竜を喰らわば皿まで
木村凌和
第一部「墜落」
プロローグ
「墜落」-1
長雨明けのあおい空に白い〝皿〟が浮かんでいる。過ぎ去っていく雲よりも大きく、照り返す朝日の感触は固い。地上からでは陶器に似て見える質感、丸く平べったい皿を横から見た形に似ている。
今朝はいつもより、〝皿〟が大きく見えた。近くまで来ているということだろう。珍しい。そんなことはこの五年の間無かったのに。
アレイシアは、抱え持っていた籠を池の上でひっくり返す。ぼとぼと、落ちるのは小さく砕いた魔術粒子の塊で、餌だ。水面下から多数の口と頭が出てきて、争い合って塊を食べる。立派な牙も、餌付けされていては形無しだ。争い合って羽ばたくものだから、桃色の水飛沫がばたばたと飛んだ。
「しばらくお預けなんだから、皆ちゃんと食べるのよ」
ほら、喧嘩しないの。話しかけて聞く獣ではない。だからといって、しばらくぶりに帰ってきたら数が減っているというのも後味が悪かった。
桃色の水面に、満足した獣から、すいと離れて泳いでいった。まるでカモだ。カモほどの大きさだが、全身は鱗、四肢には鋭い爪があり、脚は逞しい。角をもっているものもいる。翼を器用にたたんで、時折手入れしながら水面に浮かぶ姿は竜というより本当にカモだった。
「はい、おしまい。良い子にしてたらまたあげるからね」
グワッ。カモに似せた声が輪唱になって返ってくる。籠の底を叩いて全て落としきると、竜たちは水面下に沈んでいったり、カモみたいに泳いだり、羽ばたいてついてきたりする。
今日ついてきたのは三匹だった。いつもより多い。
彼らの餌は昨日の作業分の副産物だった。きんいろに輝く硬質な塊は、ガラス片に似ている。
「そろそろ飼い主が起きてくる頃ねー」
桃色の池は林に囲まれている。池の林の間、池の二回りは大きい建物が建っている。白くて、丸く、硬質な、陶器に似た質感の建物。
森の深い孤島に唯一の建物である王宮魔導師の事務所は、島のほぼ中央、池のようなちっぽけな湖のほとりにある。球状屋根の白い建物は二階建てだ。森が最低限しか切り拓かれていないために、建物は半ば森に埋もれている。湖との距離もごく僅かだ。
入ると、建物の真ん中にらせん階段が鎮座している。そのふもとを物の積み上がった机がぐるりと取り囲んでいる。階段を挟んだ反対側に、昨日使った器具が山と積み上がっているのが入り口からでも見えた。
足下に竜がじゃれついてくるのを蹴飛ばしながら、手早く器具洗浄を済ませた。今日はこれから一ヶ月以上もここを空けるのだ。片付けはできるだけしておくに限る。どうせ今だろうが帰ってきてからだろうが、洗うのはこの自分なのだし。魔導師の助手とはこうも理不尽なものだろうか。思っていたのと大分違う。まあ、それも気に入らなくはないのだけど。
食事の用意を始めたところで、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「おはよう、レイ」
手すりに寄りかかって、今にも落ちてしまいそうな小さな、華奢な身体の少女が立っている。くろ髪のショートカット、あおい眼。大きな目と、小さな鼻と唇は可愛らしい。年の頃は十代半ばに見えて、この十数年風貌が変わらない。ピア・スノウ。彼女を、その才能への嫉妬も含めて〝魔女〟と呼ぶ者も少なくない。
彼女だけはアレイシアを愛称で呼ぶ。未だ聞く度にこそばゆく、でも嫌だとは思わなかった。
「おはよう。いつもより早いじゃない?」
「寝てらんないったら。あの忌々しい〝皿〟がこの上に来てる、っていう悪夢を見ちゃって」
ピアはげんなりと手すりに肘をついた。元からしろい肌が、いっそうしろく見える。本当に眠れていないのかもしれない。
〝皿〟は、天界と呼ばれる。この世界の創造主がいて、その子孫が〝皿〟とこの世界を守っているのだそうだ。
アレイシアは信じていない。だが大多数は信じている。だからあの”皿”は天界と呼ばれて、僅かながら地上にいる”皿”の元住人は天界人などと呼ばれているのだ。
ピアが〝皿〟を目の敵にする理由をアレイシアは知らない。〝皿〟から男と竜を連れ地上に降りてきた、天界が唯一認める魔導師の最後のひとりとなったピアの事情に、踏み込むつもりはなかった。知らなくても仕事はできる。そんなものがなんであれ、この人についていくと決めたのだから。
「大丈夫なの? 今日は長旅に――」
彼女にカップを渡しているとき、非常に近くで甲高い獣の鳴き声が聞こえた。それは呻り声に変わってどんどん大きくなる。まるで近づいてきているようだ。二人で一つのカップを手にしたまま顔を見合わせ、周りを見て、上を見た。足下をうろついている竜の声ではない。鳴き声はもっと大きい――例えば長距離移動用に借りる大型の竜――のもので、空から――例えば墜落して――近づいてきている。
「精製液!」
「書類!」
二人でカップを押しつけ合った結果、床に落とし、その音ではっとした。
ピアは彼女が昨日一日かけて複雑で煩雑な処理をした魔法薬未満の液体の元へ飛んでいった。
アレイシアは発送前の、山積みになった書類を抱えられるだけ抱えた。この数日かかりきりになってやっと完成させたものだった。地下室へ続いているらせん階段に飛び込み、ピアに諦めろと叫ぶ。自分でも轟音の中でその声は聞こえなかったが、二階で寝ていた男の間抜けな悲鳴はやけに耳に残った。
立っている場所がぐらぐら揺れて、足を踏み外し尻餅をつく。書類が階段を滑り落ちていった。池から着いてきていた竜が、腕と書類の間に割り込んでくる。空気がびりびりと震えて、壁は何度も揺れた。
音が止むのを待って、地下室から這い出る。埃が朝日に照らされきらきら輝いている。天井はずっぽり抜けて、あおい空が見える。〝皿〟が通り過ぎていった。池の方で竜たちが騒いでいるが、目の前に横たわる大きいほうに眼がいく。
しろい首は長い。事務所を横切ってなお余りある。首から下は事務所には当たらなかったらしい。それで外の竜たちがうるさいのだ。池に落ちたのだろう。
朝陽に輝くしろい鱗。見ただけで固いとわかるのに、しなやかで、手に吸い付く感触。かたくぶあつい鱗の向こう側で燃え上がる熱のあつさ、竜のささやく声に吸い込まれる、吸い込む感覚。これは、とても、
手を掴まれる感覚があった。自分の腕はこのくらいの太さだった。そうだった、と思い出す。視界はしろい鱗が一面で、手を引かれ、ぐるりと回った。
同じ金髪の男だ。ピアのもうひとりの助手。東(あずま) 天(てん)鈴(りん)。細い金髪、〝皿〟と同じほどしろい肌、絵に描いた様に整い過ぎた顔立ちと、細く長い手足。天(てん)界(かい)人(じん)の――〝皿〟から降りてきた人の形をした生き物の、人形じみた典型的な特徴を全てもっている。
「まだ駄目だよ」
意味が分からない。だが、眼を落としてわかる。この手はあの竜に触れていない。あれは嫌な錯覚だった。途端に背が冷たい。あれを見せたのだとしたら、この竜とはまだ出会ってはいけない。
ねえ、ちょっと。ピアが竜の首の先で声を上げている。腰を折っているから、あれはこの竜に向けたものだ。
アレイシアは手近に転がっていた池の竜を抱えた。逃げ出したいが、足は動かない。この竜は違う。私を追って来る竜ではない。それなのに、あの竜と同じものを見せた。初めての逢瀬を。
「あなた、いくら消えそうでも食べるものを選んでよ。乗っ取られるなんて無様な死に方ね」
ピアは竜の額を人差し指でつついた。竜はなにかを言ったが言葉にはならず、鱗もつ身体が色を失い透けて解けていく。
あの――追いすがってくる竜の声とは違った。肩から力が抜ける。こんなことは今までそうそう無かったのに、どうして今になって。すっかり抱き込んでいた竜を手放して、離れていかない。見て、同じ顔をしている竜がいる。あの、記憶の中の。記憶ではしろかった竜は、今目の前ではくろい。だが同じ顔だ。あの、迎えに来ると言った。
くろい小さな竜は、にたりとわらってすうと飛び去った。向かう空に、まだ〝皿〟がいる。
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