episode16 失踪、追走、逃走

 平和一という人間にあまり関係のない話ではあるが、その日は世間一般的に祝日であった。

 この街にも公園がある。歓楽街の合間に、気休め程度の長閑さで。小さな滑り台、2人用のブランコ、不必要に大きな砂場。そして青いベンチが4つ。その中の1つに腰かけ、ぼんやりとするタイラの横に男が座った。

「今日は何の仕事だ」と男は言う。

「昼間の公園に、白衣を着た不審者が出たって言うからな」と、タイラは男の白衣姿を横目に見て答えた。

「そりゃあ不審だな。1時間も公園のベンチで微動だにしない男と同じくらい不審だ」

「……あんたこそ、こんなところで何をしている」

 白衣の男は欠伸まじりに、空を見る。答える気はないらしい。タイラにも会話を続けようという意思がなかったので、その問いは空中に燻って消えた。やがて、男がまた口を開く。

「おいタイラ、てめえ、生きてんのか」

「なんでオタクらって、俺に声をかけるとき決まって生存確認をするのかね。見ただけで解れよ、生きてるよ」

「そりゃ……てめえに生きてるか死んでるか尋ねるやつの9割は『死んでいればよかったのに』と思いながらそう口にしてるんだよ。そろそろ理解しろよ」

「俺ってそんなに嫌われてる?」

「ああ、手前てめえは自分が思っている3倍は嫌われてる。なんせこの街の、目の上のたんこぶだからな。上を見ないやつには好かれるだろうが」

 なるほどね、と言いながらタイラは笑って男を見た。「柊さんは」と目を細める。「上を目指しているのか? 俺のことが嫌いなようだが」と。柊と呼ばれた男は肩をすくめた。

「資格もないようなヤブだが、これでも医者だ。人の命を救おうと1度でも本気で考えた人間だ。医者が人殺しに愛想よくなんてできはしないとわかるだろう?」

「違いないな」

 しばらくお互いにぼんやりと公園の様子を見ていたが、やがてタイラが口を開いた。

「あんたのとこに、俺の仲間がお世話になってるね?」

 柊は逡巡して、静かに首をかしげる。「都女史のことか」と確認するように口に出した。やっぱりそうかぁ、とタイラはため息まじりに背もたれへ寄りかかる。

「そうだな、あの女にはオレから声をかけたよ」

「あんたも歳なんだから、ほどほどにしろって」

「誰が色目的で声をかけたと……。何か知らんが、薬品を欲しがっていたようだからな。それならうちで働きなさいと言った。うちは、まあ……薬品だけはあるからな」

「脱法も法に触れるやつもな」

 風評被害だ、と柊は嘆いた。それにしても、と白衣の襟を整えながら言う。「都女史はうちで働くことを言っていないのか?」と。タイラは腕を組んで、「恐らく負い目があるんだろう。あんたのとこは、それなりに薄暗い商売だからな」とその商売を行っている本人の前で言ってみせる。「手前のところにいて、薄暗いも何もないだろうに」と柊が驚いたような顔をした。

「ああ……まあ、いろいろあるよ。彼女も特殊な環境にいたからね。金が絡むことは生々しく思っても、それ以外には少しばかり感覚がずれている。いや、ある意味洗脳だったのかな。そのうち治るだろうが」

「つまり彼女は……うちの診療所を後ろめたく思っても、タイラワイチのことは異常に思っていないと?」

「そうだな。そう感じる」

「稀代の殺人鬼を?」

「その言い方には随分と悪意があるんじゃないですかね。こんな公園のど真ん中で」

 オレぁ手前が嫌いだからな、と柊は朗らかに笑う。「あんたの言うことは気持ちいいよな」とタイラも喉を鳴らして笑った。ふと、柊は真顔になって「ガキどもは元気か」と尋ねる。タイラが伸びをして、目を細めた。

「元気だよ、いつもうるさいくらいだ」

「よかったなぁ。まあ、元気じゃなきゃ困る。そうじゃなきゃ手前がうるさくなるからな」

「もうユウキが風邪をひいたくらいで、夜中に叩き起こしたりしないよ。誓う」

「本当だろうな? ありゃオレも参った」

 不意にタイラは立ち上がって、10メートルほど先を指さす。「あれ、誘拐犯らしいぞ」と柊に教えてやった。ほう、と柊は目を細める。「あの男に、いたいけな女の子がどこにいるのか聞かなきゃいけない」とタイラは言った。

「それがお前の仕事か?」

「今日の俺の仕事だ。そして明日の仕事は」

「いたいけな女の子の救出か」

「ご名答。働き口がいくらでもあって、いいご時世だねえ」

 ふん、と鼻を鳴らして柊は腕を組む。「行って来いよ、できればその娘も今日のうちに助けてやれ」と言った。なるほど、とタイラは言って何やら考える。パッと顔を上げて、「まあ、そういう算段も立てていくかね」なんて肩をすくめた。それから、歩き出すタイラに柊は声をかける。

「あの都って女な」

「うん?」

「厄介だぞ、あの女は。味方がいないことに慣れすぎている」

「……そうかもしれないな」

 うちの診療所にあの女目当ての男が来る、と柊は呟いた。タイラは話を聞きたそうにして、しかし柊に背を向ける。柊も、もう何も言わなかった。

 タイラは歩き出す。彼は彼の仕事を、一先ずいたいけな少女を、救い出すために。




☮☮☮




 友子と会った帰り道、ユメノは歩き慣れない道で都を見た。からっと笑って手を振ったユメノに、都が当惑の表情を浮かべる。その隣には、知らない男がいた。

 最初に思ったことは、タイラが怒るかもしれない、ということだ。タイラと都の関係がどうなっているのかさっぱりわからないが、都が知らない男と2人でいることを知ればタイラも少しは腹を立てるかもしれない、と。しかしユメノはすぐに頭を振る。タイラという男は、独占欲で女を見るような可愛い人間ではない。

 それから次に、あの都の隣の男は実結の父親かもしれない、と思い当たった。そうであればかなりデリケートな問題だ。ここでユメノが行き合うのは気まずい。

 足を止めて逡巡していると、男は都の腕を強引に引っ張って連れて行こうとした。思わず、ユメノは「先生」と声をかける。都は振り向いた。

「ユメちゃん、大丈夫だから」ときっぱり言う。

「いやいやいや、大丈夫じゃないでしょ」

 言いながらユメノは携帯電話を取り出した。アイスキャンディの1件で、ユメノなりに学習をしている。タイラに電話をかけてみた。プライベート用は繋がらない。まあ、想定内だ。また壊したのだろう。仕事用は――通話中だった。間の悪いことに。

 次にカツトシにかけてみる。すぐに繋がった。

『もしもし、ユメノちゃん?』

「あのさあアイちゃん、なんかよくわからんけど、都センセー拉致られそう」

『拉致られそう?』

「そう、男にさ」

『それイマダって人じゃなくて?』

 前方をしっかりと見たが、都を連れ行こうとしている男はイマダではない。イマダにとってはひどい濡れ衣だろう。

「今、竹生通りにいるの。心配ないと思うけど、もし店が大丈夫なようなら来てくれる? あとでパンケーキ奢るから!」

 了解、と言って電話は切られた。その途端に、前を走っていた男が振り向く。「来るな」と言った男は、小型の銃らしきものを構えていた。

「うわ心配あったわ」と呟きながら、ユメノは両手を上げる。ついて来るな、と男はまた言った。「オッケー」とユメノは答える。そのままゆっくりと、男が都を連れて後ずさっていった。20メートルほど離れて、男が駆け出す。ユメノはそれを注意深く見て、携帯電話を出した。1コールでカツトシに繋がる。

「ごめんアイちゃん、かなりセンセーが心配だわ。店が忙しくても来て。あたしはちょっと、追いかけてみるね」

 それだけ言って電話を切り、ユメノは駆けだした。尾行の仕方など学校で教わったこともないが、何とかなるだろう。あのピストルを持った男の目を思い出せば、自然余裕も生まれた。ユメノは、『撃つ人間』と『撃たない人間』を知っている。そのつもりがないことは簡単にわかる。身近に思わせぶりな人間が多すぎるからだ、とユメノは思った。だから、そんなことが感覚で解ってしまう。

 それでも心配ではある。あの男が撃つつもりのない顔をして見せるのは、まだ人気のある道の真ん中だったからかもしれない。あの男が撃つつもりはなくても、行った先の誰かにはあるかもしれない。何より都の『大丈夫だから』という言葉が不安を募らせた。突き放すような、突き放されることを望むような。

 ユメノは決して、自分の力に自信は持っていない。それでも、多様な意味で『強い』仲間たちを持っている、ということには自信を持っている。

 だからその『大丈夫』、あたしたちがもっと『大丈夫』にしてあげられるのに。事情さえ聞かせてもらえれば。

 都を連れて、男がタクシーに乗る。慌てて、ユメノもタクシーを捕まえた。カツトシを待っていては間に合わない。

「運転手さん、前の車追いかけられる?」

「なんだい、前の車って……。ただのタクシーだよ、お嬢ちゃん。映画の観すぎじゃないかい」

「運転手さん、お願い。迷惑かけないから」

 しぶしぶという風に、タクシーは動き出す。すぐにカツトシへメッセージを送った。

“ごめん、向こうがタクシー乗ったからあたしもタクシーで追いかけてる”

 すぐに“どこにいるの”と返信がある。ユメノは車窓から外を見て、“海の方向に進んでるみたい”と答えた。と、不意に手の中の携帯電話から軽やかなメロディが流れ始める。驚いて耳にあてると、聞き慣れた声がした。

『お前、俺に電話入れたか?』

 タイラだ。半信半疑のような声でそんなことを言う。「うん」とユメノは素直に答えた。

「都先生がね」

『なんだ? 家で寝てろって話か? 今日は帰れねえんだよなぁ、ちょっと面倒な仕事が入ってんだ』

「えっ。それ、先生より大事?」

『お前、いつから“仕事と私どっちが大事なの”みたいな台詞を言うようになったんだ。お前は俺の嫁か娘なのか』

 ふざけてるんじゃねーから、とユメノは怒る。こっちだってふざけてるわけじゃないんだよ、とタイラは言った。「ガキ1人奪還すれば済む話だと思ったんだけどなぁ」とため息まじりに呟いたりする。まあいいや、とタイラは気を取り直すように笑った。

『お前、今は家か?』

「違うよ、なんか……海の方。本通りを海の方に走ってる」

『海? 本通りを走ってるってこたあ、そのまま行くとおさかなセンターだぞ。お前、今日トモダチと遊んでるんだっけ?』

「友達とおさかなセンターは渋すぎでしょ。今は1人なんだけど。どこに向かってるのかわからない。都先生を追いかけてんの」

『話が見えねえな。まあ、そっちならついでに行ってやるよ』

 ついで呼ばわりされたことに憤慨しながらも、「期待しないで待ってる」とユメノは言った。嘘だ、必ず来るものと信じている。タイラは来るのだ。来ちゃうんだからしょうがないのだ。

 電話を切ったユメノに、運転手が言いづらそうながら声をかけてきた。

「お嬢ちゃん、ダメだわ。信号に掴まっちゃって、前のタクシー曲がってっちゃうわ」

 見ると、確かに信号は赤だ。都の乗っているタクシーは左に曲がっていった。ユメノは思わず身を乗り出し、「何とか」と運転手に懇願する。「ごめんねえ、無理だねえ。信号は守んなきゃ、お嬢ちゃん」と苦い顔で言われた。信号が青になって動き出しても、あの車が見える距離にいるかどうかわからない。左折した先で小道にでも入られていたら、もう追うことは不可能だ。どうしよう、と天を仰いだその時。

 車の窓が、外からコンコンと叩かれた。ハッとして見ると、そこには自転車に乗って息を切らしたカツトシがいる。なぜだかその後ろには、ノゾムも乗っていた。

「すみません、降ります」

 うわ言のようにユメノはそう言って、勝手にドアを開けた。「ちょっと」と運転手は驚いて言う。代金は支払った。運転手は「まったく」と言いながらもそれを受け取り、「気をつけなよ」とぞんざいに言う。「ありがとう、運転手さん」とだけ言って、ユメノはすぐにノゾムの後ろに乗り込んだ。

「いやちょっと、3人乗りは無理じゃないすかね」

「じゃあ、あんたが降りなさいよ、ノゾム」

「この自転車、自分のっすからね。高かったんだから。壊されたら困ります」

 いいから! とユメノは叫ぶ。じゃあ、と言いながらカツトシはほとんど立ってペダルをこぎ始めた。カツトシの手に自分の手を重ねるようにハンドルを握って、ノゾムはサドルに乗る。ユメノは、後ろの積載台に座りながらノゾムの腰に手を回した。

「こえー、これマジこえー」

「うるさいわよ! あんた重いからやっぱり降りなさい!」

 顔を赤くしながらも、カツトシは自転車を前へ進める。左折すると、都たちのタクシーはかろうじて前方にあった。「アイちゃんすごい! 速いよ!」と、ユメノはカツトシを励ます。「アイちゃんさん! 頑張って!」とノゾムも合わせた。カツトシは、無言で足を動かす。

 都たちのタクシーも信号に捕まったらしい。ゆっくりとブレーキランプが点灯した。カツトシの漕ぐ自転車が横につく。ユメノは窓を小突いた。ハッとした様子の都は、慌てて窓を開ける。

「なぜ3人乗り?」

「先生! 説明してくれないとわからないよ!」

「3人乗りはさすがに危ないわ。そもそも自転車は」

「自転車の説明は求めてない」

 信号が青に変わった。ユメノたちを引き離すように、タクシーは速度を上げる。「危ないから」という言葉を最後に、都も何も言わない。そっちこそ危ないじゃん、とユメノは思う。

「ね、アイちゃん。まだ走れる?」

「もちろんよ! 故郷くにからトライアスロンで日本に来た僕の脚力をなめないでちょうだい!」

「トライアスロン密入国っすか……新しいなぁ」

「冗談よ、馬鹿」

 そうは言っても、いきなり速度を出し始めたタクシーはどんどんと先を行く。見失ってしまう、と冷や冷やしながらユメノは前を睨んだ。「これ無理ゲーじゃないすか?」とノゾムが言う。無理じゃないわ、とカツトシが冷静に呟いた。

「僕の視力は2.5よ。測ったことないけど」

「曲がっちゃったらわからないじゃないすか」

「とにかく追いかければいいんでしょ。あんたもぐちゃぐちゃ言ってないで何かやりなさいよ。風を起こすとか」

「オーダーが妖精のレベルなんだよなぁ」

 走っているうちに、カツトシが「あらやだ」と言い出す。「あの車、ウィンカー出してるわ。右に曲がるつもりみたい」と肩をすくめた。ユメノとノゾムは目を見合わせ、同時に「あらやだ」とカツトシの口調を真似する。沈黙の合間に、波の音が聞こえてきた。

 その時だ。困ったように速度を落としたユメノたちの自転車に、知らない車が近づいてくる。薄いグリーンがかったシルバーの、高そうな外国車だ。やがて車はカツトシたちの自転車の横へぴったりとつき、運転席のウィンドウが開いた。運転手と目が合い、ユメノたちは絶句する。

「どうしたの、お前ら。自転車1つしか買えなかったの?」

「タイラ……」

 タイラは不思議そうに目を細めて、ユメノたち3人をしばらく見ていた。

「何と言うか、お前らの今の状態をひと言でいうと……『移動サーカス』?」

「乗せろ!!」

 反射にも似た動きで、ユメノたちは自転車を捨て去りタイラの車に乗り込んだ。「後で自転車回収に戻ってくださいね」とノゾムが釘をさす。「おいおい」とタイラは仏頂面で前を睨んだ。

「説明をしろ、説明を」

「とりあえず右に。信号無視を許す」

「お前が許してもお天道様が許さねえぜ」

 言いながらも、タイラはハンドルを右に切る。ユメノは精一杯前を指さした。

「あのタクシーに都先生が乗ってんだ。なんか、知らない男と一緒に」

「それをなんで尾行してるんですかね。先生にも男とちょっと遠出するくらいの権利はありますぜ」

「あの男、ピストル持ってるよ」

 タイラは黙って、アクセルを踏む。カツトシもノゾムも、初耳だと言う顔でユメノを見た。でも、とノゾムが口を挟む。

「さっきの感じだと、助けてほしそうにも見えなかったっすけど」

「それは……あたしにもわかんないよ。なんかさ、『大丈夫だから』とか言われたけど。でもさ、大体さ、女の子の『大丈夫』は大丈夫じゃないじゃん?」

「自分、女の子のことわかんないっす」

 前の車を2台追い越したところで、タイラはスピードを緩めた。例のタクシーが視界に入るギリギリで追走している。不意にタイラが、「全然おさかなセンターじゃねえ」とぼそり呟いた。「誰もおさかなセンターだって言ってないから」とユメノは膨れ面をする。

「つうか、ほんとお前らって、俺がいないときばっかり面倒なことになってるよな」

「別に狙ってないから」

「俺もこう見えて忙しいんだぞ」

「仕事?」

「そうだよ、仕事だ。誘拐事件だよ」

 どこか脈絡もないことを言ったタイラは、考えを整理しているらしい。少しぼんやりと空を見て、「優先順位がめちゃくちゃだ」と嘆いた。それに目くじらを立てたのはユメノだ。

「じゃあ、やっぱりタイラは先生より仕事の方が大事なんだ? 仲間より金なんだ?」

「そういう解釈もあるな。まあ、そう思ってくれても構わない。仕事の方が大事だと言いきるのも嘘になるけどな。先約だった、ってだけだ」

「意味わかんないから。どうすんの、つまり」

「仕方ねえ。仕事にかけるつもりだった時間を、半分そっちに割くしかないだろう。どっちが大事だ、なんて騒ぐ反抗期に付き合ってる時間なんてねえんだよ。どっちも大事だ。どっちも手にいれる」

 ユメノは黙った。ノゾムとカツトシも、何も言わない。平和一という人間のあきらめの悪さを、よく知っているつもりだったけれど。そうだ、そういう男だ。何一つ、その手からこぼれ落ちることを許さない。全てをすくい上げると決めたその両手の中で、全てをすくい上げるがゆえに、タイラは優先順位など決めない。例えば都幸枝も、誘拐された名も知らぬ子どもも、タイラにとっては“同じ”だ。等しくすくい上げるべきものなのだ。そこにはただ、時間的先約の意識があり、合理的な処理順位が存在するだけなのだ。それを時々は公平な善意と好まれ、時々は無情と評される。それが平和一という男だった。

 タクシーは港の方へ入っていく。人通りの多い市場の真ん中でようやく停車し、都と男が車を降りた。男が急かすように都の背中を押し、2人は歩いていく。タイラは頬杖をつきながら、そのままゆっくりと車で2人の後を追った。やがて建物に入っていく2人を見て、タイラはゆっくりとその建物の周りを一周し、Uターンして海辺に車を止める。腕を組んで何か考えている様子のタイラに、ユメノは「ねえ」と声をかける。不意にタイラはにやりと笑った。

「大幅な時間の短縮だ」

「なんて?」

「目的地だよ。俺の目的地も、恐らくあの建物なんだよな」

「ごめん、わかるように言って」

 車のエンジンを止め、タイラは降りようとする。説明を求めたユメノも、どうでもよさそうな顔で結局は車を降りた。カツトシとノゾムも後に続く。歩いていきながら、タイラが口を開いた。

「そっちの話を整理するぞ。お前……ユメノは、偶然都先生と知らない男が会っているところに居合わせた?」

「そうだよ。それで、ちょっと声をかけたらさ、その男がピストル出してきて」

「それで、思わず追いかけた……と」

 相変わらずの行動力ではあるな、とタイラは呟く。「でもみんなに連絡したし」とユメノが膨れ面を作った。タイラは何も言わずにユメノを見て、やはり何も言わないままユメノの頭だけ撫でる。まるで、初めて『待て』ができた犬を褒めるようなぞんざいさだった。

「そっちの話は」と、カツトシが割り込んでくる。ああ、と考えるそぶりを見せ、タイラは肩をすくめた。

「さっき言った通りなんだけどな。簡単に言えば、俺は誘拐されたらしいガキを奪還してくるように頼まれたのよ。なかなかデカい規模の誘拐犯様でいらして、そのうちの1人に話を聞いてはみたんだが……場所しか喋らなかったんでね。とりあえず来てみたってとこだ」

「それがあの建物なんすか?」

「ああ……砂金2丁目の冷凍倉庫、ここで間違いない」

 4人は横に並び、その建物をじっと睨む。「――――で、」とカツトシが首をかしげた。

「その誘拐犯様のねぐらに、どーして我らがセンセイは連れ込まれたわけ?」

「そりゃ俺が知りたいよ。あーあ、柊さんに乗せられて急ぎすぎたかな。もうちょっと色々調べてから来ればよかった」

「あんたでも後悔するわけ?」

「試行錯誤ぐらいはするだろうよ」

 言いながらも、タイラは倉庫のシャッターをこじ開けようとする。慌てた3人が、タイラの背中に隠れた。

「なんでこそこそ情報収集しようとするやつが、いつも正面突破なのよ」

「対策を講じないやつは馬鹿だ。背中を狙うやつは矮小だ」

 古びた歯車のような音を立てて、シャッターが開く。少しかがみながら、タイラは入っていった。後に続いた3人は、タイラから離れないように歩く。「人がいないよ」とユメノが囁いた。罠かもしれない、とは口にしなかったが、カツトシもノゾムも同じことを思っただろう。しかしタイラは、涼しい顔で突き進んでいく。たまらず、ユメノが「タイラ」と呼びかけた。

「ねえ、このまま進んで大丈夫?」

「そうだな……お前たちが心配することはないだろうが」

「が?」

「確かに妙だとは思うよ。まずタクシーで移動してたってのが妙だ。考えが甘いように思う……ああ、思い出してきたぞ。この感覚は、本庄とかいう男と向き合った時と同じだ」

 本庄? と問いかければ、タイラは「都先生の元上司だ」と雑に答える。「大層過激なお坊ちゃんだったな」とまるで懐かしく思うように目を細めていた。

 冷凍倉庫とタイラは言っていたが、建物の中は寒さを感じない。恐らく外と同じ温度だろう。たくさんの冷蔵庫があったが、特に電気が通っているようにも見えない。

 寂れた倉庫の中を、奥へ、奥へと歩いた。その間、人どころかネズミ1匹出会いはしていない。

 途中のドアを蹴り飛ばした時、わっと子どもの声が漏れた。面食らった様子のタイラは、一瞬だけユメノたちを振り返る。子どもたちは、楽しそうだったり嬉しそうだったり怯えた様子だったり、それぞれにタイラたちを伺い見ていた。

「これは……」

「話の流れ的に誘拐された子供では?」

「思ったよりは多いな」

 ひそひそと話している中、奥から大人の影が歩いてくる。タイラたちの姿を認めて、目を剥いた。

「なんだお前ら。鍵がかかっていただろう」

 ここぞとばかりに、ノゾムが口を挟む。「この人に施錠開錠の概念はないんですよ」と。あるぞ、とタイラは当たり前のように言った。

「まあ聞けよ。俺たちはお前らの邪魔をしようとここに来たんじゃ」

「来い都! おかしなやつらが」

「いや聞けって。ん、都? 呼んでくれんのか、先生のこと」

 すると奥から、憂い顔で都が出てくる。タイラたちの見たこともないような、面倒そうな顔だった。しかしタイラを見て少しだけ表情を変えた。「なぜ」と首をかしげる。何か計算違いが起こったような、どちらかといえば冷たく物事を俯瞰するような目であった。

「タイラ、なぜ」

「色々あってさ」

「あなたに説明を求めると、大体はそのような返答ね」

「俺も聞きたいんだけどな。先生、何をしている」

「色々、と言いたいところだけど……」

 言いながら都はタイラに近づく。「あなたにだけ伝えたいことが」と言えば、タイラは素直に耳を貸した。少し背中を丸めた彼の首に、都は腕を回す。

「私、あなたにこれだけはやり返しておきたかったの」

 そう言って、都は――――

 タイラにそっと口づけをした。

 粟を食った様子のタイラは、都の肩を掴む。都は彼の首筋を指先で撫でて、そうして指の感覚だけで注射針・・・を刺した。動きを止めたタイラから、都は唇を離す。

「なるほど……ね」

 言って、タイラは自分の首筋をさすった。「キスがお上手ですこと、思った以上だ」なんて茶化す。

「怒らないの?」

「まさか君がこういうことをするとは思わなかった。覚えておけよ、とは思う」

「そう……」

「でも、まあ。怒っているのとは違うね。どちらかと言えば愉快な気持ちだ」

 額を押さえて、タイラは笑った。どうやら眠気と戦っているようだ。

 お願いがあります、と都は彼の顔を覗き込む。

「俺に何か? できるかなぁ」

「あなたにしかできないことだから。まず、みんなを連れてここを離れてほしいの。できるだけ誰も傷つけずに」

「先生……薬、多くないか……? なあ、俺はちゃんと喋れてるか……」

「みんなを連れて家に帰る。誰も傷つけない。お願い」

「つれて、かえる。きずつけない。おねがい」

 うとうとしながら、タイラはそう繰り返した。都はタイラの服を掴んで、「実結のことも、お願い」と早口で言う。タイラは、微かに笑っただけだった。

 都はタイラの胸を少し押して、踵を返す。

「大丈夫、この人たちは脅威ではないわ。見逃しましょう」

 先生、とやはりユメノが呼んだ。都は振り向いて、「ごめんなさいユメちゃん。今日は、帰って」とはっきり拒絶する。何も言えず、ユメノがうつむいた。

「ユキエさんがそこまで言うんだから、今日のところは帰りましょうよ」

 ひどく冷静に、ノゾムがそう言う。仕方なさそうにうなづいたカツトシが、当たり前のように近くの子どもを抱えた。

「おい! 子どもたちをどうするつもりだ!」

 白衣を着た男が叫ぶ。まるで『正義はここにあり』と言わんばかりだ。「置いて行けないでしょ」とカツトシは肩をすくめた。ユメノもうなづいて、近くにいた女の子の手を掴む。

 白衣の男が、拳銃を出した。やめて、と都が慌てたように制止する。が、そのような必要はなかった。ずっと黙っていたタイラが、男を殴って銃を飛ばしたのだ。飛んだ銃を、すばやくノゾムが拾う。

「あれー」と、タイラは言った。「痛そうだ、なぐったら飛ぶなんておもわなかった」と、そう言って彼は笑った。

 絶句する仲間たちを背に、タイラは男の襟を掴んで立たせようとする。

「立っていないと。俺はだれも傷つけないんだ。そう言われてるんだ。ノーカン、ノーカン、お前が立ち上がればノーカウントだよ、なあ……」

 男は泣きながら、右手で壁を探りボタンを押した。途端に警報が鳴り響く。タイラに「立て」と強要されながら、男は都を呼んだ。

「都、話が違うぞ」

「この人たちは無関係よ」

 しかし男は聞こえていないようで、うわ言のように「娘がどうなっても? すでに手配を」と足掻きながら言う。都がタイラの腕を止めようと掴んで、「それこそ話が違うわ」と叫んだ。

 未だ不思議そうな顔のタイラから男を引きはがし、都は「ごめんなさい、みんな。お願いだから行って」と乞う。拳を握ったユメノが、素早くタイラの腕を掴んだ。「行こう」と促せば、タイラは首をかしげながらもついて来る。

 ユメノが走って行くのを見たカツトシは、子供をまた抱えた。追って来ようとする男たちを、ノゾムが銃で牽制する。走りながらカツトシが、「冗談でもその銃をタイラに向けるんじゃないわよ」と忠告した。ノゾムは肩をすくめて応じる。追っ手は来ない。

 止まることなく走って行き、ようやく車までたどり着いた。

「……あれ、運転できる人っているんでしたっけ」

 仲間たちの視線が、行きを運転してきたタイラに注がれる。タイラはわからなそうな顔で、ぼんやりと空を見ていた。一瞬の沈黙が訪れ、ユメノがタイラのポケットから鍵を出す。

「あたし、マリカーじゃ負け知らずだから」

 言いながらユメノは運転席に座った。免許は、とノゾムが尋ねると、ユメノは緊張した面持ちで「ない」と言う。エンジンはかかった。ノゾムとカツトシは顔を見合わせ、タイラを助手席に詰め込む。ユメノがアクセルを踏んだ。エンジンの空回る音だけ聞こえたが、車自体は動かない。

「えー、おかしいなぁ。コイン入れなきゃ動かないのかよー」

 不意に、横にいたタイラの腕が動く。ゆっくりとハンドル横のレバーを掴み、ガツンと下におろした。途端、車が勢いよく前進する。焦ったユメノがブレーキを踏み込むと、車は前のめりに停まった。

「パーキングじゃ動かねえよ、小娘」

 囁くようなタイラの声に、ユメノは呼吸を整えながら睨む。

「起きてるなら運転かわってくれない?」

「代わるも何も、運転なんかできねえくせに」

「はあ? やろうと思えばできるっつうの! ユメノ様はやればできる子!」

「じゃあ、やれ」

 にこりともせずにそう言ったタイラに、ユメノは絶句した。冗談を言っている雰囲気ではない。怒っているのか問うたら火をつけてしまいそうで、ユメノは黙ってハンドルを握りしめた。「アクセル」とだけ端的にタイラは言う。恐る恐るアクセルを踏むと、「もっと」なんてタイラは真っすぐ前を見ながら言ってのけた。

「もっと、もっと。全然進まねえじゃねえか、もっとアクセルを踏め」

 ためらうユメノに、後ろから声がかかる。「どちらにせよ早くしなきゃならないんじゃないすかね」と控えめなノゾムの声。

「だって、なんか、ミユちゃんに何かするようなこと言ってませんでした?」

 うっ、と言葉に詰まったユメノは、一度目を閉じて何か考える。それから目を見開き、アクセルを思い切り踏み込んだ。ハンドルは、横からタイラが握った。車は見たこともないスピードで旋回を始める。

「これっ、これブレーキ踏んだ方がいいよね!?」

 アクセル、とだけタイラは言った。その目はただ前方を見ている。背筋が寒くなるほど、真っすぐな目だ。数秒後にこの車がどこを走っているか、それしか興味はないという瞳だ。

 この男が前を向いている限りは、車がどこかへぶつかったりすることはないだろう。

 それでも、ユメノは問わずにはいられない。

「ねえ、タイラ。帰るんだよね」

「かえる。そうだ、依頼」

「違うよ、依頼とかじゃないんだよ。そうじゃなくって、あたしたちの家に帰るんでしょ?」

「ああ。お前たちの家に俺は帰そう」

 低く、しかしはっきりとタイラは言った。「あんたの家は」とカツトシが尋ねる。タイラは答えないまま、「アクセルを踏め、小娘」と静かに囁いた。

「あのさ、さっきから何なの。あたしの名前ユメノって言うんですけど、小娘小娘うるせーよ」

「ユメノ……。昔、ハンバーガーショップで相席だったか?」

 冗談で言っているのか本気で言っているのか、判別のつかない顔をタイラはする。続けてぶつぶつと「依頼人は誰だ? 俺はここで」と呟いた。それから目を細めて、ハンドルを右に切った。前方から走ってくる車の、クラクションが響く。

「思い……出して、きた。そうか、失敗したか」

「何を? 何を失敗したって?」

「勝てたのに、な」

 そうひとりごちて、タイラは瞬きをした。やがて気を取り直したように、「ブレーキ」とだけ彼は言う。ムッとしながらも、ユメノがブレーキを踏んだ。多少乱暴に車が停まる。目の前に見慣れた酒場があった。ほっと一息ついているような時間はない。4人は弾かれたように車から降り、酒場のドアを蹴開けた。

 その瞬間に4人が見たものは、のされて目を回す見知らぬ男の姿であった。

「あっ、タイラ! ……とアイちゃん」

 尻つぼみのその声の方向を見れば、階段の手すりからユウキが顔をのぞかせている。その後ろでは実結が震えていた。ちがうんですよ、とユウキが何か焦った顔をする。

「この人、お客さまかとおもったらミユちゃんをつれていこうとするので、お客さまかもしれませんけどちょっと上からドーンと……。アイちゃんおこってますか? ぼくもみんながいないあいだ、お客さまをセッタイしようっておもってたんですよ! でも、その、ミユちゃんが……ごめんなさい」

 最後だけ早口で言って、ユウキは頭を下げた。何も言わないままに近づいて行ったカツトシが、いきなりユウキと実結を抱きしめる。

「ユウキ! あんたほんっとに客商売に向いてないわね! でも大丈夫! ヒーロー的視点で大正解だから!」

 叱られなかったことに胸をなでおろした様子のユウキは、カツトシの腕から抜け出してタイラの前に立った。「あれ、お薬のみました?」と端的に確認する。「打ったんすよ」とノゾムが肩をすくめた。

 未だカツトシの腕の中にいる実結は、小さな声で「ママは」と尋ねる。顔を見合わせたユメノとノゾムが、曖昧に「お仕事かな」と答えた。実結は黙って、ただカツトシの腕をぎゅっと握りしめている。まるで偽りの空気を感じ取ったようだった。

 不意に一番後ろでぼんやり立っていたタイラが、明瞭な声で「ユメノ」と呼ぶ。ユメノは驚いて振り向いた。目を細めたタイラがユメノを見ている。

「なあユメノ、お前いつまで俺と手を握っているつもりだ?」

 咄嗟に自分の手がタイラの手と繋がっていることに気付き、ユメノは声をあげて離れた。「これは違う、そういうことじゃない」と慌てて弁解しようとする。

「いや……何が違うのかわからんけども。俺が躾のなっていない犬にでも見えたか?」

「そうだよ! 『待て』もできない犬はこうして手でも繋いで連れて来なきゃいけなかったの!」

「そうか? そりゃあ、迷惑かけたな。何か懐かしいことを言われたようで記憶に混乱が見られる」

 そう冷静に言いながら、不具合を正そうというようにタイラは自分の頬を叩いた。一瞬だけ目を伏せて、すぐににやりと笑う。「よく事故らずに戻れたな」と他人事のように言った。ここぞとばかりにユメノが噛みつこうとする。それをかわしながら、タイラはカウンターの席に座った。

「しっかしあの女、随分じゃないか? 大人しい顔してえげつないよな、人使いの粗さで言えばアラキのぼっちゃんとも並ぶかもしれん」

「ミユちゃんの前よ」

「ああ、そうだミユちゃんな。解せねえんだよな。その子だけは置いていかないものと思っていたが。逆……か。その子だけは連れて行かない・・・・・・・・・・・・・・、か。難儀だよ、母親心ってのは」

 伸びをしながら、タイラは天井を見る。「ミユちゃんのためにも早く助けなきゃ」とユメノは言った。動きを止めたタイラが、首をかしげる。

「助ける? 誰を」

「先生じゃん、話の流れを読めよ」

「助ける必要が?」

「ああん!?」

 また噛みつこうとするユメノを片手で押さえて、「俺には自分の意思であそこにいるように見えたぞ」とあっさりタイラは言った。それは、とユメノが憤慨する。

「何か理由があって」

「それでも彼女はあそこにいる、俺たちに助けを求めてはいない」

 ぐっと言葉に詰まったユメノが、タイラを睨みながら「薄情者」と言い捨てた。タイラは頬杖をついて、「そうじゃないと思っていたのか」と薄く笑う。それから身軽に立ち上がり、「連れてきたガキは何人だ」とカツトシに確認した。車の中に置いてきた子供たちをすっかり忘れていたようで、カツトシは目を見開く。

「……まあいい、そいつらの保護者も見つけなきゃならん。そうだとしても俺の仕事はやり途中だし、面倒だがこういう時に頼りになるのは情報だよな」

 言って、タイラは酒場の出入り口へと歩いて行った。途中で一度振り向いて、「カツトシ」と呼ぶ。

「ガキのことを見ていろよ、絶対に危ない目に合わせるな」

 仕方なさそうに、カツトシはうなづいた。タイラがドアを開き、まだ明るい道に消えていく。

 行き先は、情報屋。瀬戸麗美のもとである。

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