episode55 友よ、かつて同じ光を見た友よ

 車に押し込まれたユウキは、気づかわしげに隣の男を見る。リュウというらしいその男は、今は運転席で頭を抱えていた。

「イマダさんは、その……タイラとあんまりなかがよくないので、あんなことを言っただけで……タイラはそんな、メンドウなことはしないとおもいますよ……」

 うるさい、と短く怒鳴られてユウキは黙る。


 まったく、これから家に帰されるだけだったはずなのに。突然現れたイマダに余計なことを吹き込まれ、笠はかなり悩んでいるようだった。それもこれも、笠がユウキをすぐ家に帰さず、『今は忙しいからちょっとそこで待っていなさい』とユウキを放置していたせいである。やはりあの時、自分だけで帰ると言えばよかった。

美雨メイユイ様のご指示とたがうわけには……しかし、」

 ハッとして、ユウキは「じゃあ、メイユイさまにもう1回聞きましょう! ぜったい、ぼくを家に帰すようにって言いますよ!」と提案する。これは我ながらいい提案だと思ったのだが、笠は苛立たしげに「電話が繋がらない、先ほどからかけているが」と答えた。

 どうやらそのやり取りで腹が決まってしまったらしく、笠は背筋を伸ばして車のエンジンをかける。

「美雨様と連絡がつかないなど、そんな馬鹿な話がありますか。これはどう考えても平和一タイラワイチという男が関わっています」

「そうかなぁ……」


 そうかもしれないのであまり強くは否定できない。


「君を連れて行けば、平和一と話ができます。有利に事を進められる」

「そうだとはおもいませんけど、ぼくは」

「まずは態勢を整えるために、この国はいったん離れます。美雨様もそのように判断なさるはず」

「メイユイさまのこと、見つけにいかないんですか?」

 押し黙った笠は、やがて深くため息をついた。「お互いに人質を盾にすることになるかもしれませんね」と言いながらハンドルを切る。

 残念ながらタイラという人は、人質とかそういう他人が決めたルールを理解できるタイプではないので、もしそうなった時には美雨という女性の身が非常に危ないと思われる。しかしそんなことを言いだすと、今この瞬間自分の身も危険にさらされるだろうと容易に想像ができたので、ユウキは押し黙ることにした。

「それもひとまず、国に帰って事を整理してからです。旦那様からも帰って来るようお達しが来ましたし、この時点で取れる手立てはそれしかない。君を連れている限り、平和一も美雨様に手は出さないでしょう」

 だから、ぼくを連れてたってかんけいないですよ。いますぐメイユイさま、見つけにいったほうがいいです。

 そう言いたかったが、隣から「黙っていなさい、自分の立場を考えることだ」と言われてしょぼくれる。


 まさかこの短期間に2回も誘拐されることになろうとは。帰ったとき――――仲間に、特にタイラになんと言い訳していいものか。

(……いいわけは、しないほうがいいですね。男らしくないです)

 ただ外の景色を見て、ユウキは深くため息をついた。




☮☮☮




 荒木邸を訪れた美雨は、知らずのうちに身をこわばらせる。ここには、いい思い出がない。


 由良と交際を始めたころに何度か足を運んだが、由良の父親からあたたかく迎えられたことは一度もなかった。むしろ刺すような視線が痛くて、少しずつ足は遠のいた。由良自身も荒木の家にいい思いがないらしく、2人はすぐに家を出て同棲するようになった。

 それから数年経って、章が生まれた。由良の父は章にひどく執着し、ほとんど誘拐のような形であの子をこの家に縛り付けてしまった。美雨は『面会』を許された時にだけこの家に来た。それは本当に腹立たしい思いだった。

 今こうして立ってみると、なんてことはない。大きなだけで、侘しい邸宅だ。


 ふと、美雨は立ち止まる。いくらなんでも。使用人などが一人もいない。

「章? 章、いないのですか?」

 そう声をかける。後ろから足音が聞こえ、警戒しながら振り向いた。

 平和一が、立っていた。


「おっせーよ、お前」


 思わず拳を構える美雨に、タイラは肩をすくめる。

『平和一が荒木章を殺した』なんていう噂が脳内を掠め、叫び出しそうなのを必死に抑えた。「待ってたんだぜ」と目を細めるタイラを睨んで、美雨は噛みつくように「章は」と尋ねる。

「章はどこですの? どうしてあなたがここに?」

「話を聞けよ。俺はお前と、話がしたいんだ」

わたくしはしたくありません。章はどこです」

「そう言うなって。この前はろくに話もできなかっただろ」

 美雨は腕を組み、一歩引いてタイラを見る。何をふざけているのかと罵ってやろうと思っていたのに、目の前の男は思いのほか真剣な顔をしていた。

 それならそれで、ああこんなにも腹が立つ。


「7年前。私もあなたと話したかった。だけどあなたは、一度も聞いてくださらなかったわね」


 タイラの表情が微かに変わった。驚き、だろうか。透明に近い顔をする。1秒にも満たない時間だったが、確かにそこにがあった。すぐに光が戻ったタイラの目は、美雨を真っ直ぐに見ている。

「なぜ俺と? あの時、俺が必要だったとは思えない。アラキを潰そうと思うなら、お前だけで十分だったはずだ」

 美雨は舌打ちをしてから、踵を返した。タイラのことを無視して、「章! 章、いませんの?」と声をかけ続ける。

 美雨、と呼びながらタイラが腕を掴んだ。ひどく癇に障って、乱暴に振りほどく。そのまま、タイラの顔を狙って拳を突き出した。

「ちょっと黙っていてくださる? あなたに構っている暇はないの」

 美雨の拳を受け止めて、タイラが瞬きをする。「聞けよ」とだけ端的に言う。

「どうして私があなたに命令されなきゃいけないんですの?」

「ここに章はいない」

「じゃあどこにいるんです」

「話をしよう」

啰嗦うるさい閉嘴だまれ!」

 もう一度、拳を握った。「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」と言いながら殴りかかる。当然のように受け止めて、タイラは「落ち着けよ」と宥めるように言った。

 受け止められることなんてわかっている。正攻法でこの男とタイマンをして勝てる者はいない。

 腕を振りほどき、美雨はしゃがみ込んだ。タイラが前のめりになって、美雨の肩を掴もうとする。

 美雨は足に力を込め、勢いよく立ち上がった。


 平和一の強さは、基本的にはその反応の速さにある。相手の動きを予測しその先を動く理屈に沿った戦い方と、理屈ではない動物的な勘による反射速度。それらを合わせたスタイルで動く。

 だからこそ、タイラの弱点らしいものがあるとするならそれだ。


 立ち上がった美雨は、ぐっとこちらに近付いていたタイラの顔のすぐ前で、思い切り手を叩いた。


 もちろんタイラがそれに反応して、腕を掴んでくる。美雨はそれを振りほどかない。その代わり、

「下半身がおろそかですわよ」

 股間を思いきり、蹴り上げた。


 声にならない悲鳴と共にタイラは膝から崩れ落ちる。「この野郎ッ、こっちが穏便に済ませようと……くそっ、あーくそっ」と悶絶し始めた。

「鋭利な靴で蹴りやがって……お前に人の心はないのかよ」

「あなたに言われたくありません。いいから章の居場所を吐きなさい」

 よろよろと立ち上がったタイラは下腹部を自分で軽く叩きながら、その場で小さく飛び跳ねる。「そうだった、お前はこういうことをする女だった。忘れてたよ」と嘆いた。

「俺に猫だましなんかが有効だと思っている馬鹿はお前ぐらいのもんだ」

「じゃあ広めておきますわ」

 ひどい目に合った、と言いながらタイラが目を閉じる。


「なあ、美雨……お前、本当に俺と話す気はないか?」

「くどいですわね」

「俺以外だったらどうだ。たとえば若松裕司とかだったら話を聞くか?」

「若松裕司ぃ? なんであんな人と話さなければならないんです? ぶっ殺しますわよ」

「そうか……なら、もうちょっと俺のまま粘ってみるか」


 ため息なのか、ただ長く息を吐いただけなのか、タイラは一瞬間を置いて美雨を真っ直ぐに見た。その目を見た瞬間に、美雨は身構えて素早く携帯電話を手にする。

 

 助けを呼ばないと。には、勝てない。


 一瞬早く、右手を掴まれる。そのまま押し切られ、壁に背中を打ちつけられた。左手に持っていた携帯電話を奪われ、それが握りつぶされるのを呆気に取られて見る。確かに形が歪み、画面に亀裂が入ったのだ。タイラはそれを後ろに放り投げ、美雨の左手もつかんで壁に押し付ける。足と足の間に膝を入れられ、身動きが取れなくなった。痛みはない。そのことが余計に不気味だった。

「お互い、もういい歳だ。消耗戦じゃあ泥仕合だろう。……それでもまだ、俺の方が強い」

 壊された携帯電話を確認してから、いま自分の手を掴んでいる男を見る。抵抗は無駄だろう。

「俺としてもここが勝負所でな……。簡単に退くわけにはいかないんだ、悪いな」

「何を言っているのかわかりませんわ。私よりも日本語が稚拙になったのではなくて? 離してくださると嬉しいのですけど。煙草のにおいが鼻につきますので」

 視線がかち合った。睨みつけてやれば、タイラが今度こそ深くため息をつく。何か言われるものと思っていたのに、タイラはただなだめるような表情でこちらを見ているだけだ。そうしていればいつかは懐柔できるものと思っているようだった。

 まったく、馬鹿にしている。


「殺された方がましですわ」

「何?」

「馬鹿にしているわ、本当に、昔からずっと」

「何の話だよ」

「なぜ殺さないのです。7年前あのときも、なぜ私を殺さなかったのです」


 何か考え込むような素振りで、タイラは黙った。あるいは、どちらがどちらを捕らえるのか賭けるような沈黙だった。

 美雨からは、平和一という男の奥に隠した孤独と自我主義が見えている。タイラから見た美雨もそう大きくは変わらないだろう。


「あそこまで拒絶をするなら、いっそ殺してほしかった。そんなものだと思いたかった」と、美雨はぽつり呟く。

 7年間、ずっとそれがわからなかった。あの時対峙したタイラには確かに殺意があったのに、なぜ衝動のままに美雨を殺さなかったのか。今の平和一には殺意がない。いつから消えたのか、7年の時を経て再会したときにはまだ揺れるような殺意があった。いつでも殺せるという驕りでもあるのか。


 ようやく、タイラが口を開いた。

「お前は、俺を殺すか?」


 奇妙な問いだと思った。確かに、殺してやりたいと思ったことは何度かある。この男を殺しておいた方がやりやすいだろうと思ったことも。今後何かあればすぐ殺せるとも思っている。先ほどのことで再確認したが、この男は非常に隙が多い。なんせ自分以外は全員庇護対象の弱者だと思っている男だ。殺せる、殺しきる覚悟さえあれば。

 だけれど今の美雨には、この男を殺す理由がない。

「……殺しますわよ、理由があれば」

 その言葉で、タイラの表情が変わった。それは、彼がギャンブルをするときの顔だった。

 美雨、と呼びかけられて鳥肌が立つ。久しく忘れていた感覚だ。殺意とは別種の圧を感じる。タイラは言った。


「章のことは俺が殺したよ。会いたいか? そりゃあよかった、まだ解体バラす前だ」


 息が止まるような気がした。

 冗談も大概に、と笑ったつもりが引きつった頬を動かしただけにとどまる。『そんなはずはない』とわかっていても不安が先走った。それだけの凄味があった。

 追い打ちをかけるように、タイラは「章がそう望んだ」と続ける。

「ア、キラが……?」

「そうだ。俺に殺してくれと頼んだ」

「でたらめを言わないで。そんな、あり得ない。なぜそんな、」

「さあな。だが、俺がその願いを無下にできると思うか?」

 そっとタイラが美雨の手を離し、2,3歩後ずさった。自由になった自分の腕を抱きながら、それでも動き出そうという気にはならなかった。自分が震えていることに気付く。

 顔を上げると、タイラは真っ直ぐに美雨を見ながら何か抱えるように両手を上に向けていた。

「こんなことにならなければいいと、俺も思っていたよ。心から」


 一瞬、視界が暗転する。気づいた時には、タイラの首に手を伸ばしていた。

 この感情を、一体何と呼んでいいのか。怒りではない、悲しみでもない。絶望というにはあまりに不確かで、まるで目の前の男を殺せばそんな現実はすぐ吹き飛んでいきそうで。それは祈りに近かった。縋るように、美雨はタイラの首を絞めたのだ。

 力を込めれば、タイラの吐息が聞こえる。抵抗はない。殺せる。殺せてしまう。



 不意に、愛らしい少年の声で『おかあさん』と呼ばれた気がした。おかあさん、おかあさん、と。それは恐らく、自分の頭の中から聞こえている。

『おかあさん、これ、もらいました』

 目を輝かせてそう言った愛しい息子の頭を撫でる。『良かったな、お礼は言ったか?』と夫が笑った。『章はいい子だなー』と言ったのはマコで、まだ玩具の箱を抱えたままだ。そしてタイラが、『誰の子なんだろうねえ、どこの遺伝子を継いだんだろうねえ』と憎まれ口をたたく。


(ああ……どうしてだろう)


 みんな、いなくなっていく。

 一人ぼっちだ。本当に、もう何一つ元に戻りはしない。

 涙があふれて、世界は歪んだ。見えない。何も見えない。自分のことも、世界のことも。


 タイラの首から手を離した。代わりに、その顔を思いきり平手で打つ。

「嫌いだった。あなたのことが、昔から一番嫌いだった」

 首を押さえながらタイラが軽く咳き込んだ。目をこすれば、ようやく視界が開ける。しゃくりあげながら続けた。

「私よりも先に由良さんに出会っていた。マコちゃんだって、いつもあなたの方が特別だった。あなたさえいなければと思ったこともある。そのくせ時々、鏡を見ているようでもあった。だから、だから……」


(由良さんが殺された時、他の誰でもないあなたと話をしたかった)


 マコはあまりにも純朴で、美雨が世界を憎むのを理解できないようだった。美雨の悲しみをなだめて諭して慰めたけれど、そこに救われもしたのだけれど、美雨はただ理解されたいとも思っていたのだ。この怒りは、憎しみは、正当なものなのだと。ただ、そう肯定されたかった。

 タイラであればわかってくれると思った。この男は、美雨と同じ。社会から理不尽に弾かれて、そこに劣等感を持っている人間だったから。『理不尽な出来事にこそ怒れ』と、この男だけが言ってくれると思っていた。


 そんな希望的観測すら裏切られた今、平和一に情などない。だけど、それでも。

 自分もタイラも生きていれば、これ以上何も落としていかなければ、いつかは“あの頃”へ戻れるのではないかという甘い期待がある。逆に言えば、どちらかが欠けてしまえば『もう二度とあの頃へは戻れない』ということが決定的になってしまう。

 これは、恐らく未練だ。誰が生きていようと、何を大事に抱えていようと戻れるはずがないのに、胸のずっと奥で『ひとりになりたくない。置いて行かれたくない』と叫んでいる。


「あなたを殺してやりたいと思ったこともある。だけどこの7年間、あなたが死んでいるかもしれないと思うとなぜだか腹が立った。私は…………あなたのことが嫌い。あなたなんか、死んでしまえばいいわ。私の次に」

 片手で自分の顔を覆いながら、髪をくしゃくしゃとかき上げる。「だから、お願い」と縋るようにタイラを見た。

「章のことだけは、嘘だと言って。あなたを憎みたくない。章が死ぬはずないでしょう。それをあの子が望んだ? なぜ。あの子にはまだ未来が……。これから、これから私が……ああ、私は」

 うわごとのように呟いて、美雨はその場に膝から崩れ落ちる。


「まだあの子に、何もしてあげられてない」


 呆然と視線をさまよわせて、美雨はしゃくりあげた。

 そうだ、何もしてあげられていない。まだ、母親として何も。

 なんでもいい。何かしてあげたかった。欲しいものがあればなんでも用意してやりたかったし、あの子が望むのならなんでも叶えてあげたかった。そうすることでしか、もはやこの7年を埋めることはできないと思った。


 不意にため息をつきながら、タイラが頭をかく。

「親子そろって、同じように泣きやがる」と呟いた。


 美雨の耳は、後ろから歩いてくる足音を聞く。

 ゆっくり振り向くと、そこには尋常じゃないほど気まずそうな顔の章が立っていた。


 沈黙が生まれる。


 美雨は頭が真っ白になって、口をあんぐりと開けた。

 章の隣に立っていた若松が、「『ドッキリ大成功!』みたいなプレートを持ってくればよかったかな?」と恐る恐る言う。

 頭の中で何かが弾けたような感覚で、美雨は立ち上がりタイラにタックルした。胸倉をつかみ、今度こそ本気で首を絞める。


「言っていい嘘といけない嘘があるんじゃなくて!?」

「あー、死にますねこれ。死にます。お前握力いくつ?」


 慌てた章が美雨の腕を掴んで、「お母さん! お母さん!? やめてください、本気でタイラさんを殺す気ですか!」と叫んだ。子供の力と侮っていると存外に14歳の少年の力は強く、引っ張られた美雨は体勢を崩す。


「僕は、あなたのことをずっと待っていました!」

 驚いて、章に向き直った。章の表情は真剣そのものだ。


「いつか帰ってきてくれると思っていました。ずっと会いたかった」


 戸惑いながら、美雨はその言葉を聞く。

 てっきり、この7年息子をほったらかしていたダメな母親だと愛想をつかされているのだとばかり思っていたからだ。実際、久方の再会でも章の反応は芳しくなかった。


 章は少し目を伏せて続ける。

「あなたが帰ってきたとき、僕は嬉しかったのですよ。本当に、本当に。きっとまた幸せに暮らせると思いました。だけどあなたは、『故郷くにに帰ろう』と僕に言いましたね」

「それが、嫌でしたの?」

「お母さん……僕の故郷は、この街ですよ」

 きょとんとする美雨を前に、「僕はここで生まれましたし、ここで育ちました。あなたの言う故郷くにには行ったこともありません」と章は呟いた。


「悲しかったな。だって僕とあなたの帰る場所は違うのだから」

「章……」

「あなたに故郷を捨ててほしいとは言えません。だから、せめて僕に故郷を捨てろとは言わないでほしかった。僕はこの街が好きだと、確かに言ったはずですよ」

「そう……そう。だから私は、あなたにこの街をあげたかった」

「宗教と薬で陥落させて?」

「方法が気に入らなかったのですか」

「違います、お母さん。そもそも僕は、この街が欲しいとは言っていません。ここにいたいと言ったのですよ。話を……どうか、話を聞いてください」

「同じことじゃありませんか。どうせならこの街で、一番の権力を持てばいいでしょう。なんだって、好きなことができる」

「僕にはそんな器はありません」

「そんなことありませんわ、だって由良さんの子だもの」

「僕は……お父さんとは違うから……」

 失意の表情を浮かべた章が、長い瞬きをしてから不意に美雨を睨んだ。


「才能があるって、他の誰からも期待されていたのに、その期待を全部裏切って好き勝手生きたあの人とは違うんだ。僕は全然、違うんです。

 無能でいい、そこで勝手に踊ってろっていきなり舞台に放り出されたんだ。なんにも期待されていないくせに求められることは多くて、僕はいつも早く終わればいいと思っていました。こんな人生、誰にも期待されてなくて逃げることもできなくて、早く終わればいいと思っていました。

 それなのにあなたは、こんな僕に実権を握らせると言った。

 僕は無能なんだ。無能なんです。上辺だけ器用に生きてきました。誰かが欲しい言葉を紡いで、まるで全部わかっているように生きてきました。でもそんなのはハリボテで、僕は本当に何の才能もないんです……。

 僕はただ、凡人らしく生きていたかっただけなのに」


 それは美雨にとって、非常に衝撃的な告白だった。「そんなはずは、」と呟きかけて、口を閉ざす。こめかみを押さえ、頭を振った。


 こういうこと、か。今さらに、全てが腑に落ちてしまう。ああ、なんて馬鹿なエゴでこの子を追い詰めてしまったんだろう。

 

「よそ見をしていたのでしょうね、確かに」

 友坂勇気というあの少年の言葉を思い出す。『よそ見をしているから届かない』『ちゃんと聞いてあげて』と釘を刺されたのだったか。これが年の近い人間に言われたのであれば反発もしたろうが、小学生に言われた言葉であれば腹も立たない。ただ、なるほどと思うだけだ。なるほど、何も見ていなかったのだ。


「私は、あなたに才能がないとは一切思いません。思いませんが、章……あなたにそう考えさせたことは全て私の落ち度でしょうね」

 目を伏せて、美雨は「だけれど誤解をしないで」と呟く。

「あなたのお父さんにも、『自分には才能がない』と悩んだ時期がありました。周囲の期待に応えられないと追い詰められた時期が。それは私としか知らないことです。あなたはもう忘れてしまったのでしょうね。せめて誤解をしないであげて。あの人もあなたを守ろうとしたのです。そしてその想いを汲めなかったのは、ただただ私が悪いのです。今まで、つらかったでしょう。ごめんなさい」

 章は驚いた顔をして、それから少し泣きそうにうつむいた。

 この子を抱きしめてやる資格があるのか、と逡巡しながら美雨は所在なさげな自分の腕を見る。と、不意に強く背中を押されてつんのめるように章を抱きしめることになってしまった。振り向くと、タイラが呆れた顔で肩をすくめている。


「お母さん。僕の、たった一人の家族」

 そう呟きながら、章は美雨の背中に腕を回した。

 人と抱き合うというのは、こんなに温かなものだったか。自分の何かが解けてゆくのを感じて、美雨も恐る恐る章を抱く腕に力を込める。


 こうして親子の7年という時間は、埋められることはなかったけれど、少しずつひっそりと解凍された。

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