第四章「胎動」

東と朱伊-3

***

 昼飯にしよう。朱伊が飄々とのたまう。東が睨み付けても気にしたふうもない。

 そんなもので逃げられてはたまらない。だが、そんなことを言わせる隙を与えているのは東自身だった。このままで話の主導権を握れるとも思えない。空気を変える必要がある。だが逃がしたくはない。

 結局アトランタで食事にした。美味いと評判のレストラン。完全個室。男二人で行く店ではないが、仕方がない。予約に割り込み、席を取った。

 俺は魚がいいな。朱伊がうきうきとメニューを物色する。あまり来たことがないらしい。東は、嘘か本当かは気にしないことにしてさっさと注文を済ませる。朱伊はあれやこれやと事細かに注文していた。塩に酢に肉の焼き加減、温度から食器に至るまで、店員は必死にメモを取っていた。来店後すぐに魚だと言っていたくせに、注文したのは分厚いステーキだった。

「行きつけ、って感じだな東は。即決だった」

 店員が注文をすべて言った通りにメモしたことをわざわざ確認して、朱伊は満足げににこにこした。注文通りに料理が来なければ笑って突き返すのだろう。そういう所がむかつく男だ。今日だけで身に染みている。

「よく来る。うちに料理が出来るやつはいないから」

 ピアともアレイシアとも来たことは無いが、嘘はついていない。ピアはもちろん、アレイシアは料理が出来ない。不可能ではない。不可能ではないが、食べるのに耐えることができない。

「アレイシアさんは料理上手そうだけどな」

 意外だ。言って朱伊はさして興味もなさそうに驚く。

「味音痴なんだ」

 彼女愛飲の野草ティーは本人による独自ブレンドだ。不味くて――青臭くてえぐみが強くて酸っぱくて、山ほど砂糖を入れるから甘い――とても飲めたものではない。

「彼女のことは何でも知ってる?」

 確信じみた声と眼は意地が悪い。朱伊は笑顔を貼り付けて、続ける。料理を突き返すのときっと同じ顔だ。

「俺もね、ちょっと考えたんだ。今日話しながら。東は彼女に捨てられたんじゃないかって」

 サラダが運ばれてきた。朱伊の注文したとおりドレッシングは別、山盛りのトマトに菜っ葉が混じっている。彼はトマトの中身をくり抜き始める。

「上司に捨てられて、どうして彼氏にすがらない。煩い上司がいなくなって自由の身だろう。それなのにわざわざ死にに行った」

 死にに行ったのではない。だが訂正する気になれなかった。アレイシアなら最悪の場合――婚約者の竜と対面したとしてもうまくやれるはずだ。死にもせず、言った通りにピアを連れて帰ってくる。

「信じてるわけだ。いいね」

 朱伊の、知ったふうな口ぶりに胸がざわざわした。彼は種を抜いたトマトをフォークで潰し始める。酢を加えて塩を振りかけ、細かな菜っ葉と混ぜ合わせる。行儀の悪い。

「東が分からないのに俺なんかが分かるわけもないと思うんだけどね、やっぱり捨てられたって考えは捨てられないよ。アレイシアさんが命を賭けてまでして上司を連れ戻す理由がない」

「ないと思っているのは、朱伊の勝手だろう。彼女には彼女なりの考えがある」

 きっとそのはずだ。きっと。自身に言い聞かせる風になってしまったのが悔しい。

 朱伊は見透かしているような眼でこちらを見もせず、いつの間にか火を点けた小さなろうそく――ステーキの保温用にと、サラダと一緒に先に運ばれてきたものだ――でトマトと菜っ葉を混ぜたサラダのなれの果てを乗せたスプーンを炙っている。

 ちりり、トマトの水分と一緒に魔術のかけたがはぜた。小さなろうそくの、小さな火の揺れる合間に命令式の燃えかすが見え隠れする。朱伊は異邦人だ。魔術は使えない。使えるとも聞いたことがない。なのに、この火は魔術だ。

「どうかした?」

 ろうそくを注視していたことにはっとする。彼はスプーンの中身を氷の浮いたグラスへ入れて、再びサラダを火で炙る。こいつは、何をしているのだ。

考えろ。こいつから、何を聞き出すべきか。こいつの調子に巻き込まれるな。

彼らの追っ手が、白伊とかいう、颯の親類なのは分かった。朱伊たちが暮葉を守りたいことも。その理由は彼女が竜を召喚できることにあり、その上颯は召喚ほどではないが竜の力を利用できる。

ここでも竜か。

「どうして竜なんだ。外の世界には存在しないのに」

 暮葉は恐らく、世界を跨いで竜を召喚できる。彼女が異邦人でありながら召喚が可能なことと無関係ではないだろう。召喚では召喚者と竜の間に強い繋がりができる。だから召喚される竜は固定される。

 つまりあの竜は、外の世界と強い繋がりがあるということだ。アレイシアの婚約者であるあの竜が。ナディア。史上初めて召喚され、恋の末召喚者を喰らってしまったという悲劇の伝説の竜と同じ名だ。

「さあ? 白伊の連中は、自分達の先祖が竜と交わったって信じてる。なぜなのか、どうして竜なのかなんかは知らない」

「それが、暮葉さんの召喚できる竜だって?」

 どうだろう。朱伊は呟いて、グラスの中身をスプーンで混ぜる。グラスの中身は水だったはずだが、いつの間にかすっかり真っ赤だ。

「いや、連中が暮葉の事を知ってもそうは思わないだろうな」

 朱伊のステーキが運ばれてきた。彼はそれを早速細切りにし始める。

「あの竜の素性が気になる? 恋敵だもんな」

「別に。そもそも竜は恋をしてるわけじゃない」

 にやける朱伊にぴしゃりと反論を叩きつけると、彼はほんの少しだけきょとんとして、余計ににやけを深くした。こいつ。自分がアレイシアを未だ好きであることを今さら隠すつもりはないが、茶化す素振りにはむかつく。

 ナディアが、伝説のあのナディアだとするならば、いっそう興味深い。史上初めて召喚されたからこそ、ナディアは竜の中でも特別だ。

 その〝特別〟を、この男は知っているだろうか。この世界にいるからこそ知り得ない竜の〝特別〟を。

「残念だけどあの竜、ナディア? が何者なのかはわからない。本当。だから世界を越えてきたわけだし」

 トマトの次は細切りにした肉から絞った肉汁を、グラスへ入れ始めた。脂がグラスの中で丸く浮く。

「なあ、取引しよう」

 取引? 思わず繰り返す。どうしてそうなる。

 朱伊がグラスの口を指でなぞる。あおい火が、グラス内の水面をぬめった。魔術だ。思うものの、目前にしてその命令式どころか魔術粒子のざわめきさえ感じない。魔術粒子で身体を構成する天界人である自分が。こんな事あるはずがない。

「俺は誰よりもこの世界のことを知ってる。あの竜自体のことは知らないが、奴の周りのことは知ってる。あいつが何をしてきて、どうやってアレイシアさんと出会ったのか、まあ色々」

 朱伊は、こいつはなにを言っている。何者だ。思う目前に、あおい火がねらねらぬめるグラスが迫ってくる。

「俺の望みは、ただ、東がこれを飲むこと。それだけ」

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