episode30 神と道化を見違えたのですか?

 膝をついて、ノゾムはまじまじと自分の下腹部に刺さったナイフを見る。

 マジかよ。なんでナイフなんか持ってんだよ、あいつ。

 痛みというより強烈な違和感から途方に暮れた。血は止まる気配を見せない。そりゃそうだ、ナイフは刺さったままなのだから。思いのほか焦りはなく、ノゾムはとりあえず携帯電話を取り出す。今の自分の状態が、119番通報するべきものなのか判断がつかない。

 しばらく迷っていると、自分の手の中で携帯電話が光り輝いた。さすがに、驚く。着信だ。慌てて耳にあてる。

「はい……」

『お前さぁ』

 聞きなれた声の主は、いきなりそう言った。

 ノゾムは困惑しながら「先輩」と呟く。タイラは気にせずに、『カツトシと一緒にいたりしない?』と尋ねてきた。

「アイちゃんさん……は、知らないんすけど」

『……? お前、どうかしたか』

 不意に、異変を感じ取ったタイラが怪訝そうな声を出す。「何かあったといえば」とノゾムも戸惑いながら答えた。

「ありました。というか、今、現在進行形で、刺されて困ってるなうです」

『はぁ?』

「ナイフみたいなものが、へその下っていうか、それよりはちょっと横っていうか、だいぶ横? に刺さっちゃってるんですよね」

『刺さっちゃってるんですよね、じゃないよね』

 確かに。

 ノゾムは今更に焦りを感じ、「どうしよう」と呟いてみる。「痛いんですけど、オレ、死ぬんですかね」と思わず携帯電話に縋ってみたが、タイラは電話の向こうで呆れている様子で、しばらく黙っていた。

『……誰に刺された』

「えっと、先輩は忘れてるかもしれないんですけど。長谷川っていたじゃないすか」

『知らん。誰だそれは』

「あ、はい」

 思い出そうとする素振りも見せない。ならば聞いた意味はあったのだろうかと、ノゾムは遠い目をした。

 救急車は、と問われて「迷惑じゃないですかね」と相談してみる。心底呆れているらしいタイラが、「今行く。どこにいるんだ」と尋ねてきた。見える範囲で、近くの店の名前などを答えた。

「待っていろ」と言ったきりタイラが黙り、ひどく不安になる。雨は勢いを増すばかりだし、屋根の下ではあるがひどく寒い。

「あの、電話切らないでくださいね」

『ああ』

 本当だろうか、と訝しみながらノゾムは携帯電話をぎゅっと握りしめる。切られる気配はないが、何か話しかけてくる様子もない。「先輩」と呟くたび、『なんだよ』と返ってくるくらいだ。息を切らしているようではあるので、恐らく走っているのだろうとは思う。

「もっとガンガン喋ってきていいんすよ、なんか、寝たら死ぬぞ! って感じで」

『うるせえな、お前、どことどこの間の路地裏にいるんだよ』

「たぶん両隣風俗なんですけど」

『当たり前だろうが、それしかねえんだよこの辺は』

「そういう……そういう街だから、ほんと……」

『いま覗いた路地裏に野良犬が寝そべってたけど、あれお前?』

「たぶん……そうです。……あ、ウソ。ウソウソ。早く、はやく……来てください先輩」

 次の瞬間、後ろで何か蹴飛ばされて壁に当たる音がした。走ってくる足音と、「ノゾムか?」という声。電話口、そしてすぐ背後からも聞こえた。

 タイラは駆け寄ってきて、ノゾムの傷と、そして顔色を見る。ノゾムはぼんやりその様子を見て、「めちゃくちゃ……汗かいてるじゃないですか、どこから……走って、きたんすか」と尋ねてみた。答えはない。傷口に何かを押し当てられて呻く。それから、不意に包まれるような温かさを感じた。

「俺の上着をダメにするのは、二度目だぞノゾム」と、タイラが言う。「それ、どっちもオレの意向じゃなくないすか……?」と反論してみるが、タイラは聞いていない。ふわりと、抱えあげられた。

「センパイ」

「ん?」

「お任せしても大丈夫な感じですか」

「お任せする以外の選択肢があったのか」

「じゃあ……それで……」

 タイラのジャケットにくるまりながら、ノゾムは軽く目を閉じる。先ほどまでの焦燥感や不安が霧散していくようだった。この事態について、自分の状況さえも、責任がタイラワイチに移っていくような錯覚を覚える。

 寝不足だろうか、思考の停止を感じた。「オレ」と微かな声でつぶやく。

「オレ、長谷川のこと許そうと思ったんすよ。別に、オレに許されるような義理はないんだろうけど。あいつとオレは、結局同じだから」

 遠のいてく意識の中で、「そうか」とだけ、タイラの声を聴いた気がした。




☮☮☮




 市民病院の灯りから少し離れた暗がりで、タイラはため息まじりに煙草を咥える。ノゾムの怪我は、特に命にかかわるようなものではないが、しばらくの入院が必要だろう。いくつか説明を受けている間に、もうすっかり雨は上がっていた。明日には、ノゾムの着替えなどを持ってまた病院へ行かなければならない。

 どーしようかな、これ。

 ぼんやりとそう思いながら一服していると、タイラの胸ポケットで携帯電話が光り始めた。プライベート用のものだ。最近は壊れることもなく、ずいぶん長い間同じものを使っている。

 着信は、ユメノ。タイラは逡巡しながら、それを耳に当てた。

「もしもーし」

『もしもーし、じゃないんだけど。遅くない? アイちゃんとノゾム、いたの?』

 恐らく都たちから話を聞いているのだろう。ユメノは心配そうな声だった。タイラはそこで、カツトシもまだ帰宅していないらしいことを知る。これは、と瞬きをして夜の街を眺めた。

 嫌な予感がする、な。

「なあユメノ、そこに都先生っている?」

『いるけど。何』

「代われ」

『はあ?』

 なんで、という言葉を何とか飲み込むような沈黙。ぶっきらぼうにただ、『せんせー、タイラが話したいって』と声をかけるのが聞こえた。

 しばらくして、都の『大丈夫?』という第一声が耳元で響く。

「色々あって」

『本当によく、色々あるのね、あなたは』

「怪我したノゾムを病院に運んだ。大したことはないが、しばらく入院になる」

『……なぜ?』

「カツトシはまだ見つかっていない。何か嫌な予感がするから、もう少ししたら帰る」

 少しの間黙って、それから都が『あなたが嫌な予感、なんていうのは珍しくて少し怖いわ』とだけ言った。タイラは苦笑する。

「少し大袈裟に言いすぎたな。何があっても、対処できないほどじゃないから安心して待ってて。できればユメノたちに上手く話しておいてくれ」

『……わかっているわ。気を付けて』

 電話を切って、タイラはカツトシの電話番号をコールした。繋がらない。こんな時間にカツトシが行くところなどないのだから、探そうにもお手上げだ。とりあえずは、足取りを追うしかない。

 カツトシの行きつけの酒屋、八百屋のあたりに行ってみたが、そのほとんどがシャッターを下していた。

 どこに行っても意味がない。こうまで何もわからないと、あとは瀬戸麗美を頼るしかなくなるが。

 こんな夜は、面倒ごとを呼ぶものだ。経験則でものを語るほど記憶のいいほうではないが、大抵面倒ごとは雨の日の夜や雨上がりの夜に集約される。しかも、珍しく自分が酔っていない日に――――それは、好意的に見ればツイているのかもしれないが。

 不意に肉屋の前で、「イチくん」と呼び止められる。振り返ると、人好きのするいつもの笑顔を浮かべた百瀬が立っていた。

「こんな時間なのに酔っていないなんて、珍しいじゃないの」

「ああ……モモちゃんさ、カツトシ知らねえ?」

 カツトシ、とオウム返しして、百瀬は腕を組む。すぐにタイラは、百瀬に聞いても仕方がないかもしれないなと思った。

 カツトシが百菊肉店に来ていた可能性はあるが、どちらにせよ店頭に立っていたのは百瀬ではなく菊花だろう。知らないなら、と言いかけたタイラをさえぎって、「最近よく男の子といるよね」なんて当たり前のように百瀬は言った。

「オトコノコ?」

「ああ。不思議な感じだったなぁ。そう仲がよさそうな感じでもないんだけど、雰囲気が何となく似てるんだ」

「カツトシと、そいつがか」

「そう。ほら……なんだっけ、あのカメラ屋の屋根の下でよく話していたよ。声がかけづらい空気だったんだけど、そうだなぁ、ちょっと挨拶ぐらいするべきだったなぁ」

 目を細めた百瀬は、どこか悲しそうな顔をする。何か危惧すべき空気を感じ取っていたのかもしれない。そうか、と瞬きをして、タイラは軽く片手をあげる。

「サンキュ、な。ちょっと行ってみるよ」

 背中を向けるタイラに、「ああそうだ」と百瀬が呼び止めた。「安全装置セーフティを、持っていくといい」なんて、真顔で言う。

「セイフティー?」

「君は、君が思っているよりずっと“やりすぎ”なんだ」

 目を丸くして、タイラは首をかしげた。それよりもっと困った顔をした百瀬が、「じゃあね、また」と手を振る。タイラは自分の手をじっと見たのち、同じように手を振って見せた。

 特に期待せずカメラ屋の前を訪れたタイラは、そこで細く弱々しい人影を見た。うずくまり、ずっと嗚咽を漏らしている。

「おい、どうした」

 声をかけながら近づくと、その青年の手が真っ赤に濡れているのに気付いた。叱られた子供のように体を縮ませながら、何とかタイラの声もやり過ごそうとしている。

「怪我をしてるのか」

 肩を叩きながら、ようやくタイラはその青年が何者かを

「ああ――――ハセガワって、いったか」

 なるほど、ノゾムの言っていた『長谷川』という人間のことを、どうやら自分も知っていたようだ。タイラはそうひとりごちて頷いた。

 怯えて顔を上げた青年の目を見ると、焦点は合わずぐるぐると回っている。限界を迎えたように、長谷川はその場で吐いた。しばらくそれを観察して、タイラは「薬中かよ、ドン引きだな」と肩をすくめる。

「ノゾムを刺したのはお前か」

 と問うてみた。長谷川は震えただけで、答えない。呆れてこれ見よがしにため息をついてやると、ひどく辛そうにその身を小さくした。タイラはベルトにつけていたナイフを出して、長谷川に差し出す。

「……? ……ぁ、の」

「どうした。俺を刺さないのか」

 動揺した面持ちの長谷川が、差し出されたナイフとタイラの顔を交互に見た。それからようやく、「あの時の」とだけほとんど吐息のようなかすれ声で呟く。逃げ道をふさいでいくように、タイラは口を開いた。

「ノゾムのことを刺しておいて俺を刺さないのはフェアじゃないだろ」

 みるみるうちに、長谷川の顔が赤くなっていき、「オレは人殺しじゃない」と怒鳴る。どうやら長谷川青年は、自分がスズキノゾムを殺してしまったと信じて疑わない様子だった。「そんなことできない、刺すつもりなんかなかった」と頭を抱えながら言葉を次々と吐き出していく。


「死なせるつもりもなかった」「なんでオレばっかり」「どこで間違ったんだろう」「生まれてこなきゃよかった」「誰も許してくれない」「オレが悪いのかよ」

「もうやめてよ」「幸せになりたかっただけじゃん」「何やっても、上手くいかない」「死にたい」「やり直したい」「――――オレが悪いの?」


 それはまるで、自分を縛る呪いを1つ1つ読み上げていくようだった。かつてイジメによって死んだ少年の件と、今回のノゾムの件が混ざって、感情整理ができなくなっているようだ。

 タイラは瞬きをして、しゃがむ。青年と目線を合わせ、いきなりその額を指で弾いた。


「お前が悪いよ」


 長谷川は驚いて、口を半開きにしたまま額を押さえる。腕を組んだタイラが、じっと目を見据えた。


「だけど、それだけがお前の全てじゃないよ。逃げ道にすべきものを間違っているよ、お前は」


 目を見開いたままうつむいた長谷川が、しばらく放心した様子で泣いている。タイラのことを見て、ただ眩しげに見て、「そっか、あれだけじゃないんだ、オレの人生」とだけぽつりと言った。それはどこか、敗北宣言にも聞こえた。

 それからよれよれのシャツの袖で目の辺りを拭って、立ち上がる。

「カツトシさんのこと、助けに行かなきゃ」

 そんな独り言に、タイラは思わず「おい」とまた呼びかけた。

「カツトシのこと、知ってるのか」

 しかし長谷川は振り返らない。ただ、「わかってる。わかってたんだ」とうわ言のように呟いただけだ。

「神様なんてどこにもいなかったんだ。誰も許しちゃくれなかったんだ。そんなこと、わかってたのに。ピエロを見て喜んでただけだ。一緒に踊ってるつもりで、踊らされてただけだ」

 タイラも立ち上がり、それを追いかける。

「待てって。なんだよ、最近話を聞かねえやつが増えたな」

 手を伸ばし、長谷川の肩をつかもうとしたその時――――、街中の寝た子を起こすような銃声が響いた。

 目の前で、ゆっくりと長谷川が倒れる。それを引きつった顔で見ながらタイラは、

「……運動会、やってる時間じゃねえぞ」

 と、目の前の銃を構えた男に茶化して言った。

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