episode17 エゴなど神に食わせておけ

 平和一が「教えてほしい」と言って万札を投げつけてから4分、彼と瀬戸麗美の間には苦いにらみ合いが続いている。仕方なさそうに口を開いたのは麗美だ。

「あんた、ピンインに手を出したでしょ」

 眉をひそめたタイラが、「なんだそれ、新しいゆるキャラか」と言い捨てる。麗美はため息をつき、「そんなことも知らないで、大事な実験体を盗んできたわけ?」と呆れた声を出した。

「実験体、か。なるほどな、さすがドレミ。早耳だな」

「ピンイン絡みだったら、私なんにもしゃべらなーい」

「絡みっつうか、まあ、その実験体くんだか実験体ちゃんだかを元の場所に戻したいんだ、俺は」

「戻すぅ? 居場所なんてないんじゃないの」

 どういうことだ、とタイラは怪訝そうな顔をする。麗美は迷った末に、「まあこれは常識として問うけど」と前置きをした。

「あんた、ピンインってほんとに知らないの?」

「知らねえな。ペングウィンなら知ってるけど」

「ペンギンでしょ、それ。腹立つ発音やめて」

 空咳をして見せて、麗美はタイラを呆れ顔で見る。

「……海の向こうで興った新興宗教団体よ。実態はよく掴めないけど、指導者は1人、それでもかなり数を増やしてこの国までわざわざ進出したってわけ」

「そりゃご苦労なこったな」

 そうね、と言いながら麗美はタイラの目を見て、唐突に「あんた神さまって信じる?」と問うた。どうでもよさそうな顔をしながら「気分によるが」とタイラは答える。

「今の気分的には?」

「俺が神だ」

「……ありがとう、なんか元気出たわ」

 そうか、とやはり興味のなさそうな顔でタイラは言った。冗談であることは疑いようもないが、どうやら自分でもつまらないことを言ったという自覚があるらしい。言い訳もしないが、決して晴れやかな顔もしない。ただ頭をかきながら、「で?」とタイラは言う。

「神様がなんだって?」

「別に。宗教の話になったから聞いただけなんだけど」

「そのピッチャンってのには神がいるのか」

「えっ、びっくりした。全然違うんですけど、ピンインなんですけど。蛇の目でお迎えかよ」

「そのペヤングが」

「カップ焼きそば」

 一文字もかすってねえよ、と麗美は真顔で腕組みした。「間違うにしても韻くらい踏めよ」と不満そうにも付け足す。さっぱり覚える気のなさそうなタイラは、どこか遠くを見て煙草のパッケージを出した。「神もいるわよ、100人が同じ方向を見るのなら、そこに神はいるのよ」と言いながら麗美も煙草をくわえる。

「それで、一応ピンインってのが宗教団体であると同時に……なんていうの。科学者の集まりらしいのよ」

「科学……な。科学と宗教はなかなか似た学問だな」

「それにはちょっと、色んな意味で同意できないけど……。ピンインの目指すものの一つに、思想統一による恒久的平和ってのがあってね。あんたが好きそうな話よね」

「そりゃ、どうだろうな……。俺は1つの箱に入れた大衆が上手くいくさまを想像できないし、同じ枷を背負わせたところで耐えられないやつから潰れていくだけだ。残ったやつらだけの理想郷……それを平和とは、さすがに俺も言わねえ。キリのない話でもあるしな」

 ふうん、と言いながら麗美は甘い香りのする煙を吐き出した。何か考えるように目を細めたが、やがて完全に目を閉じて呟く。「そうね、あんたは支配者ではないもの」と。それから納得したように目を開き、タイラを見た。

「兵器なのか武器なのか、とにかく奴らはそんなもんを開発してんのよ。恒久的平和のためにね」

「宗教そのものが、最大の兵器だと昔聞いたことはあるが」

「『方向性の決まっている1つのモノに取りつかれた民衆は兵器を超える』ってことでしょ。同感ね。妄信は命よ、死ぬ気の人間は爆弾と同じ厄介さだから。ピンインを見ていると特にそう思う。あいつらは、兵器としての人間を作ろうとしている」

 腕を組んだタイラが、静かに眉を顰め「薬か」と呟く。「思い当たる節でもあるわけ?」と麗美はからかうように首をかしげた。

「そ。ピンインはその思想で信者の数を増やしたわけじゃない。あいつらは自前の麻薬を売りさばいて、自分たちに都合のいい戦士たちを育ててきたの。なぜピンインが海を越えて信者を増やすほど成長したのか……私も不思議だったけど。そりゃあ信者も増えるわよ。薬でお手軽な快楽、そしてそれを肯定する神。この街も危ないわよ、だってそういう深みにハマりそうなやついっぱいいるもん」

「そして薬と宗教の言いなりになったやつらが、思想を違えた人間を皆殺しにする……それがゴールなわけか」

「究極的な理想はそれ、っていうか謳い文句はそんな感じね」

 合理的に狂っている、とタイラは評する。肩をすくめた麗美は、「でも金は稼げるわ、自営も自衛も完璧だし」とつまらなそうな顔で言った。だから合理的だ。だから狂っている。手段が目的を破綻させていると言ってもいい。否、もちろんそれは、目的を『恒久的平和』などというものに定めているのならという話だが。

 一つため息をついて、「あんたたちが盗んだのはね、信者たちの娘や息子なのよ」と麗美は仕方なさそうに言う。

「まあ、どこかから誘拐してきたような子もいるかもだけどね。多くは、『うちの子を実験に使ってください』なんて差し出された子よ。だから言ったでしょう、居場所なんてないんじゃないのって。帰るところなんてない。家族に、『恒久的平和』の礎になるよう送り出された子供たちだわ」

「……道理で宝木警部補が動かないわけだ。被害届も出てねえんだな」

「かもね。で? 帰れない子供のその行く末に、あんた責任とれるわけ?」

 とらねえな、とタイラは間髪入れずに答えた。あまりに簡潔な答えだったので、麗美は聞き返すことさえしなかった。少し笑いながら、タイラは続ける。

「ガキの行く末に、なぜ他人が責任を持つ。そんなもの、親の役割だろうが。まったく、一から十まで気に入らねえ話だな。どいつもこいつも神様なんかに責任を押し付けやがって。ガキどもの保護者についても聞こうと思っていたが、優先順位が逆だな。捕らぬ狸の皮算用だ、とりあえず全員連れて来ねえとな。ちなみにこういう時はさ、一体誰を殴ればいいんだ。親かな、神様かな」

 逡巡した末に、麗美は答えた。「どっちもじゃないの」と。タイラが楽しげに笑って、「そりゃ、わかりやすくていい」とうなづく。そうしてまた、財布から紙幣を出して麗美に押し付けた。冗談のような軽やかさで尋ねる。

「で、あいつら今どこにいる?」

 そっぽを向いた麗美は、しばらく金も受け取らずに黙っていた。しかし1分が経ち、我慢できなくなったように麗美はタイラを見る。

「一つ聞きたいんだけど」

「俺にか?」

「あんたがその件に首を突っ込むのは、ただ仕事のためなわけ? それだけ情報に金を出しちゃあ、儲けも出ないんじゃないの。もし、あんたのとこの新しい女のためなら」

「違うな、仕事だからだ。信頼は買うものだろ、基本は自分の腕で。時には儲けを度外視しても」

「……どうだか。あんた、身内に甘いから」

 言いながらも、ついに麗美はタイラの金を受け取る。ふてくされ顔で、「もう街は出たわよ」と言い捨てた。

「不審なトラックが海の方へ走って行ったって情報が7件、街で見かけない高級車が信号無視して西に走って行ったって情報が1件、自家用車が五台ほど連なって同じ方向に走って行ったって情報が3件。さて、どれが本星でしょう」

「7件はサクラ、1件はこの街じゃよくあることだし、その3件ってのがまあ可能性としてはあるかね」

「普通の主婦やらサラリーマンやらの、普通の自家用車よ。五台そろって北の田舎町に向かって行ったって。ビジネスホテルに停まってるのを見たとか、そのうち一台が町の端の工場に停まっていたとか。まあ、ツアーでもやってんじゃないの」

「なるほど……な。感謝するよ、お前は有能な情報屋だ」

 胡散臭そうな顔で、麗美は手をひらひらと振ってみせる。「早く行けば?」と麗美は言うが、そうは言っても情報の裏どりや場所の特定はしなければならない。今日のうちに、というのは難しいだろう。ぼんやりと遠くを見ながら、「そう冷たいことを言うなよ」とタイラは呟く。ため息をつきながら、麗美は立ち上がって踵を返した。その背中を見つめ、タイラはひとりごちる。

「身内に甘い、ときたか。仲間に『薄情』と罵られたばかりなんだけどな」




☮☮☮




 ユメノとカツトシ、ノゾムは、行き詰っていた。あれから2回ほどタイラが戻って来ては食事をして外へ出る、というのを繰り返している。これからのことを何も言わないし、時折2階に足を運んでは仏頂面でやはり何も言わないまま出ていくだけだ。怒っているのか疲れているのか、話しかけるのもためらわれる雰囲気である。

 本当に都のことを放っておくつもりだろうか。そう不安に感じつつ自分たちで情報など集めてみたが、さっぱり情報収集の才能などないらしい。ノゾムがネットで検索をかけても、「もっと情報を絞らなきゃダメですね」と音を上げるだけだった。

 そうしてやっとタイラが彼らに声をかけたのは、あの日から2日経った昼頃のことだった。一晩を外で情報収集していたらしいタイラは戻ってきて、いきなり「出るぞ」と仲間たちに告げる。仲間たちはぽかんとして、カツトシが代表して口を開いた。

「何が? 何が出るわけ」

「決まってんだろ、俺がだよ。俺はちょっと出てくるが、お前たちはどうする」

「いや、あんたは今までも外に出ていたと思うんだけど。もうちょっと細かい説明をしてくれない?」

「この前の続きだ。ガキどもを解放しに行く。後のことはこれから考えるが、とりあえず居場所はわかった」

 目を丸くしたユメノが、「ってことは先生がどこにいるかわかったの」と尋ねた。それには答えず、タイラはカウンターの下からナイフと小銃を出してジャケットの内ポケットに入れる。

 行くよ、とユメノが言った。

「絶対、先生のこと連れ戻すから」

「今さら何も言うつもりはねえが、ついて来るんなら5秒で支度はしろよ。俺は車にいるから、5つ数えて来なかったら行くぞ」

 そう言って背中を向けた途端に、ユメノたちは慌ただしく動き始める。「武器は」「大丈夫よ! ユメノちゃんは僕が守るから」「ノゾムくんのことも守ってくれないすかね」そんなことを大声で言いながら、3人は外へ飛び出した。

 通りには『百菊肉店』と書かれたバスのように大きな車が1台、確かな存在感でそこに在る。――――それだけだ。ユメノたちはタイラの姿を探して周りを見渡した。すると運転手が、窓を開けて笑顔を見せる。知らない男だ。短髪で、人の好さそうな目を細めている。

「やあ! 君たちがイチくんの仲間……だよね?」

 呆気にとられるユメノたちを見て、男は空咳を一つした。「君たちが“タイラワイチ”の仲間だね」と簡潔に言い直す。カツトシが、高速でうなづいた。それに対し男は、優しく人差し指を立ててみせる。

「そうだね、イチくんは君たちにこう言ったんじゃないかな。『5秒で来い』って。律儀に5つ数えてから車を出したよ。イチくんは約束を守るけど、容赦がないのだ。ついでに約束は守るけど法定速度は守らないのだ。きっともう彼方だね、間違いない」

 絶句する3人を見て、男がひときわ優しい声色を出した。「僕の名前は百瀬」と簡単に自己紹介をする。

「僕はね、イチくんに頼まれてきたんだ。僕の車にお乗りよ、イチくんと同じ場所に向かうから」

「えっと、あなたは」

「イチくんの友達だよ、大丈夫。7匹の子ヤギを食べに来たオオカミとは、まるで違うとも」

「あの人に友達が?」

「ふんふん、君たちは本当にイチくんが好きなんだね。ほら、早くしないとイチくんがぜーんぶ終わらせてしまうよ」

 そんなことを言われたユメノたちは、異を唱えるのは後にして、ひとまず百瀬の車に飛び乗ったのだった。

 百瀬の運転は、安全そのものである。「間に合わないよ」と責めるユメノに対し、苦笑しながら「でも店の車だからなぁ、評判が落ちたら困るものなぁ」なんて独り言をもらした。その安全さといえば、黄色信号になりかけるとブレーキを踏み、白線できっちり停止する徹底ぶりだ。

「……お兄さん、本当にタイラと友達なわけ」

「ん? うん、百瀬って呼んでいいよ。同級生なんだ」

「タイラの同級生って何人か会ったけど、誰も『友達』とは言ってなかったわよ」

「タケちゃんとかセトちゃんのことかな。あれも友達だよ、わざわざ言わないだけで。でもほら、僕は君たちとこうして一緒に行動をとるには縁が薄いじゃない。だからね、イチくんの名前を出させてもらっただけだよ」

 なんでもないことのようにそう言って、百瀬はハンドルを切る。歩行者優先の、あまりに優しい運転だ。というか、とユメノは何かに気付いたような顔で百瀬を見た。

「百菊肉店ってさ、菊花ちゃんのお店だよね。お兄さんってさ、もしかしてさ、」

「ああ……僕の妻を知っているんだね。お客様なのかな、ごめんね、僕はあまり店頭には出ないから」

 やっぱり、と言ってユメノは百瀬をまじまじと見つめる。「へえ、お兄さんがタイラから菊花ちゃんのこと奪った男なんだ」と無自覚な悪意を込めて言った。百瀬は、運転しながらも思い切り吹き出す。

「まさか! まさかまさか! イチくんがそんなことを?」

「うーん、そこまでは言ってなかったかも」

「イチくんは僕らの仲人だよ。案外、素直に祝ってくれたんだよ」

「でもタイラ、菊花ちゃんのこと好きじゃんね」

 くすくす笑いながら、百瀬は肩をすくめた。「さあ。確かにお気に入りだとは思うけどもね」と目を細める。それからはもう何も言わず、百瀬はただハンドルを両手で握っているだけだった。

 ユメノたちもしばらくは大人しく揺られていたが、やがて我慢できなくなって身を乗り出す。

「百瀬さんの車だと時間が倍かかるよ!」

「ずいぶんな言い方だなぁ……。違うとも、イチくんの車が倍速いんだ。君たちだっていつまでもイチくんのもとにいるわけではないのでしょう。あれが普通と思っているとこの街でだって浮いてしまうよ」

 言葉に詰まったユメノは、うつむいて「百瀬さんって厳しいね」と呟いた。「そんなことも言ってあげないのは、イチくんの怠慢だ」と百瀬は言う。しかし表情は裏腹に、微笑ましげな優しい顔だ。わからないんですけど、と言ったのはノゾムである。

「何を根拠に、いつまでもあの人といるわけじゃないって言うんすか」

 目を細めて、百瀬はちらりと一瞬だけノゾムを見た。

「君たちのその不安を払拭し得るのはただ一人だと思うのだけど、それでも僕にそれを問うのかい」

 ノゾムが黙る。それから誰も何も言わないうちに、百瀬は車の速度を落とした。ゆっくりと停車して、「ついたよ」と百瀬は言う。目前にあったのは、古びた工場跡地だ。車から降りて、「さあ行こう」と百瀬が笑った。ついて行くしかない3人は、黙って足を動かす。工場跡に近づくと、中から微かな声が聞こえた。そして正面のドアを、百瀬は開ける。「正面突破?」と驚いてカツトシが身を縮こませた。

「そう怖がらなくていいと思うよ、イチくんが先に来ているはずだから。彼を信用しないわけじゃないでしょう」

 胸を張って、百瀬は進んでいく。奥へ奥へと行くうちに、段々と人影が見えてきた。が、どれも地に伏して戦意を失くした者ばかりだ。どう考えても、平和一の仕業である。

 途中で立ち止まった百瀬は、「うーん」と言いながら曲がり角を見た。死屍累々をちらりと見て、反対側を指さす。「イチくんがそっちに行ったのなら、僕らはこっちだね」とひとりごちてまた進み始めた。しばらくそのまま歩いていたが、百瀬はいきなり横の扉を片っ端から開け始める。

「外れ、外れ、外れ、さて……」

 不意に立ち止まり、にっこりと笑った。「そろそろ当たり、かな」なんて言葉と重なって、「ジッケンの時間ですかー」という幼い声が響く。

「違うよ、おうちに帰ろう」

 と、百瀬が言った。子どもは不思議そうな顔で近寄り、「カミサマのいうとおり」と呟く。

「神様は君になんて?」

「ぼくはカミサマとお話してない。ママが言ってただけ。『カミサマのいうとおりにしなさい』って」

「神様は言っていたそうだよ、パパやママと仲良く、幸せに暮らすようにって」

「ほんとう? やっぱりぃ? そうだと思ったんだ」

 そう言いながら、子供は百瀬について来た。その次の扉も、百瀬は開けてみせる。続けていって、子供はいつのまにか列をなした。ついに、ユメノが口を開いた。

「あのさ、タイラのとこ、行かないの?」

 振り返った百瀬は、さながらブレーメンの音楽隊長だ。うん、と首をかしげて微笑む。当惑の表情を浮かべたカツトシが、「僕たち、仲間を助けに行きたいのよ」と後ろを指さした。うーん、と天井を見て、百瀬は困った顔をする。

「それって、この子たちよりも大事?」

 虚を突かれたユメノとカツトシは、そっと子供たちの顔を見た。どの子もわかっていない顔で、ただ不思議そうに4人を見ている。

 確かに、ユメノは言ったのだ。タイラに対して、『仕事と仲間、どっちが大切なんだ』と。『薄情者』と。それならばここで「この子たちを置いて仲間のもとへ走る」と言う自分たちは、どうなのだろう。

「イチくんは全部なんとかするよ」と、百瀬は言った。「なんとかするために僕を呼んだし、君たちをこっちにつかせた」

 それから瞬きをして、また前を見た。

「いつだってイチくんは、手持ちのカードで最善を尽くしている。ね、それは僕より君たちの方が知っているはずだよ」

「前線から遠ざけたわけではなく?」

「うんうん、それもまたイチくんだね」

 まあまあ、と言いながら百瀬はユメノとカツトシの背中を押す。それからノゾムを振り向いて、「君は?」と尋ねた。ノゾムは肩をすくめて、「いいっす、何を言ってもそっちの手のひらの上みたいな感じなんで」と目をそらす。素直じゃないんだねえ、と百瀬はうなづいた。

「それじゃあひとまず、この子たちをうちの車に詰めようか?」

 そう悪戯っぽく笑って、百瀬はまた扉を開ける。パッと、また子供が無邪気な顔でついて来た。




☮☮☮




 にわかに研究室の外が騒がしくなる。研究室と言っても廃工場の作業場を改造しただけのものだが、案外に過ごしやすさはあった。都はパイプ椅子に腰かけ、静かに天井を見る。

 なるほど都の聞き間違いでなければ、暴漢だか誘拐犯だかが現れたらしい。そしてその暴漢だか誘拐だかと言うのが、都自身の仲間であろうことに、彼女は自信を持っていた。

「そう、タイラ。来たのね」

 なぜだろう、と都は腕を組んで考えてみる。わかりきっていたことなのに、そこに何の説明もつかないのが不思議だった。都自身、『そろそろタイラは来るだろう』と何の根拠もなく思っていたことが、一番不思議だ。

 都は頬杖をつきながら、その場にあった薬品をガラス瓶ごと放った。派手な音がして、破片が飛び散る。立ち上がって、いくつもいくつも薬品を床にぶちまけた。

 何が正しいのか、都にはわからない。それでも、間違っていないとは思っている。この薬は全て、ここに不要なものだ。

 外から「都、どうなってるんだ」と怒声が聞こえた。「大丈夫、問題ないわ」と言いながらマッチの箱を出す。勢いよくこすれば、青白い火がついた。ゆっくりとマッチを下に落として、薬品に火がつくか見る。思いのほか簡単に、着火した。消防車は呼んである。こんなことで彼らの仕事を増やしてしまって、本当に申し訳ないとは思うけれど。

 まだか弱い火を一瞥して、都は部屋のドアに近づきノブを回す。回してドアを押したが、びくともしない。ぽかんとした都は、再度挑戦した。が、やはりびくともしない。鍵など、かかってはいないはずだが。

「開かないわ、誰か鍵を閉めたの」

 呼びかければ、「黙っていろ」と短い返答がある。

「ここを開けてほしいの、どうして開かないのかしら」

「今来ているのはお前の仲間だろう、この前見たやつと同じだ」

 そう、か。なるほど、あの時タイラがあの倉庫に来たのは都にとっても想定外ではあった。が、確かに都の反抗を慮るには十分だ。警戒されている。否、最初から信頼などされてはいなかったのだ。ちらりと、後ろを振り向く。ちろちろと弱いながらも火が広がっていた。

「お願い……その、トイレに行きたいだけなの」

「今どんな状況かわかって言っているのか」

 それもそうだ。しかし、火は広がって木棚などの浸食を始めている。都は思い切って、「火事よ、火がついたの」と叫んだ。そんなこと信じるものか、と外にいる男も叫ぶ。途方に暮れた都は扉から離れて、燃えてゆく棚を見つめた。

 このまま、ゆっくりゆっくりと部屋全体が燃えて、都も燃えていく。子どもたちは全員見つけ出されただろうか。なぜだか都は落ち着いてしまって、「信じるかどうかあなたの自由だけれど、でもできるだけ離れた方がいいと思う」と忠告だけはした。コンクリート造りのこの廃工場がどれだけ燃えるものかわからない。薬品が染みついたこの部屋だけが綺麗に焼失するのかもしれないが、施設ごと崩れる可能性もある。都は静かに、目を閉じた。

 次の瞬間、外がひときわ騒がしくなる。人の焦ったような声とともに、重い打撃音が響いた。空気が、建物自体が、震えるほどの音だ。扉が、蹴破られた。

「やあ」と彼は言う。そういうこともあるか、というような顔で。そうしてタイラは、仮初の研究室を歩き始めた。

「この室内キャンプファイヤーは、君の趣味かな」

「いいえ。恥ずかしいことに、私の不始末よ」

「慌てていないね、さすがだ」

「だって実験体こどもは、あなたたちがいれば大丈夫だろうと思ったから」

 ふうん、と言いながらタイラはパイプ椅子に座る。壁が火に包まれつつあるこの部屋で、涼しい顔をしながら。都の目を真っすぐに見据えながら、「君は神を信じるのか」とタイラが問うた。わかりにくく微笑して、都は目を細める。

「かつて科学者であった人間に、そういうことを聞くのね」

 今も君は科学者だ、と言うタイラに、都は首を振って見せた。それから、まるで水の落ちるように答えをこぼしていく。

「私は、神を否定するために学んだのではないのよ。本当よ、信じるものすべてをそこに実現させようとして、神すら作ろうとした若い時もあったの」

 ふと目を伏せて、都は続けた。「そうね、タイラ。でも神なんていないわ。世界はそれを、実証し続けている」と。瞬きをして、タイラは頬杖をつく。ああ、とだけ短く肯定した。

 燃え上がる部屋の中で、都はタイラに背を向ける。

「ありがとう、タイラ。またあなたに返せないものが増えちゃった。それでも、」

 ちょうど先ほど彼が蹴破った穴から、出て行こうとした時。タイラが、都の腕を掴んだ。驚いて振り向く都に、タイラは何も言わない。ただ、熱気を増した部屋の中でじっと都のことを見ていた。都は苦笑して、「ここで心中でもするつもりなの」と尋ねる。ひどく真面目な顔をした彼の、その唇が動いた。

「君はそれを望むか?」

 都は驚いて、彼を見る。それからうつむいて、一瞬だけ瞳を閉じた。「いいえ」と言いながらすぐにタイラを見返す。

「いいえ、望まないわ。お願い離して」

 もし。

 もし、それを望むと答えたなら。

 彼はどうするつもりだったのだろう。こんなままごとみたいな部屋で、同じように灰になっていくことを、彼は。彼自身が、許すはずもないのに。

 そっと都の手を離し、タイラは笑った。

「まったく、俺がどれだけ責められると思ってるんだ。君を連れて帰らないと締め出されるかもしれないぞ」

「それは……その、ごめんなさい」

 遠くから、サイレンの音が聞こえる。都の呼んだ消防車が来たのだろうか。タイラが面倒そうな顔をして、また都を見た。「一度も、ミユちゃんのことを聞かないんだね」と彼は言う。静かに拳を握り、都はうつむいた。あの子は、と飛び出た言葉が震えている。

「私と離れた方が幸せなのよ。愛し方がわからない、何があの子の幸福になるのか、どんな未来も私がいては」

「愛しているのに?」

 言葉を詰まらせながらも、都は激しく首を横に振った。「それだけじゃあ」と言葉を途切れさせながら繰り返す。「それだけじゃダメでしょう。わたし、私は、誰かを守るような形であの子やみんなから手を引けたらって。それが一番いいと思ったの」と、かすれた声で吐露した。

 タイラは頭をかきながら、「馬鹿だな」とあっさり言う。

「君は俺に言ったね、『帰って来ないかもしれないと思って待つ恐怖がわかるか』って。もちろん、俺にはわからないさ。でも、君だってわかっているとは思えないな」

 言って、タイラは薄く笑った。何も言わない都に目を細めて、彼は続ける。「あの子は……さ、可愛いよ。仲間の一人でも帰らなかったら泣いてさ。泣いて、泣き疲れて寝て」と、静かに腕を組んだ。都は胸の前で拳を握る。聞きたくないと耳をふさぎながらも、心の奥から愛娘の名を呼ぶ自分の声が聞こえるようだった。「そんな子がさ」とタイラは軽やかに言う。

「君が出て行ってこの数日間、泣いてなんかいないよ。君がいつ帰って来てもいいように、眠ろうともしない」

 驚いたように、都は顔を上げた。鼻の奥にツンとした痛みがあって、うつむくと目頭が熱くなる。

「まったく、君たち親子は強情だな」そう微笑んで、タイラは言った。

 都は自分の手のひらで顔を覆って、静かに声をもらす。堪えきれなかったものが、捨てきれなかったエゴが、水槽からあふれてこぼれた。

 そんな都に、タイラは近づく。そのまま何も言わず、都のことを俵のように抱き上げた。

「っ、たいら?」

 ああ、と力の抜ける返事をして、タイラは部屋から出る。「君たちは本当にわかりづらいな。甘えるのが下手くそだ」と面白そうに呟いた。

「俺は、君がそのつもりなら放っておこうと思ってたんだぜ。あの子がああも強情じゃなけりゃあね。ん、でも」

 それから他人事のような響きで「もう薬がなくなるからどうしようかと思ってたんだよなぁ」と言う。

「まさか……。そんなに早くなくなるはずが」

「こらえ性がなくてね。酒も煙草もやめられなけりゃ、薬も自制しようとは思わないに決まってるだろ。ちょっとは君に監督指導してもらわなきゃ」

 不意にタイラが都を下ろした。じっと、都は彼を見る。「言うことなんて、聞かないくせに」と思わず口を滑らせると、タイラは笑いながら「お互い様だろ」と言った。お互い様。そんな風に言ってくれるから、都は。

 聞こえるか聞こえないか、そんな小声で都は「どうして」と呟く。「強くなくていい、正しくなくていい」とタイラは都の手を取った。

「ただの母親でいいんだ。俺はあんたが母親をやっていくための露払いぐらいはいくらでもやってやる」

 どうして、と今度こそはっきり都は問う。「どうしてそんな風に言ってくれるの。私はあなたに何を返せばいい」と、ひどく真面目な目をして尋ねた。それでもタイラは、ただ目を細めただけで何も答えない。

「お願い、教えて。私にはもう何もないのよ。あなたに償おうとしても、返そうとしても」

 タイラは笑うばかりで、有無を言わさずに都の腕を引いた。

 わかっている。そんなことを尋ねたって、彼の中に答えはないのだ。彼はただ、彼の腕が届く範囲を、片っ端から掬っていくだけなのだから。

 それでもこの手を取ってくれる理由を求めるのは、彼のことが理解できないからだ。理解したいからだ。どうか傲慢と笑って、答えてほしい。

 泣きながらついて行く都の手を引いて、タイラは歩いていく。「消防がきたら厄介だぞ、行こう」なんて朗らかに言いながら。先ほどまで都たちのいた研究室を振り返る。火はそこから広がらず、ただ所在なさげに部屋の中を燃やし尽くしているだけだった。

 外へ出ると、胸を張ったような威風の外国車が1台停まっている。促されるままに助手席に座ると、タイラが当たり前のように運転席に座った。

「この車は?」

「オーナーから借りた。ガキを乗せるつもりだったんでね」

 さて、とタイラはエンジンをかける。「このまま海にでも行こうか? 先生」といつもの調子で言ってのけた。少し鼻をすすって、都は「本当に」と呟く。その微かな声に、それでもタイラは耳を澄ませた。

「本当に、私を連れて帰るの?」

 タイラは頭をかいて、呆れたようにハンドルを握る。「あんたなぁ」とは言ったが、後には続かない。ただちょっと前かがみになって、ハンドルを切った。数メートル動かしたところで、ようやく彼はぽつりと言う。

「あんたが必要だと、俺の口から言わせたいのか」

 都はとっさに息をのみ、赤面した。「さっきから……ずっと前から、そう言ってんだぞ」とタイラは言う。ぶっきらぼうに、ただ前を向きながら。どうしてとまた尋ねそうになって、都は口をふさいだ。これだけは、理由など聞かないままでいたいと思った。

 車は進んでいく。窓の外に海が見える。ゆっくりと、ゆっくりと、遠ざかっていった。

 潮騒が聞こえる。海から離れた後でも、そんな気がした。

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