第6話 母の夢

 一刻も早く連合支部へ向かうために、最速の船が選ばれた。それは、リカルド先生等を乗せてきた研究母船だった。この船に少数員が乗り込み、風よりも早く海上を走らなければならない。

 先生は出発前に三月を貸して欲しいと言った。理由はエンジニアが不足していたからだ。航海をする上で、エンジニアは、いくら乗っていても困ることはない。増して、彼はそこらのエンジニアよりもよっぽど優れていた。

 誰の異存もなく、三月は研究母船に乗り込んだ。いや、一人だけ不機嫌そうな顔をした人物がいたことを、私だけは知っている。冬馬だ。彼は三月と一緒に行きたかったのだろう。

 けれども、それを口に出すことは一度もなかった。生来の人見知りがそうさせたのか、それとも他の理由があるのだろうか。

 乗員が決定し、彼らが全員乗り込むと、迅速じんそくに船は出発した。一方残された大多数は、私の父を中心にサルベージを続けることになった。彼に考古学的な専門知識はないが、これまでつちかってきた経験から、どの遺産が重要なのかそうでないのかが分かるかもしれないと、その与太にも似た不確かな感覚に従がって作業が進められる。

 実際の作業に入る直前、父は私と冬馬を呼んだ。そして、これから私たちが守ることになる海底遺跡について、語った。

「この海の下にある遺跡はな、陸地が沈んでしまう直前の時代の遺跡だと考えられている。鉄筋コンクリで出来た百メートルを軽く越える程巨大な建造物が所狭しと建てられ、その間をきちんと舗装した道路が複雑に絡みあっている。そんな都市の遺跡だ。規模や、その保存状態なんかから見ても、かなり貴重だ。何としても、鉄鋼の奴らより早く、できるだけ多くのものを引き上げなくちゃならねー。わかったな?」

それだけ言うと、父はさっさと海に潜ってしまった。私は、要領を掴めずに呆けて口を開いたままの弟の両肩に手を置いて、彼と目線を同じくして言い聞かせた。

「冬馬、この時代の遺跡はね、あなたのお母さんが主に研究していたテーマなのよ。だから、しっかり守らなくちゃね」

「お母さんが?」

「そうよ。こういう遺跡に出会うのが、多季さんの夢だったの」

そう言ってから私は、思わず『多季さん』という言葉を使ってしまったことを後悔した。

 幸い、彼はあまり気に留めなかったらしく、「うん」と、爽快な返事をするだけだった。


 鉄鋼との本格的な争いが始まった。けれど、私にはその実感が湧かない。争いごとは全て海底で起こっているのだから。

 私はというと、船上でクレーンを下ろして上げる、その繰り返し。冬馬に至っては、本当に何もすることがないようで、甲板の縁で海面を何時間でもじっと覗き込んでいた。

 私は、また落ちたりしなければいいけどと、そんなことを危惧しながら次の合図を待っていた。

 作業自体は順調に進んでいたが、日の位置が高くなるに連れ、海上の気温は上昇した。

 また、同時に空腹感が浮き彫りになりつつもあった。海底で作業をしているダイバーたちは更にそうだろう。今度上がってきた時には食事を取れるように用意しておこうかと思った矢先、海底からの通信があった。

「冬海、引き上げてくれ」

「了解。食事どうする?」

「あ? 用意できてるのか?」

「まだだけど」

「無理はしなくていいぞ」

「そっちこそ。お腹空いてるでしょう?」

「そりゃあな。だが、食ったらしばらく潜れなくなるからな。やっぱやめとくぜ。って、そんなことより、早く引き上げろ。せっかく固定したフックが外れるだろうが」

「はいはい、了解」

私は他の船は通信を繋ぎ、引き上げを知らせた。

 三隻の船のクレーンが同時に唸った。そこへ、「お姉ちゃん」と、冬馬。

「何? 私、今、手が離せないんだけど」

「だからね、お昼ご飯作ろうか?」

「え? よく聞こえない」

実は聞こえていた。ただ、聞き間違いだと最初は思ったのだ。

「だからぁ、お昼ごはんを、僕が作るって言ってるの!」

「こんな時に冗談はやめてよね」

「冗談なんかじゃないよ! ホントだよ」

割と真剣な目をしていた。本気の本気なのだろうか。

「ちなみに、何を作るの?」

 まるで長年慣れ親しんだ自分の名前が、実は間違っていたことを突きつけられたかのような、実に意外そうな顔をした冬馬は、「え……あっと……」という具合に、言葉にならない声をその口先で踊らせた。

「じゃあ、何が作れるの?」

少しだけ質問を変えてみたが、依然として彼の様子に変化はなかった。やはりそうだ。彼は具体的なことを何も考えず、一つの目的に向かって団結しているみんなの役に立ちたいという思いにき動かされ、そう言っただけなのだ。

 そんな心情が、私にはうずきを伴って理解できた。幼い頃の私が、このナビの仕事を必死に覚えようとしていたことと共通する。

「冬馬」

私は弟の名を呼んだ。彼は、迷宮の中から突然助け出されたみたいに、明るい表情を向けた。

「今から書斎に行くのよ。そして、奥から四つ目の本棚の一番下の段にある、『簡単レシピ一〇〇』っていう本を持って来て」

「ええ? そんな急に言われても覚えられない」

「奥から四つ目の本棚、その一番下の段にある『簡単レシピ一〇〇』っていう料理本」

冬馬は口の中で何度か私の言ったことを反芻はんすうしていたが、やがて船室の方へ走った。戻ってきた時、彼はその手に目的の本を持っていた。

「持ってきたよ」

「うん」

私は本を受け取り、ページを捲り始めた。

 クレーンは依然として動き続けているが、まだあと数分はこのままの状態が続くだろう。

 数々の色せた写真は、どれも料理の完成品を映したものだ。この本は、あの書斎にある料理本の中では一番わかりやすく書かれていて、実際簡単にできる料理ばかりが載っている。私も昔はよく参考にしていた。

 私はあるページで、目線と手を同時に止めた。今、この船にある食材を全て満たしており、尚且つ簡単にできる。

「冬馬、これなら作れるでしょう? スクランブル・エッグ。いい? これの通りに作れば大丈夫だから。くれぐれも、余計なことをしようとか思わないようにね」

「わかった」

彼は私の手から本を受け取ると、それに目を通しながらゆっくりと船室へ向かった。

 その後、私の弟は見事にスクランブル・エッグを完成させた。潜れなくなると食事を断った父も、冬馬の作と知っては拒否などできなかった。

 食べ終わった後の父の目は、微かに滲んだ色をしていた。

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