episode31 道化には道化の覚悟がある

 レインコートを着ているらしい男は、何も言わずに真っすぐ銃を構えなおす。それがタイラの頭に向けられる前に、タイラは踏み出した。


 雨は止んで久しいが、どこか鼻の奥を刺激するような水のにおいがする。あるいはそれは、夏の予兆といってもいいのかもしれない。水たまりを踏み荒らし、タイラは男の懐に滑り込む。

 猛然と駆けるその姿にいささか動揺した様子で、男の反応が遅れた。タイラは身を低くし、真っすぐ伸ばした男の腕の下に潜り込む。それからくるりと反転し、男の腕を後ろ向きで掴んだ。自分の肩を支点にする形で、タイラは――――

 迷いなく、男の腕を振り下ろした。肘のあたりから曲がらない方向へ曲げられ、骨の折れる音がする。男が悲鳴を上げ、銃を手放した。

 素早く銃を拾い、タイラはうずくまる男にそれを突きつける。

「誰だお前は」

 男は、信じられないものを見るような目でタイラをにらんだ。それだけだ。問いに関する答えはない。タイラは続けて、「アイゼンカツトシという男を知らないか」とも尋ねてみる。男が、何か吐き捨てた。それは、どうやら日本語ではなかった。

「……話を聞かないやつばっかりだとは思っていたが、ついに言葉が通じねえ」

 痛みに耐えていた男が、やがて嗚咽を漏らし始める。泣かせたいわけじゃないんだよ、と呆れて言ってやるが、それも通じた様子はない。男の腕はみるみるうちに腫れ、男も泣きたいわけではないのだろうが悔しそうに泣いている。しばらく考えて、「美雨メイユイ」とはっきりした発音で言ってみた。男が驚いたように顔を上げる。その反応に、タイラは納得してうなづいた。

「なるほど、美雨のところの犬か」

 何か噛みつくような素振りを、男は見せる。苦笑しながらそれを避けた。「あの女のところに案内してもらえると嬉しいんだけどな」と優しく言ってみるが、男は何か恨み言を吐いただけ。

 それから男は、不思議な動きをした。タイラを睨みながら、舌を出したのだ。

「――――は?」

 一瞬、挑発でもされているのかと訝しむ。が、すぐにその意図に気付いてタイラは銃を放り出し、男の首を絞めた。唇の端から血が流れる。男は舌を噛み切ろうとしていた。

 まったく、殉教とはご立派だ。本当にその勇気があったか今となってはわからないが。

 泡を吹いて気絶している男を見下ろし、タイラはため息をつく。

「近いうちに挨拶に行くと、美雨に伝えておけよ」

 聞こえているはずもない男にそう吐き捨てて、踵を返した。それから倒れたまま動かない、長谷川の体を起こしてやる。

「おい、生きてるか」

「……オレ」

 長谷川は血を吐きながら、微かに喉を震わせた。「オレ、死んだらどこかしら使えるのかな」と、途切れ途切れ言う。

「使える?」

「臓器、提供みたいな。ああでもオレ、免許証の後ろ何も書いてないや。……失敗したなぁ」

 不意に、タイラは吹き出した。そのまま、こらえ切れなくなったように笑う。ひとしきり笑った後で、タイラはそっと長谷川の目を手のひらで覆った。

「伝えておくよ。まあ、使えるもんかどうかわからないが」

 最初のうち、瞼がぴくぴくと痙攣したが、すぐに動かなくなる。長谷川青年は眠りに落ちたようだった。これもまた殉教だろうか。自らの罪にひたすら傅いた青年の眠りが、せめて穏やかであればいいと、柄にもなく思いながらタイラは笑ってやったのだ。




☮☮☮




「あんた今何時だと思ってるわけ」


 これが、電話を掛けた時の瀬戸麗美の第一声だった。タイラはもう一つの携帯電話を出して、時間を確認する。

「1時を過ぎたところだ」

「バッカじゃないの。バッッッカじゃないの」

 どうやら寝ていた様子で、罵倒も幾分かストレートだった。そうだな、ととりあえずは肯定して、タイラはすぐ本題に入る。

「教えてほしいことがあるんだけどさ」

「人にものを頼むときは、夜中にいきなり電話したりしないのよ。人並みに常識がある人間は」

「俺に人並みの常識を求めるのか?」

「この際だから言うけど、あんたの『俺だからセーフ』みたいなクソルールは見直したほうがいいわよ」

 善処するよ、とタイラは口だけ言っておいた。そんな気さらさらないくせに、と麗美は言う。少しは目が覚めてきたらしい。「で、何の用よ」と空咳を一つしてから麗美が尋ねた。

「長谷川ってガキ、覚えてるか」

 返答がない。なぜか、息をのむような気配を感じ取った。「……ほう?」と思わずタイラは携帯電話を握る手に力を込める。

「その様子じゃ、知ってたな、お前」

 電話の向こうで、ベッドがきしむような音がした。どこか落ち着かない様子で、「言っとくけど」と麗美は言う。

「あの子供のことは放っておきなさいよ」

「ノゾムに伝えたのもお前か?」

「……あの子に何かあったわけ」

「いや、宝木か? どっちもか。ふうん、なるほどね。まあ、正直ノゾムが行動を起こすとは思わないよな」

 だから何が、と言いかけた麗美を、タイラは「まあいいんだよ、それは」とあっさり躱した。

「俺が聞きたいのは、ただ長谷川の行動だけ。どうせお前、見張ってたんだろ。あのガキが足しげく通ってた店とか、もしくは……ハマってた宗教団体の集会所でもあるんだろ」

「……っ」

 言葉を詰まらせた麗美が、しばらく何か考えている様子だった。それから、何かなだめるように「そんなこと知ってどうするの。あの子供をどうするつもり?」と尋ねてくる。タイラは目を細めて、「いや、この際あのガキは関係ない」ときっぱり答えた。

「関係ないが……どうやらうちの馬鹿がもう1人、あのガキに入れ込んだみたいでな」

 一拍置いて、「アイゼンカツトシ?」と麗美が短く確認する。「それも知ってたのか?」とタイラは辟易とするが、麗美は静かに「当たりをつけただけよ、アレを肯定しそうなのはあんたのとこじゃなかなかいない」とため息をついた。

 なるほど、そうかもしれない。逆に言えば、カツトシであればアレを肯定する。肯定しなければならない。そうでなければ、愛染勝利は自分自身をも否定することになる。

 難儀だな、とタイラは思わずつぶやいた。「他人事ね」と麗美が冷たい声で言った。

「まあ、その、なんだ……。簡単に言えば、長谷川がハマっていたその宗教団体の関連地に、カツトシもいる可能性が高い。だから教えろ。じゃないと、場所を選ばず暴れるぞ」

「端的に脅してこないでよ」

 深い深いため息をついて、麗美は「集会所がある」と短く答えた。どこに、と尋ねれば場所も答える。

「ハセガワくんは、まあ確かにあの宗教団体にはご執心だから……アイゼンカツトシと仲良くなったのなら連れて行っていてもおかしくはないけど。だけど、タイラ」

「ん?」

「相手はピンインよ、面倒なことになる」

 しばらく熟考して、タイラは天を仰いだ。

「なんだっけ、それ。人の名前?」

 呆れたようなため息がすぐそばで聞こえる。弁解の時間も与えられず、電話が切れた。




☮☮☮




 「殺すの」

 話を聞いたユメノは、真っ先にそう言って噛みつくようにタイラを見た。帰ってきたばかりでカウンターの丸椅子に腰かけながら、タイラが「誰を」と呟く。

「アイちゃんのこと」

 そう言ったユメノは至極真面目な顔だ。それだけは阻止せねばならないと思いつめた表情だ。

「誰がそんなことを言った。『もし宗教にどっぷりハマっているようだったら連れ戻すのは難しいかもしれないな』と俺は言ったんだよ」

 タイラの表情は変わらない。カツトシの居場所はほとんど掴めた。そうとくればタイラワイチのやることは一つだ。正面から乗り込んで、殴るだけ。

 硬い表情をしてユメノが、「連れて行って」と言った。

 ようやく、タイラの表情が僅かに変わる。「なるほど?」と言いながらユメノを見た。

 なぜだろう、ユメノはその表情を見たことがあると思った。それは、どこか空白のような微笑だった。

 タイラは手を伸ばし、一息にユメノを担ぎ上げる。

「いいぜ。あの馬鹿に用があるやつはみんな連れて行ってやる」

 タイラ、と都がたしなめるように声を上げた。それをかわし、タイラは周りをぐるりと見て「他に行きたいやつは」と聞く。ユウキが――――実結でさえ『行く』と答えそうな空気だった。それを、やはり都が「子どもたちをけしかけるような真似はやめて」と抗議する。タイラは肩をすくめて、仲間たちに背を向けた。

「――――そうだな。今日のところはユメノに譲ってやれ。俺たちの始まりの日から、あの馬鹿を止められるのはユメノだけなんだ。なあ、そうだろ」

 言って、タイラはユメノを横目で見る。それから、ほとんど吐息のように彼は言った。

「殺さねえよ。そういう気分じゃねーから」と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る