第4話 お遣い
こんな夢を見た。
風雨に晒され、木目が浮き上がった古い柱が、格子戸の間から見えた。頭の遥か高い位置から、御鈴のガラガラとした音が鳴って、拍手がパンパンと聞こえてきた。少しだけ頭を上げて、格子の間から戸の外を覗いてみると、1人の男が何かを一心不乱に祈願しているのが見えた。何か大事なお願いごとなのだろうか、長いこと手を合わせていたかと思うと、彼は涙を拭いながら足早に立ち去っていく。つぎはぎの着物を着た、貧しい町人の男だ。
刻は夕暮れ。どこからともなく鐘が打たれる鈍い音が響いている。格子戸にかけた自分の手を見た。白い毛に覆われた、獣の前足がそこにあった。猫のように丸く柔らかではない、犬のように厚く頑丈ではない。キツネの前足だ。
私は、白いキツネで、小さな小さな神社の社の中にいる。
振り返ると、ご神体だろう、すこし曇った鏡が飾られていて、その祭壇の前に、キレイな紫と銀糸の編み紐で結ばれた巻物が、鏡の前に置かれている。古い隙間風すら入り込む社の中で、この巻物だけが立派だから、浮いて見える。
陽はなおも傾き続け、隙間風が入り込む一番大きな板の隙間から、斜めに夕陽が入り込んだのを見ていると、この巻物を大社へ届けなければいけないという使命感が湧いてきた。私の存在理由がそれなのだ、と確信できるほど。
祭壇にある巻物を咥えて、格子の隙間からするりと外に出る。格子の間なんて、人の指一本も入らないぐらいなのに、私は巻物を加えたまま、なんなく通り抜けることができた。足の裏には、がさがさとした境内の敷石の感覚がある。うんと小さい頃、裸足で踏んだ裏庭に石に良く似た、冷たいけどすぐに温まるような感触だ。
ひとたび地面を蹴れば、まるで体は鞠のように跳ねて空中に上がる。小さな境内を囲む椿の木をなんなく飛び越え、夕暮れの町の屋根をと降りた。見えるのは、長く続く長屋の粗末な屋根。瓦なんてない、板の上に石を重石代わりにしているような、そんな貧乏長屋の屋根だ。遠くに白壁の裕福そうな町並みが見え、遠くの山々の上には、既に一番星が光り始めている。
あの星の真下にある、立派な大社に巻物を届けなければならない。ぼんやりもしていられなかった。夜になってしまえば、多くの参拝者の願いごとをしたためたこの巻物を狙って、何かよくないものが追ってくる。それは、巻物を奪うことで、氏神さまに人の願いごとが届かないようにすることに夢中で、社から社へ移動するお遣いたちを狙っている。
私が夜間近まで社の中に居たのは、先ほどの男が祈願しにくるのを待っていたから。
そうだ。
そうだ。
あの男の恋女房が患って、病気の回復のためにここに熱心に祈願しにきていたんだった。確か、まだ独り身の頃は、今の恋女房と夫婦になれるように、恋の成就を願ってここに通っていたんだっけ。だから、あの男のことはよく知っている。気持ちの良い男だから、氏神様も彼の祈願を受け入れてくれる。
女房が患ってから百日目の今日まで、毎日通っていた男を待っていた。何があったのか知らないが、男はいつもの刻限には来ず、さきほどずいぶん遅れてやってきた。待っていて良かった、男は百日参ったぞ。
長屋の屋根を大社に向けて走り出す。知らない町のようで、何百年も知り尽くしている不思議な感覚に包まれながら、自分でも驚くような速さで、人の頭の上を走りぬける。
いくら奴でも、私の足には敵うまい。巻物だけは絶対に取られてはいけない。たくさんの人が不幸になるから。白い漆喰の瓦の上を走りながら、耳だけで周囲の様子を探る。漆喰の町並みから大社の間には、大きな池が横たわる龍神の社があった。私がいる社よりずっと立派で、氏神様の大社にも勝るに劣らない。町の人たちは、ここの湧き水を病を治す霊水として大切にしている。
漆喰の屋敷の端から、龍神の池を飛び越えるために大きく跳ぶ。いつもならあっという間に越える池であったが、視界の端に映ったものに気をとられて跳んでいる最中に体勢を崩してしまった。
池の近く、湧き水のところに、あの男の姿が見えた。徳利に湧き水を移しているのが見える。たぶん、女房に飲ませるんだろう。しかし、男の背後にもう1つの人影が見えたのだ。それは真っ黒で、頭の形から髪を結い上げた女のように思えた。とにかく真っ黒すぎて、何者か判別できないほどだ。
女の影から素早く何かが伸びてくる。それは人の手だ。女の影が片方の腕をこちらに長く伸ばしてきた。跳んでいる最中の私は、池の空中で4本の足をバタつかせたが、どうしようもなく、女に左の後ろ足を捕まれ、そのまま池の中に落ちてしまう。
ちゃぽん、と池の水面が波紋を描いた。
「そのまま、底までおいで。」
低く穏やかな声が池の底から聞こえてくる。後ろ左足を掴んだままだった女の黒い手の輪郭がほどけて、ゆっくり池の水に溶かされていく。
「送ってあげようね。」
水を通して全身を振るわせるような、重厚な声は、池の底にある白い曼荼羅の中から聞こえているようだった。冷たい水が、全員の毛の間から入り込んでくる、巻物を咥えた口の端からも入り込んでくるが、決して不快なものではない。清められているような、そんな潔いものだった。
四本足で水底にゆっくりと降り立つと、曼荼羅から、ぶくぶくと泡があがりだし、私の腹をくすぐりだした。激しくなった泡とともに、そのまま勢い良く水面まで打ち上げられ、そのまま何かに空中まで持ち上げられていく。
「巻物を落としなさんなよ。」
水柱はそのまま夕暮れの通り雨となり、町や、霊水を汲んで帰る男に優しく降りかかる。男は雨も気にせず、小走りに長屋へと帰っていくようだ。あの影の姿は雨に溶かされたのか、見えなかった。風はそのまま山の中にある大社のほうへ私を押し流し、夜の大社へ降ろしてくれた。
ああ、ありがとう龍神さま。
何度も虚空に頭を下げる。龍神さまのお姿は見えないものの、あの重厚な声だけが聞こえてきた。
「あの男は百度来た。百度来たんだぞ。」
龍神さまは嬉しそうに繰り返すと、池のほうへ戻られたようだった。私は濡れ鼠となっているが、大事な巻物は乾いたまま一切濡れてなどいなかった。体を震わせて水気を飛ばし、大社の中へと入る。大社の格子は私の社と違って、漆喰で塗られているし、廊下も毎日磨かれている、その中に泥だらけで入るのは憚られたが、大社の社の中で、氏神さまが巻物を待ってうろうろしているのが感じられた。汚れているのが申し訳なくて、格子戸に前足をかけると、びっくりするような力で格子戸の中へ引きずり込まれた。
いつか嗅いだことのある、本物の白檀の香りがする。温かい空気が私の頭を撫で回して、私が運んできた巻物が口から離れていく。
「百度参ったのか、ああ、そうか。」
全身が重しを置かれたように重くなり、温かい空気に撫で回されるがまま、社の隅で丸くなる。誰か別の者が、私の左後ろ足をしきりに揉んでいる。少し痺れているから、ありがたかった。
明るいもんだから、急に目が覚める。朝。大社の砂利の上を、宮司だろうか、老齢の男が掃き掃除をしている音が聞こえる。見ていないが、そうであることがわかる。昨日、巻物を届けた後に、そのまま眠ってしまったようだ。塗りの格子戸から外に抜ける、歩いて気づいたが、非常に歩きにくい。人間でいうところの脇、その脇の間の毛の量が妙に増していて、ごわごわして歩きにくい。よく見れば、粗末な白いキツネだった自分が、異様にふわふわした綿のような毛に包まれた白いキツネに変わっていた。昨日寝入ったあとに、櫛で梳かれたのだろうか、とにかく、もこもこしすぎて歩きにくい。
大社に一礼して、町へ歩き出す。龍神さまの池に行き、改めてお礼をいい、漆喰の町を抜けて、自分の社がある貧乏長屋まで行くと、あの男が痩せた女を連れて、朝の光に当たっているのを見つけた。ドブ板の上から跳ねて、長屋の屋根に登り、2人を覗き込む。
長屋の女将さんたちが出てきて、大丈夫か、とか、ようやく良くなったね、などと、男の恋女房の回復を喜んでいる。本復とまでいかないが、きっとこれからもっと良くなるだろう。私がちゃんと神様にお願いを届けたからね。
女将さんたちの中に、1人若い女がいるのを見つけた。あの時、私の足を掴んできた黒い影の女だ。髪の形ですぐにわかった。女も、「よかったね」と言っているが、その腹の中ではまったく違うことを考えているのがわかる。横恋慕か?横恋慕しているんだな?男の恋女房の病気も、お前の仕業だな?
足を掴まれたことも思い出して、ムカムカしてきたので、屋根から下りて、女の左足に噛み付いてやった。女はギャッと小さく叫ぶと座り込んだが、少し足を捻っただけだといって朝の井戸端に戻っていく。
夜に女が何かを願いに来たが、私は聞き届けない。もう一度、左足を噛んでやった。あいた、と言って女は去っていった。社で横になったときに、ふと思いついた。
ああ、これが呪いが返るとかいうものだ、と。女は呪ったときの穴2つのうち、自分の背後に開いた穴に落ちたのだろう、と。最初の呪いはどこで叶えたかわからんが、これで氏神さまは二度とお前の願いなんか聞いてはくれない。私の社に来るたびに、左足に噛み付いてやる。
この後、私の粗末な社に、瓦が葺かれた。
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