episode41 初恋は崇拝に似ている

 弾んだ歌い声に、溢れるような笑い声が混じって響く。タイラの膝に乗ったユウキと実結が、激しく揺らされて笑っている。タイラが2人の耳元で何か囁くと、ユウキも実結もキャッキャッと嬉しそうに声を上げた。少し気になって、ノゾムは耳を傾ける。


「ご乗車ぁ、ありがとうございぃまぁす。この電車はぁ、アマガサキぃ、アマガサキぃ、アマガサキ行きでぇ、ございぃまぁす」


 見事に吹き出して、ノゾムはむせた。なぜ尼崎なのかさっぱりわからないし、とにかくアナウンスの真似が上手い。


「ガタンゴトン、ガタンゴトン……お客様にぃ、ご連絡ぅ、いたしまぁす。前方、ナルト大橋ぃ」


 どこ走ってんだよ。適当なこと言うな。


「昨晩の台風の影響でぇ、橋が落ちておりまぁす。お客様ぁ、近くのつり革などにしっかりと掴まってぇ……ガタンゴトン、ガタンゴトン、ひゅんっ」


 いきなりユウキと実結が落下する。「あはは」と笑いながらタイラは、2人が落ちる前にぎゅっと抱き上げてまた膝の上に乗せた。ユウキの方は心底驚いた様子で目を丸くしながらタイラの腕にしがみついており、実結は楽しそうに黄色い声を上げる。それからまたタイラは膝を揺らした。ガタンゴトン、ガタンゴトン、と声が響き――――ユウキと実結が何か電車にまつわる童謡を口ずさむ。

 つられて、カウンターに立っているカツトシもその童謡を口ずさんだ。ノゾムがじっと見ると、カツトシは肩をすくめて「初恋の女の子もよく歌ってた」と聞いてもいないのにそんなことを言う。


「あんた、初恋とかないわけ? 興味ないけど聞いておくわね」

「興味ないんならいいっすよ」

「当てたげる。あれでしょ、ベタに幼馴染ちゃんとか」

「学校の先生とかっすかね」


 ふうん、とカツトシは本当に興味なさそうに流した。ノゾムはちらりとタイラを見て、すぐに外へ目を移す。どうせタイラにこのような話題を振ったとて、覚えちゃいないのだろうから意味がない。

 代わりに景色の中で異物を見つけたノゾムは、「あれ」と声に出した。この辺りではなかなか見かけないような黒塗りの外車が1台、のっそりと近づいてきて店の前に停まる。前にも見たことがある光景だ。案の定というか、車から出てきたのは荒木章だった。

 ドアが開き、楽しく遊んでいたタイラもようやく顔を上げる。「おおう……」と少し目を丸くして手を振った。


「どうしたんだ、ぼっちゃん。何にせよ外車で来んのやめてくれない? ビビって客が来なくなる」

「それは申し訳ありませんでした。配慮が足りませんでしたね、ママチャリで来ます」

「何だよその光景。見てえな……」


 何をなさっているんですか、と首を傾げた章に、ちょっと笑って「遊んでるんだよ」とタイラはユウキたちを抱きしめて見せる。慌てた様子のユウキが、「ぼくは子供じゃないのでべつに」と言いながらタイラの膝から降りた。「ええー」なんて、タイラと実結が不満そうに声をそろえる。

 仕方なさそうに、タイラが腕を広げて見せた。

「おい、左側が空いたぞ。誰か乗らねえか」

 一瞬の沈黙ののちに、章が近づいて行ってタイラの左膝に乗る。


「……正気かよ、ぼっちゃん」

「歳の順的には僕かと」


 困ったようにしていたタイラも、そのうち喉を鳴らして実結と章を両腕でしっかりと抱いた。「ガタンゴトン……」と囁きながら揺らし始める。初めのうち緊張した様子だった章の表情が、どこか諦観じみたものに変わっていくようにノゾムには見えた。

 タイラさん、と章は呟く。


「今日は、お願いがあって来ました」


 目を細めたタイラが、「“今日も”の間違いだろう」と優しく応えた。

 なぜだろう、ノゾムはひどく胸騒ぎがして、そのやり取りを横から遮ってしまいたくなる。ふとカツトシを見ると、彼もどこか警戒している様子で顔をしかめていた。

 そして、章は言った。


「タイラさん、僕と食事をしてくれませんか。アフター込みで」

「やだよ。お前とメシなんか食ったら何を盛られるものかわかったもんじゃねえ」


 拍子抜けするノゾムたちを尻目に、にこにこ笑いながら「失礼ですね」と章は肩をすぼめる。


「一体だれが、タイラさんに毒なり薬なりを盛るって言うんです。僕はタイラさんのことが大好きなんですよ。それはそうと、これは全然関係ない話なのですが、人を絶対服従させて命令を聞かせることができるような薬があるのなら興味はあります」

「そういうところだぞ」


 タイラの膝から下りた章が、「冗談ですよ」と笑った。頬杖をついたタイラは、面倒そうに目を細めて「どうせ俺を餌にイブでも呼ぼうとしてんだろ。見え見えなんだよ」と呟く。初めて、章は表情をこわばらせて「何のことだか……」としどろもどろになった。


「俺に期待なんかしないで、自分で誘えよ。イブだってお前のことは嫌いじゃないぞ」

「いや……僕はあんまりよく思われていないというか……そういう問題じゃなくてですね、僕はタイラさんと食事を」

「店は決まってるのか? まさか女と飯食うのに護衛やら連れて行くつもりじゃないだろうな」

「このお店で、」

「いつもと同じじゃねえかよ、わかってねえな。いいか、お前が本気ならちょっとは考えろよ」

「でも、その……タイラさんのおっしゃる通り、安全面でちょっと」


 ついて行ってやるよ、とタイラは何でもなさそうに言う。「え?」と章が目を見張った。

「だからさ、俺がついて行ってやるよ。遠巻きにお前らのことを見守っていてやる。お前、俺に声をかけておきながら考えもしなかったのか? 俺が一緒にいて、危険な場所なんてそうはないだろ」

 なぜだか章を肘でつつきながら、タイラは笑っている。辟易としながら章が「さては機嫌がいいですね、タイラさん。なんでだろうなぁ」とぼやいた。

 章の言う通り上機嫌なタイラが、肩を組んで「だから」と囁く。

「イブのことは、お前が誘え。な、わかったか」




☮☮☮




 大きな窓から見える夜景に感激しながら、カツトシが「僕もあっちでご飯食べたい。美味しそう……」と漏らす。タイラは、黙ってその頭を叩いた。

「イブに見つかるとややこしいことになるだろ」

「ええ? 大丈夫よ、本橋ちゃん、その方が喜ぶでしょ」

「そういう問題じゃねえから」


 ひっそりとした店だった。隠れ家的で景観がよく、もちろん食事が美味しい店ではあるのだが。

「なんでショーくんは、女の子誘うのにもっと高級店とか用意しないの? ショーくんなら簡単に貸し切りとかできるじゃない」

「……この街のクラブもブティックもレストランも、若松裕司オーナーの息がかかっていないところなんてほとんどない。あのぼっちゃんは立場上、そういう店には入れないからな」

 ふうん、とカツトシはぼんやり外を見る。章と本橋が店に入ってくるところだった。


 急に「カツトシ」と呼びかけられて、タイラを見る。

「お前、あの酒場を続けていく気なら、ちょっとぐらい同業者と仲良くしておいたらどうだ。この店の主人は面倒見がいいから、料理の基礎か経営の基本でも聞いておけ」

 驚いて「ふぁ?」と聞き返せば、「向こうはお前のことを知ってるから、まあ手伝いに来たとか言ってキッチンに入ってもむげにはしないだろ」と言ってタイラはキッチンらしき場所を指さした。

「それはつまり、行けってこと?」

「別に行けとは言っていないが?」

 しばらく無言で視線だけのやり取りをして、カツトシはキッチンの方へ歩き出す。もちろん背中を向けていたので、タイラが仕方なさそうに薄く笑ったのを見ることはなかった。


 店に入る前に、章は「本当に来てくださるとは思いませんでした」と本橋に微笑みかける。唇を尖らせた本橋が、「だって暇だったんですもん」と肩をすくめた。

 少し背の低い章が、紳士らしく本橋をエスコートしていく。本橋は緊張した面持ちで、席に座った。

「飲み物は?」

「アイスティーでいいです」

「じゃあ、僕もそうしよう」

 言って、章は注文をする。飲み物はすぐに来た。


 嬉しそうな章が、グラスをそっと掲げて見せて「こういう、ゆっくりした食事も久しぶりです」と言って飲む。同じように本橋もグラスを持ち上げて、章の方にちょっとだけ傾けてからそっと自分の口に運んだ。


「ここの料理は絶品ですよ」

「……前から、ちょっと来てみたいと思ってました」

「本当ですか? よかった」


 タイラさんに感謝だなぁ、と章はにこにこ笑う。「なに?」と聞き返す本橋に「何でも」と章が答えた。それから不意に章は目を伏せる。

「今日、僕の誘いをオーケーしてくれたのは……タイラさんのためですよね。僕に何か、言いたいことがあるんじゃないですか?」

 目を丸くした本橋が、何か形容しがたいものを飲み込んだような顔をした。それから、ちょっと呆れた笑顔を見せる。


「それは、

「え?」

「タイラは、あの人は、どうせ何があってもああなんだから、いいんですよ」


 本橋はメニューを開いて、「何を食べよう」と呟いた。「これ、値段が書いてないですね?」と顔をしかめたりもした。

「どういう意味ですか」と穏やかに章が尋ねる。本橋は食べたいものが決まったようで、メニューをたたみながら顔を上げた。


「本橋は、君が心配です」


 それはあまりに真っ直ぐな目だったので、章も瞬きをせずにじっと見つめた。

「章くん、もし君が何か馬鹿なことを考えているようなら……できるなら止めたいと思っています」

 静かに、章は瞬きをする。


「僕はその目が、好きなんだなぁ」


 そんな独り言のような呟きに、パッと本橋が顔を赤くした。




☮☮☮




 美しいものを見た。


 5年は前のことだったろうか。街はまだ混乱のさなかで、章のような力のない子供を受け入れる余裕などはなかった。蹴落とされることに怯えては、縮こまってばかりいた。


 車のトランクから、運転手が引きずりおろされる様子を、章はただ眺めている。それは若松の力添えもない時分で、章は毎日がひどく息苦しかった。それに加えて、頻繁にこうして狙われる日々だ。本当に、何のために生きているかわからなかった。

 章は荷物のように大人しく、事態の収拾を待つ。罪のない運転手ができるだけ傷つかないといいのだが、彼を守る力など章少年にはない。


 終わりますように、と何度も心の中で呟く。終わりますように、早く終わりますように。


「何してるんですか! 両手をあげて、その人から離れなさい!」


 よく通る、女性の声が聞こえた。

 顔を上げて窓の外を覗くと、その女性は警官服だった。すぐに女性は暴漢を取り押さえて、手錠をパトカーと繋ぐ。それから、章の乗っているパトカーに近づいてきた。迷わず、トランクを開ける。


「ああ、よかった。君が、荒木章くんですね」

「……どうして」

「襲われていた男性が、君のことを出してあげてくれって。さあ、もう安心ですよ! 本官はモトハシと申します。一緒に行きましょう」


 どうして助けてくれるんですか、と思わず章は問うていた。胸の内にくすぶる卑屈さが、自分でも意識しないうちに出力されてしまったようだった。

「僕のことを知っているでしょう? いいんですよ、そんな風に普通の人のように接してくれなくて。僕がいなければ……あの運転手の方も、痛い思いをしなくてもよかったんですから」


 本橋はきょとんとして、少し寂しそうに笑った。それから、「知りません」と呟く。

「君のこと、何も知りません。本橋は、ただのお巡りさんです」

 言って、本橋が手を差し伸べてきた。


「私にとって君は、ただの守るべき市民の一人です。何の卑屈さも必要ありません。君は、黙って私に守られていればいいんですよ。さあ」


 その手を。その強い瞳を。

 章はどこかで見たことがあると思った。


(ああ、あの人に似ている)


 それは章にとって、到底手に入れられない強さであったのだ。




☮☮☮




 7年前のあの日、それは本当に突然のことだった。


 章は祖父に擁されており、父が死んだとは風の噂で聞いていた。

 どうせあの人のことだから、好き勝手にやってチンピラにでも殺されたのだろうと思っていた。

 父と祖父の因縁など何も知らなかった。章は邪魔だから、祖父に預けられたのだとばかり思っていたのだ。祖父は、章にだけは優しかった。


 7歳であった章は、その時祖父の書斎にいた。

 祖父はリクライニングチェアに腰かけて、章の頭を撫でている。仕事の話など一つもわからない章に、しかし延々と職務を語り続けていた。それでもよかったのだ、章は。わからないなりにうなづいていれば、「お前は聡い子だね」と褒めてもらえたのだから。

 その日はひどく騒がしく、部下たちが何度も祖父に怒声を浴びせていた。それは、今思えば怒声ではなく懇願だったのだろうが、その時は祖父が怒られているように見えていた。祖父は、ただ落ち着いて「お前たちは出て行けばいい。あの若造は私に用があるのだろう」とだけ言う。


 しばらくして、部下は全員部屋を出て行った。祖父は章の頭を撫でて、「絶対に出てきてはいけないよ」と囁く。


 そして部屋に男が入ってきたのは、数分後のことだった。男は疲れた顔をして、体の至る所が錆びついた泥のようなもので汚れていた。章はその男を知っているような気がしたけれど、祖父の言うことを聞いてデスクの下からそれを見ていた。

 祖父は立ち上がって、男を迎える。


「久しいな……ここまで来たのか。あの時殺しておけばと……いや、言うまい。こうなる未来が見えなかったわけでもない」

「……あんた、子供を躾けるのは下手くそか? あんたのいとどもがうるさくて仕方ない。こっちはもう、うるさくてさ……うるさくてうるさくて、黙っていろと何度も言ったんだぞ? ああ、本当に……雉も鳴かずば撃たれまい。俺だって、殺したくなかったんだ」


 男の握りしめたナイフから、赤いものが滴った。章は、初めて恐怖で固まる。

「あんたはどうだ」と、男が問うた。「俺が黙っていろと言ったら、何も鳴かずに埋もれていくか? 地を這うことは恥ではないよ」と。

 瞬きをした祖父が、ただ短く「殺せ」と言い捨てた。


 一瞬だった。


 男が、祖父の胸にナイフを突き立てている。祖父は血を吐いて、喘ぎながら口を開いた。

「ゆら……由良のことは、こと、だけは……みのがして、くれないか」

 ナイフを引き抜いた男が、祖父のことを蹴り飛ばす。それから冷たく見下ろして、「最後の最後に人の親みてえなことを言いやがって、ボケジジイ」と言葉を吐いた。


「テメエの息子は、テメエが殺したんだろうが」


 それから男は、ゆっくりとデスクに近づいてくる。「いるよな、そこに。誰だ」と声をかけられて、章は震えあがった。息を整えて、それでも吐きそうなほどの緊張で目がかすむ。デスクの下を覗かれて、男と目が合った。


「誰だ、お前は」


 喋らない。じっと黙って、耐える。


「子供……か? どうして喋らない。何者か答えろ、殺すぞ」


 ようやく、深呼吸をして章は応えた。「キジも鳴かずば、うたれまい」と。

 男がひどく驚いたように、章をまじまじと見る。

「お前……そうか、お前か。なるほど漏らさないまでも、驚くもんだな。ガキの成長は早すぎる。それにしてもお前……」

 男は、章を抱き上げてデスクの下から出した。


「由良と、よく似てるなぁ」


 抱えられながら章は、床に転がる祖父を見下ろす。呼吸が苦しくなった。「僕のことを殺すのでしょう」と尋ねれば、男は目を細めて章の汗で張り付いた前髪をかき上げる。血がべっとりとついた。

「お前、ジジイのことが好きだったか」と彼は聞いてきた。男が祖父に良い感情を抱いていないということは明白だったので、章は震えながら黙った。嘘をつくこともできなかった。章は、祖父のことが好きだったのだ。


「……このジジイのことだけは殺せばせいせいすると思ったんだが。誰もかれも、少しずつ何か間違いながらここまで来たんだろう。度し難いな、人間は」


 なあお前、と男は言う。濡れた指先で章の頬を掴んで、不格好な笑顔のようなものを作らせた。

「俺がお前の立つ場所を更地にしてやるから、そこに何でも好きなもんを作れよ。何がしたい? 何でもさせてやる」

 茫然とする章に、男は笑いかける。「手始めに笑って見せろよ」とも言った。章はただその男の目を見ながら――――強い感動を覚えていた。


 なんて荒々しく不条理で強い人なんだろう。


 たった今肉親を奪われたことすら忘れ、章はその炎に、その自ら燃え尽きていくことを望むような美しい火に、崇拝ともとれるような思いで手を伸ばしたのだ。

 美しいものを見た、と思った。それがたとえ少年時代の特異な状況下で見誤った、光ですらないものでも。それを美しいと感じた心だけは、自分を裏切らないと思った。




☮☮☮




 本橋と別れた帰り道、章が「本橋さん、お送りしなくて非常識だとお思いではないでしょうか」と年相応に緊張した顔をする。「大丈夫だよ、あいつ強いもん」とタイラは肩をすくめた。

「楽しかったです。タイラさん、今日は本当にありがとうございました」

「いやいや、こっちはこっちで機会を有効活用させてもらってっから。何も働いてねえしな」

 機会? と何か聞きたそうな顔を章はしたが、しかしすぐに笑顔になって「そこにいていただいただけで」と目を細める。それから、じっとタイラのことを見た。


「何だよ、坊ちゃん。いいか、イブよりお前の方がずっと夜道に気をつけろよ」

「……タイラさんは変わりませんね。変わらないでいてくれている、のかな」


 2人はそのまま見つめ合う。先に視線をそらしたのは章で、どこか縋るような表情をどこにも向けられないまま前を向いた。

「以前、僕が選択を違えたら殺してくれますかと聞きましたよね」

「ああ」

「もう一つ、お聞きしてもいいですか」

「お前がそうしたいのなら」


“誰もかれも、少しずつ何か間違いながらここまで来たんだろう”


「タイラさん、僕のために死んでくれますか?」


 7年前のあの日、確かにタイラは言った。

 誰もが何かを間違えて、その責任を取らされたのだから。その責任の取り方さえ間違えた人たちが、今でもどうすりゃいいのかわからないまま歩き続けている。


 ゆっくりと瞬きをして見せて、タイラは「イエスと答えれば満足なのか」と何でもなさそうに言った。章は何も言わない。

「満足なんてしないんだろうな? 実際に、お前のために積みあがった死体でも見ない限りは」

「……あなたは、大事なところでわかってくださらない。誰でもいいわけではないのですよ」

 にこっと笑った後で、章は軽く会釈をする。「今日はここで」と言って歩いて行く章の前に車が停まった。どうやら迎えが来たらしい。タイラは目を細めて、それを見送った。


「あ、何だ。まだここにいたのね」


 聞きなれた声に振り向くと、意外そうな顔でカツトシが歩いてくる。「もう帰ったのかと思った」なんて、当たり前のように言った。


「お前のこともちゃんと迎えに行こうと思ってたよ」

「そう。あんたにそういうの期待してなかったから来ちゃった」

「……何か実りはあったか」

「店長さん、いい人だったわよ。また来てねって言われちゃったぁ」


 よかったな、と興味薄そうにタイラは相槌を打つ。カツトシはカツトシで、タイラの反応などは関係なく熱っぽい瞳で「やっぱりフレンチもいいわねぇ、勉強しようかしら」などと言っていた。それからふと気になったようで、「ショーくんは帰ったの?」と今更に尋ねる。


「今帰ったとこだが? 何か話したいことでもあったのか」

「ううん、別に。どうせまた会えるしね。というか、前から不思議なんだけど、あんたとショーくんってどういう関係なわけ?」


 煙草を口に咥えたタイラが、ライターの火を風から守るような仕草をしながらぼんやりと遠くを見た。「そうだな……」と煙草を指でもてあそぶ。

「俺から見ればあれは、」

「アレは?」

「ダチの息子で、それでいて……世界一面倒な顧客、だよ」


 軽くため息をついて、「腹減ったな」とタイラは呟いた。

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