episode19 バナナのメレンゲ添え

 本日は、晴天なり。

 ふう、と汗をかいてカツトシはピザ生地をオーブンに入れている。今日は火曜日だ。店が定休日のユメノも、カウンターに座って自分の爪に息を吹きかけていた。

「どう思うよ、ネイル」

 そう問いかけられたノゾムは、「それって風呂入る時には剥がすんすか?」と質問で返す。「お前に聞いたあたしが悪かったわ」と言いながら、ユメノは前のめりになってカツトシに爪を見せた。「やだ可愛い! ミルキーブルーね!」とカツトシは嬉しそうな顔をする。

 ユウキは友達と遊びに行っていた。都と実結は、2人で出かけている。百瀬家と親交を深めたらしく、今日はランチでも共にするらしい。仲間として寂しく思ったが、誰よりタイラが喜んでいたのでユメノたちには何も言えなかった。

 タイラといえば、昨日から帰ってきていない。ただ朝3時ごろにノゾムに電話がかかってきて、「ゴマ油で風呂沸かす」などという謎の言葉を残していったので飲酒していることは間違いない。起こされたノゾムはご立腹だ。「本当にごま油で揚げられればいいのに」と起き抜けにノゾムは言った。

 時間は、ちょうど昼時を過ぎた14時ごろ。日本のアフタヌーンティーにはまだ少し早く、客もいない。「今度、ネイルケアも任されるんだ」とユメノは楽しそうに言う。「さすがユメノちゃん」と言いながらカツトシはオーブンを覗いた。

「それにしてもタイラさぁ、どこで飲んでると思う?」

「ヒイラギさんがどうたらって言ってましたけど」

「んー、ヒイラギさんってあのお医者のおじいちゃんかな」

 伸びをしながら言うユメノの背後から、「平和一ならば、男女5人程度の集まりで西洋風の宿場へ向かって行きましたよ」といきなり声がする。驚いて飛び上がったユメノは、振り向いて「ひえっ」と声をもらした。

「き、昨日の……おく、さま」

 まるで物音などしなかったが、いつ入って来たのか。昨日のタイラの客が、今日もやって来ていた。「タイラはいないよ」とユメノは恐る恐るまた椅子に腰かけながら言う。「わかっています、先ほどすれ違いましたから」と女性はうなづいた。

「今日はただこちらにコーヒーを飲みに来ただけです。最近はコーヒーを美味しく飲めるお店も減りましたからね。探しているのですよ、いいお店を」

 ご期待に添えるといいけれど、と言いながらカツトシはコーヒー豆を挽き始める。女性はにこりともせず、「昨日は名乗りもせずに失礼しました」ときびきびした声を出した。

わたくし最上もがみと申します。街のはずれで児童養護施設を営んでおります。辺鄙な場所ですので立ち寄ることもないでしょうが、近くまで来た際にはどうぞ。お茶をお出ししますよ」

 しかめ面でそう言って、彼女は一度会釈をする。つられて頭を下げるユメノたちを見て、満足したようにカウンター席についた。背筋をピンと伸ばして座る最上を見て、ユメノたちは少し距離を置く。聞こえないくらいの小声で、「どうするアレ」と話した。

「昨日の様子を見るに、あの人なんか強いよ」

「で、厳しい。自分なんか無職とか言ったらタマ潰されそうですもん」

「あんたそもそもタマなんかついてた?」

 アイちゃんさんに言われたくねえ、とノゾムは顔をしかめる。意を決したように、ユメノが「最上さんって、タイラのお母さんなの?」と尋ねてみた。最上はじろりとユメノを見る。

「それは、平和一本人に聞けばよろしいのでは。もちろん名乗らなかった私も礼儀知らずではありましたが、てっきりアレがある程度は説明しているものと思っていましたが」

 うっ、と言葉に詰まったユメノは、そのまま何も言わずにうつむいた。ため息をついて、最上が続ける。

「アレを子と思ったことはありません。先ほど申しあげたとおり、私は児童養護施設を営んでおりまして。アレはうちの出身です。まさかそのような話もしていない?」

 ユメノたちはそっと目をそらし、黙った。カツトシは、まるでピザの焼き具合だけが心配という顔でオーブンを見ている。目を細めて、最上が尋ねた。「あなたたちは、平和一とどういう関係なのですか。どうやらアレについて何もご存知ないようですが」と、鋭く指摘する。「何もご存知ない、わけじゃないよ……」と言ったユメノの声も、最後には尻つぼみだ。

「知っていることはたくさんあるよ。タイラワイチは、」

「アレが本当にそのような名前だと?」

「違うの!?」

「いいえ、ただ、あの男にはそれを証明するすべがないようなので。何を根拠にそれを信じるのかと気になっただけです。あの男がそう名乗ったから、というだけですか?」

 ユメノは黙って、うつむいた。どうやらふてくされているようで、唇をとがらせている。見かねたノゾムが頬杖をついて「じゃあ教えてくださいよ、あの人のこと」と言った。最上は表情を変えず、「私に答えられるようなことがあれば」とうなづく。

「ああ……じゃあ、好物とかは?」

「知らないのですか」

 出鼻をくじかれた顔をして、ノゾムも黙った。最上は「失礼」と真面目な顔をする。「私よりもあなた方のほうがよく知っているだろうと思いましたので」なんて少しだけ申し訳なさそうに言った。言葉の足りないところはあるが、基本的には真面目な婦人らしい。

「なんせアレは、子どものころ好物というものがなかったので。食べられるものと食べられないものの区別も曖昧で、ほとんど動物を相手にしているようでした」

 はっきりと、最上は言った。言葉は鋭いが、嘘をつかない誠実さは感じる。少しだけ、ほんの少しだけ、タイラの物言いと似ていた。「じゃあ、誕生日は」とユメノが尋ねる。「覚えていませんね」と最上は当たり前のように答えた。

「そも、我が園では子どもの誕生日を祝ったりはしないのですよ」

「えー。そんなの寂しいじゃん」

「誕生日とは残酷なものなのです、子どもにとっては。たとえば、あなたが今日、誕生日だとします。私は誕生日ではありません。それだけで、どれだけ疎外感があるか。どれだけ恨めしい気持ちになるか」

「でも、みんな誕生日があるんだから。いつか自分の誕生日も来るし」

「そうかもしれませんが、子どもにとったらそうではないのです。何ヶ月か後の自分の誕生日より、今日祝われている子の方が幸せそうに見えるものですよ。ですから誕生日は祝いません。その代わり、クリスマスを精一杯祝います。誰もが主役ですので」

 へえ、とユメノは目を丸くする。「サンタさんって来た?」なんて重ねて尋ねれば、「プレゼントを用意する余裕などありませんので」と最上は目を細めた。それからふと表情をやわらげて、「誰かに特別、ということはしないようにしました。でも、そうですね」と恥ずかしそうに続ける。

「何か褒められるようなことをした子には、パフェを、こっそりと。当時レストランになど行ったことのない子どもたちを、騙すような安上がりなものでしたが」

 ポカンとした顔で、ユメノが「ぱふぇ?」とおうむ返しした。そういえば、とカツトシがオーブンを開けながら言う。「タイラ、あいつ、疲れるとパフェ食べたがるわよね。案外そういう、自分へのご褒美的なイメージかもしれないわよ」なんて興味のなさそうな顔をした。まさか、と最上は笑う。

「アレが褒められるようなことをした時なんて……ああ、一度くらいはあったかもしれませんね。一度……そう、わたしは」

 ふと、最上は表情そのままでうつむいた。「そう、わたしは、言ったのですね、あの時」と静かに呟く。それは、どこか懺悔の響きにも似ていて。どうしたんすか、とノゾムが気遣って尋ねた。

「あの子の名前は、和一と言います。平和の和に、漢数字の一で和一です」

 知ってるよ、とユメノが言う。「ほんとかどうかわからないけどね」とカツトシは言葉を重ねた。

「名付け親がどういった意味をそこに込めたかわかりませんが、和といえば足し算の答えでしょう。和が一。つまり、『足して1になる』と」

 ユメノたちは目を丸くして、「たしていちになる」と繰り返す。それは確かに、タイラの好む言葉ではあった。何度か聞いた言葉ではあったけれど、その意味を聞いたことはなかったかもしれない。ただタイラ本人が、「陳腐な言葉だ」と言っていたのを聞いて、なんとなくその意味も分かったような気にはなっていた。

「あの時……確か隣家に住んでいたお嬢さんが野犬か何かに襲われましてね、それをタイラが、まだ食べられるものと食べられないものの区別もつかないようなタイラワイチが、助けたらしいのですよ。お嬢さんはいたく感謝して、しばらくあの子のもとに通っていました。すぐに引っ越していってしまいましたけども、ね。ただ確かにあの子は、人に感謝されることをしたのですよ。だから、そう、パフェの1つくらい作ってあげようか、と。その時に、私はあの子の名前について」

 こほんと空咳をして、最上は遠くを見る。何か細い糸を手繰るような、遠くにある風船の色を言い当てるような響きで続けた。

「人とは、すべて未熟なものです。みな、1になれない半端者たちです。それでも……『それでもあなたがこうして人を助けることができるのなら、いつか足して1になる数字が現れて、あなたと一緒になるでしょう』と、そう言ったのですよ。『あなたの名前は素敵だ』と」

 へえ、とユメノが感嘆の声をあげる。「だから、タイラはその言葉が好きなんだ」と、納得してうなづいた。「好き? まさか。そんなはずがありませんよ」と最上は穏やかに言う。「その後で、私は言ったのですから」なんて、一瞬だけ目を閉じた。

「――――あの男が犯した2度目の殺人を、あなた方は知っていますか?」

 いきなりそんなことを問われ、仲間たちは表情を失くす。「いや、1度目も知らないんすけど」と、かろうじてノゾムが声を発した。最上は目を開けて、特段説明もせずに頭を振る。

「あれは、まだあの男が学生をやっていた時のことです。電話をしてきました。淡々とあったことだけを、事務連絡のように報告してきただけでした。どうすればいいかと問われたわけではありませんでした、助けてほしいと乞われたわけでもありませんでした。ただ『人を殺した』と報告されました。あの時、アレが何を求めていたのか……今でもわかりません。ですが私は、あの時のわたしは、ただ善良な市民のように、彼らが殺人犯にするように、ただ批判したのですよ。『お前はあまりにもマイナスだから、誰も一緒になろうとは思わないだろうよ』と。口走ったといえば、そうです。そんなことは私じゃなくても誰だって言えたのですから」

 一息ついた最上の目の前に、カツトシが香り立つコーヒーをそっと置いた。それを熱そうにすすって、最上は少し笑う。「なかなかですね、これだけでも十分やっていけますよ」との褒め言葉にカツトシが頭をかいた。

 それで、と緊張した面持ちでユメノが尋ねる。

「タイラはそれに、なんて言ってたの」

 間髪入れずに最上は「どうりで、と。気をつけるよ、とも言っていましたかね」と答えた。「特段変わりない声色でした。少し疲れた様子でもあったと思いますが」なんて言いながら少し遠い目をする。もうずいぶんと昔の話ですので、と苦笑しながら。

 コーヒーに息を吹きかけながら、最上は「マスター」と呼びかけた。最初、それが誰を示したものなのかその場の誰もわからなかった。しばらくしてようやくカツトシが、裏返った声で返事をする。

「マスター、卵白などあるでしょうか」

「え? ええ……でもそんなもの」

「泡立てるのですよ」

「メレンゲ?」

 入ってもよろしいですか、と言いながら最上がずかずかとカウンターを分け入ってきた。卵の白身を泡だて器でかき混ぜ始める。バナナは、と問われてカツトシも殊勝な顔をしながら「あります……」と答えた。最上は手際よくバナナをスライスし、白いメレンゲをそのまま飾り付ける。ふう、と息を吐いて最上はそれをカウンターに出した。

「これが、我が園の誇るパフェです」

 その場にいたカツトシたちは、正直目を疑う。そして冗談を言っているものと最上を見て、その清々しいほどのやりきった顔に再度戸惑った。ただ誰もが黙り込んで、「違いますこれはバナナとメレンゲです、商品名にしたら……いえやはりただのバナナとメレンゲです」と言い出せないでいる。

「では、私はそろそろお暇しますので」

「えっ。このバナナ……じゃなくてパフェは」

「どうぞ差し上げます。コーヒーは1杯おいくらでしょうか?」

 小銭を出し始める最上に、ノゾムが「自由っすね」と呟いた。このありがた迷惑、確かに平和一を育てただけある、と言えなくもない。出て行こうとする最上に、ユメノが何か聞きたそうな顔をした。最上は目を細めて、「またお会いすることもあるでしょう。お話はその時に……いえ、タイラワイチ本人に、お聞きなさい」と言い残して扉を開ける。優雅な仕草であり、吹き込んだ風のみが鐘を鳴らした。すぐに最上の姿は見えなくなっていく。

 呆気にとられるユメノたちの前に、入れ違いのように現れたのはユウキだ。

「ただいまです! いま、この前のおばあちゃん来てましたか?」

 そうなの、とカツトシが言う暇もなくユウキは手を洗いに行ってしまう。ユウキが戻ってくるころ、都と実結も帰ってきた。都も実結も、明るい表情をしているように見える。楽しかったか問おうとしたその時、タイラが酒場のドアを開けた。思わず、ユメノたちは背筋を伸ばす。「いま、」と言いかけたカツトシを遮って「腹減った」と言ったタイラは、どうやら疲れている様子だった。

「ったく、勘弁しろよ……金輪際さ、外で酒飲まないって誓うよ俺」

「できないことを誓っても仕方ないと思うけど」

 思わずそう言ってしまってから、カツトシは少しうつむいた。「どうした」とタイラは怪訝そうな顔だ。無表情のままのノゾムが、いきなりタイラの目の前に最上が作ったパフェらしきものを置く。なんだこれは、とタイラは当惑した。

「疲れてるんでしょ、どうぞ。パフェです」

「違う、これはただのバナナとメレンゲだ」

 ユメノたちが気を使って言えなかったことを、あっさりと言ってのける。どうやらこのパフェらしきものに関して、何も感慨はないらしい。「覚えてない?」とカツトシが確認すると、「何が」と逆に尋ねられた。

「つうか本当にこれをパフェと通すのか? パーフェクト略してパフェだぞ。何なの、君んち貧乏なの?」

「その言葉、そっくりそのまま返すけど」

 1口食べて、「やっぱりただのバナナじゃねえか」とタイラは言い捨てる。それはそうだ、メレンゲにすら何の味もついてはいない。もそもそと、それでもタイラは皿を綺麗にしていく。ふと、気づいたように顔を上げた。

「そういや先生、モモちゃんたちとどこ行ってたんだ。ボルダリング?」

「いえ……確かにあの家族は体を動かすことが全般的に好きなようだけれど。もうすぐお子さんが生まれるって」

「あそこんち子供できすぎじゃねえ?」

「だから今日は、絵本を見に行ったの」

 嬉しそうな実結が、にこにこと買ったばかりの絵本を見せる。「ミユね、モモちゃんのこときにいりました!」と胸を張った。そりゃあ、と言いながらタイラが実結を抱き上げる。

「妬けるなぁ。モモちゃんより俺の方が男前だろ?」

「おとこまえ?」

「イケメンだろ」

「そうよ、タイラはいけめんなのよ。あのね、タイラはおしゃべりしなきゃイイオトコってキッカちゃんいってた」

 仏頂面のままタイラは黙った。

 膝の上で絵本を読み始めた実結の頭を撫でながら、タイラがぼそりと「何か言いたいことがあるなら言えよ」と呟く。カツトシとノゾムは、気圧されたように少し身を引いた。ユメノだけがカウンターに手をついて、「じゃあ聞くけど」と切り出す。慌てて止めようとしたノゾムの腕を払って、ユメノはタイラを見た。

「あのさ、好きなものってなに?」

 肩透かしを食らったような顔のタイラが、考えるよりも先に口を開く。

「お前らだ」

 仲間たちが全員むせた。真っ赤な顔をしたユメノが、「そういうこと聞いてるんじゃなくて」と一生懸命に訴える。タイラだけが何だかわからない顔で、「そうか? なんだ?」と眉をひそめていた。しばらくユメノは、何か継ぐ言葉を探して難しい顔をする。

 タイラといえば、もう興味を失くしていた。実結の絵本を興味深そうに見ながら、不意に彼は柔らかな声で言葉をもらす。

「まあ、甘さ控えめと思えば悪くもないかもな」

 それが最上特製のパフェに対する感想だとは、しばらく誰も気づかなかった。

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