嵐の海に眠る月影

第4話 三月の記憶

　あの時、クレーンを止めたのは三月だった。

「なんで止めたの」

私がそう尋ねると、「いけなかったの？」と答える。

「いけなくはないけど。どうしてわかったのかなって」

「何を？」

「クレーンを止めるタイミング」

彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔になった。

「偶然だよ。冬海の悲鳴が聞こえたから、外に出てみた。そしたら船がどんどん引き寄せられてるから、意味もわからず止めただけなんだけど」

「え？　私、悲鳴なんてあげてたの？」

「うん」

全くそんな自覚はなかったのだが。

　冬馬は水を飲んだことと、たった一人で海に落ちた恐怖から、気を失っていた。

「迂闊（うかつ）だったな、私」

不意に私は呟いた。

「何のこと？」

「ナビをすっぽかしたこと。あと少しで大事故になってたかもしれない。そしたら、この船だって……」

　その先のイメージを具体的に思い浮かべることは、結局できなかった。だが、その思い浮かべられない恐怖よりも私を苛（さいな）んだのは、父親に任せられていた仕事と責任を放棄（ほうき）したということだった。

　俯いた私の頭に、暖かな重みが圧（の）し掛かった。見上げると、三月の手が頭に乗っていた。そして、彼はこう言った。

「船なんかよりも、冬馬の方が大事だよ。絶対に」と。

　そう言った彼の顔は、私を安心させるのに十分な優しさを秘めていた。私の目に、薄っすら涙が浮かんだ。それらが流れ出すより早く、私は目許を乱暴に拭った。

「ねぇ」と、突然三月が口を開いた。

　そのときの三月は、遠くを見ているような視線で、冬馬を見ていた。

「どうして冬馬は泳げないの？」

私の脳裏に思い出したくない光景が、ほとんど反射的に浮かんできた。それを拭い去るため、私は頭を左右に強く振って、彼の問いに答えた。

「昔ね、溺れて死にかけたことがあったの」

少しだけ目頭が熱く、重たくなる。

「やっぱりそうか」

そう、三月は呟いた。

「何がやっぱり？」

「え？　ああ、泳げなくなる理由としてはよくある話だなって」

「そっか」

私の掠れた声を最後に、再び沈黙が訪れた。その間、三月は何か深刻な考えごとをしているように見えた。

　どれくらいの時間が流れたのだろうか。しばらくして、三月が咳払いをした。それは、私の注意を引くための行動だったようだ。

　私は三月に目を遣（や）った。

「ね、冬海。冬海は泳げるよね？」

突然な話題だったので、私はそれが何でもない質問だったにもかかわらず少しの間答えに困った。

「う、うん、もちろん」

「いつ頃から泳げるようになったの？」

「え？」

言われて記憶を遡（さかのぼ）ってみるが、そんなきっかけとなるような記憶など、結局見つからなかった。

「わからない。気が付いたらもう泳げた」

「そう。それが普通なんだよ。船上生活をする僕たちにとって、泳げないことは致命的だ。だから、必ず泳げるように、子供の頃から『あること』をするのが通例になっている。それがどういうものなのか、知ってる？」

「うううん、知らない。何なの？」

「海に、放り投げるんだ」

「え！　そんなことしたら死んじゃう！」

「ところが死なないんだ。生まれたばかりの子供はみな例外なく、泳げるんだよ。そりゃクロールや平泳ぎなんかはできないけど、犬掻きみたいな動きで、確かに泳ぐんだ。もちろん、誰か別の人が先に海の中で待っていて、絶対に溺れ死なないように気を付けているんだけど。冬海もそうされた筈だよ」

「へぇ、そうなんだぁ」

「物心付く前からそういうことをやっておくと、海への恐怖心が薄れて、自然に泳げるようになるんだ。冬馬もそうやってきた筈なんだ。だから、泳げる能力はあると思う。それが今は恐怖に遮られて出せないだけだろう」

「ふーん。でも、普段は海を怖がったりしてないみたいなんだけど」

「着水した瞬間に思い出すのかな」

なるほどと、私はそう思った。

　三月にも同じような経験があるのかもしれないと、そう感じさせた。そうすると、彼の記憶は戻ったことになる。

「ねぇ三月、記憶戻ったの？」

私は尋ねてみた。

「へ？　そんなことないけど。なんで？」

「いや、別に」

私の視線は遣り場に困って、冬馬の方を向いた。

「ね」と、突然、三月が口を開いた。

「泳げるようにしてあげない？」

「え？　冬馬を？　もう何度もそんなことしてるんだけど」

「もう一回やってみるんだ」

「何か作戦でもあるの？」

「まあね。今回の仕事が終わってからにでも」

そう言った彼は、自信在り気に明るく微笑（わら）っていた。

　気付かないうちに私は、昨夜の三月を思い出し、今目の前にいる彼と比べていた。私が目にする三月からは、近寄り難い雰囲気など少しも感じられなかった。

　昨夜のことを尋ねてみようとほんの一瞬思ったが、理屈ではない力に押しとどめられ、消されてしまった。