第2話 2010年

太郎  


なぁに?婆ちゃん 


いいかい太郎、言葉を発するときはよく考えてから言うんだよ。そうしないと大変なことが起こるからね。言葉には魂が宿っているから言ったことは本当になるんだよ。とくに誰かを傷つけたり死んでしまえばいいなんてことは決して言ってはいけないよ。わかったね……


こんなときに子供の頃に祖母に言われた言葉を思い出した。今まで一度だって思い出したこともない、四半世紀前ぐらいに一度だけ祖母に言われた言葉だ。


竹縄太郎君。はい!卒業おめでとう。ありがとうございます。仰げばー尊しー……

「ふざけるな!この学校は俺らの青春なんだよ」

「どこの馬の骨だか分からない奴の言いなりになるんじゃねぇよ」

「帰れ帰れ」

「ここを壊すと呪われるぞ。バカタレ」


部下が運転する車の中で考えごとをしていたつもりがいつの間にか寝てしまったみたいである。

そして夢まで見ていた。


外の騒がしさで目を覚ました。何事かとガラス越しに覗いてみた。高瀬村の遺産を壊すな!この学校は俺らのものだ。とっとと出ていけ!花嫁募集中。など多くの抗議のプラカードが目に入った。何の騒ぎなのかはすぐにわかった。最後のはあまり関係ない気もしたが、私を夢から覚めさせたのは車を取り囲んだ人々による罵声だった。そしてその罵声は私たちに向けられていた。


2010年8月1日、十年以上帰らなかった故郷に帰ってきた。

帰郷ではなく仕事でだが。


私は建設会社に勤める三十半ばの男だ。結婚はまだしていない。

建設会社とは名ばかりで、今はほとんど解体業しかやっていない。ものを作らない建設業社なんてなかなか笑える気がするが。今回の仕事を言い渡されたのは三ヶ月前。散々断り続けたが、最後はクビにするとまで脅され泣く泣く引き受けた。


仕事は古くなった学校の取り壊し。

その現場監督を任された。今までいくつもの取り壊しの現場を請け負ってきたが、大概の取り壊しは作るより繊細さがいらない分、簡単で見ていて結構気持ちがいい。

しかし稀に気兼ねする取り壊しの現場もある。

一年ほど前になるが、事業に失敗して破産した男の家を取り壊したことがあった。男は逃げてしまい、取り残された妻とその息子がまだその家には住んでいた。その妻がこの家を取り壊されても住むところがないから取り壊さないでくれと嘆願してきた。しかし私たちは雇われている身だから、文句があるのなら私たちを雇っている人間に言ってくれと突き放した。勿論そんなことをしたところで取り壊しが中止になるわけもなかった。


その嫁は泣き崩れ、息子はショベルカ-の前に小さな体で立ち憚り、作業の妨害を図った。それは泣けるシーンなのだろうが、私たちはお構いなしに息子をつまみ出し作業を進めた。可哀相だとは思うが、これも仕事だから仕方がないのだ。


だから人の不幸の上に私たちの仕事が成り立っている部分もある。実際この手の解体作業の仕事の割合は年々増加傾向にある。ものを作る側なら人の夢を乗せている分、そこに感謝され、感動を与えることが出来る。しかし解体は人に感謝させることも、ましてや感動を与えることもまず無い。それだけならまだしも恨まれたり、不幸を与えてしまうことも多々ある。

同じ建設業なのにまったく正反対の、言ってしまえば正義の味方と悪役だ。


しかしこの頃は景気が回復傾向にあるというのはうそっぱちで、建設業界だけ見ても全くの不景気だ。だからものを作る側より、壊す側の方が景気が良く、解体業に力を入れ出す建設業者も多い。


好景気と不景気、建築と解体、正義が悪に取って代わりつつあるのが今の建設業界の実情だ。

そしてそんな取り壊しを幾度か経験するうちに、私はこういった取り壊しに同情はするが、心がまったくと言っていいほど痛まなくなってしまった。

まさしく悪魔に心を奪われてしまったみたいに。


そんな私でも今回の取り壊しは複雑だ。先程の夢は、まさしくこれから壊されてなくなってしまう小学校で私自身が過ごした最後の日の場面だ。柄にもなく回想してしまったようである。


現場に到着し、車から降りるとき、私はいつものこういったデモのときより数段緊張した。心を決め後部座席のドアを開けた。そして体を外へと出したと同時に数人の村人に囲まれた。勿論向こうとしては取り壊しを中止しろ。とか、ここは俺らのものだから一歩も入れさせない。とか言うつもりだったのだろうが、私の顔を見て反応は変わった。

「あれ?太郎じゃねえか。なんでおまえが……」

「どういうことだ?太郎」

「太郎、おまえ裏切ったのか?」

村人たちの動揺は普通じゃなかった。一緒に勉強した同級生や近所に住んでいたおやじ、小中学校の先輩や後輩、懐かしい顔がそこにはいくつもあった。

当たり前である。昔ここで共に学び遊んだ同じ思い出を共有していたはずの人間が、村人の思い出が詰まった校舎を取り壊そうとしているのだから。村人たちの動揺は、元の怒りへと変わった。その怒りは私を見る前の何倍にもなって、私個人に降りかかってきた。

「おまえみたいな薄情者は早くこの村から出ていけ!」そう私に罵声を浴びせるのは小・中学校で二つ年上の清水先輩だ。

「あなたは確か歌手になる夢を追いかけて東京に行ったのではなかったでしたっけ?田舎を一度捨てて自分の夢が破れたから出戻った人に、裏切り者扱いして欲しくはないですね」自分でも酷いことを言っているのはわかっていた。清水先輩の表情が強張っていることも分かった。


胸ぐらを掴まれ今にも殴られそうになったとき、先輩と私の間に下取り業社の人間が割って入った。先輩の目がおとなしくなるのを見計らって、胸ぐらを掴んでいた手を振りほどくと、私は言い放った。

「これは市が決めたことです。苦情は直接市長に言ってください。私たちは頼まれた仕事をするだけです。あと、これ以上中には入らないでください。怪我をされても私たちは一切の責任を負い兼ねますので」皆が呆気に取られている隙に、私の言葉を聞いて立ち会っていた市の関係者はそそくさと車に逃げ込んで行った。

私はこれ以上中に入らないでくださいの看板を跨ぎ学校内に入った。背中に皆の冷たい視線が突き刺さるのを感じた。「人間のクズかーお前は」

「太郎!東京へ行って魂まで取られちまったのか」

「お前みたいな裏切り者は二度とこの村に来るな!とっとと出ていけ!」

怒りの矛先は完全に私だけに向けられていた。本当に魂を売っていたら大変なことだ。


でももし私が逆の立場だったらどうなっていたであろうか。やはりこの人たちのようにプラカードを持って罵声を浴びせていたであろうか。

多分それはないだろう。私は昔からどこか冷めていたので、小学校なくなっちゃうんだくらいの感想で終わっていただろう。


東京に行ったからといってなんら変わっていないのだ。故郷を愛する思いが魂なら、元々私は魂など持ち合わせていなかったのだ。


校舎の前まで来ると、取り壊しを行なうための緑色のネットが次々と木造二階建ての建物を覆い隠し始めていた。建物の中に人がいないか、運び出し忘れたものはないか確認をしなければならず、仕方なく校舎の中へと入った。


一歩足を踏み入れた瞬間、悲しみと喜びとが入り混じった何とも言えない気持ちに襲われた。そして少し感傷的になりながら校舎の中を彷徨った。感傷的だったのは最初だけで、あとはただ懐かしさで満たされた。


教室の机は高学年のものは思いの外大きく、大人のものとほとんど変わらなかったが、一・二年生用の机はオモチャかと思う程小さくて可愛らしかった。たった六年間の間に机の大きさがこうも変わるものかと感心した。私たち大人は六年間にそれほどの変化はなく、シワが二、三本増える程度だ。子供の頃の六年間といったら体も大きくなり、顔も大人っぽく凛々しくなっていくから、入学時と卒業時はパッと見は、まるで別人である。大人は見た目通り考え方も変わることはなく、周りのしがらみにがんじがらめだ。しかし子供は成長とともに考え方にも変化があって羨ましい。そして人間社会を知らない分、考え方が一見バカに思えるが良く噛みしめると、広がりと奥行きがあるものなのだと友達の子供を見ていて強く感じたことがある。机の上には落書きがいろいろ書いてあった。誰々が好きだとか誰々のバカタレだとか、いつの時代も書く内容は同じみたいである。黒板には使い古しのチョークがあり、教壇の上には藁半紙が無造作に置かれていた。ロッカーにはいつ洗ったのか聞きたくなる体操着や好きな人のものは気になって仕方がない縦笛なども入っていた。

会社のオフィスはどんどん便利になり近代化が進んでいるが、学校の教室はここが田舎なのもあるだろうが、何年経っても変わることはなくすぐに自分がいた頃に戻れる。


だから学校というモノは懐かしく思えて、どこか落ち着くのだろう。


そういえばこの学校にはいくつも教室があるが、私たちの頃は狭くて仕方がなかった。しかし今は十名程度しかここで学んでおらず、確かにもったいない空間が広がっている。少し歩くと音楽室があった。

放課後になるとベートーベンの肖像画の目ん玉が動くだとか、髪が伸びるのを見ただとか散々脅されたものだ。

その隣には図書館があり、題名は忘れたが本を読んで初めて泣いたことを思い出す。確か主人公の父親か母親が死んでしまう在り来たりのモノだった気がするが、今読んだら泣くことは出来ないだろう。

保健室に理科室、どこも古くて趣があるが、夜になると一変してお化け屋敷になる要素が満載である。壁ひとつ取っても色あせがひどくボロボロだ。確かに何の価値もない壊されて当然のガラクタだ。


私のようにここで学び、育った者たち以外の人間にとっては。その事を一番理解しているのが、外で騒いでいる人たちなのだろう。

急にトイレに行きたくなったが、もう水は止められているから我慢することにした。いつもならそんなことお構いなしで用を足してしまうのだが、別に学校のトイレが怖いわけではない。


ただこの校舎を汚いまま壊したくはなかったからだ。

そういえば私たちの学生時代にトイレの花子さんはまだいなかったからトイレが怖いというイメージはなかった。それでも当時大便は出来なかった。大便の個室から出てくるところを他の生徒に見られようものなら、当分の間あだ名は“ウンコマン”になること間違いなしだったから。

子供は真っ直ぐが故に残酷であることが多々ある。


どうでもいいことを考えながらほとんどの部屋を確認したが、運び出さなければならない物や人はなかった。そして最後に職員室に来た。至る所に教材やプリント類がどっさり残っていた。ここまでぐちゃぐちゃに残っていると懐かしさに浸っていた自分が馬鹿らしく思えてくる。机に教材、ノート類やプリント類はすべて捨てていい物らしいが、壊すからとはいえもう少しゴミならゴミとしてまとめておくなり、捨てるなりして欲しいものだ。大自然の絶景ポイントに行ったときにゴミが一つ落ちているだけでガッカリするぐらい残念なことに感じた。


この村は昨年初めに市になった。人口は減る一方なのだから勿論単独でなったわけではない。五つの村や町がくっついて出来た、無理やりな市制化である。ここに住む住人たちの希望であるはずがなく、過疎化が進むこの村にとってはこの方法しか生き残る道はなかったのだ。というのが行政の考え方である。

その上この学校は生徒数が少ないから市で廃校が決まった。企業じゃあるまいし採算が取れないから潰すのはどうかと思うが、一年生から六年生まで合わせても十名足らずでは仕方がないのかもしれない。でもここに通っていた生徒は四月から隣の町の小学校まで一時間以上かけて通勤ならぬ通学を強いられている。誰が悪いのか、やはりふるさとを捨てた私たちがいけないのかもしれない。

しかしそれを全くの他人から言われることには腹が立つ。田舎があって良いななどと言う輩もどうも好かない。大学生のときに都会にもともと住んでいた友達が、よくふるさとがあることを羨ましがっていた。でもそれは大自然と人が温かいというクリーンなイメージが進行しているからそう感じるのであろう。実際何十年もそこで生活していると遊ぶところがなくて退屈だし、自然は全然優しくないし、都会で何の不便も感じないで生活をしている方が余程楽しいし気楽だ。


二・三日旅行して田舎の良い部分だけ見れば最高だと思うかもしれないが、是非何年も田舎で生活してほしいものだ。

人が温かいというイメージは、人が少ないからやることがないから、ただちょっかいを出しているだけなのだ。都会みたいに人が多く皆が忙しいところは他人にかまっている暇がないだけだ。実際私は都会のように人に構わない方が楽でいい。

田舎の人はあれこれ口出しはするが、本当に困っているときは見て見ぬ振りをして助けてくれないのは、都会も田舎も一緒である。これは私の実体験からだから、どこの田舎も誰にとってもそうとは限らないのだろうが。


ふと職員室の日が当たらない窪んだところに窓がない倉庫みたいな小部屋があるのを発見した。


小学生のときにはあったのかもしれないが全く覚えがない場所だった。その中にある、古くさい今にも壊れて中のものが飛び出しそうな木の棚に目が止まった。年季が入った棚である。


何が入っているのだろうと思い、恐る恐るそれを開けてみることにした。


中には生徒たちが書いたらしきノートやプリント類がぎっしり詰まっていた。もしかしたら私たちの時代のものもあるかもしれない。一番手前のものは平成十年と書かれていた。


私は何かに取り憑かれたように手前のものをどんどん外に出していった。プリント類は見た目以上に詰まって入っていたが、それを掻き出す私の手は止まることを知らなかった。どんどん年月は遡り平成五年、三年、昭和六十三年まで辿り着いた。十分古いがもう卒業している年だ。もっと掘り進めると、六十年・五十九年とうとう在学中のころまで辿り着いた。ふと棚の前に積み上げられたプリントの山を見つけ、紙切れを掘り出しているだけなのに私がここに通わなくなってこれほど長い歳月が経ったのだとしみじみと感じた。再び棚の中に目を戻した。見覚えのある名前が並んでいた。懐かしさに満たされたが、今度は自分の名前を見付けたい衝動に駆られた。私の名前を見付けたかったのはここに確かにいた証拠が欲しかったから。いや違う。私が小学生の頃に書いた名前を見れば、当時の小学生の私に戻れる気がしたからかもしれない。

勿論本当に戻れるなどと思っているわけではない。ただ忘れてしまった記憶が少しでも甦りそうな気がしたのだ。だから一心不乱に探した。


昭和五十八年、やっと私の名前を見付けた。四年三組・竹なわ 太郎 まだ縄という漢字を習っていなかったのであろう私の名前がノートの表紙に誇らしげにデカデカと書いてあった。大人になってこんなに大きく自信満々に名前を書くことがあっただろうか。住所や電話番号など簡単に変えられるものと同じような扱いで書いている自分の名前が竹縄太郎なのだと、その名前で世の中に存在しているのだと小学生の私が改めて思い出させてくれた。表紙をめくるとどうやら夏休みの宿題らしく、絵日記みたいである。そのときの私は端から見たら気持ちが悪いぐらいに、にこにこしていたであろう。早速日記を捲りながら過去の記憶を蘇らせることにした。


七月二十一日(木)・はれ とうとうまちにまった夏やすみだ!今日はサッカーのれんしゅうで三点とっていっちゃんにすっげー太郎と言われ、うれしかった。あと朝かあちゃんにおこされて ラジオたいそうにいった。

このころ私は地元のサッカークラブに入っていた。まだ日本にはプロのチームがなくヨーロッパでプロのサッカー選手になろうと決めていた。子供の夢は壮大だ。ラジオ体操といえば夏休みの子供の醍醐味だろう。でもラジオ体操が好きな小学生はあまり聞いたことがない。何故止めないのだろう。やはり醍醐味だからか。


七月二十二日(金)の一大ニュースはデパートのレストランで母親に食べさせて貰ったパフェだったようである。子供の頃は平和である。七月二十三日(土)この日は晴れて暑かったらしいが、それでも三〇度はなかったようだ。考えてみればクーラーなんてものはデパートや銀行にでも行かない限り無かった気がする。今でこそ夏は三〇度以上が当たり前になっているが、地球は本当に暖まってしまった。ディズニーランドがオープンしたのもこの年だ。この夏私の姉は早速行ったようだが、私が行ったのは確かそれからだいぶ経った大学二年生の春だった。


七月二十六日(火)・雨 ゆうがたに雨がやんだのでくわがたとりにいった。ちろりんむらにいった。かぶと虫とかなぶんしかとれなかった。かなぶんの足にひもをつけてとばしていたら足がとれてにげられた。

子供はつくづく残酷だ。チロリン村とは実家の近くにあった手つかずの自然で、草木がうっそうと生えていてどことなく不気味な公園だった。私が中学生のときだっただろうか、村はその公園の草や木々をすべてなぎ倒し手つかずの小さなオアシスはダムに取って変わっていた。私たちの大自然の秘密基地はつまらないものになってしまった。その頃、すでに何年もチロリン村には足を踏み入れていなかったが、心の奥底にある箱を踏みつぶされた感じがした事を昨日のことのように覚えている。お彼岸には祖父の墓参り行ったらしい。父親の祖父は戦争に行って神風特攻隊としてお国のために死んだ。時代のせいもあるだろうが今の私ならまず断る。そういう私も会社のために自分の母校を壊そうとしているが、そんなものと比べることは祖父に失礼だと思い考えることをやめた。母親の祖父は私が生まれて程なくして癌で死んだ。当時の記憶を掘り起こしながらその先を読み進んだ。近所に住んでいた一つ年上のつとむ君のおじさんにいろいろなところに連れて行ってもらったことや当時の私はサッカー選手以外にバスの運転手にも興味を持っていたことが書かれていた。ただつとむ君がどういった子供だったかの記憶は全くなかった。それにそんな夢を持っていたこともすっかり忘れていたので正直驚いた。ある夜には姉と家に一台しかないテレビのチャンネル権を巡って大喧嘩したようである。この時代の土曜夜八時といえばオレ達ひょうきん族という番組か8時だよ!全員集合という番組を巡ってどこの家庭もチャンネル争いが激しかったみたいである。姉は前者私は後者が見たくて毎週喧嘩をしていた。この時は私が負けたらしいが、姉は負けん気も腕っ節も強くよく男の子と喧嘩をして泣かしていたのを覚えている。そんな姉だから大概私は泣かされイジケながら、たけちゃんマンやデビルマンを笑いを堪えて見ていたものだ。毎週のことだから母親が見るに見かねてあるルールを作った。それは前半がドリフの爆笑コント、後半がひょうきん族を見るというものであった。そんなルールを決めた矢先にドリフは終わり、ひょうきん族の時代が到来した。この時代音楽番組で毎週のシングル曲トップ10を発表するザ・ベストテンという黒柳徹子が司会の人気番組もあった。これも姉のお気に入りの番組で野球が延長すると今度は父親と壮絶なチャンネル権争いを繰り広げていたが、流石の姉も父親には勝てずよくふてっていた。姉は西条秀樹が大好きで意味もわからないくせにギャランドゥを熱唱していた。ちなみに私は堀ちえみが好きで松田聖子や中森明菜ファンの友達に渋いなおまえとよく言われたもので、失礼な話だが日本中で私だけがファンな気がして、そんなはずはないのだがテレビの前で何よりも一生懸命に声援を送ったことを思い出す。小学生の日記だけあってやはり平仮名ばかりだし句読点はうっていないしで、読みづらくて仕方がない。そういえば小さい頃から文の読み書きが苦手だった。小学生の頃は八月に入ると休みの期間がだいぶ減ってしまったように感じ、あと一ヶ月もまだ休みがあるというのに暗い気持ちになっていたようだ。今では一ヶ月の休みを貰っても何をして時間を潰せばいいか逆に困るだろう。


八月二日(火)・曇 ちろりんむらのターザンのまわりにおまわりさんがいっぱいいてターザンができなかった。

ターザンとはアマゾンを木のツルなどを使って縦横無尽に動き回る男の子をモチーフにしたアメリカの映画で、それを真似て鈴木のおっちゃんが子供たちのために大きな木の枝にロープを吊してくれ、それにまたがって行ったり来たりするだけなのだがそれが結構スリリングで楽しくて日が暮れてもやっていた。だから家に帰るのが遅くなって親によく心配をかけた。そんな子供たちの神聖な遊び場で首つり自殺をした女の人がその朝に発見されたのだ。そのせいで警察が沢山いたことをだいぶ後になって知った。チロリン村はその後も先輩の小島君が早朝ランニング中に白骨死体を発見したりして、手つかずの自然が人間のせいであだとなりこの頃から親が止めるのもあったがあまり行かなくなった。


八月三日(水)・晴 サッカーのみんなでバーベキューをやった。川でやった。おいしかった。みんなでコーチを川におとしたら コーチもみんなを川におとしてまんぞくそうだった。ぼくもぎりぎりまでがんばったがおとされた。かえりびしょびしょでかえったらかあちゃんにおこられた でもたのしかった。

バーベキューか、このごろは夏に夏らしいことをやらなくなってしまった。


八月四日(木)・雨 田中とゆうたと大しまくんの四人でかたぎり山までちゃりんこで行くつもりだったが 雨だったので大しまくんのいえではじめてファミコンをやった。マリオブラザーズをやった。ぼくもファミコンほしくなった。たかいんだろうな。

この年の七月に任天堂から出たゲーム機だ。こんなに楽しいものが世の中にはあるものなのだと驚いた。私が念願のファミコンを買ってもらえる日は結局来なかった。今の子供たちには考えられないだろうがテレビゲーム機を買える家はお金持ちであると信じられていた。だから子供の頃は家の中で遊ぶなんてことは雨でも降らない限りあり得なかった。遊ぶとは外で走り回る、それ以外にやることはなかったし、それが一番面白かった。


八月五日(金)・晴 田中とくまきこうえんにあそびにいった。まっかちんがとれたが さわれなかった。たなかにばかにされた。くやしかった。ゆうがたいえにかえったら父ちゃんがいた。ぼくがマッカチンをつかめないといったら つかめるようになれといわれた。どうにかつかめるようになれた。うれしかった。

マッカチンとはアメリカザリガニのことで真っ赤で大きなハサミを持っていたからぼくらはそう呼んでいた。この時確か一時間以上マッカチンが触れなくて父親が触れるようになるまでずっとつき合ってくれたのだ。父親はいわゆる団塊の世代で家庭など顧みずに仕事に明け暮れていた。夕方にいることが珍しくて、どこに連れて行ってくれたわけでもなくただザリガニを触れるようになるまでつき合ってくれただけだがそれがうれしかったようである。


八月六日(土)・くもり まちにまったはな火たいかいの日だ。よる母ちゃんとねえちゃんと田中としんじのおやとしんじとみかみのおじさんとおばさんとあつしとよしだとみんなでいった。川にはいっぱいいっぱい人がきていた。すぎさきもきていた。きれいでおとが大きくてびっくりした。すぎさきとはなしていたらみんなとはぐれてしまった。人がいっぱいでさがすのがたいへんだった。さがしているとちゅうで しらないおなじとしぐらいのおとことおんなにこえをかけられた。おとこのなまえはしょうたといい、おんなのなまえはかずよっていって二人ともかこからきたといっていた。どこのまちかはしらないがこのまちのやつじゃないみたいだ。


私は当時過去という言葉を知らなかったのか。何も勉強してなかったからな……かこ、どういう事だ。このつたない絵日記を読んでいるとほとんどの出来事がうっすらではあるが思い出せるのに、この二人のことだけは全く思い出せない。もしかして過去にもタイムマシーンがあったのか?おばけ?

「竹さん、どこですか?」私はビクッとした。部下の清水の呼ぶ声で二十年以上前の過去から呼び戻された感じがした。「ここだ。職員室だ」「どこです?いないじゃないですか」もしかして、私は本当に過去に来てしまったのか。いやありえない、ただ昔の絵日記を読んでいただけだ。私は職員室を彷徨った。目に見える周りのモノすべてが昔に戻ったような感覚に襲われた。動きが鈍くなった引き戸をどうにか開けると廊下に出た。「あっ!」「竹さん、探しましたよ」私は現代にいた。「バカ野郎。そこは職員室じゃなくて図書室だ」「あ、本当だ。すいません。ネット張り終わりました」時計を見ると四時を過ぎていた。校舎内を彷徨い、絵日記を読んでいただけで二時間以上も時が流れていた。


先を歩き始めた清水に続き廊下を下駄箱の方へと進すんだ。先程入って来た下駄箱に着いたところで足を止めた。そして入口とは反対側へと目を向けた。


やはりそこにはあった。


大きくて太いタイボクがあった。


正確には皮を剥がれ葉や枝は全て取られ表面は削られつるつるにされてしまっているのだから柱と呼ぶのだろう。


そしてそれは間違いなくこの校舎の大黒柱だ。


「太い柱ですね。直径二メートルぐらいはありそうですね」

立ち止ったまま動かない私に清水が声を掛けて来た。

「そうだろ。これは勿論私たちの時代からずっとここにあったんだけど。見ての通り当時からずっと落書きだらけなんだ」

「子供にはこの木の価値分かりませんものね」

「そうだな」清水の言葉に違和感を覚えたがあえて反論はしなかった。正直何と反論していいのか自分でもわからなかったのだ。


そして外へと出た。

踏み出した時、まるでタイムマシーンで過去から生還したような不思議な気持ちがした。手には過去の私が書いた絵日記が握られていた。門の方に目をやると先程まで騒いでいたデモ隊はいなくなっていた。そこに残っていたのは昔から変わらない、長閑な田舎町の田園風景だった。ただ変わったのは2階建てのおんぼろい校舎の風景ではなく、緑色の塊が周りに似つかわしくなく居座っていることだけだ。


明日にはこのおんぼろい校舎はいなくなる。

本当に壊してしまっていいのだろうか。私が今更そんなことを考えても仕方がないのだが。校門までの数十メートルの道のり、コンクリートの地面でも錆び付いた校門でも一歩一歩足を進める度に目に入る景色が懐かしかった。


門まで来ると一人の男が立ていった。


お腹がぽっこと出た中年体型のその男の顔を私は過去にも見た気がした。過去に見たときとはだいぶ変わり果ててしまったが、

それは間違いなく幼なじみの田中だった。

「久しぶり、元気そうだな」と話し掛けられた。中年体型になった田中を見ながら長い歳月が経ったのだなあとしみじみと物思いにふけっていると、

「おいおい久々なのにもう無視かよ」目の前で笑う男にハッとしてすぐに返事を返した。

「ごめんごめん。久ぶりだな。どう見ても元気そうだな」その言葉に田中は、「どう見てもは失礼だけど元気だよ。でも俺太っただろう?」何故か嬉しそうだったが、小学生の頃の凛々しさはなかった。ただ幼なじみだからわかる匂いみたいなものが教えてくれたのだ。まあお互い様なのだろうが。散々ニヤついていた中年男が突如真顔に変わった。その瞬間何を話そうとしているのかはすぐにわかった。

「本当に俺らの母校壊されちゃうのか?」感は的中した。

「久々なのに他に聞く事無いのかよ」「ごめん」頭を下げた田中に仕方なく、「壊されちゃうよ。もう行政で決まったことだから」私は十数年ぶりの再会を果たした親友をつき離すように答えた。「そっか。太郎でもどうにもならないんだろう?」

「あぁ」期待してほしくない思いから間髪入れなかった。

諦めたのか、とりあえず話題を変えてきたが、結局は嫌な話題だった。

「親父さん定年してこの頃暇みたいだぞ」

「はぁ」私は興味ない風を装った。察したのか田中もそれ以上は話を進めなかった。最後の話題は少し興味があるものだった。


「明日取り壊すなら学校の校庭の隅に埋めたタイムカプセルどうなるんだ?」そういえば小学何年生だったかは忘れたが当時の宝物なのかいらないものなのかは人それぞれだろうが、みんなで何十年後かに掘り出す約束をして埋めたものだ。「あれまだ掘り出してなかったのか?十五年後だとか二十年後だとかに掘り出すって言ってなかったか?」

「その約束だったんだけど、その当時の先生誰もいなくなってしまってうだうだのまま、いまだに掘り出してないんだよ」私は自分が何を埋めたのかを必死で考えていた。

「だからさ、今夜掘り出そうぜ」そう言った田中は満面の笑みを浮かべていた。「二人でか?」それでも私はあまり乗り気ではなかった。

「いいや。時田も吉田も呼ぶよ」

「みんなまだ高瀬にいるのか?」驚きだった。仲のよかったヤツらがまだ村に残っていたからだ。

「ああ、いるよ。じゃあみんなには俺から連絡しとくから、八時にまたここに集合しようぜ」一方的に事を決め田中は足早に帰っていった。彼の強引さは昔から変わっていなかったが、小学生のときに埋めたタイムカプセルを掘り出すことは少しばかり楽しみでもあった。


もう一度緑色に着飾った明日いなくなる母校に目を送ってから、私も校門をあとにして十数年ぶりの生家に重たい足を向けた。


久々に歩く学校から家までの道のりはほとんど変わりなく、ただただ懐かしかった。当時、行きは近所の子供たちと一緒に登校した。小学生の頃の私は登校の際の班の班長に何故かなりたかった。理由は班長になってただ列の先頭を歩きたかっただけだった気がする。

帰りは今見ても田園と幾つかの民家、寄り道するようなところもなく十分ほどで辿り着く道のりだ。しかし昔は一時間以上も掛かって家に帰ったものだ。今日はいろいろ懐かしんでゆっくり歩いたはずなのに二十分も掛からないで家に着いた。小学生のとき一時間も何をしていたのだろうか頭を捻った。


そして私は久々に見る生家の前に立った。外からはほとんど変わった様子はなかったが、ただ一段とボロさを露呈していた。元の色が何だったのかわからない程錆び付いたトタン屋根。外壁はカサカサの木造で下なんかは腐り掛けていてネズミは愚か小動物なら入り放題といった感じだ。まぁ動物も入りたくはないだろうが。ただ何よりも感じたこと、それは何とも言い難い淋しさだった。四人で住んでいた狭かった我が家も今一人の老人が住むには広すぎるだろう。取れかけている門を抜け、玄関前でもう一度立ち止まってから恐る恐るドアに手を掛けた。そこで私は固まった。勝手に家を飛び出した者がどの面下げて入っていけばいいのか。父親にどうやって話し掛ければいいのか。そのまま何分かやり過ごしてしまった。一度大きく呼吸をしてから私はだいぶ温まったドアノブを回しそれを手前へと引いた。


そこは静まり返り西に傾いた日の光りが差し込んでいたが、摺りガラスをどうにか通り抜けた光りだけが差し込む薄暗い光景だった。恐れていた父親の顔はそこにはなかった。代わりにあったものは殺風景な空間だった。内心ホッとしながら父親がいないことをいいことにいろいろ物色してみることにした。私がいなくなってからの十数年もの間、父親はここでどんな生活をしていたのだろうか気になった。どっかのテレビ番組ではないが冷蔵庫チェックもしてみた。缶ビール数缶といつからここに居座っているのか分からないおつまみ以外は何もない淋しいものだった。こんな大自然に囲まれているのに、家は平屋で2DKしかない。ここで父と母と姉と私で生活していたのかと思うと、窮屈だっただろうことが伺える。でも昔から貧乏なのは知っていたから住むところがあるだけマシと考えていたのかもしれない。そんな家も今は父親一人で生活しているのだから少しばかり広そうである。ましてここまで物がないと寂しささえ感じてしまう。小学生の途中から父親とふたり暮らしになり、奧の六畳が私だけの部屋になった。そのあと私がいなくなってから余りいじった形跡がなく、高校の教科書や漫画本がそのままになっていた。ただ埃は被ってはおらず、たまに掃除をしているようだ。洗い物は好きではないのかシンクに積み上げられていて、ここだけは人がこの家で生活していることが唯一窺い知れるところだ。


私がいない間も父親はここで一人暮らしを続けていた。自分の部屋だったところに寝袖って低い天井を見上げた。


父と母は私が小学四年生の冬に離婚した。

父親は私がもの心付いたときからほとんど家にいた記憶がない。

母親に、「父さんと母さんもう一緒に住めなくなったの。母さんはお姉ちゃんとここを出ていくけど、太郎は父さんと母さんとどっちとこれから生活したいの?」と言われたとき、優しい口調で話す母が怖くて怖くて仕方がなかった。


そのとき私は前にデパートで母が知らない男の人と仲良さげに話していたことを思い出した。多分母はその男のところに行くのだろうと考えた私は、「父ちゃん」とひと言だけで答えたことを覚えている。

私はいつも家にいない父親より、ガミガミうるさいけど一緒に泣いたり笑ったりたまに甘いものを買ってくれたりした母親の方が好きだった。だから本音は母親に付いていきたかった。でも母親が他の男と一緒にいるのを見ることが私には絶えられなかった。だから父親が一人では可哀相だからと大人ぶって、何度も自分に付いてくるように説得してくれた母親を泣かせた。


二日後に母親は姉を連れて出ていった。母親は散々私を抱きしめて泣いていた。

しかし最後には、「父さんを頼んだよ。太郎は私の自慢の息子だ。だからどんな時も胸張って生きて行きなさい」一度だけ頭を撫でてから笑顔になって、家を出ていった。


そのときのゆっくりと閉まっていたドアのギーと泣いた音が今でも耳に残っている。

そしてこれが母親と触れ合えた最後だった。


母親はそれから五年後に死んでしまった。


癌だった。


私はその事を知らされないまま、高校生になっていた。


高校二年生の暑い夏の日、私の家には無縁の話だが各家庭にクーラーという画期的な家電製品が普及し始め、家でも快適に暑い夏が過ごせるようになった頃。確かこの頃から三十度を超す暑い日が、ひと夏に何日もないが出始めた気がする。


そんな暑い夏の日の夕方に部活を終えて帰ろうとしたとき、校門に見覚えのある女の人が立っていた。

私が近づいていくと、

「太郎?」と話しかけてきた。

頷くと、

「由美子だよ」その名前は大いに聞き覚えがあった。

それは姉の名前だった。

「姉ちゃん?」

私は驚きを隠さなかった。

姉とは両親が離婚して以来一度も会っていなかった。

七年ぶりの再会だった。


そのとき姉の口から始めて、母親が亡くなったことを聞かされた。私は驚きと哀しみで、瞬きすることも忘れるほどだった。

ただ蝉の鳴き声が五月蠅かった。

こいつらも短い人生を一生懸命に生きているのだろうけど、ちっちゃい人間の私にはどうしても許せなかった。姉は私がその事実を知らないことに驚いていた。父親はその事を知っていたはずなのに私に教えてはくれなかった。


その夜は家に帰らなかった。

行くところもなかったが、ただ夜通し放浪し続けた。

歩きながら涙が枯れるまで泣き続けた。この世で一番好きだった人が、私の知らない間にあの世に逝ってしまっていた。


母の最後の言葉を自分の生きる糧にして生きてきた。いつか母にまた会えることだけを楽しみに。母親が再婚した男の人はいい人だったらしく、母親が死んで、赤の他人になってしまった姉を我が子のように可愛がってくれたようだ。その後姉は子供の頃からの夢だった看護師になった。


今でも思うのだが、あのとき父親ではなく母親を選んでいたら私の人生はまったく違っていたのだろうと。しかしすぐに考えるのをやめる。後悔しても何も良いことがなく、逆に父親を選んだ自分を責めてしまうから。


高校卒業と同時に、私は東京の大学に通うために家を出た。とにかく早くここから出たかった。卒業まで母親が死んだことが家で話されることはなかった。東京に出ての一人暮らしは大変だったが、誰に気兼ねする必要もなかったので楽だった。バイトに明け暮れていたせいもあるが、一人が淋しいと感じたことはなかった。実家にいたときも父親はほとんどいなかったし、一人には慣れていた。いろいろ昔を思い出していたらこの家にいることが居たたまれなくなり、これだけ長い歳月が経ってもやはり父親を許すことが出来い思いが込み上げた。

そしてそんな父親を選んだ自分に無性に腹が立った。自分の荷物と小学校から持ってきてしまった小学生の私が書いた絵日記を手に取ると急いで家を出た。


先程来た道を、今度は走って小学校を目指した。小学校の頃は時間がないときは学校まで止まらずに走り続けることが出来たのに、今は十分の一にも満たないところで足が止まった。歩くのは速くなったが、いざというときに今の私は小学生の私に勝てそうにない。腕時計に目をやるとまだ六時半だった。田中との待ち合わせの時間まではまだだいぶあったので仕方なく通り沿いにあった喫茶店に入った。どう見ても私の年より前からやっていそうな店構えだが、散々通ったこの道にこんな喫茶店があっただろうか、まったく覚えていない。しかし他に寄るところもなかったので、その喫茶店に仕方なく入ることにした。中に入ると女の人が迎えてくれたが、お客は私以外いないみたいだ。少し不気味な気もしたが、出るに出られなくなり仕方なく外が見えるテーブルに座った。コーヒーを頼み、一度深呼吸をするとテーブルに置かれた絵日記の続きを読むことにした。


夏休みになると毎年母方の親戚の家に遊びに行っていたようだが、それも両親が離婚してからは一度も顔を出していない。だからこの時までよく遊んでもらっていた従兄弟が今どうなっているか全く知らない。なんせ自分の母親の葬儀にも顔を出していないのだから。このときの私は電車の中で食べる駅弁が大好きだったようだ。この時代サッカーの練習が毎日あった。だからたまに雨だと嬉しかったみたいだ。


八月十日(水)・くもり きょうはとうこう日 夏やすみなのにがっこうに行った。でもすぎさきとはなせた。たなかがすごくひやけしてまっくろだった。みんなでタイムカプセルにたからものをうめた。ぼくはこの前かこからきたおとこ しょうたからもらった本をうめた。じゅうごねんたったらほりだすらしい。たのしみだな。

これか今日掘ろうとしているタイムカプセルはこのとき埋めたのか。本ってなんだ、何の本だ。花火の日にも出てきたが、このかこの男の子・ショウタって誰なんだ。いつ私はこのショウタから本をもらったんだ。やはり何度考えても思い出せない。ちなみに杉崎とは、この名前も前に出て来たが、私の初恋の相手だ。クラスで一・二を争う可愛い子で人気者だった。何故か私と両思いだった。小学生の頃はスポーツが出来たり、クラスで目立っている奴は大概もてた。私はサッカーをやっていたし、クラスでうるさい方だったのでこのときは結構もてた。人は人生に一回は必ず異性にもてる時期・もて期があるらしいが、多分私のもて期はこのときだろう。実際このときが一番女の子との交流があった。それ以降は数人の女性と付き合っただけで、私の周りに女の気配などほとんどなかった。もて期が一度しかないなら、もっと大人になってその時期が来ていれば私も今頃素敵な家庭が築けていたはずである。それはさておき、まったく記憶にない男の子からもらった本とは何の本だったのだろう。そしてなぜ私は過去から来た男の子と女の子というまったく訳が分からない二人のことを覚えていないのだろう。「お待たせしました」

「うぁー」

思わず悲鳴をあげてしまったが、頼んでいたコーヒーが来ただけだった。私がこんなに驚いたのに、定員の女の人は何も言わずに行ってしまった。つくづく変な店である。来たコーヒーにミルクだけを入れると、続きを読むことにした。近所にあった、学校のプールに少し毛が生えたぐらいの大きさのプールに行ったことが書かれていた。大きな円形のプールでその真ん中に丸い島があるのだが、その島の周りの水深が一番深く一㍍五十㌢だった。身長が一㍍五十㌢もなかった当時の私にとって、辿り着きそうで着けない直径十メートルほどの何もない島がパラダイスに見えていたようだ。毎回友達とみんなで浮き輪を使わずにその島を目指すのだが、泳ぎが苦手な私はなかなかその島に辿り着けなくて、よくバカにされたものだ。しかしこの年の夏始めて自力でそのパラダイスに到達することが出来たらしく、そんな小さなことでガッツポーズをしたことを思い出した。しかしこのプールも過疎化の煽りだろうか、私が丁度上京することが決まった、高校三年生の夏を最後に潰れてしまった。最初で最後の家族旅行のことも書かれていたが、当時の私はこれが最後になるとは思いもしていなかったことだろう。山梨の石和温泉の旅館に泊まったが、貧乏なわりにはいい旅館だった。多分このとき父も母もすでに離婚することを決めていたのかもしれない。だから僕ら子供に家族の思い出を作ってあげようと考えていたようだ。つくづく父も母も勝手である。しかし子供ながらに、この頃の両親が笑っていなかったことは敏感に感じていたみたいだ。だから旅行でどこに行っただとか、何を食べただとか、何かを見ただとかは二の次で、父と母が笑ったことが、このときの私にとってはその日の一番の出来事だったのだろう。


八月十四日(日)・晴 じいちゃんのはかまいりにいった。やっぱりこわかった。おはぎがおいしかった。

このときから私はお化けなどが苦手だったみたいである。現に今もホラー映画などをひとりでは見ることが出来ない。おはぎは父親の祖母が得意だった。だからこの時期はたらふくおはぎを食べることが出来た。祖母は私が中学三年生のときに死んでしまった。それまでは帰りが遅い父の代わりにたまに家に来て夕飯を作ってくれたり、私が食べに行くこともあった。母が出ていってから唯一の私の理解者だった。だから死んでしまったときは何日も泣き腫らした。祖母が死ぬ二週間ぐらい前に十万円をもらった。一万円札はなく、千円札が九万五千円分とあとは小銭がビニール袋に入っていた。祖母も貧乏だったのに、多分そのときに持っていた全財産を私にくれたのだろう。死んだときに家にも銀行にも一銭もなかったと、父が死んだ祖母の前でぼやいていた。そんなお金を私はすぐに使ってしまった。何に使ったかさえ覚えていない。その次の日は母親の先祖の墓参りに行ったようだ。母親の実家は長野市だ。母親の祖母はつい最近まで生きていた。姉から祖母が死んだと手紙が来ていた。大学に入ってからは姉からたまに手紙が来た。ただどちらからも会おうということにはならず、高校生のときに母の訃報を教えてくれたとき以来会っていない。何か困ったことがあったときは必ず言いなさい。いつも手紙の最後に書いてあった。ここだけは兄弟なんだと感じられるところだ。でも困ったときに実際に頼ったことがない。やはりこれだけ離れているとそう簡単に甘えることは出来なくなる。今は結婚して二児の母になったと手紙に書いてあった。結婚式には呼ばれなかった。今のお父さんに悪いから呼べないと手紙に書いてあった。そういえば父が母の先祖の墓にお参りをした記憶がない。だから母は常々先祖を大事にしない人は駄目だと言っていたのだろう。別れて当然だったのかもしれない。


八月十六日(火)・雨 たなかのいえでおにごっこをしていたらおばあちゃんにおこられた。でもやきそばをつくってくれた。ペヤングだ やっぱりうまい。かえりにあのおんな かずよがないていたのをみた。

何なんだ、誰なんだ?過去の女の子って、カズヨって。これを読んだ先生も困ったらしく絵日記なのに、かこ、のところに赤ペンで?マークが記されていた。頭が少し変なのかと思われたかもしれないが、その年の冬に親が離婚しているから勝手に先生の中で話を結びつけたのだろう。大人は何も分からなくても自分の経験から勝手に物事を判断してしまう。大体はそれで合っているのだが。この男の子と女の子のことは私もやはり記憶がなく先生の考えたであろうことに賛同するが、親が離婚しそうだとはまだ感じてはいなかったはずだ。でも何で泣いていたんだ?男の子は一緒じゃないのか。やっぱり私の想像から出た子供なのだろうか?こんな現実逃避をするなんて、何故そんなに病んでいたのだろう。ペヤングか、懐かしいな。まだ売ってはいるが、四角い顔、のキャッチフレーズでカップラーメンしかなかったときに、確か唯一のカップ焼きそばとして結構みんな食べていた気がする。


八月二十一日(日)・晴 ぼんおどりたいかいだ。おどるのはすきじゃない りんごあめとヨーヨーをかってくれた。みんなたのしそうだった らいねんはおどるぞ。かこの男 しょうたを見たがすぐにきえた。

何故消えたんだ。何なんだよ、こいつらは。私は小学生の絵日記にビビっている。この二人のどちらかが出てくるだけでいちいち鳥肌が立つ。最初の方は小学生らしい日記だったのに、二人が出てきてからオカルトっぽくなってしまった。当時の私は二人が何も怖くなかったのだろうか。それともやはり私にしか見えない幻覚なのだろうか。この子供たちが出てくる度に思い出そうとするのだが、この二人に関して書いてあることを何にも思い出すことは出来なかった。

「コーヒーお代わりいかがですか?」「うわぁ」定員の女の人だった。ビックリしてまた悲鳴をあげてしまったが、相変わらず定員さんは無反応だった。そういえばまだ一口も口を付けていなかった。じゃあ何故お代わりを勧めたんだ?そんなことは今はどうでもよかったが、今起きる一つ一つすべてに怖さを感じてしまう。私は喫茶店にいたことすらすっかり忘れていた。相変わらず客は私ひとりだった。時計を見たら七時半だった。まだ時間があるのでもう少し読み進めることにした。この時代は平気で人に花火を向けてやっていた。服が燃えたり軽い火傷をする者もいたが、それでもやめなかった。そんな子供も今ではほとんどが親になっている。そして子供が昔の自分のようなことをしないように注意しているのだからおかしな話しである。


八月二十四日(水)・晴 いえにかえると母ちゃんがだいどころでないてた。なんでないているのかきいたら だきついてきてくるしかった。

母親が私の前で泣いたことが三回あった。一回はこのときで、父との離婚を考えた時か決めた時だろう。そして一回は実際に離婚が決まり家を出て行くときだ。このときは私も大泣きした。最後の一回が、読み書きが苦手だった私が初めて作文で賞を貰ったときだ。全校集会のときみんなの前で読まされることになったのだが、母は自分が持っている一番高そうな服で聞きに来てくれた。その時の全校集会で唯一の父兄参加者だった。作文を読み終わって母親を見ると、恐ろしい程ぐしゃぐしゃな顔をして涙と一緒に鼻水も流していた。私はもらい泣きする前に吹き出してしまった。でも本当はすごくうれしかった。結局私が親孝行出来たのは後にも先にもこのときだけだ。そういえば母が家を出て行ってから一度だけ僕に電話をくれたことがあった。内容は元気でやっているのかと、父のことをよろしくというものだった。あと何か困ったことがあったら電話をしなさいと言われた。しかし私は教えてもらった電話番号を無くしてしまい、母に電話をしたくても出来なかったのだ。この電話の時に母が、別れ際の時のように、母さんと一緒に暮らそうと言ってくれていたら、多分私は頷いていただろう。しかし実際そう言ってはくれなかった、ただ頑張れとだけ繰り返し言っていた。確かに私が母のところに行ってしまったら父はひとりきりだ。だから冷静に考えたら言えなかったのだろう。私の気持ちは関係ないのだ。これが母と話した最後になってしまった。最後の母からの一言は、「今度太郎が食べたいときにカレー作ってあげようね。ごめんね、太郎」だった。


八月二十六日(金)・晴 ばあちゃんのいえにとまりにいった。よるねえちゃんと ばあちゃんのこわいはなしをきいた。この村でおやにころされたふたりの子どものおばけがいまでもでるはなしだった。そのきょうだいは神様の下にうめられたのに神様はいなくなっちゃったらしい、かわいそうだ。ぼくはこわくてこわくてねれなかった。

これだ!やはりさっきから私を怖がらせている二人は、殺されて成仏できない霊なんだ。それが分かった私はすっきりするどころか背筋が凍りそうな思いがした。もしかしたらまだ成仏できなくて、ここら辺を浮遊しているかもしれないのだ。


八月二十七日(土)・晴 きょうはきもだめしたいかいだ。途中、小さな女の子かずよが大きな木をゆびさしてないていた。木のえだからつるされたひもがこわい。

当たり前だ、霊なんだから。小さな女の子らしいカズヨが指差していた大きな木が何だというのだ。そこに何かがあるのか。「コーヒーお代わりいかがですか?」「うぁ~あ」さっきよりも大きな声で悲鳴をあげてしまった。何でさっきからこの店の店員はタイミングよくコーヒーのお代わりを勧めてくるんだ。でも今回はコーヒーがなかったのでお代わりを頼んだ。


八月二十八日(日)・晴 もうなつやすみおわりだ。しゅくだいやってない。ねえちゃんはおわったらしく かあちゃんにほめられていた。

だから日記にこんな事を書くな。でも怖くないからいいのだが。この殺人事件はさておき、八月の最後のころの小学生はみんなブルーだろう。これだけ長い休みが終わるのだから。そして定番の宿題の山だ。一年で一番嫌な時期だったかもしれない。この日記からもわかることなのだが、姉はいつでも計算高く常に冷静だった。だから親の離婚が決まったときも私のように泣きわめくこともなく、母さんに付いていくことをすぐに選んだ。私のように衝動的に何かをすることもなく、常に計画的に物事を運ぶ子供らしくない子供だった。ただ一度だけ姉が私の誕生日の日に母が買ってきてくれたケーキを先に一人で食べてしまったことがあった。どうしても一人でワンホール食べたかったのだろう。そしてその事実を知り泣き叫ぶ私を、見かねた母さんが思わず姉をビンタしてしまったのだ。私よりもはるかに大声で泣き叫ぶ姉を始めて見て、私はケーキを諦めざるおえなくなった。ケーキの代わりにロウソクを立てた豆腐をみんなで無言で食べた。それから姉と別々に暮らすようになってから何年かして、私の誕生日にケーキが届いた。差出人は書いていなかったが、あのときはごめんなさいのメッセージが添えられていた。そのとき何年も誕生日を祝ってもらっていなかった私には泣けるほど嬉しくて、父さんには内緒でワンホールを一人で食べた。それはそれはうまかった。計算高い姉だったが優しいところもあり、私が悪さをすると必ず母親に告げ口をしていた。そうして私を非行の道から救い出してくれていたのだと、そう思うようにしている。


八月三十日(火)・雨 いっぱいあめがふっていたのでいえにいた。ふとそとをみると あのおとこ しょうたがこっちを見てたっていた。びっくりしてもういちどみたらいなかった。

何で家の前にいたんだ。

「そろそろお時間ですよ」

「うわぁ」

また、このタイミングで話しかけられた。見るとニコッとして店員がこちらを見ていた。

時計に目をやると確かに八時五分前だった。でも何でこの店員は私が八時に待ち合わせをしていることを知っているのだろう。怖くなった私は代金を払うと走るようにその店を出た。外に出てからもういちど店の方を見ると、なんと!客はゼロだった。この店のことは忘れることにして、何であの過去から来たとかいう男の子は私の家の前にいて、こちらを見ていたのだろう。おまけに私のつたない文から分析するに男の子は瞬時に姿を消したみたいである。もう言うまでもないが、霊なのだから驚くことでもないのだが。今でもこの子供たちの霊は出るのだろうか。私は震える足を押さえながら小学校まで急いだ。走りながら周りをきょろきょろ見渡して自分の安全を確認した。本当に私はこのとき子供の霊を見てしまったのだろうか。しかしいくら考えても何も思い出せない。今の私は霊感などとは無縁の存在で、びくびくするだけだが。でも読み書きが苦手で、いつも先生に家で練習してくるようにと連絡帳に書かれていたような子供だ。自分で物語を作ることなど考え辛いことだ。記憶が定かでない小学生の私には霊が普通に見えていたのだろうか。本人は霊だとは気づかない間にいろいろな霊に会っていたのかもしれない。本当にそうならショウタと名乗ったであろう男の子とカズヨと名乗ったであろう女の子が成仏出来たのかが気になるところだ。

 

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