第三章‐1『むかしばなし』

  1


 少し薄暗い一室、そこに人影が二人。どうやら男と女が一人づつのようだ。


「あーあ、妬いちゃうなぁ。彼、女の子二人とプールとか、ハーレムなの? ハーレム系の主人公なの? なら、わたしも付け入る隙はあるよね?」

「知らんがな。にしても、なんで一緒に行かなかったんだ?」

「普通に一緒に居たんじゃダメなの。彼はいつでもあの子のことばかり見てるから」

「だからって見てもらうためにこんなことをするようじゃなぁ……ヤンデレ属性でも目指してんの? アナタが振り向いてくれないから、わたしはこんなことをしたのよ!? ってさ」

「なにそれ、意味分かんない。これは仕事だし。お金はすでに支払われているんだから、期待に応えないと死ぬじゃん、わたしたち」

「まぁ、そうだけどさ」

「てかアンタさぁ、彼にボコボコにされてやんの!」

「うっせー! あれは勝つためのモノじゃなかっただろうが! この前のことは、あくまでアイツの力を見定めることにある。その結果、アイツは間違いなくネクストだということが分かった。そして、その能力が《変質》であることもな」

「で、次はわたしが彼の力の限界を見定める、と」

「そうだ」

「てか、クライアントは何をしたいのさ。ネクスト狩りっていったって、わたしたちだってネクストじゃん? ネクストに協力を求めるとか意味分かんないっしょ?」

「勝ち目が薄い奴を相手にしないだけだろ。しょせん、奴らはそういう連中だよ。都合の悪い所からは目を背けて、都合のいいところだけ見てるんだ」

「勝ち目のある奴だけを狙う、ってことか。いじめっ子の発想だね」

「まぁ、そう言うな。金を支払ってくれているクライアント様だぞ」

「そうだね。変な感情は捨てておかないと。まずは仕事を終わらせることに集中だ」

「そうだ。じゃ、今回は任せたぜ」

「はいはーい。じゃ、いっちょやっちゃいますよ」


  2


「どうしたの、ジャージなんか着ちゃって。暑くないの?」


 咲楽さくらはジャージを着こんでいる結城を見てそう言った。


「ちょっと冷えちまったんだよ。別にいいだろ?」


 その本当の理由は言えない。まさか、海実うみの爪が食い込んで酷いことになったのでジャージを着て隠してます、だなんて言えるはずがなかった。言えばきっと咲楽は心配する。そしたらきっと悲しい顔をする。そんなことは絶対に許されない。

 無論、海実にも言えない。これはお前のせいなんだぞ、と言っているようなものだからだ。そんなことを言えば、この楽しい時間がきっと楽しくないものになってしまうだろうから。

 これは誰も悪くない。ただ、ちょっと隠さないと都合が悪いだけだ。


「ちょっと休憩しようぜ。西條も疲れてるだろうし」

「え、いや、その、あぅ、大丈夫、ですよ」

「時間はまだまだあるんだ。休憩しつつ遊ばないと、最後まで持たないぞ?」

「そうだよ海実ちゃん。あ、わたし飲み物買ってくるね。さっきはゆうくんに奢らせちゃったし、そのお返しに」

「そうか、じゃあ任せたぞ」

「あいあいさー」


 プールサイドのベンチに腰掛ける結城と海実。二人きりになったその空間は沈黙に包まれ、どことない気まずさが蔓延っていた。結城は海実には分からないくらいにチラチラと彼女を見るが、気づく様子はない。何か話して欲しいな、とは思っているものの、そんな勝手な思いは叶うはずはなかった。

 いざ、二人きりになると困る。今になって結城は咲楽の偉大さを感じた。まぁ、そんなことを本人に言うと調子に乗るので口には出さないが。


「あ、あの……」


 咲楽がいなくなってものの四〇秒ほどだろうか、ようやくその沈黙が破られた。二人して黙っていた時間は四〇秒とは思えないくらいに長く感じた。それは結城も海実も同じだった。


「……は? お、俺!?」

「はい、榊原せんぱい……です」


 向こうから話しかけてくれるとは都合がよかった。結城は安堵し、できるだけ優しい声色を意識して返事を返す。


「なんだ?」

「色川せんぱいと、榊原せんぱいって、いつからの知り合い、なんですか? 恋人、だったりしますか?」

「こ、恋人ぉ!?」

「え、違うんです、か?」


 海実が結構思い切ったことを聞いてくるものから、結城はついオーバーリアクション気味に驚いてしまった。まさか恋人と勘違いされるとは思いもよらなかったからだ。

 まぁ、いつも一緒に居て、仲良さそうにしていたら、傍から見れば恋人のように見えなくもないだろう。

 だが、それは違う。


「ちげぇよ。アイツと俺はただの幼馴染だよ」


 そう彼は言った。だが、これも本当は違う。

 榊原結城さかきばらゆうき、そして色川咲楽しきかわさくらは確かに幼馴染だ。家も隣同士、赤ん坊の頃から常に一緒に居た二人は家族とも言えるような間柄だ。

 ここまでの話ではただの幼馴染だろう。

 だが、その二人の間には、ただの幼馴染とは言い難いモノがある。

 そう、あれは小学五年生になった頃の話だ。


 榊原結城の母親、和穂かずほ自我境界線損失症じがきょうかいせんそんしつしょう――電脳病になった。


 彼女の場合、人格が幼児退行した。主婦としての仕事どころか、人としての生活がままならなくなった。専門の病院に入院し、治療を試みたが、電脳病の根本的治療方法は分からず、回復の兆しは見えなかった。

 父親の義嗣よしつぐは仕事をし、それが終われば病院に通う毎日。だから家に帰ることは滅多になくなった。幼児退行した母親の姿は、まだ子供である結城にはショッキングだと義嗣は判断した。だから、それから自分の母親の姿を見ることはできなかった。

 結城はおのずと色川家にお世話になることになった。

 そこには優しい咲楽のお母さんがいた。とても羨ましかった。元気で、子供のわがままを聞いてくれて、叱ってくれて、ご飯を作ってくれて。

 結城が失ったものすべてがそこにあった。

 当時の結城は人知れず泣いた。恥ずかしいから、誰にも見られぬように注意して。

 そして、それから一年の時が過ぎて――和穂は亡くなった。義嗣が言うには自殺だったようだが、詳しいことはよく分からない。多くは語ってくれなかった。

 今でも、本当に自殺だったのか、それとも他殺だったのか、真実は分からない。だから義嗣の言葉を真実として受け入れるしかなかった。

 母親が死ぬまでの一年間、家事なども少しずつだが覚えていった。咲楽の母親にいろいろと教わりながら、自分一人になっても生きていけるように。

 考えてみれば、そういうことを覚え始めたときから覚悟はできていたのだろう。近いうちに、自分は母親を失うということを。

 父親は仕事をして、自分は家の家事をして。

 少しずつだが、着実に色川家にお世話になることは少なくなっていった。いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。向こうは迷惑だとは思っていなくとも、時が経つにつれて居心地が悪くなってきたのだから、これは自分の問題であった。

 一人で生きていける。

 それは自分の中での強さだった。いや、ただの強がりだった。

 そして、気が付かない内に結城から笑顔は消え失せていた。

 その夢も希望もなかったとき、彼女はある約束をしてくれたのだ。笑顔を取り戻す、とってきの約束を。


(だから、今の俺がいるんだ。この恩を返さずして俺の人生は成就しない)


 あのときは本当にひどかった。約束をする前は、父親は仕事の忙しさから中々コミュニケーションが取れず、家族のふれあいがまったくなかった。だからだろうか、長い間一人でいることが基本になった結城は目は虚ろになり、喋ることすら困難になったし、学校も行かない日がどんどん多くなった。

 咲楽は気にかけてくれていたが、それに答えることもできない状態だった。

 だから彼女は強硬手段に出た。有無を言わせず、一方的に約束を押し付けてきた。

 それが結果的に結城のことを救った。

 そこからはどんどん回復していって、この七城市でもトップの高校に通うことができている。これも咲楽の助けがあったからこそだ。


「そう……ただの幼馴染だ」


 結城はもう一回、確認するように同じことを言った。

 だけど、その口調から何かがあるのだと海実にはバレてしまっていた。だが、彼女は何も気づいていないかのように振舞った。


「そう、ですか。ただの幼馴染……」


 海実は詳しくまでは分からないが、この二人の間に何かがあるのだけは理解できた。二人だけの秘密がそこにある。だけど、それを詮索しようとは思わない。この二人の思い出は、この二人の間だけで完結させるべきだから。


「おまたせー。飲み物買ってきた――」


 咲楽がジュースを持ちながら、小走りでこちらに向かっているときのことだった。

 このオーシャンリゾート中から、叫び声が上がった。


「な、なに!?」


 怯える咲楽と海実。結城はあたりを見回す、いや、見回さなくても一瞬で何が起こっているのか理解できた。


「なんで、なんでプールから湯気が……?」


 ここは温水プールじゃない。そもそも、この暑い日に湯気立つくらいの水温にするなんて明らかにおかしいのだ。いや、湯気立つのは温水になっているからじゃない。熱湯になっているからだ。

 ブクブクとプールの水が沸騰している。またも結城たちに非日常が舞い降りた。ついこの間の電車といい、今回のこのプールといい。


――考えてみろ、今回のこの事件の犯人に顔を知られていたんだぞ? それにその犯人は未だ逃走中。この状況で電脳世界をのうのうと歩くのはあまりにも危険すぎる。


 父親の声が脳内で流れる。


(んなわけあるかよ。今回の事件も俺が関係してるってんのか? ふざけんな!! 電脳世界だろうが現実世界だろうがカンケーねーじゃねーか。いったい、どれだけ咲楽の笑顔を奪えば気が済むんだよ犯罪者どもは……!!)


 結城は怒り心頭だった。

 この今の現状を変えるためにも、まずは今の状況を把握する必要がある。

 避難のアナウンスが流れるが結城はお構いなし。このプールを元に戻して楽しい時間を取り戻す、そのことだけを考えていた。


「ねぇ、ゆうくん。逃げないの? 危ないよ……」


 彼女の目元にはうっすらと涙が溜まっていたのが目に留まった。

 だから結城は言う。


「大丈夫だ咲楽。西條を連れて先に逃げてろ。俺はさっき見つけた知り合いを助けてから行くから」

「そっか。ねぇ、ゆうくん」

「ん?」

「絶対に一緒に帰るんだからね」

「当たり前だろ」


 そして結城は一人走り出す。


(見た限りでは、プールの水温管理はそれぞれのプールの水温管理システムによって管理されている。すべてのプールの水が沸騰してるってことは、何者かがすべてのシステムを弄ったってことだ)


 まずは一番近くにあった競泳用プール。その近くに水温を管理しているコンソールがあった。そのコンソールに表示していた水温は摂氏一〇五度。明らかな異常数値だ。

 このコンソールはすべてのプールにある。つまり、これを一つ一つ確認して異常を取り除けば、おのずとオーシャンリゾート全体のプールの水温は元に戻る。

 調べる方法は一つ、この中を見てくるだけ。


「パルスイン」

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