第8話 最後の一手

 目を覚ますと、私は天国だか地獄だかにいて、そこで多季さんと再会した……なんていうことはなく、普通に生きていて、覗き込む父のひげボーボーでむさ苦しい顔があった。寝覚めが悪いことと言ったら。

 脇に目を遣ると、冬馬とその他見たことのある顔ぶれがあった。彼らは別の船に乗るサルベージャーだった。

「おい、冬海」

父が最初に口を開いた。

 今更ながら、私は叱られるのだと気付いた。彼が言った事をきちんと守っていさえすれば、こんな事態にはならなかったのだ。

 私は軽く身構えようとしたが、身体に力が入らなかった。父は続けた。

「大人しく船にいろって言っただろう?」

叱責するような口調ではなく、仕方ないと諦めているような、そんな風だった。

「お前は妙に大人びてると思ったら、時々こんな子供っぽいこよをしたりするよな。冬馬だってしないぞ、こんな無茶なこと」

私は少し恥ずかしくなった。

 少し微笑って、「冬馬はしないんじゃなくて……できないのよ」

泳げないからとは、敢えて本人の前で言わなかった。

「え? 僕がどうしたの?」と彼は尋ねてくるが、私も父も苦笑するだけで答えようとしなかった。

 やがて冬馬は諦め、少し口を尖らせ黙り込んだ。父は笑いを収めて、言った。

「お前、死ぬところだったんだぞ。超振動ブレードの刃に触れて、その振動に巻き込まれたんだ。その挙句、酸欠になってだなぁ……」

「お父さんが助けてくれたの?」

「いや。助けたのは、お前が作業を邪魔しようとしていた鉄鋼の男だ。全く、恥ずかしいだろう?」

その通りだったので、何も答えられなくなって、私は視線を外した。

 部屋中が妙な静けさに包まれた。誰も何も言う必要はなく、また、何をする必要もなかった。それなのに、ベッド脇に立つみんなはそこを離れて、鉄鋼の妨害に行くこともなかった。

 私はそれが気になって、真っ直ぐに尋ねた。

「潜りに行かなくていいの?」

別の船のサルベージャーが溜め息を吐いた。

「もう、何もすることがないんだ」

彼はそう言って、窓の外に寂しげな目を遣った。

 そこにはちょうど、鉄鋼の船が写っていた。船はずっと遠くにありながらも、次々に海底から鉄資源が引き上げられている様子がよく見えた。そういうことかと、私は悟った。

 もう、守りきれない。それをみんなが知っているのだ。

 しばらくして、ぼちぼちと人が部屋から出て行き、最後に私と父の二人だけになった。

「私たちの負けね」

ボソリと呟くと、思っていたよりもその声がしっかりしているのに自分でも驚いた。父は何も答えないで、じっと窓の外、鉄鋼の船を眺めている。

「もうわかってるんでしょう? 何もできないって」

その通りだと、動かない横顔が言っているようだった。

 彼もまた、悟っている。だが、彼は悟っていながら、その悟りを拒否した。こう言ったのだ。

「なあ……。この船、沈めてもいいか?」

「馬鹿なこと言わないで」

間髪入れずにそう言ってやった。

「あ、いや、絶対沈むとは限らねーんだ」

「どういう……」

尋ね掛けて、私は途中でその考えが理解できた。

 実に単純だった。父はさらに言う。

「どうしても、あと一つあるんだよ。俺が見たところ、重要そうなものが」

「そんなの分かるの?」

「確か昔、あれと同じものを見て、多季が興奮してたんだよな」

「多季さんが?」

彼の鋭い視線が一瞬、冬海を捕らえたが、すぐにれた。

「あの時のものはかなり痛んでいたからな、あとで落ち込んでいた。それと同じ、いや、見たところもっと状態のいいものが、堆積物の下にあった。アイツら馬鹿で目先の事しか考えねーから、ああいう面倒臭そうなものは最後に手を付けるだろう。まだ無傷でいる可能性は高い」

彼の呟くような声量は、少しずつ大きくなっていった。

 積載量の限界を超えて積荷を載せる事は非常に危険だ。一般に、登録されている数値よりある程度多く載せることができるが、今回ばかりは、本当の意味での積載量限界になっているのだから、尚更だった。

 しかし、心情的には、父の言いたいことも理解できた。それどころか、一瞬私は冷静さを欠いて、その考えに便乗したいとさえ思った。

「でもね、もしもこの船が沈んだりした場合、せっかく今まで頑張って引き上げたものも全部、鉄鋼に持っていかれてしまうのよ? それどころか、私たちの命だって……冬馬なんて泳げないんだし」

「ああ、お前の言うことは全部正しい」

彼はそのまま黙り込んだ。そして、視線を外へ投げ掛けた。

 依然として、鉄鋼業者たちの作業が遠くに見える。それを見ながら、彼は唇を強く噛み締めていた。彼の心の中では、現在のみならず過去までもが去来しているだろう。

 私は、目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。溜め息なんかに聞こえないように。それから、私は口をはさんだ。

「この船の船長は誰? このサルベージのチーフは誰なの?」

「ん?」

父はこちらを向いた。そして、少し考えて「俺か」と、短く言った。

「でしょ? 誰もあなたの決定を覆すことなんてできないのよ。少なくとも、今、この海域では」

私は敢えて、我が父の呼び名を『あなた』なんていう風に変えた。そこには様々な意味があった。まず、今回の仕事を通して私は、父が仕事上の上司であり、十分に信頼できることを何度も実感していたからだ。娘としてではなく、一人のメンバーとして忠告したのだ。

 もう一つは、単純だ。多季さんの口調を真似てみたのだ。多季さんは父に何かを意見する時は、彼に自ら想起させるよう、遠回しにものを言った。そうした方が、彼はよりモチベーションを高めることができたのだ。

 父は、私の口調がそんな風に変っていたのをそれほど頓着しないのか、あるいは全く気付いていないようだった。

「そうだよな。俺はこれが正しいと思っているんだ。そうすべきなんだよ、うん」

 早速、父は操舵室へ向かい、近辺の海図を持ってきた。そこには赤色のインクで○や×、□、△など様々な図形が描かれていた。そのうち、海図の右下の方に描かれた△を指差して、言った。

「この辺りだ」

「大きさは?」

「あんまり大きくもないが、三点で支えるに越したことはない。冬海、この事を……」

「わかってる。お父さんは早くダイビングスーツになって」

私は海図を元に、その他の船が向かうべきポイントを割り出し、それを伝えた。

「了解」という爽快な返事の後数分、二隻の船が動き出した。二隻だった。私達が乗る船を含めて。

 やがて、今回の仕事を通してC船と呼ばれている船から通信が入った。

「うちの船のスクリューがダメだ」

「え? どういうことなの?」

「スクリューが破損しているんだ。これではもう……進めない」

「スクリューが破損なんて、座礁したのでもなけりゃ壊れたりしないでしょう? まさか、鉄鋼が?」

「そんな証拠もないんだ。今は、誰がやったかなんてこと、問題じゃないだろう?」

「ごめんなさい、父さ……チーフにこのこと伝えてくるから」

私はその場を離れ、海へ飛び込もうとしているチーフを呼び止めた。

「どうした? 冬海。トラブルか?」

「そう、トラブルなの」

 私はスクリューの件を話した。てっきり鉄鋼への悪態が飛び出るかと想像していたが、以外にも冷静だった。そして、顎に手を当てながら深く考えていた。

「これは、あの手を使うしかないな」

迷いを帯びた声が、静かな海上にやけに重く響いた。

「あの手って?」

「二点で中心付近を引っ張るんだよ」

「そんな事が出来るの?」

「ああ、昔やった事がある」

彼は遠い目をして、溜め息を吐いた。

「その時、多季さんは?」

私は鋭い視線を父の目に遣った。

「もちろんいたさ。この案は、多季の案だからな」

無茶な父が即興で考えたというよりは、遥かに安心できた。

「けどな、問題がある。あの時は随分時間を掛けたんだ。どの二点で支えるかを決めるのに陸で一時間、海の中で二時間、合計三時間掛けた。今回は、陸での検討はなし。実地で決める。それでも二時間は掛けられねー。せいぜい一時間だ」

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