第16話 不本意ながら天使の取り分
こんな夢を見た。
私は、一匹の猫を連れて、巨大な樽の合間を縫いながら歩いている。薄暗い倉庫の中には、ぷちぷちというかすかな音と、私の衣擦れの音しか聞こえなかった。積み重なる樽は、すばらしい風合いで、よい香りが漂ってくる。
私の足元にいるのは、見たこともない毛色をしている優雅な佇まいの猫で、毛はふわふわと長い。尻尾もスッと長く、歩く姿が素晴らしかった。毛の色はラベンダーがかった灰色をしていて、緑の瞳は賢そうに樽の隙間を見て回っている。その様子から、彼女がウイスキーキャットであることわかった。ウイスキーキャットとは、倉庫内に発生するネズミなどの害獣を駆除する専門の猫のことだ。彼らは猫であるが、蒸留所の正式なスタッフとして名簿に記録され、中には英国女王からバースディカードを賜り、その働きがギネスに登録されているものもいる。きっと私より、ずっとえらい。
彼女が、ねぇ?と話しかけてきたので、しゃがんで耳を傾ける。
アナタ、まだ羽が生えた倉庫番にお会いになってないでしょう?
ラベンダー色の猫は少し首を傾げながらそういうと、長い尻尾にくねらせた。えらく艶っぽい声をしている子だ。
「羽が生えた倉庫番?鳥ですか?」
あらやだ、鳥じゃないわ。
そういうと、彼女はすたすたと先に行ってしまった。慌てて後を追うと、彼女はやがて、ひときわ大きな樽の前に立ち止まり、上を見上げた。つられて上を見上げるが、樽は本当に大きくて、上のほうが天井の薄い闇に飲まれてまったく見えない。
はあい、私よ、新人さんを連れてきたの。
彼女が一声あげ、しばらくしたあと、腹に響くような低音で返事が返ってきた。それと同時に、樽の上から何か巨大なものが降ってくる。人間の形をしているが、異様に細い手足は長く、関節がひとつ余分に多い。羽といっても、鳥ではくコウモリの羽で、やたら乾燥しているのか、ところどころヒビ割れているように見える。
重力のまま落下してきたそれは、床の近くで少し羽を広げて着地の衝撃を緩和したものの、なかなかの勢いで床にたたきつけられていた。禿げ上がった頭には、不規則の小さな角がついている。
やだ!まーたそんなに酔っ払って!
悪魔は猫に怒られながら顔を上げた。人の顔をしているが、その白まなこの部分は黒く、瞳孔周辺は黄色に輝いている。そして、明らかに酔ってふらふらだ。
「歳取ったぁー」
「樽大きすぎるから、飲むのが大変なんだよぉ」
というと、悪魔はぐったりと床に頭をつけた。猫が前足で悪魔の頭をつつく。
しっかりして頂戴な、アナタが飲まないといいお酒にならないんだから。
「ちょっと待って、飲んでるってどういうこと?」
私の質問に、床に伏せたまま悪魔がしゃべりはじめた。
「俺がぁ、ここの酒をぉ、おいしくしてんだよぉ!」
ウイスキーを蒸留する際、熟成段階において、水分とアルコール分が飛び、結果、全体量が減る。しかし、それは熟成した証であり、蒸留に携わるものたちは、それを「天使の取り分」と呼んでいる。熟成すればするほど、酒の全体量が減り、天使の取り分が増える。天使たちがその酒を少しいただくことで、その結果、礼としてその酒が美味になると昔の人たちは考えていた。
「なぁにが天使だぁ!?あいつら禁酒してるじゃねぇかよぉぉ!」
「禁欲生活してるのに、酒飲むわけ…ねぇだろう!!」
悪魔が顔を上げる。目がほとんどよどんでいて、完全に泥酔しているようだ。
「少なくともぉ、ここの酒はぁ、」
悪魔は指で床を指して力説しはじめる。指の関節も、人間のものよりひとつ多めで、爪は鋭くまるで黒曜石のような色合いだ。
「ここの酒ぁ、俺がっっ、おいしくしてん、のぉ!!」
そこまでいうと、悪魔は泣き始めた。どうにも、自分ががんばって酒の熟成を進めているのに、それを「天使の取り分」といわれることが心外でしょうがないらしい。悪魔いわく、物理的に酒を飲んでいるわけではないそうだ。悪魔がその手ですくって酒の角を飲むごとに、樽の中の酒のエッセンスが凝縮されて、甘美になるという。悪魔のもたらす魅惑が、酒に溶け込むのだ。それにしても、ひどい泣き上戸である。
数年前からお酒に弱くなっちゃってね。でも、いい子でしょ?
と、猫がいう。蒸留所のオーナーが、大きな大きな樽を新設して、そこに大量の酒を仕込んだものだから、それをおいしくするため、悪魔は必死で酒の角を掬いとって飲み干しているようだった。
「飲んでもぉ、飲んでもぉ、……減らねぇ!!!!!」
そう絶叫すると、悪魔はそのままばったりと床に伏せて動きなくなった。非常に心配したが、大きないびきが聞こえてきて、ちょっと安心する。すると、猫が倒れている悪魔のわき腹をまさぐって、いびつな形のマグカップを取り出した。ステンレス製っぽい素材でできていて、よく使い込まれているのか、大きくへこみがある。
ね、アナタ、このカップで悪魔ちゃんのお手伝いしてくださる?
このカップで飲めば、人間でも「天使の取り分」を作るのよ。
悪魔ちゃんたら、すごく責任背負い込むタイプなの…。
どうか、悪魔ちゃんとお友達になって、手伝ってくださいな。
美しいラベンダー色の猫に懇願されては、断ることはできない。それに、完成前とはいえ、質のよい酒を大量に飲めるのであれば、こちらこそ大歓迎である。さらにいえば、この悪魔を手助けできることもうれしかった。カップを手に取ると、猫に導かれ、大きな樽の反対側に回る。樽の側面に、光をランダムに放つ、わずかな隙間があった。
カップをそこに当てると「酒の角」が出てくるわ。
それを飲んで頂戴な。
いわれたとおりにすると、カップの中から湧くようにして、琥珀色の液体が溜まっていく。これが「酒の角」か、確かに非常に強いアルコールの香りがする、消毒液のような刺激のある香り。ウイスキーだ。樽の反対側から、悪魔のいびきが聞こえている、眠る功労者にカップを掲げその栄誉を称えてから、口をつけた。
オキシドールを飲んでいるような強烈な香り、舌も喉も瞬時に痺れてしまい、喉の奥にある心臓が一気に鼓動を早めて、胃の底から燃え上がる。以前、アイラ島のものを飲んだが、消毒液を飲んでいるような、そんな感覚に襲われた。飲みにくいものほど、ピーティーゆメディシナルが強いといわれている。ピーティーとは、蒸留の際に使用される泥炭のことだ。香りの中でも、メディシナルが強いと、名前のとおり、薬品くさい。日本人だと、正露丸の香りに似ていると感じるかもしれない。
こんな呑みにくいウイスキー、初めてだが、思えば、これはウイスキー本体ではなく、ウイスキーの「酒の角」だ。これを飲むほど、熟成が進み、ウイスキー本体はうまくなる。わざわざ飲まないといけないのが理解できないが、とにかく、カップの中のものを全部飲んだ。
はい、がんばって、もういっぱい。
猫が無責任に足元からあおってくる。意識は素面だが、体が既に平衡感覚を失っている。
意識はっきりしているから、まだ大丈夫よ!
なんて猫だ。彼女がやたら煽ってくるので、意地になってもういっぱい飲んだあと、とうとう立てなくなったので、床を這いながら、元居た通路まで戻った。そのころには、悪魔は目が覚めていたらしく、這い蹲って戻ってきた私を、くすくす笑いながら迎えてくれた。
「ひどい猫のお嬢さんだろ?でも、アンタ、二杯も飲んだな、立派立派。」
「カップ洗わないと…」
「あー、いい、気にするな。」
そういうと、悪魔はカップを持ったまま、大樽の上へ飛んでいき見えなくなった。猫はいつの間にか姿を消していて、大樽にもたれかかってぼんやりしているうちに、猫に連れられた同僚たちが駆けつけ、私を事務所まで運んでくれた。どうやら、私が倒れたのを見て、慌てて助けを呼びに行っていたらしい。
同僚たちは何も言わないが、みんなにやにやしている。どうやら、みんな新人のころに、猫の勧めで悪魔の手助けをして、倉庫でぶっ倒れた経験があるみたいだ。思い出した。そもそも、私がこの職場に就職したのは、「テイスティング」のためだ。テイスティングなんか、完全に技術職なのに、オーナーからは、「君はただ飲むだけでいいから」と不可思議なことを言われていたんだった。
二杯が限界の私より、もっと適した人物が他にいると思うが、就職してしまったんだから仕方がない。これから、毎日、猫と蒸留所内の害獣駆除をして、悪魔と一緒に「酒の角」を飲み、ここの酒をおいしくする手助けをしないといけない。
少し肝臓と腎臓の具合が心配になってきた。
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