ことだま
@himo
第1話 宮司と言霊
兄と妹が並んで歩く後ろ姿を見た。兄はまだ小さな妹の手を引きながらジメジメした夏の道をゆっくりと歩いた。
夏休みの間小学生の二人は学校に行く必要はない。しかし彼らはその日も学校に来ていた。
その日も太陽は燦々と降り注ぎ、小さな二人の肌をじりじりと焼いた。だから二人の肌は黒かった。お陰でアザが隠れるぐらいに真っ黒かった。
学校に来ても誰がいるわけでもない。当直の先生が一人二人いるだけだ。「今日も来ているの」その日の当直の先生に声を掛けられた。何も答えない二人。「お母さんは?お父さんは?」それでも下を向いて黙ったまま砂いじりをし続ける二人に、「もうそろそろ日が暮れるから家に帰りなさい」大人は簡単にそう言って二人をあしらった。
こうして二人には何の思い出もない夏休みが過ぎて行った。
多分次の年もそうなるのだろうと兄は漠然と思っていた。
しかし彼らにとって辛い夏休みが再び訪れることはなかった。
その冬、満天の星空が見守る中、澄み切った大気の下で妹は死んだ。
自分のせいだと兄は思った。
さっきまでか細くではあるが息をしていたのに。死んでいるなんて思えない兄は、横たわったままの妹のやせ細った両腕を掴んで揺すったが、反応はなかった。寧ろ折れてしまうのではないかと心配になり、そっと元へと戻した。
動かなくなった妹は、地面と同化しそうなほどベッタリと横たわっていた。
二・三時間でも目を離したらそのまま埋まって無くなってしまうと感じるほどだった。
しかし実際に埋もれることはなかった。寧ろ埋もれてしまった方が現実から逃げることが出来ると兄は思っていた。
それからも暫く妹を見ていた。
そして二度と妹が兄に無邪気に笑うことは出来なくなったのだと、兄は気が付いた。
妹の目に涙はなかった。
ただ一筋の線が目尻から小学生とは思えないほどやつれた頬っぺたに延びていた。泣きたくても涙の為の水分が体に残っていなかったのだろう。
真冬の夜、言葉だけで鳥肌が立つ。しかし実際にその下に立って薄着で何時間もいると鳥肌は愚か、そのうち肌を刺す痛みも感じなくなる。麻痺した体を持った自分は不死身なのではないかとさえ思えてくる。しかし不死身ではないことを、目の前で妹が自らの体をもって教えてくれた。悲しみと恐怖とが入り混じった中で、兄は妹の亡骸を抱きかかえた。
腕の中で眠る妹は兄の体から残り僅かな熱を奪っていく。このまま行けば確実に自分も死んでしまう。それでも妹を抱かかえ、出来るだけ速足で家路を歩いた。
そんな帰り道、妹が死んでしまったことを親には何と説明したらいいのかを考えた。しかしそれ以上に家に帰って温まりたいと切に願った。
死にたくないと思ったから。
どうにか家には着いたが、彼の腕に感覚はなかった。熱を全て奪われたのと全く力のない妹の体を支えたことでの痺れから来ているものだった。
やっとの思いでドアを叩くと、だいぶ経ってから面倒臭そうに扉は開いた。中から現れたのはあの人だった。
「死んじゃった」
兄は地面に下ろした妹を眺めながら弱々しい声でそう伝えた。
「おまえが殺したんだろう?ついでにおまえも死んじゃいな」
遥か頭上から振り下ろされた地を這ったような声に、冷えきって感覚がなかったはずの体に電流が走った。
堪らず兄は蹲り、
「ごめんなさい、ごめんなさい」と声を震わせた。
妹が死んでも涙を流せなかった自分がこの人の前だとすぐにそれを流せた。頭を抱えて蹲っていても地面に写ったこの人の影から頭上遥か高くに腕を振り上げているのが分かった。「ガツン」そして兄は気を失った。
勝手に遠くの方に行っていた意識がゆっくりと戻ると、目を開けることを遮るモノがあった。それでも重い瞼をゆっくりと開けると溺れたような感覚に襲われた。どうにかしたくて手を動かすことを脳が命令した。
しかし誰だか分らない人が代わりに自分の瞼の上のモノを払ってくれた。
瞼の上に載っていたそれは白いモノだった。寝そべったまま顔だけを横に向けた。
そこには白い地面があった。
その白は雪のようだった。
どうやら自分は気を失っていたようだ。再び顔を戻した。
そして目の前でその雪を手に掴んでいる誰かのモノだと思っていた手、
それが自分の右手だったことに気が付いた。
ゆっくりと右手を地面に戻したが、やはり自分のモノだと感じることは出来なかった。
全身にも感覚はなかった。
だから体を起き上がらせることなど無理そうだと悟った。雪が自分の真上から降って来るのを薄眼で見ながら、たまに感覚のない自分のモノらしい右手が掃ってくれた。
そして再び、兄は眠ってしまった。
「どうしたの?」
そんな声が微かに耳を振わせた。
開けることも億劫だと感じたが、その聞き覚えのある人の声には反応出来た。
しかしその声の持ち主の顔を確認できるか出来ないかで、
とうとう兄は力尽きてしまった。
その夜小さく儚い命が二つ、この世を去った。
そう残った人間は考えていた。
しかし二人が星になれることはなかった。
「昨日そんな夢を見た」
京都郊外のとある神社。
趣のある境内を先に歩く宮司が徐に口を開いた。
季節は新緑、庭では木々たちが眩しいぐらいに青々としていても宮司の表情はそれとは違っていた。
「先生、その二人の子供を知っているのですか?」すぐ後ろを歩いていた禰宜が反応する。白髪交じりの彼は還暦を目前にしていた。だから年齢も宮司よりも幾分上だったが、宮司のある力を心底信じているのか、先生と呼んでいる。
「いいや」後ろには振り返ることなく宮司は答える。
「ではそれは何を意味するんですか?」「わからん。ただの夢だろ」
「それを何故私に話したんですか?」俯いていた顔を上げる禰宜。
「わからん。ただ今は話したことを後悔している」
そして二人はこの神社にやって来た者たちと接見する為に彼らが詰めかけている社務所へと入っていった。
そこには十数人の人間がいた。
彼らのほとんどが老人のようだった。彼らは宮司の姿を見付けるなり彼の方に正座をして向き直した。
誰もが緊張した面持ちに変わった。
それを確認したように宮司は皆の前に立ち大きな声で話を始めた。
「言葉には魂が宿っています。しかしすべての人間の言葉に魂が宿っているわけではありません。魂が宿った言葉を発することが出来る者はごく一部の人間だけです。そんな人間は宇宙を取り巻く様々な事象・森羅万象に対して、強い信念を持った者たち。そしてこの者たちにしか宿らない力、それが言霊なのです」
「だから、先生の所来たんです」
最前列の老婆が口を挟んだ。
「まだ話の途中です」それを厳しい眼差しで一掃すると彼は続けた。
「この世にある、人類よりはるか昔から存在するものすべてには、魂が宿っていました。その事を深く信じ、魂があるものに気に入られた者にだけ、天候や作物、人類にまで、自分が願うままに影響を与えることが出来るのです。力のない者には偶然や奇跡でしかない事象、それが力のある者によって発せられた言霊なのです」
彼の話に掌を合わせ拝む者さえ見受けられた。
「言霊の力を持つ者にとって、古から存在するものたちはまさしく神です。その神を崇拝し、共に生きていくことを約束したから、その者たちが唱える言葉に神の力が宿ったのです。教科書にも出て来る昔の有名な支配者たちは、高い確率で、この言霊の使い手だったに違いありません。戦いにおいて劣性のときは天候を味方に付け、兵が足らないときは数を増やす。また自国の人々が飢えに苦しんでいるときは、恵みの雨が降るように唱えた。すべては言霊によって叶ったのです」
一人の男性が勢いよく立ち上がると輝く眼差しで宮司を見詰めた。「中国全土に留まらずヨーロッパにまで力が及んでいたモンゴル帝国が日本に攻めて来たときもその言霊が役にたったんじゃろ?」
そう話すと、横の老人も立ち上がり興奮気味に口を開いた。
「モンゴル帝国の船が大軍で日本に攻めて来たとき、勿論まともに戦ったら日本に勝ち目はなかった。当時の武将たちは有名な言霊師を使って、日本海に嵐を起こさせた。さすがのモンゴル軍も自然の力には勝てず、言霊の力によって撃退されたという有名な歴史がありますが、その言霊師こそ先生の先祖なんですよね?」
「如何にも」
宮司は眼を閉じ、静かに頷いた。
「そのときよりもはるかに小さな話なんです。梅雨時期に私たちの村を襲う嵐をどうにか回避して欲しいんです」
前に座っていた老婆が再び話し始めた。
「だから、それはお断りしたはずです」
縋るような彼女の眼差しを絶ち切るように彼は即答した。
「どうしてですか?あなたは代々受け継いで来られた正真正銘の言霊師なんだろ?」立ったままの男性がまた口を開いたが、輝くような眼差しはどこかに消えていた。
「そうです」
相変わらず淡々と答える宮司。
「だったら……」
ため息が毀れ始めた室内に微動だにしない宮司は再び話し始めた。
「神々が多く住むところにはその分、言霊による霊力も計り知れないものがあります」
「だからわしらの村を毎年襲ってくる台風を先生の言霊の力でもってどうにかしてくれ」
村人の切なる願いにも、
「無理なんです」
彼の言葉が変わることはない。
「無理とはどういうことだ?」
喧嘩腰に構える者さえいる中でも宮司は飄々と続けた。
「今、生きている人々が忘れてしまったことがあります。人間はこの世に誕生したときから古の神と共存していたのであり、他の動植物と何ら変わらない存在だった。またそのことを当の人間も分かっていたはずなのに、いつからか人間は自分たちを特別な存在と勘違いし始めてしまった。その大きな間違いが、あるとき神々の逆鱗に触れたのです。インディアンやアボリジニが言霊の力を持ってしても西洋人に勝てなかった理由は、神々が言霊に力を貸さなかったからであると言われています。このときからすでに人間の地球破壊は凄まじいものがあり、神々は怒り心頭だったのでしょう。しかし現代に入っても、人間による地球破壊は留まることを知らず、むしろ加速の一途を辿っています。今なお続く世界規模の経済発展は、激しい大気汚染や大量の森林伐採などの上に成り立っています。その行為はまさしく古からの神々を邪見にして死へと追いやっているのです。人間たちは、人類の文明という自分たちの利益のためだけに、このような身勝手なことをやってしまった。今まさに各地で起きている地震や竜巻、津波など人々を苦しめている天変地異が神々の怒りであり、哀しみなのです。人間自身が引き起こしたオゾン層破壊、海面上昇、地球温暖化。人間による環境破壊は神の力ではもう止められないところまで来てしまった。古の神々は地球再生を諦めざるをえないところまで来てしまったのです。だからせめて地球を我が物のように破壊し続けた人間と共に、それを作ってしまった責任を取るために、古の神は地球再生の道ではなく、地球破壊の道を選んだのです。神々自身も次々に命を絶ち、地球破滅へのカウントダウンのスイッチはもう入ってしまった。それ故、今人間に怒り心頭の神が人間の唱える言霊を受け入れるはずもなく、今となっては言霊の霊力は地球上にはほとんど無くなってしまった力なのです」
宮司の言葉に頷く者さえいたが、
「じゃあ、我々はこのまま田畑が台風に荒されるのを指を咥えて見ているしかないって言うのかい?」突っ掛かる者の方が多勢を占めていた。
「そうです」
目を閉じ感情を全く感じない宮司に、「随分無責任じゃないか」
「本当は力なんかないんだろ?」
「あんたはインチキだ!カネ返せ!」
取り乱す者もいた。
その言葉に表情を一変し、
「カネを受け取ったのか?」真横にいた禰宜を睨み付けた。禰宜は下を向き、「少しですが……」気まずそうに答えた。
「すぐに返しなさい。そしてお帰り頂いてもらいなさい」
「分かりました」冷静さを取り戻した宮司の言葉を受け、禰宜は居座ろうとする村人たちを強引に外へと追いやった。
一段落した禰宜が正殿に鎮座していた宮司の下に戻ると、先程の無礼を詫びたが、
「でも、何故です。彼らの願う通りに言霊を発してあげればいいのではないですか?」
「それに何の意味がある?力のない言葉には何の意味もない」
「しかしそれで彼らの気持ちは収まる」宮司はゆっくりと禰宜の方を向いた。
閉ざされていた瞼が開いた。
そこにあった凄まじいほどの眼力が禰宜の体を硬直させた。
「おまえ、言霊の力などないと思っているのだな?」
「そ、そんなことはありません」
正座をしたまま深々と頭を下げた禰宜に立ち上がった宮司がゆっくりと近づいていく。
「いいか、人間たちは自分の身勝手さによる破壊を意に介さず、自分たちのためだけに地球を使うことを考え続けてきた。そして自分たちのせいでほぼなくなってしまった古から伝わってきた言葉の霊力を、早々と見捨てた。その代わりに人間は神々の存在しない、人間だけの上に成り立っているもう一つの言霊を、人間の手によって生み出してしまったんだ」何時しか目の前まで来ていた宮司の口調も柔らかくなり、ホッとしたのか禰宜が顔を上げ問うてきた。
「神を介さない言霊?」
「そうだ。例えばある人に、周りの人間が『死んで』を繰り返し言い続けたとしよう。あるとき『死んで』と言われ続けた人間が、ビルの屋上から身を投げて自殺してしまう。この事件はある人に対して周りの人間が発した言葉が、言霊となって現実に起きてしまったのだ。これがまさしく人間が作り上げた、人間の人間による人間世界でだけの言霊だ。もともとの言霊は古の神々の力を介す、もっと神聖なものであった。しかし人間はもっと安易で、尊いものとしてではない、本来の言霊とは言い難い、言われた人間が思い込むことによって起きる言霊を作り上げてしまったのだ。それは選ばれた人間ではなくても誰でも憎い相手に対して発することが出来る恐ろしい言霊だ。今私が、彼らの為だと口先だけの言霊を発しても、そこには何の力も流れない。今話した人間の言霊と何ら変わらない。人々を騙し、カネだけを貪る。まさしく人間界の言霊だとは思わないか?」
宮司が話し終わると禰宜は再び床に頭を付けるとバツが悪そうに部屋を出て行った。
一人になった宮司はふと呟いてみた。「田畑を荒らす嵐よ吹くな」正殿の中、神にも聞こえぬほどの小さな声でそう呟いてみた。
この宮司、近所の子供たちを集めてはよくこんな話をする癖がある。
「この国には神々が多くいるんだよ。その証拠に、この国には至る所に神々が起こした言霊の爪痕が残っているんだ。言霊のことは話したね。いつもみんなの為に良いことをしている人の言葉を神様が叶えてくれることだね。みんなの家の近くにないかな?変に尖った土の地面やうっそうとした森林や、大きな大きな木などは、間違いなく遠い遠い昔に、言霊の力によって神々が起こした奇跡による天変地異に違いないんだよ」
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