episode13 整髪物語
階段から駆け降りてくる足音を聞いて、楽しく談笑していたカツトシとユメノは振り返る。金属バッドを肩に担いで、タイラが降りてくるところだった。
「何あの人、こわい」とカツトシがひそひそ話すと、ユメノが戸惑いながら「でもユニフォームまで着てるよ。もしかしたら普通に野球するつもりなのかも」と一応は言ってみる。そして恐る恐る、「おはよ、タイラ。今日はどこに殴り込みに行くの?」と声をかけた。
「行かねえよ、なんでこんなコスプレみてえなユニフォームまで着てすることが殴り込み一択なんだよ」
「あ、間違っちゃった。違う違う、『野球でもするの?』って聞こうとしたんだけど」
そうだよ、とタイラは野球帽をかぶり直す。「人数合わせだけどな」と目を細めた。へえ、とカツトシがぼんやり言う横で、ユメノは眉を顰める。
「あのさあ、激しい運動は控えるようにってセンセーから言われてなかった?」
「お前最近ほんとに厳しいよな。俺が行かなかったらあいつら不戦敗だぞ」
「あいつらって誰」
「竹吉の野球チーム」
ユメノは不機嫌さを隠すこともなく立ち上がり、タイラに近づいた。くるりと後ろに立ち、タイラが何か言う前に素早く背中に飛びつく。驚いたタイラは振り向いたが、ユメノも必死に肩に腕を回して離れない。「なんだ? どういう遊びだ」とタイラが困り果ててカツトシに尋ねるが、カツトシは可笑しそうに肩をすくめるばかりだ。
「行くんならあたし背負って行け!」
「なんでだよ。これで野球できねえよ」
「だから! じゃあ! 行くな!」
はあ? と顔をしかめたタイラが、しかし仕方なさそうにユメノの体を後ろ手で支える。「お前ぐらいなら背負ってできるかな」と本気の表情で思案していた。面食らったユメノが、タイラの背中で暴れる。
「暴れんなよ、後ろからパンツ見えるぞ」
「なんで行こうとするの? 野球なんかいいじゃん」
「むしろなんで野球なんかで怒ってんだ、お前は」
「いいからさ。あ、そうだ!」
いきなりタイラの頭を掴んだユメノが、髪をくしゃくしゃとか撫でまわした。「髪切ってあげるよ」と真剣な顔で言う。動きを止めたタイラが、思案顔をする。数秒考えている様子だったが、やがてやれやれという顔をしたタイラが黙って携帯電話を懐から出した。素早く番号を押して、耳に当てる。
「――――モモちゃん、今日暇?」
ユメノはそっと携帯電話に耳を近づけ、相手の声を聞こうとした。モモちゃん、などと呼ばれた相手は、驚くべきことに、どうやら男性らしい。小さな声でユメノにはよく聞き取れなかったが、穏やかな声色だった。
「いや。竹吉がな、今日野球の試合をやるんだと。人数が足りねえって俺に泣きついて来たんだが……俺もちょっと予定が入っちまって。ああ、キャッチャーだよ。行ける? 菊花ちゃんがいるだろ、頼むよ」
相手が、やはり穏やかに何か言い返してタイラは黙る。不意に、電話口から笑い声が漏れた。相手が可笑しそうに笑っている。「なんだよ」とタイラは不満そうだ。しかし何度か頷いて、タイラも笑った。目を細めて、親しげな調子で。
「ありがとう、よろしく頼む」
そうして電話を切ったタイラは、ユメノを下ろす。苦笑してため息まじりに、言った。
「男前にしてくれ、美容師さん」
ユメノは目を輝かせて、胸を張る。「当ったり前だって!」と、早速階段を駆け上がっていった。タイラは頭をかきながら、「何見てんだよ」とカツトシを睨む。「いやぁ?」とカツトシは笑いをこらえきれない様子だ。
「男親の弱さを見たのよ」
「誰が男親だ、誰が」
ユメノが2階から呼んでいる。カツトシはタイラの背中を押してやりながら、「こいつの次は僕の髪を切ってね」とはしゃいだ。
2階にある無駄に大きな鏡の前で、タイラは椅子に座って髪をいじられる。野球チームのユニフォームはいつのまにか脱いでいて、いつものハイネックシャツを着ていた。
スプレーで水をかけられ、櫛を通される。「なんか、犬のトリミングしてるみたい」とユメノは言う。「言ってろ」とタイラは肩をすくめた。髪をそっと手のひらにのせて、ユメノはタイラの髪の長さを見る。
「伸びたね」
「忌々しいな、髪も髭もいい具合に維持できねえかな」
「おっとタイラさん、伸びない人だっているんですよ」
軽口を叩きながら、ユメノが鋏を持った。軽くするため大雑把に切っていく。黒い髪の毛がふわふわと落ちて行った。それから長さをそろえるために、注意深く鏡を見ながら鋏を入れていく。前髪を切る時だけ、タイラは片目をつむった。「次、こっち切るよ」と声をかければ、タイラは返事をするように瞬きをして、また片目をつむる。
何か、わかりそうだとユメノは思った。鏡越しにタイラの目をじっと見て、何か。その目の奥底にある何かが。動きを止めたユメノに、タイラが怪訝そうな顔をする。
「ユメノ?」
「……タイラ、右目は二重だけど左目はぎりぎり一重だ」
「え、マジで」
わからないなりに鏡をじっと見始めたタイラに、ユメノは思わず笑った。それからドライヤーを片手に、「乾かしますよー」と声をかける。タイラは「どうぞー」と答えた。吹きすさぶ風の中で、聞こえないのにタイラが何かを言う。
「なにー?」
目を細めたタイラが、ただうなづいた。「一人で満足して」と小声で言いながら、ユメノはタイラの髪をなでて水気を飛ばす。濡れて真っすぐだった髪に、癖が戻ってきた。手触りが柔らかくなっていく。指に絡みついて来る黒髪が、本人と対照的に可愛い。ユメノはドライヤーのスイッチを切り、コンセントを抜いた。
「タイラってさ、お父さんかお母さんが天パだったの?」
「覚えてねえな」
ふうん、と言いながらユメノは鏡を見て微調整をするためまた鋏を手に取る。「お前は」とタイラが呟いた。
「あたしは、これ、パーマかけてんだよ」
「綺麗な色だな」
「ああ、茶髪? これは自前。母親の方の遺伝」
「ココアみてえな、色だな」
「褒めてるんだとしたら、もうちょっと考えて」
タイラが何か難しい顔で考えているうちに、ユメノはタイラの髪を切り終える。散らばった髪を飛ばすためにまたドライヤーをかけて、ワックスを手に付けた。それをタイラの髪にたっぷりつけて遊ぶ。
「角はやしとこうか」
「今日はハロウィンか?」
「1角がいい? 2角?」
「できれば角はつけないでほしい」
ワガママだなぁ、と言いながらユメノは、タイラの髪を全て後ろで撫でつけた。オールバック姿のタイラを鏡越しに見て、ユメノは真顔になる。
「働いてそう」
「俺が働いてないみたいな言い方はやめろ」
ケープを取り外しながら、「できましたよお客さん」と言ってやった。タイラは笑いながら「どうも、お世話になりました」と言って立ち上がる。その横を、モップを持ったカツトシが通り過ぎる。落ちた髪の毛を片付けているらしい。戻ってきたカツトシは、モップをタイラに渡して自分は勝手に椅子に座った。
「よろしくお願いします!」
勢い込んでそう言ったカツトシに、ユメノは笑いながら「任せろ!」と言って水の入ったスプレーを手に取る。それをまんべんなく頭にかけてやると、カツトシは「くすぐったい」と笑った。
「今日はどのようにしましょうか?」
「うーん、ユメノちゃんにお任せ!」
「じゃあ、もーっとイケメンにしちゃおう」
「そしたらデートしてくれる?」
櫛で髪をとかしながら、ユメノはうなづく。「今度はどこに行こっか。スイパラ行く?」と誘えば、カツトシは嬉しそうに目を細めた。
カツトシの髪は、艶のある直毛だ。タイラよりは長めで、いつもは軽く結んでいる。前髪に櫛を通すと、黄金色の瞳が隠れた。まるで雲の中から覗く三日月のようだ、とユメノは思う。その様子をじっと見て、ユメノはため息をついた。
綺麗な人だ。滑らかな褐色の肌にかかる黒髪と、鼻筋の通った端正な顔。強く光を反射させる瞳。
カツトシが恥ずかしそうに目を閉じて、「白髪でもあった?」と尋ねる。ユメノはハッとして、「まだそんなの全然ないよ」と答えた。そういえばタイラも、白髪などがなかった。あそこまで自由にやっていれば、ストレスなどもないだろうが。
カツトシの髪を切り始めると、下の階から物音が聞こえた。ふと周りを見ると、モップを持たされていたはずのタイラがいない。「失敗したわ」とカツトシがぽつり呟く。
「あの男にモップなんて渡すんじゃなかった」
どうやら掃除を始めたらしい。ユメノは先ほどとは異なる意味でため息をつく。
この場所にタイラを呼んだその日に大掃除を実行されてから、ユメノとカツトシはタイラの清掃行為にトラウマらしきものを感じている。なんせ掃除しているときのタイラといえば、小姑よりも粘着質で、熱血スポーツコーチよりもうるさい。一人でやってくれるようになって良かったとは思えど、話しかけることさえためらわれる。だから、面倒だ。カツトシの髪を切り終わるまでに掃除も終わってくれたらいいのだが。
☮☮☮
酒場のドアを開けたノゾムは、思わず「逃げろ!」と叫んだ。モップを片手に床を磨き上げているタイラを見たからだ。ユウキが「わあ!」と言いながら本当に逃げようとする。
「待て待て待て」
タイラがモップを引きずりながら歩いてきた。後ろにいた都が、そっと口に手をあてる。驚いている様子だ。それから、実結が大きな麦藁帽を小さな手で押し上げ、タイラを指さした。
「かっこいい!」
タイラはモップに軽く体重をかけながら髪を後ろになでつける。「今2階でユメノが出張美容室開いてるぞ」と上を指さした。マジすか、と言いながらノゾムも仰ぎ見る。
「てか先輩、今日は用事があるって話じゃなかったすか。まさか、こうしてモップ掛けするのが本日の用事すか? さすがだなぁ」
「だってユメノが髪切ってくれるって言うんだもん」
「もん、じゃねーっすよ。可愛くないから」
「悪かったとは思ってるよ。でも野球でもなんでも代わりはいるが、俺の髪を切るってのに誰か代わりを置くわけにいかないだろう」
もっともらしくそう言って、タイラは腰に手をあてた。「ぼくもかみの毛切ってもらいます」と言いながらユウキが階段を上っていく。つられて飛び出した実結を、都が追いかけて行った。
「お前は行かなくていいの?」
「この前美容室行ったばっかなんで」
「なんで我が家に腕利きの美容師がいるってのにわざわざ行くのかね」
「だってメッシュ入れるような用意はないじゃないすか」
ノゾムは後ろ髪をかき上げて、内側の赤く染められた髪を見せる。「外から見えねえのに毎回よくやるな」とタイラが呆れたように言った。恥ずかしいんですよ、とノゾムは唇をとがらせる。
「メッシュ入れてるなんて周りからバレたら、なんかイタイじゃないですか」
「わからねえ。勝負下着みたいなもんか?」
言いながら、タイラはモップを片付けに行ってしまった。違うともそうだとも言わないまま、ノゾムはつまらなそうにカウンターの丸椅子に腰かける。ふと後ろからドアの開く音がして、「夜は5時からですよ」と言いながら振り向いた。入ってきた客人はといえば、和やかに手を振っている。思わず「あんた」と言ってしまって、ノゾムは立ち上がった。
「やあ、元気そうだね。須々希くん」
気まずさにうつむきながら、「おかげさまで」と答える。
「本橋巡査は来ていないね?」
「今日は、見てないです」
「それならいいんだ」
踵を返す男性に向かって、ノゾムの後ろから声がかかる。「カイチョウ!」と呼んだのは、モップを片付けてきたタイラだった。男性はゆっくりと振り向き、穏やかに笑う。
「まだ生きていたのかい、タイラ」
「お前らの挨拶はいつも生存確認だな。そう心配しなくても死なねえぞ」
「それは残念だね」
男性は見事な白髪をかき上げて、目を細めた。「タイラ、本橋を知らないかな」と尋ねる。「今日は会ってねえな」とタイラが首をひねった。
「部下と連絡も取れねえのか?」
「LI○E、間違って消しちゃった」
「なんで部下とL○NEで連絡とってんだよ」
呆れながら男性の携帯電話を見てやりながら、「画面から消しただけでアンインストールしたわけじゃないから大丈夫だ」とタイラが言っている。復活したアプリのアイコンを見ながら、男性は「さすがぁ」と嬉しそうな顔をした。
「これで本橋を呼び戻せるよ」
「お前がイブを探してるなんて珍しいな」
「ちょっと外に出たくて、留守番を頼もうと思ったんだ。知ってるかい、タイラ。竹吉の野球チーム、勝ちそうなんだって」
「マジかよ、13連敗を喫していた竹吉のチームが?」
すげえなモモちゃん、とタイラは素直に感嘆の声をあげる。男性はにっこり笑って、「見に行きたいんだよ」といっそ清々しく言った。そうか、と腕を組んだタイラが、「でもお前、現在進行形で職場離れていませんか」なんて指摘する。男性は目を丸くして、「鋭いねぇタイラ」と何度もうなづいた。
「じゃあ、もう、いっか?」
「よくはねえだろ。早くイブに連絡とれよ」
そんなことを言っているうちに、男性の携帯電話から軽快なジャズが流れ始める。画面を見た男性は、嬉しそうに「本橋だ」と言いながら耳にそれをあてた。途端に、ノゾムたちにも聞こえるような怒声が響く。『なんでハコに誰もいないんですか!』と。ノゾムはぼんやりと、「本橋ちゃんさんも大変だなぁ」と思った。
「ごめーん本橋ぃ。俺、ちょっと席外していい?」
「もう外してるじゃないですか!」
「いい? ありがとうー。30分くらいで帰るねぇ」
まだ電話の向こうで怒っている本橋を無視して、男性はそっと電話を切る。タイラは興味なさそうに「楽しそうだな」と呟いた。
「さて、本橋の了承も得たことだし」
「得たか?」
「ちょっと野球見てこよーっと」
そう踵を返そうとした男性に、また2階から声がかかる。「お客さまー?」と顔を出したのは、カツトシだ。いえいえ、と男性は苦笑した。
「いいんですよー、もう帰りますから」
男性が戸惑っているうちに、2階からぞろぞろと人が降りてくる。カツトシを先頭に、ユウキと実結、都まで髪を切ってもらったようで照れくさそうに歩いてきた。一番後ろに、一仕事終えた清々しさをにじませてユメノがいる。「あれ、誰? 髪切る?」なんて鋏を出して見せた。
「いえいえ、本当に帰りますんで」
カツトシは唐突に男性を指さして、「見たことあるわ」と呟く。ユメノも、「ああ」と納得の表情を浮かべた。
「お巡りさんだ、本橋ちゃんのところの上司さん」
男性は少し顔を赤くして、綺麗な敬礼を見せる。
「本官は
都は内心、どこかで聞いたことのある台詞だと首をかしげた。思い出した、本橋イブの台詞だ。『サボりであります!』なるほど、この上司あってあの部下あり、ということだ。
宝木は白い髪をかきあげながらはにかみ、「それじゃあ」と今度こそ外に飛び出していく。それを見送りながら、「あれが警官やれるなんて世も末だよな、しかも交番の所長だぞ」とタイラが嘆いた。
「……先輩は、見に行かなくていいんすか」
「俺はバックレてますからね」
言いながら、タイラはカウンターの席に座る。カツトシが、店を開く準備を始めた。ユウキと実結が走って行き、「どうしてタイラはこなかったのか」と責める。タイラは苦笑して、「先約がなぁ、いたんだけどなぁ、まあそれもぶん投げたんだから言い訳が厳しいよなぁ」と言いながら2人を抱き上げた。ごまかすように、2人の髪をなでながら「ユメノ姉ちゃんに髪切ってもらったのか、なかなかいいぞ」と褒めてみる。2人はまんざらでもない様子で顔を見合わせた。
「どこに行ってきたんだ?」
こうえん! と実結は元気よく答える。「シャボン玉してきました」とユウキは少しだけ恥ずかしそうに言った。「桜が咲いてましたよ」とノゾムが横から口を挟む。
「桜? 今何月だっけ」
「3月っすよ、だからユウキも春休みなんじゃないすか」
「もしかしてユウキくんって4年生になる?」
そうですよ、とユウキは胸を張った。うろたえたタイラが、「大丈夫か?」と尋ねる。ユウキに尋ねたというよりは、自分自身に一応確認してみたという響きだ。「だいじょうぶですよお!」とユウキはムッとする。そうか、と言ってタイラが肩をすくめた。
「嫌ねえ、時の流れって」とカツトシが呟く。ほんとだよねえ、と言ったのはユメノだ。
「ユウキなんてこの前までこんなにちっちゃかったのに、最近背も伸びたし。もしかしたらあたしの身長抜かすかなぁ」
自分は覚悟できてるっす、とノゾムが真顔で言う。「お前は頑張れよ」とユメノが笑った。
ずっと頬杖をついて何か考えていた様子のタイラのジャケットから、電子音が漏れる。パッとカウンターから離れたタイラは、携帯電話を取り出して耳に当てた。もしもーし、と明るく言ってごく自然に外を見ている。
「勝った? マジかよ、すげえなモモちゃん。えっ? えっ!? なんで勝手にそんな話になるかな、止めてくれよ。ああ……わかった。すぐ行く。それまで一滴も飲ませるなよ、頼むよモモちゃん」
慌てた様子のタイラが、立ち上がって踵を返した。「あー、飲みに行くんだー」とユメノは非難する。おずおずと、都が追いかけた。
「行くの?」
「野球で勝った竹吉たちがさ、これから優勝ビールやるんだと」
「でも、タイラは試合に出ていないんでしょう?」
「それが、試合ドタキャンした俺のツケでやろうってことになったんだってさ。やだよ、俺。飲んでないのに払わされるなんて絶対やだ」
それでも不服そうに口を閉ざしてしまった都を見て、タイラは苦笑する。都の髪にそっと触れた。
「髪、切ったんだね」
さすがうちの美容師さんはセンスも腕もいいな、とさらっとユメノを褒めて、タイラは都の肩に手を添える。何も言わずに都の口元に顔を寄せたタイラは、ひどく真剣な目をしていた。
「っ、タイラ……?」
仲間たちの視線が集まるのを感じ、都は耳のあたりを赤くする。タイラは都の耳元で動きを止め、そしてそっと、柔らかく彼女の首筋に息を吹きかけた。思わず声にならない声をあげて、都は飛び上がる。
「何をするの」
タイラは都から離れ、真顔で何か床から摘み上げた。「髪の毛ついてたよ」とそれを掲げてみせる。都は自分の首筋を押さえながら、勢いよく後ずさった。「煙草の!」と顔を真っ赤にしながら睨む。
「煙草の匂いがしました。また吸ったでしょう」
「あらバレちゃった」
へらっと笑ったタイラが、自分の指で耳栓をしながら「まあそんなに怒らなくてもいいでしょ、先生。反省してるよ」と反省の色など欠片もなく言った。まだ何か言おうとした都を制し、タイラは目を細める。
「綺麗だよ、先生」
さらりと、耳障りの良い低い声でそんなことを言ってみせた。「そりゃユメノの腕がいいのもあるが、素材が抜群にいいからだ」なんて続ける。
歯の浮くような、と思いながらも、都は一層赤面してうつむいた。息も絶え絶えに、「早くいかないといけないわ。そうじゃないとツケにされちゃうんでしょう?」なんて言ってしまう。タイラは楽しそうに「おう」と言って、都たちに背を向けた。ドアの閉まる音がする。
沈黙が辺りを包み、都は静かに仲間たちを振り向いた。
「私、煙に巻かれたわね?」と確認する。
「子どもにするようなやり方で、煙に巻かれたのね?」
なんてことはない。ユウキの担任教師に社交辞令くらいは言える人なのだ。これくらいの甘言は言ってもおかしくない。そう自分を納得させてみても、真っ直ぐ目を見て言われた『綺麗だよ』の響きが耳から消えない。他に何の他意もないような、あっさりとした物言いが、ただそれだけなのに忘れられそうにない。
仲間たちはそれぞれ目くばせし合って、やがてユメノがため息をついた。
「あれ、煙に巻いてるっていうよりは」
「あいつなりに『正当に評価した』っていうだけなのよねぇ」とカツトシがにやつく。「まあ、振り切っていきたかったっていうのも否定はできないでしょうけどね」とノゾムが呆れたように言った。
「なんにせよ」とカツトシが手を叩く。ユメノとノゾムが声をそろえて言う。
「ご愁傷さま、センセ」
都は両手で顔を覆い、深く深いため息をついた。
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