に人が立っていた記憶がない。ホームに立ったがいっこうに電車は来ない。脳内にまだ残っている大人の経験から、電車はすぐに来るものだと思っていたが、田舎の生活に慣れている人はこれが当たり前みたいである。僕も昔はそうだったのだが、都会の生活に慣れてしまったせいでいつしか田舎の生活の長閑さを忘れてしまったのだろう。やっと来た電車は二両編成で、線路は単線だ。乗客は僕らが乗っていなかったら、採算が取れないであろう人数しかいなかった。座席はいっぱい空いていたので僕が座ろうとすると、コーチに股あたりを蹴られた。そういえば、サッカークラブのときは電車に乗るときなど座ってはいけないという決まりがあった。コーチはそのあと何も言わなかったし、みんなも何も言わない。ただ僕だけが恥ずかしい思いをした。この時代はグラブのコーチにしろ学校の先生にしろ、よく撲ってきた。僕らが悪いことをすると、口で言って駄目なら必ずと言っていいほど撲たれた。ほっぺをビンタされて血を流して家に帰っても、母親はどうしたのとは聞くがあんたが悪いことするからいけないんでしょう、でいつも終わった。今の学校がどうだかは知らないが、テレビや新聞を見ている限りでは、先生も生徒も親も真剣に向き合っていない気がする。だから先生の生徒に対する暴力などが取り沙汰されるのだろうと勝手に思っている。まだ僕の中で大人の僕が頑張っているみたいで、子供の頃の記憶が曖昧でこんなミスをしてしまった。田舎の電車はスピードも遅く、ノソノソと走る。それほど遠くない距離を三十分ほどかけて電車は目的の下平川駅に着いた。

駅に着くと下平川までは一キロほどの距離があるらしく、勿論駅から川までは恒例のダッシュが待っていた。僕は走るのは速いのだが、持久力が全くなかった。だから大人になっても何に対しても我慢が出来なくなったのかもしれない。持久力とは関係ない気もするが。こんなときの作戦は決まっていた。最初にダッシュして逃げ切るというものだ。いつもその作戦でいく根拠はない。なんせ勝率は三割以下なのだから。ビリの人はフルチンで川に飛び込むことになったが、これも僕らのサッカークラブの慣例だ。スタートして最初は僕のダッシュに誰もついて来られなかった。しかし半分まで来ると、ヘトヘトになり吐きそうになり、足が思うように前に進まなくなった。それを待っていたかのように中村君と篤志が抜き去っていった。ブッシュマンにも抜かれ、次から次へと僕のことを追い抜いていった。気づいたら後ろにはコバーンと大島君しか残っていなかった。コバーンは名字が小林だからそれだけで付いたあだ名だ。とうとうコバーンにも追いつかれてしまい、絶対に抜かせまいと思ったときにはもう僕の前にいた。残るは大島君だけだ。大島君のピッチが早くなるのが分かったが、もう僕には走る力が残っていなかった。しかし大人の僕がどうしてもフルチンになることを拒んでいた。見た目は子供でも中身が大人の部分がある以上はそんな醜態は曝したくはない。子供の頃はフルチンになることがそんなに恥ずかしくなかったはずなのに、大人はいろいろな鎧を付けるうちに心も体もスッポンポンになれなくなってしまうものなのだろう。そんなことを考えていたら、大島君が真後ろにいた。抜かれると思い目を瞑ると、そこは丁度ゴールだった。ぎりぎりでフルチンは大島君に決まった。

川に着くなりフルチンで泳いでいる大島君をよそに僕たちはバーベキューの準備を始めた。ここで意外にも先程僕とデットヒートを繰り広げたコバーンが本領を発揮した。今思い出したのだが彼はボーイスカウトに入っていたのだ。でもそのせいで、みんなから男なのにスカート好きなのかよと訳の分からないことで虐められていた。失礼かもしれないがサッカーのときのコバーンの印象は全くないが、このときの彼は結構格好よかった。コバーンの大活躍でバーベキューは着々と出来上がっていった。そのころ川では大島君だけでなくブッシュマンやいっちゃんも全裸で泳いでいた。そしてバーベキューが出来上がると、ちゃっかり川から上がり輪の中にみんないた。決して高そうな肉ではなかったが、自分たちで焼いた肉はどんな高級な霜降り肉よりも美味しかった、気がした。みんな腹が減っていたのか大量にあったはずの食材はほとんど終わっていた。すると腹が満たされた大島君やブッシュマンたちが玉田コーチを担ぎ上げ、一直線に川へと向かっていた。僕はそれを見てはしゃいだが、大人の僕が冷静に川に落とされたあとの玉田コーチの発狂ぶりを想像して、背筋が凍った。それでも子供の僕がみんなと一緒にコーチを担ぎ上げていた。みんなでコーチを川へと放り投げた。しかし大人の僕の不安は的中した。びしょびしょになって出てきたコーチの表情は確実に落とされる前とは違っていた。強張る僕の横でみんなは大はしゃぎ。むしろこうなることを待っていたみたいに。コーチが誰かれ構わず追い立てた。みんな発狂しているコーチから逃げまどうことが楽しくて仕方ないのだ。いつしか僕も逃げながらはしゃいでいた。最初に小柄な鈴木君が捕まった。次にいっちゃん、コバーンが次々に捕まっては川へと投げ込まれた。大人がマジになってしまっては子供にはもう止められない。ただ逃げまどうしか僕らには出来い。次から次へとコーチの餌食になり、とうとう僕も追いつめられた。逃げても無駄だと諦め、誰よりも素直に捕まり川へと放り投げられた。しかし他のみんなは違った。到底逃げられないと分かっていてもぎりぎりまで逃げ惑うのである。そして捕まっても手足をバタつかせ川に落とされる寸前まで逃げることを試みていた。決して勝てない大人に立ち向かい、最後まで諦めなないのだ。でも子供の仮面を被った大人の僕は長いものに巻かれる癖が付いてしまった。人間界で生き上手になれた分、本来の人間の持っている大自然と共に生きていく強さや優しさを代わりに無くしてしまったようである。川の中でずぶ濡れになりながら子供大人の僕はそんなことを考えていた。最後の一人の安田まで落とされて玉田コーチは息があがりながらも、ご満悦な表情を浮かべた。

夏とはいえ絶えず流れ続ける川の水はひんやりとしていて、火照った体の熱を一瞬にして奪っていった。青々とした木々が生い茂る中、存在感たっぷりの岩の上を絶えず流れる透き通った水が日々の生活で溜まってしまったストレスを一緒に流してくれていた。しかしストレスを持ち合わせないこの時代の子供たちはそんなことは気にも留めずにみんな走り回り水を掛け合っていた。ふと気になり、バーベキューをやっていた反対岸の林の方に目をやった。そこには岸などはなく誰も立ち入れないぐらいにうっそうと木々が生えていた。しかしその中に、違和感は感じないのだが確かに何かがいるのを感じた。そして一点で僕の目線は固まった。そこには白く光る服を着た女の子が立っていた。そして僕の方を真っ直ぐに見ていた。ビビリのはずの僕が何故か鳥肌も立たなかった。それは女の子の目が優しく感じたから。僕は誰にそのことを伝えるでもなく、ただ女の子を見つめていた。彼女も僕をじっと見ていた。大きくて真っ黒な黒眼と真っ白な白眼が印象的だった。吸い込まれそうだと感じた時、女の子は消えていた。僕は絵日記の女の子のことを思い出した。親に殺されてしまった女の子のことを。確か婆ちゃんの話だと僕が生まれたぐらいに起きた事件だと言っていたから、絵日記に書いてあったように、女の子が指さしたタイボクの下に今も埋められているのだろうか。でもこの間見てしまった男の子はどこに埋められているのだろう。何故だ!なぜ男の子を見てしまったときはあんなに震え上がったのに、女の子を見た今はこんなにも穏やかなんだろう。もしかしたら男の子は殺されたが、女の子は自殺だったのかもしてない。「太郎!体が冷えるからもうあがれ」コーチの声に我を取り戻した僕は辺りを見渡したが、もう誰も川の中にはいなかった。水で冷やされたのか身震いした僕は急いで川からあがった。「太郎、何で林の方見ながらボーッとしていたんだよ?」そう聞くのは篤志だった。しかし僕は、「何でもない」とだけ答えた。みんなで片付けをして帰る準備をした。今日は静かな腕時計を見ると、午後の三時を回っていた。

帰るときになって気づいたのだが、着替えを用意していたブッシュマンや数人を除いてコーチも含めみんな服がびしょびしょのままだった。これで電車に乗って帰ることを考えると思いやられた。川辺から道に出るまでの百㍍ほどを服の重たさと砂利道という足場の悪さ、日焼けからくる怠さから無機力の僕は集団の一番最後を歩いた。両脇を高い木々に囲まれた小道は夏なのに日が入らないせいもあって涼しく、びしょびしょの服を着ている僕らには唇の色が変わるほどの寒さを感じた。その高い木々の中から見られている気がして僕はその方向を見た。やはり見られていた。さっきの女の子が太い幹の間から僕を見ていた。僕と目が合うと何十㍍程離れたところから木々の中を真っ直ぐにこっちに近づいてきた。殺されたかもしくは自殺した女の子かはまだ分からないが、この世に存在しない者であることは今の動きで子供の僕も大人の僕も解った。幹が避けているかのように真っ直ぐに、物凄い勢いで僕に向かって来る。その光景にさっきは立たなかった鳥肌が全身を覆い尽くすのが分かった。透き通った肌が自然と同化しそうだと思えるほど近くにまで来ても彼女は速度を緩めようとしなかった。当たると思い思わず目を閉じた。暫くの時間が流れたが何の衝撃もなかったのでそっと目を開けると、女の子はいなくなっていた。「ねぇ」いた!僕の目線よりも下にその女の子は立っていた。思いの外小さな子供だったが、瞳はやはり大きかった。ずっと見てしまうとまた吸い込まれそうになる事を恐れ僕は堪らず目を逸らせた。「あなた私が見えるの?」恐る恐る静かに頷いた。木々の間をすーっと真っ直ぐに近づく光景には少し恐れを感じたが、今目の前に現れると、やはりそれほどの恐怖は感じなかった。「あなた男の子と会ったでしょ。分かっているだろうけど、あの子も私もこの世には存在しない者なの。でもあなたが思っているような、人間が死んでからなる霊とは違うの。元々私たちには姿形がないから。私たちは言葉の霊なんだ。つまりは言霊。あなたなら分かるでしょ。どういうわけか中身は半分大人みたいだから。あなたはあの男の子や私が見えているということは、力があるということなの。それか誰かに恨まれているか、どちらかね。私から言いたいことは一つ。あの男の子の言うことに絶対従っては駄目!」彼女は一気に話すと一度呼吸をした。そして瞼を閉じたかと思うと再び大きな瞳をこちらに向けた。「それとあなたが私たちのことだと勘違いしている男の子と女の子、本当に埋められているよ」「太郎何してんだ?置いていくぞ」大島君の声がした。一度逸らせた視線をもう一度女の子の方に向けたが、今度は本当に消えていた。僕はその場を離れると急いでみんなのところに走った。言霊、発した言葉には魂が宿っているってことだよな。それと僕がずっと信じていた二人ではなかったんだ。ふたりはやっぱり埋められている。そして僕には力がある。もしくは誰かに恨まれている。しかし恨まれる覚えは全くない。でもどういうことなんだろう。今、目の前で起きたことが頭の中で整理できなかった。そのあとの駅までの道のりはきつかった。電車の中で篤志が話しかけてきた。「太郎、大丈夫か?さっきからボッーとして、何かあったのか?」しかし何も話せなかった。自分の頭の中で整理出来ていないのに何を話せばいいのだ。そして何より、あの女の子は僕が中身が大人であることを見抜いていた。もしここで篤志に話すことで危害が篤志に行かないとも限らない。とりあえずはもう少し僕の中で自体が把握できるまでは誰にも話さないことにした。

新川の駅で改札を出たところにホッとする二つの顔があった。「どうしたんだよ?」僕よりも先に話しかけたのは篤志だった。「一日一回は顔を合わせた方がいいような気がして」そう言ってはにかんだのは田中だった。「この時代にいると、この4人以外はどこか心を許せないもんな」篤志の言葉に、「君ら二人が呑気にバーベキューなんかやっているから気が気じゃなかっただけだ」「おまえな」そう言って大きな体で吉田を囲んだ篤志を今日は僕が宥めた。「僕らには時間がないんだ」「わかっているよ。校舎の心残りが何かってことだろ?」吉田の言葉に篤志がそっぽを向きながら返した。この二人、この時代仲が良かった印象があったのだが……「それをみんなで考えなきゃいない」田中が割って入った。「何で校舎なんかに心残りがあるんだよ?」僕は素朴な疑問を誰に言うわけじゃなく言葉にしていた。「そうだよな!木の塊だぞ。そもそも心なんてあるはずないよな」珍しく熱ぽかった吉田が気が付けば無表情に戻っていた。「でも喋ったじゃん。だから心だってあるはずだろ?」篤志は相変わらずだ。「本当は校舎が喋ったんじゃないのかも?」田中が話を広げた。「じゃあ誰が喋ったって言うんだよ?」「お化け」篤志の言葉に田中が嬉しそうに答えた。「お化けって?随分子供騙しだな」あの篤志がこの手の話に冷静に返答した。「僕らもう充分子供だろ」吉田は子供に戻っても冷静だ。「それは見た目だけだ。中身はまだ大人」田中の言葉に篤志が頷いていた。「でもこのごろ、なんか自分が子供になっていく感覚があるんだよね」日々感じていることを口にした僕に、「そうそう。社会から自然界に帰るような。そんな感じ」ここでは篤志が目を輝かせていた。「それじゃあ退化じゃないか」田中が小馬鹿にしたが、「でも大人になることを成長っていうぐらいだから、子供に戻ることは退化で良いんじゃないか」本人も理解していなそうなことを篤志が言った。「でも、この退化悪くない」この時代に来れたことを喜んでいる僕の口が勝手に言葉を発した。「僕も、そう思う」吉田もこの時代を満喫しているようだ。「じゃあ喋ったのはお化けってことか?」再び田中が話を生し返した。「そうだよ。お化けの心残りなら元々は同じ人間だから納得がいく」今度は吉田が乗っかると、「いかないよ!」やはり篤志がそれを嫌がった。「こいつビビってやんの!」田中がほくそ笑んだが、「ビビってなんかない!」篤志にはその表情が一層ムカついたようだ。「でも俺らだってこの時代では未来から来た部外者だ。お化けとそんなに変わらないだろ」吉田が面白いことを口にした。「そうだけど、相手はお化けだよ」「お化けの心残りか?」僕は自分の腕に浮き出た鳥肌を見ていた。「俺も鳥肌立ってきた」またそのままを口にしてみた。どこかで自分だけが仲間の輪の中に入っていない気がしたのだ。「だらしないこと言うなよ」何故か篤志にそう返された。「だってお化けの心残りだぞ。そんなの誰かに殺されたか苦しめられた人間がこの世にまだ生きている人間に恨みをはらしてくれみたいなことに決まっているだろ!」「そうだよな。お化けだもんな」篤志的には精一杯の返しなのだろう。「でもそれだったら心残りじゃなくて恨みをはらしてくれって言うんじゃないの?」頭脳派の片割れ吉田の閃きに、「それもそうだな」田中が唸った。「心残りだから、この世に最愛の人に何かを伝えることが出来なかったから代わりに伝えてくれみたいなこととか?」いつも頭で考える癖が昔からあった。だから今は思い付いたことをそのまま口から出そうと心掛けていた。「それだよ!きっとそうに決まってる」しかし乗っかるのは単細胞の篤志だけだった。「でも、じゃあ何で俺らを過去に戻したんだ?俺らを戻すんじゃなくて直接本人に伝えればいいことじゃないか?」田中が言うと、「それもそうだな。そもそも何で過去に僕らを戻したんだ?」吉田が頷く。この二人だけで考えた方が良いのではないかという考えに辿り着いた時、「ところで、おまえら二人は何故びしょびしょなんだ?」駅の改札の前で人々が行き交う中、三十分近くも一緒に居て今更そんなことを気にされた。原因を簡単に説明している途中、どっと疲れが押し寄せて来た。それは篤志も同じだったらしく、「今日はもう疲れたから、明日また考えよう」そして駅での井戸端会議は思ったような成果を導き出せないままお開きになった。

駅からは迎えがないのでバスで帰った。バス停からの歩きはいつもなら二十分ぐらいだが、倍以上かかってやっと家に着いた。辺りはすっかり暗くなっていた。家に入ると母ちゃんが飛んできて、びしょびしょの僕を見て、怒るというよりも心配していた。すぐに風呂に入り冷えた体を温めた。家には母ちゃんしかいなかった。風呂から出ると暖まりそうなうどんが出来ていた。このころの僕は至れり尽くせりだったのだ。それなのに全く感謝をしていなかった。当たり前だと思っていたんだ。そしてこの小さな幸せが永遠に変わることなく続くと勘違いしていたんだ。

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