episode8 遠くない未来への宣戦布告

 カツトシのいれるコーヒーは、今日も美味しいのだけれど。

 自分でも気づかないうちにため息をついて、都は頬杖をつく。それを見たカツトシが、カウンターの向こう側から「だーいじょうぶよ」と笑い飛ばした。

「そう心配することじゃないわ。あの男は毎日帰ってくる方が珍しいんだから」

 でも、と都は呟く。それは都たちと出会う前の話で、薬物管理をされる前だ。今のタイラは薬を打っても打たなくても、日常生活すら危うい。それが3日も帰って来ないのだから、都としては心配と言うよりは危機感としてため息もつく。

 不意にドアが開いて、都は思わず立ち上がる。帰ってきたのは、ユメノとユウキだった。「そこで会ったから」と外を指さしたユメノは仕事帰りで、「タイラは?」と真っ先に聞いたユウキは学校帰りだ。

「まだよ。ユウキ、あんたちゃんと手洗いとうがいしなさいよ」

 ユウキは不満そうに「はーい」と答えて真っすぐ奥に入っていく。「あたしも」と言いながらユメノが後を追った。二人と入れ違いのように、ノゾムと実結が階段を降りてくる。

「先輩帰って来ないすね」

「まったく、あんたとユウキはあいつのことが好きすぎるのよ。3日くらいほっといてやんなさい」

「自分は別に全然気になんないすけど、こちらのお嬢様方が」

 そう顎で指された都は、少し気まずく思いながら愛娘を抱きかかえる。

「ノゾムお兄さんに遊んでもらったの?」

 うん、と実結はうなづいた。ノゾムがにこにこ笑いながら「楽しかったっすよね、積み木崩しゲーム」なんて話しかけたが、実結は「たのしくない!」ときっぱり答える。どんなゲームなのか詳細はわからないが、どうやら実結のお気には召さなかったらしい。「ちょっと難しかったかな」とノゾムはひとりごちた。

 ユメノとユウキが戻ってきて、カウンターの丸椅子に腰かける。カツトシが冷たい麦茶を出しながら、「そこタイラの席よ」とユメノに軽く警告した。「帰って来ねーやつの席なんてないね」とユメノはふてくされ顔をする。

「でも、ユメノちゃん」

「いーじゃん。大丈夫だよ、帰って来ないもん」

 コーラを飲みながら、ノゾムが人差し指を立てた。「大体そんなこと言ってると帰ってくるんすよ」なんて軽やかに言う。

 その場の全員が黙って、沈黙が訪れた。言い出した本人が噴き出す。

「来ないか」というノゾムの言葉につられて、全員笑い始めた。その時、

 ドアの開く音が響く。カツトシが「あら」と目を丸くして、都は振り向いた。つられてユメノとノゾムも振り向く。ユウキと実結がはしゃいで立ち上がった。

 疲れた顔をして、タイラが歩いてくる。ゆっくりとユメノの後ろに立ち、「俺の席だぞ、ユメノ」と低い声で囁いた。思わずという風に立ち上がったユメノが、「めんご」と言いながら後ろのボックス席へ移動する。

 カウンターに突っ伏したタイラに、ノゾムが声をかけた。

「大層お疲れのようにお見受けしますが」

「害虫駆除してきたよ」

「それって何かの暗喩すか」

 片肘をついて、タイラはノゾムを見る。「たんに害虫駆除と聞いて行ってみりゃあ、どっかの馬鹿が放した毒蜘蛛だった」と、苦々しい顔で呟いた。

「嫌な予感はしたんだよなァ、俺が黙るほど報酬良かったから」

「素人じゃないんだから報酬で黙んないでほしいわよね」

 そうカツトシに突っ込まれたタイラは、仏頂面で煙草のパッケージを出す。ちょっと、とカツトシが非難した。ユメノも「煙草やめなよ」と顔をしかめる。気にせず煙草を口にくわえ、タイラは火をつけた。

「何の装備もなく毒蜘蛛をただひたすら踏みつぶし続けたタイラさんの3日間を、お前らもうちょっと労わってもいいんだぞ」

 煙をろくに吐き出さず、タイラはぼんやりとどこかを見ている。「休まないと」と都が言った。ようやくタイラは都を見て、「ただいま」と夢現な表情で呟く。

「休まなきゃダメよ、頭は痛くない?」

「もしかして俺の母親か?」

「ふざけてるんじゃなくて」

「大丈夫だよ、まだまだ元気だ」

「でも、」

「大丈夫だって。俺は俺の、好きなようにするから」

 傍から見ても、都がムッとした様子はわかっただろう。ユウキが小さな声で「あっ」と呟く。都は立ち上がって、素早くタイラの煙草を奪取していた。煙草をくわえていた体勢のまま、ぽかんとしてタイラが都を見る。都は勿体つけるような動きでその煙草を自分の口にくわえ、煙を吐いた。直後、激しく咳き込む。

「無茶するな……気管を痛めるぞ」

 そうタイラに心配されたが、都は首を横に振って睨んだ。涙目のまま、「大丈夫」と答える。

「私は私で、好きなようにするから」

 タイラが、ハトに豆鉄砲、という顔をする。一瞬の沈黙の後に、何か察した風のノゾムが慌てたようにユウキと実結を抱いて階段を上って行った。

「――――カツトシ」と無表情のままタイラが呼ぶ。

 呼ばれたカツトシは、自分がこの場に立っていたことを悔いるようにうつむきながら「何よ」と返した。

「酒、あるよな。金は払うから適当に何本か見繕え」

「……あんたもう寝た方がいいんじゃない? 話は後にして」

 なだめるようにそう言ったカツトシに、「うるせえよ」と吐き捨てる。後ろに座っていたユメノが、びくりと肩を震わせた。

「この女、俺に喧嘩売る気だぞ」

 カツトシはしばらく何か考えていたが、やがて酒瓶を4本カウンターに置き、グラスを2つ出してみせる。それから無言でカウンターから出て、何か言いたげなユメノの腕を取った。「でも、せんせい」と心配そうな顔をしながら、ユメノはカツトシに連れられて行く。

 二人が完全に姿を消すと、タイラが酒瓶の栓を抜いた。「氷も用意しやがらねえ」と毒づきながらグラスに注いでいく。目の前に置かれたグラスをしげしげと見つめ、都は「わからないわ」と呟いた。

「私とあなた、出会ってから今まで怒るべきところはもっとあったと思うのだけど」

 タイラは黙って酒を煽る。都もそっと、口に運んだ。

 舌で感じ取れないほど強いアルコールが、喉を焼きながら胃を温める。呑めない、と都は思った。それでも、意地のようにまたグラスを傾ける。タイラのグラスはもう空だ。瓶に手を伸ばしながら、都を見た。仕方なく都も一気に飲み干して、グラスを前に出す。透明な液体が、またなみなみと注がれた。

「何か言わないの、タイラ」

「言ってほしいのか」

「できれば何か」

「じゃあ、何も言わないでいよう」

「……意地悪ね」

 2杯目を飲み干せば、頭の中で星が飛ぶ。現実感がログアウトし始めるころだ。浮足立った心持ちで、3杯目に口をつける。その間、タイラは何も言わなかった。ただ仏頂面で、酒を飲んでいる。3杯目の半ばで、都は、胃がふわふわと浮くような感覚を味わった。楽しい気持ちと気分の悪さが同時に去来する。一旦グラスを置いて、前を見た。目の前の棚が揺れている。地震だろうか、しかし音はしない。

 もう一口飲もうとグラスを掴んだが、それをタイラがひょいとさらった。驚いてタイラを見たが、視界がぼやけてよく見えない。

「今まで飲んだ最高は?」とタイラが尋ねる。「そうね、1杯くらいね、そんな機会もなかったから」と都は曖昧に答えた。タイラは都のグラスを揺らしながら、「じゃあ覚えておきな」と言う。「あんたの限界はここまでだ。これ以上飲んだらおそらく吐くだろう」なんて言って、都の分を一気に煽った。

 彼のこういうところが、甘い。ふふ、と笑った都をいぶかしげに見ながら、タイラはグラスを回した。

 都はカウンターに突っ伏して、うとうとしながらタイラの方に手を伸ばす。その手が空を切って、初めて都は不安になった。何度も手を伸ばして、何度も空を切る。距離感が掴めなくて、思い切り手を伸ばしたら「痛てえ」と文句を言われた。届いた。

「よかった、いたのね」

 そう目を細めて、都は笑う。タイラがこめかみを押さえながら、盛大にため息をついた。「なぁに?」と都は問う。あのなぁ、と呆れたようにタイラがグラスを置いた。

「今さら俺と同じ土俵に立とうなんて、男でも思わねぇぞ。それをあんた……、いきなりよじ登ってきて俺とタイマン張ろうなんざ」

「でも、これじゃあ負けでしょう?」

「しかも勝つ気でいたとはね」

 自分の髪の毛をもてあそびながら、「なぜあなたと同じところに立ってはいけないの?」と都は尋ねる。頬杖をついたタイラが、瞬きをして「俺が来てほしくないだけだ」と答えた。

「なぜ?」

「同じフィールドで拳を構えるのなら、俺はそれが誰だって殴らなきゃならなくなる。俺は俺の好きなように、君は君の好きなように。それでいい、それなら構わない。だけど、俺の前に立とうとしないでくれ。絶対だ」

 都は目をこすりながら、小さくうなづく。「あなたの前じゃなくて、横に立てるように努力するわ」と。タイラは呆れたような顔をして、それでもふっと笑った。

「こわくないか」

「なに?」

「俺が、俺のそばが、怖いはずだ。あいつら・・・・でさえ、時々は怯えた表情をする。まともな人間なら、俺なんかに関わろうとも思わない」

 瓶が、2本空いた。やっぱり氷が欲しいな、とタイラが呟く。それを愛しげに見て、都は首を横に振った。「怖くないわ」と笑う。

「あなたの強さは信頼に値するものであって、恐怖を感じる対象ではないわ」

 星が一回りするような時間、二人は見つめ合っていた。「優しいことを言うんだね」とタイラが言う。

 それから彼は頬杖をついたまま、都の首筋に片腕を伸ばした。血管をなぞってから、喉の下を親指で軽く押す。途端に苦しくなって、都はタイラの手を掴んだ。

「俺は、いつか君を殺してしまうかもしれないな」

 それは、と都が口を開く。タイラの手が緩んだ。「それは、私があなたを閉じ込めてしまうのよりも、早いのかしら」と、都は言った。そっとタイラの手が離れる。その手を掴んだまま、都はにっこり笑ってみせた。

「楽しそうなゲームだ」と好戦的な表情でタイラが言う。もうほとんど寝ぼけながら、都は「そうでしょう」と目を細めた。仕方なさそうにタイラが肩をすくめる。都は笑顔のまま、しかしその表情に影を落とした。

 私が怖いのは、あなたという存在が損なわれてしまうことだけ。とは、言えなかった。だから閉じ込めたいのに、閉じ込めたら彼の大切な部分が損なわれる。

 もっと違った出会い方をしていれば、彼か私か、彼も私も、もう少し優しい世界で生きていれば、こういう時に宣戦布告ではなく肩を抱き合うこともできたのだろうか。

 もう回らない頭で、そうだ、と都は続けた。

「おかえりなさい、タイラ」

「ん?」

「言っていなかったから。おかえりなさい、と」

「俺はただいまと言ったはずだ」

「そうね、でも、何度聞いてもいい言葉だわ」

 タイラがしばらく逡巡して「ただいま」ともう一度言う頃には、都はもうすでに夢の中である。やれやれ、という顔で、タイラは立ち上がった。寝息を立てている都を抱きかかえ、階段を上っていく。

 都の部屋には、もう実結が眠っていた。この幼い子を一人で寝かせてしまったことに、タイラはひどく罪悪感を覚える。

「……自分を大切にしなよ、先生」

 そう独り言をこぼして、彼女をベッドに寝かせた。

「この子の母親は君だけで、代わりなんてどこにもいないんだから」

 それは自分の代替を、暗に認めるものだったのだけれど。そんな言葉を聞いている『誰か』もいない。

 また下に行って飲み直そうかと考えたけれど、タイラは苦笑して都親子の部屋を出た。

 今日は、寝てしまおう。明日には仲間たちに謝ってもいいかもしれない。

 都は今日のことを覚えているだろうか。覚えていても覚えていなくても、いつも通り笑っているに違いない。『よく眠れた?』なんて邪気なく心配しながら。

 だからタイラは眠れなければならない。彼女は『もちろん、眠れたよ』なんて答えしか、望まないのだろうから。

 全て君の望むままに。そう、彼女があらぬ心配をして、戦場に飛び込んできてしまわないように。

 自室でジャケットを脱ぎながら、タイラは呟いた。

「邪魔だよ、そこは俺だけの場所だ」と。

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