第4話 初めの一歩

みゆきちゃんが家に来た日の夜、三人でエオンモールに行き、早めの誕生日プレゼントとして、ラグビーボールとキックティー、そして通塾用のリュックサックを購入し、エオン内のレストランで夕食をとった。そして、パパにみゆきちゃんから聞いたことをそのまま話して、みゆきちゃんがお奨めしてくれた塾を両方見に行くことにした。これはママ担当な、と丸投げされた感は否めないが、また何かあったらみゆきちゃんを頼ろうと心に決め、春樹の手前ぐっとこらえた。

そして『常進会』と『灯台舎』、ふたつの塾の体験講座に申し込み、休日を利用して春樹を連れて参加した。みゆきちゃんから話を聞いた時点で、かなり違うとは思っていたけれど、実際に訪れると尚更それぞれの違いをひしひしと感じることが出来た。『常進会』は壁に「常陽第一合格」と書かれた垂れ幕を掛けていて、卒業生と思しき子ども達の寄せ書きがしてある。先生たちも、みゆきちゃんと同じく溌溂として元気な人が多かった。一方の『灯台舎』は、アットホーム感がある内装で、壁には『Tにゅーす』と書かれた、勉強法や生活習慣についての読み物が掲示されている。先生たちも私服に近い装いで、お兄さんお姉さん感があり、いつでもすぐに話しかけたくなる雰囲気だった。

本人の希望と自分の見立ては一致して、『灯台舎』にお世話になることに決めた。一度パパにも話を通して、後日改めて電話をすることにした。

「…ねぇ、パパ聞いてる?」

「ん?あぁ、塾決めたんだろ?良いんじゃない?春樹がそう言うんだから。」

「まぁパパがそう言うならいいけど。でもパパ最近、ちゃんと話聞いてくれないよね?みゆきちゃんが来てくれた時もどっかいっちゃうし。」

あまりにも適当にあしらわれそうになったので、口をとがらせて小言を言う。

「だって、ママ担当って言ったじゃん。」

「担当って何よ。クラス委員じゃないんだし…受験の事、私と春樹だけの問題にする気?」

「うるさいなぁ…大体、ママの方こそ、この前一緒にエオン行こうって言ったのに勝手に独りで買い物行って、その上夕飯とか手ぇ抜いたじゃん。」

「は?そんなことで…」

呆れた。もうパパは放って置こう。イライラする気持ちを抑えながら、寝室に籠りスマホから塾に電話をかけた。


『お電話ありがとうございます。灯台舎です。』

「もしもし、えっと、無料体験講座でお世話になった小5の中島と申します。冬期講習の件で電話したのですが…」

『かしこまりました。ただ今Tゼミ担当に繋ぎますね。』

保留の電子音が流れてきた。スマホを持つ手が震える。こんなに緊張するなら、パパと喧嘩なんかしないで、落ち着いて電話するんだった…と後悔した。でもそんな間もなく、向こうから声がした。

『お電話ありがとうございます。Tゼミ担当の高田です。』

「あっ、えっとお世話になります…」

『小学5年生、中島春樹くんですね。』

「はい…体験講座に参加させて頂いて、引き続き冬期講習を受講したいと思ってお電話しました。」

『冬期講習ですね。御継続どうもありがとうございます。まずは手続きと、学力テストがありますので、再度お越しいただいてもよろしいでしょうか?』

「えっ!?テスト、あるんですか!?」

テストがあるなんて聞いてない!驚いて変な声を出してしまった。春樹は大丈夫なのだろうか、さっきとは別の意味で手が震えた。

『大丈夫です。講習前のテストは選抜ではなくて、塾に入る前にどれくらいのレベルでいらっしゃるのかこちらが把握するためのものです。落ちる試験ではありませんのでご安心ください。』

「そ、そうですか…」

『国語と算数の2教科で、計1時間半くらいなのですが、今週の土曜日の午前中はいかがでしょうか?』

「大丈夫です。お願いします。」

『それでは筆記用具をご用意いただいた上で、父兄の方と春樹くん本人揃って10時にお願いします。』

「わかりました。ありがとうございます。」

『こちらこそ、どうもありがとうございました。土曜日、お待ちしています。』

「ありがとうございます。それでは失礼します。」

通話終了後も、切れた電話を見つめていた。マズい。これは非常にマズい…。

テストあるなんて聞いてなーい!どうすんのよみゆきちゃん…。

大きなため息をつく。でも…先生も落ちるテストではないと言っていた。その言葉だけを信じて、春樹を連れて行こう。ママはそう心に決めた。


「ほらっ!起きて!テスト遅れちゃうよ?」

少々大袈裟ではあるが…決戦の土曜日、春樹を叩き起こして朝ご飯を食べさせる。春樹がぐずぐずしている間に、久々にドレッサーからピンクの口紅を取り出して、唇に馴染ませた。かつて銀行員だった頃、仕事帰りに一目ぼれして買った、外国ブランドのベージュピンク。これをつけると、なんだか背筋がシャキッと、表情が明るくなるような気がして、今でも大切に使っている。そして車に乗りこみ水戸まで向かった。9時20分。塾までは車でおよそ30分。十分余裕をもって到着できそうだ。起きた時は眠いだのなんだの言っていた春樹だったが、車に乗る頃には、テスト大丈夫かなぁーなんて不安を口にしていた。自分の心を奮い立たせたように、春樹にも落ちるテストじゃないんだからと発破をかける。でも多分、春樹以上にママの方が不安だった。ぼうっとして青信号で出遅れて、後ろからクラクションを鳴らされた。

まだフィールドにも立ってないんだから!冷静に、冷静に…。


無事に塾の裏手の有料パーキングに車を停めて、二人で構えの立派なビルに入った。無料体験の時には感じなかったけれど、石造りの内装が、ひんやりと威圧感を放っていた。

5階、Tゼミの受付に入る。すでにもう、何人かの生徒が来ていたようで、すぐ隣の教室に案内された。春樹はそのまま別の教室に案内されていった。

しばらくして、グレーのスーツを来た男性がパソコンを持って入室してきた。

「父兄の皆様、本日は学力テストに来ていただきましてありがとうございます。Tゼミ担当の高田と申します。」

電話に出た、あの先生だった。痩身、色白で、髪をオールバックに撫でつけている、優しい雰囲気の男性だった。

「本日は、お子様がテストを受けている間に、簡単ではありますが当塾と講習の説明、そして受講手続きを行います。最初の30分程度で説明会を行い、そしてその後順番に別室で手続きを行います。その間こちらの教室は控室となりますので、資料などはご自由にご覧下さい。」

すらすらと澱みなく、先生は話し始めた。

説明会の内容は合格実績や指導方針、そして今日の学力テストのこと、最近の子供たちの傾向といったものだった。そして一人ずつ、名前が呼ばれて、別室で申込用紙を記入して、コース内容に合わせた振込用紙を貰い、再び元の教室に戻って来た。座って待っている父兄の方が多かったので、あまりうろうろせずに近くにあった教育雑誌のバックナンバーを読んで、終わるのを待っていた。

11時30分を過ぎた頃、教室の外で子供たちの話し声が聞こえてきた。そして高田先生が再度入って来て、本日はこれで終了です、と挨拶をして解散となった。

廊下で春樹と落ちあい、塾を後にする。試験が終わってしまうと、お互いにあっけらかんとお腹空いたね、なんて話ながら帰った。


家に帰ってから、ごろごろしていたパパを起こし、急いでお昼ご飯を作って食べさせた。春樹はお昼を食べるとすぐに、クラスの友達の家でゲームをするからと自転車に乗って出かけてしまった。

そして、春樹が出かけたのを見計らって、リビングでテレビを見ているパパに話しかけた。

「パパ、ちょっといい?これお願いしたいんだけど…。」

「…何?」

塾でもらった振込用紙を差し出した。

「受講料。3万5千円だって。」

「高っ!まじか…」

「高くはないわよ。むしろあれだけ手厚くやってもらえたら安いくらいよ。授業料が2万5千円、テキストとテストがそれぞれ5千円。この辺の相場よりは安いかな。」

「…」

言葉を失い、手渡した振込用紙と自分の顔を交互に見つめていた。

「お願いしますね。振込が確認できたら、受講案内を郵送してくれるっていってたから、できたら今日中がいいかなって。」

「…お前さ、こういうのは、まずは俺に言ってから申し込むべきじゃないの?」

「ママ担当って言ったから、私が春樹に合うと思った塾に申し込んだんだけど?」

「…」

再び、パパは言葉を失ったようだ。それを見て、心の中で小さくガッツポーズをした。

「担当制じゃなくて、やっぱりお金かかることは二人でやるべきじゃない?どの道お金もかかるし、ケチってられないけどさ。綺麗事かもしれないけど…。なにより、初めてのことで私自身が不安だし。」

「わかった…わかったよ。」

「この年末の忘年会、二次会までで帰ってこようね?」

「…ハイ。」

「わたしもさ、洋服とか我慢する。だから、春樹の入学式の時は、三勢丹で買い物しよ?それまでは贅沢しないから!」

「おう…。」

にっこり笑顔を見せると、パパは引きつった顔を見せた。


その夜、淑子お姉ちゃんに電話をかけた。

『もしもし?』

「もしもし、おねえちゃん?」

『どーしたの?』

「春樹の塾、決めたから一応報告で。みゆきちゃんが紹介してくれた『灯台舎』のTゼミに申し込んできたんだ。」

『そうなの?おめでとう。』

「ほんと、みゆきちゃんには感謝してるよ。あんなにお姉さんになったんだね。まず車運転しててびっくりした!」

『あっという間よ?春樹くんだって。私の中では七五三の時の印象が強いのに、もう受験とか言い始めてるんだもん。』

「お互いさまね…」

『でも、アンタが気合い入れ過ぎて、春樹くんにプレッシャーかけちゃだめよ?』

「う、うん…」

『ま、中学受験は親で決まるっていうけど。』

「えっ!ちょっと、おねえちゃんが私にプレッシャーかけてるって!」

『ふふっ。なんでもそうなんだけど、二度あることは三度ある、とも言うし、三度目の正直ともいうじゃない。どう思うかは自分次第。アンタは人の言うことに流されやすくて、周りの反応を気にしすぎるとこあるから、それだけは気を付けなよ?』

「…はーい。」

『じゃあね、いつでもみゆきのこと貸すし、私も力になれるよう頑張るから。』

「うん。おねえちゃんありがとう。」

もっと、話したいことはあったのだけれど、でも結局おねえちゃんの指導が入って終わりになってしまった。でも、ひとまず、春樹の冬期講習へ一歩前進したし、パパにも苦言を呈したし、おねえちゃんにお礼出来たから、今日のところは良しとしよう!

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