episode4 薬中前と、本橋ちゃんと?
無味乾燥な、風が吹く。髪の毛をもてあそんだ後で、結局は置いていくのに。
夢みたいだと、本橋
「きれい」
そう呟いて、イブは携帯電話のカメラを起動する。フラッシュがたかれ、軽い音でその景色が切り取られる。誰かに見せるわけでもない、後に見返すわけでもない。なんせイブには、もう明日を迎える気などなかったのだから。
死ぬつもりだった。田舎から電車に何時間も揺られたこの街で。知らない人とすれ違って、知らない場所に立って、知らないビルから飛び降りて。理由などは、もはや自分自身にさえ説明はできない。そっと下を見た。遠い地面に、少しだけ目眩がする。
もう一度地面を見下ろすと、先ほどはいなかったはずの男がこちらを見上げていた。
三秒、目が離せなかった。呼吸を忘れてしまったように彼を見つめる。向こうも目をそらさない。黒い癖毛を、風が揺らした。
「飛び降りるなら」
「えっ」
「他のところにしてくれないかな。ついこの前、そこから人が飛び降りたばかりで、俺も今その掃除が終わったばかりなんだ」
ひどく若くは見えるが、声が落ち着いていてアンバランスなイメージだ。彼は静かに瞬きをする。イブは思わず「あ、はい」と言って動きを止めた。彼は何も言わずに顔をそむけ、歩いて行ってしまう。
それが、酔狂な掃除屋との初めての出会いだった。
彼のせいで死に損ねたイブは、田舎に帰ることもできず街をさまよい続けた。
地面を見ればアスファルトにガムがくっついていて、空を見ればいやでも蛍光灯色のビルが映る。誰もかれもが人に無関心で、今ここでイブがひとり消えたとしたって、逆にイブ以外の人間が全て消えてしまっても、大して変わらないだろうと感じた。それを一種の居心地の良さとして胸に置きながら歩く。夜になれば安いビジネスホテルに泊まり、その日見る夢に思いを馳せるだけ。撮った写真をネットの海に流してはみたけれど、誰もイブの存在を気にかけていないようだった。故郷に帰る意味もなく、帰ろうにも金がない。
その日食べるものにも躊躇するようになったある日、イブは見知らぬスーツの男にいきなり声をかけられた。近くのファミリーレストランでコーヒーを奢ると言われた。背は高くなかったけれど、優しそうで格好良かったからついていった。この街ではよくあることなのかもしれない、とある種納得しながら。
どんどん細い道に入っていき、イブの胸は高鳴った。少しの恐怖と、強い興奮を感じていた。
随分奥まで行ってから、男は振り向いて笑う。
「携帯、持ってる?」
「はい……」
「貸してよ」
「携帯を、ですか?」
いいから、と言われて初めて違和感が胸に去来した。男の表情に苛立ちが見えたからかもしれない。何があってもいいつもりでついては来たが、もし金銭のやり取りであったり自分が犯罪者になるようだったら、それは回避したい事柄だった。
携帯電話の入った鞄をぎゅっと握りしめながら、イブは首を横に振る。男は困ったような顔で「殺してからでもいいよな」と呟いた。寒気を感じ、イブは固まる。
なぜ、どうして、殺す殺さないの話になるのか。まったくさっぱり、見当もつかない。思わず、「そういうお話でしたら」と口走る。
「お断りします」
「『そういうお話でしたら』って、どういう話だと思ってたわけ?」
「それは、その」
顔を真っ赤にして、イブはうつむいた。
「私、この街で処女を奪われても別にいいと……思ったんです」
男の表情が嘲笑へと変わる。しかし男が口を開くその直前――――「あはっ、あははっ」という無邪気な笑い声が響いた。男はぎょっとして周りを見る。「いやいや、続けてください」と笑い声の主が言った。
「クソヤロウ、どこで見てやがる」
「覗き見するつもりなんてなかったんだ、本当だよ。たださ、」
薄暗い路地から出てきた彼に、イブは見覚えがあった。あの日イブに自殺を思いとどまらせた、かの掃除屋だ。
「あんたらが俺の仕事場で楽しそうにしているから」
そう言って、モップを掲げてみせる。「ただの掃除夫です、お構いなく」などと悪戯っ子のような顔をした。ビルの屋上から見た時とは、少し様子が違っているようだった。だけれどもその目は、あの夜と同じで冷ややかなままだ。
若い掃除夫の存在に気概をそがれたのか、男は『行こう』と言ってイブの手を取る。戸惑いながらも足が動いた。男に連れられながら、イブは掃除屋を見る。掃除屋もイブを見た。微かに、驚いたような顔をする。
「……気が変わったなぁ」
突然手を掴まれて、イブは足を止めた。イブを連れ行こうとしていた男が訝し気に振り向く。掃除屋はイブの手を掴んだまま、「出会いは大切にする主義でね、二度目ともなればなおさらだ」と笑った。
「なんのつもりだ?」
「この子、俺が引き取るよ。いくらで買える?」
「そういう問題ではない。引っ込んでいろ、ヒーローごっこはほかでやるといい」
掃除屋は一度だけ瞬きをした。次の瞬間には、イブから手を離して男の手首を強くひねっている。小柄な男は、小さな悲鳴をあげてイブを離した。そのまま、流れについて行けていないイブを抱えて掃除屋は走る。怒声が響いた。だけれど耳元では軽やかな笑い声が聞こえて、イブは目を点にしながら小動物のように丸まる。
彼に抱えられながら眺める街は、いつもより愉快で明るくて、賑やかに見えた。なぜだか目に映るものすべてが新鮮で、深い感動すら覚える。不思議なことに、これからどんなに年月が経ってもこの景色を忘れないだろうと彼女は思った。
やがて丁寧に地面へ下され、イブは掃除屋の青年を見る。歳はイブのいくつ上だろうか。見当のつかない童顔だ。彼は少しだけ首をかしげて、「醒めてるね」と呟いた。
「私、ですか?」
「あんまり怖がってないね。君、自分で思ってるより図太いよ」
モップ置いてきちゃったな、と独り言をこぼして掃除屋は頭をかく。それは申し訳ない、とイブは思った。
「君、ここらの子じゃないね。駅まで送ろう。おいで」
「あの……お金、ないです」
はたと動きを止めて、「親は」と聞かれる。「来ない」と答えれば、彼は口元を歪めた。「友達もいません」と少し胸を張ってイブは言ってみる。掃除屋は目を細め、今までとはどこか違った声色で「向こう見ずなガキは好きだよ」と囁いた。
「俺はタイラ。お前は」
突然に呼び方を『お前』にシフトチェンジされ、戸惑いながらもイブは「本橋です」と答える。
「本橋、ね。おいで。バイクでよければ送って行ってやるから」
「やっぱり、帰らなきゃまずいですか?」
「まずいですよ。さっきの男と何があったのか知らないけど、金でも性関係でもなくお前が目的だったみたいだ。早く国にお帰り」
「でも、その、電車で五時間くらいかかりますけど」
電車で五時間、という言葉にはさすがにタイラも表情を曇らせた。「仕方がないな、車借りるか」と言いながら歩いていく。「タイラさんって」と言いながらイブは彼を追いかけた。
「面倒見がいいんですね」
「タイラでいいよ……俺は出会いは大切にする主義なんだって。袖触れ合うもなんとやら、だからさ」
だからといって、電車で五時間の距離を送ろうと思うものだろうか。彼の人のよさは度を越えている、とイブは思う。それを人のよさではなく『酔狂』と表現できるようになるには、まだ彼女は子供だった。
タイラの背中を追いかけながら、自分が彼のゆく道を信じ切っていることにイブは気づく。あの小柄な男に連れられていたときは、『きっと悪い方向へ導かれているに違いない』という予感があったが、不思議なものだ。彼が必ずしも良い方向へ導いてくれるとは限らないが、どこへ行こうとも助けてくれるような、そんな気がした。
タイラは立ち止まって、イブを振り返る。
「この街には死にに来たの?」
「あ、はい。冥土の土産に、都会にでも来てみようかなーって」
「それ、面白いな」
不謹慎なジョークに、タイラはちょっと笑った。自分の言ったことが笑われているのではなく、人を笑わせたのだと気づき、イブは胸をなでおろす。
「車は俺のダチに借りよう」とタイラが呟いて、また歩き出したその時だ。唐突にタイラがイブの頭に手を置き、強く下に押した。地面にめり込むかと思って思わずその場で伏せると、どこかで硝子か何かの割れる音と悲鳴が聞こえる。恐る恐る顔を上げると、タイラの目が一瞬だけ鋭く光ったのが見えた。
「しくったな……軽くちょっかいを出すだけのつもりだったのに、虎の尾だったかな。まったくお前、何したんだよ」
すぐに周囲を見渡すと、ドアの割れた店が見つかる。いつかの洋画で見た、まるで銃弾が貫いたような割れ方だった。まさか、とイブは半笑いでタイラに首を振ってみせる。
「何にもしてないです。私、人には迷惑かけてないです」
だがタイラは何も言わず、イブの手を強く引いて走り出した。その後ろで、また何かが割れる。確かに耳元で、空気の裂ける音も聞こえた。悲鳴をあげながら走る。あんなに誰もかれも無関心だった街が騒ぎ出し、危機感として脳に響いた。
近くの人気がないビルに近づき、真横の壊れそうな階段を一気に屋上まで駆け上がる。呼吸器の限界を感じながらついていくと、それでもタイラは走り続けた。
「あ、あの、行き止まり、屋上ですよ、ここ」
必死に訴えるが、タイラはイブを担いで屋上を縦断する。端まで行って、手すりを乗り越えた。イブが息をのんで目を閉じると、瞬間風を感じた。目を開ける。無機質なアスファルトはなくなり、遠くに豆粒ほどの人間が見えた。空を飛んでいる。気が遠くなるのを感じて、イブはまた目を閉じた。
隣のビルの屋上に着地し、ほとんど投げられるように下ろされる。目を回していると、休む暇もなくまたタイラに手を引かれた。
「今度は自分で飛んでくれると助かる」
「無理です!」
「なら仕方ねーな」
また担がれ、「ひっ」と小さく悲鳴をあげている間にまたビルのはざまを飛んだ。「舌を噛むぞ」と控えめに忠告されながら。揺られながら地面を見ていると、一瞬前に自分たちが通っていたところを何かがめり込んだ。素早く二度、何かが自分たちを追いかける。
「撃たれてるみたい!」
「今さらかい」
笑いながらタイラはまた飛ぶ。三つ目のビルでようやく立ち止まった。イブを転がし、素早くその場に伏せる。
「あの、諦めるんですか」
「わからないか? 弾がちょうど真横から流れてくる。向かいのビルから撃たれてんだよ」
そんなことを言われて、イブは目を丸くした。恐る恐る顔を上げて向かいを見ると、タイラに強く頭を押さえつけられる。
「どうするの?」
どうしようかね、とタイラは思案顔だ。不意にアスファルトの欠片のようなものを握りしめ、向かいのビルに投げつけた。何かが空を切る音がして、石がわずかに軌道を変える。壁に銃弾がめり込んだ。
「そう腕がいいわけでもなさそうだけどな」
「どうして?」
「狙うべきは俺の腕だったのにとっさに石を狙って、しかも外してる」
イブはぎょっとしてタイラを見つめる。「腕を狙われていたらどうしたの?」と尋ねれば、「どうしただろうね」と曖昧に言われた。その表情があまりに楽しそうだったので、イブはもうなんでもよくなった。
「俺はね、あんまり的当ては得意じゃないんだ」
「あ、はい」
「狙いを定めるのに時間がいる」
そう言ってタイラは、イブの手に大きな瓦礫を掴ませる。両手で何とか持ち上げられるくらいの重さだ。「相手に投げつけろとは言わない」と言い含めるようにイブを見る。「後ろの壁にぶつけて音でも出してくれればいい」なんて簡単に言ってみせた。
「で、できるかな」
「やろうと思えば」その目はもう、イブの方ではなく前方を見つめている。「できるだろうね」と。皮の手袋をはめながら、拳銃を取り出した。今さら驚くことでもないような気がしたが、一応「ただの掃除夫さんも銃を持ったりするんでしょうか」とは言っておく。タイラは弾を一つだけこめ、イブに合図を送った。
なんとかガニ股で立ち上がり、瓦礫を持ち上げる。一度両手で肩まで上げてから、投擲の要領で壁に向かって落とした。派手な音が響く。向かいのビルで、誰かが動くような気配があった。慌てて伏せると、すぐ頭上を銃弾が通る。
タイラが立ち上がり、屋上の石ブロックに右足をのせて身を乗り出した。真っすぐに銃を構え、引き金を引く。タイラは自分の左耳を押さえて、何かを叫んだ。銃声で何も聞こえない。耳の奥が震える。しばらく、音のない世界が続いた。タイラが、拳銃を下に投げ捨てるのが見える。
「外した」と言いながらタイラは素早くしゃがんだ。「え?」と尋ね返すと、「だから外した」などと悪びれもせずに繰り返す。直後、雨のように銃弾が降ってきた。
「どうするの!?」
「向こうの銃は音を消しているが、俺の銃声は下に響いただろう。拳銃自体捨ててやったんだ。あと五分くらいで警官が来る。来てくれなきゃ困る」
気のせいかもしれないが、確かにパトカーのサイレンが聞こえ始めたような気がした。ビルの向こうでも様子をうかがっているようだ。タイラはイブの肩に手を置き、「いいか」と諭す。
「俺は逃げる。お前はお巡りさんに保護してもらえ。それでやつらが諦めるかはわからないが、まあ国家権力とは仲良くしておくもんだよ」
「あの、私、いやです」
「この状況でまだ家出を続行する気か不良娘め」
とにかく下へ、と促されて這いつくばりながら進んだ。階段を降りながら、タイラは上着のポケットに手を突っ込む。そのまま一階まで降りて、外へ出る扉を開けようとした。今度こそパトカーのサイレンが近くで聞こえる。イブはそっと、タイラの服の裾を掴んだ。
「……俺は警官と折り合いが悪い。お前のために呼んでやったタクシーだ。俺はここにいるわけにいかない」
「連れて行ってください」
「これ以上の面倒ごとは御免だよ」
やれやれという風に肩をすくめたタイラに、「出会いは大切にするって言ったのに」と言ってやる。タイラは少しかがんで目線を合わせながら、「いいか?」と眉をひそめた。それから黙ってイブの目を見て、ごく自然にため息を吐く。「頑固なガキだね」と呟いた。
扉を開くと、パトカーのランプがぐるぐる回っていて酔いそうになる。警官が一般人に話を聞いているところを避けて通った。
スタスタと歩いていくタイラを見て、イブはうつむく。
「怒ってますか?」
「そりゃそうだ。銃と一緒に面倒事ぜんぶ捨ててやろうと思ったのに、武器が一つなくなっただけだぞ」
「すみませんでした」
「やめろやめろ、本当にそう思うんなら実家に帰れ」
散々な言いようにムッとして、イブは彼の顔を見た。タイラは歩いていきながら、少しだけ笑っている。「楽しんでますか?」と尋ねれば、「厄介なことに楽しいな」と返された。当惑していると、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
「どうして死にたくなった?」
「それは色々……ありますよ」
歩くペースを落としながら、イブは曖昧に答えた。
「娘に
タイラはちらりとイブを見て、すぐに前を向く。「くだらないですか」と投げやりな気持ちで聞いてみると、「イブっていうんだな、お前」とだけ言われた。
「そうですよぉ。女って書いてイブ。じゃあ男だったらアダムかって話ですよ」
「そうなんじゃないの」
わざと弾みをつけて段差を降りて行きながら、タイラはくすくす笑う。からかわれているような響きだったが、一種心地よさも感じた。
「俺の名前を教えてやろうか」
「タイラ?」
「タイラワイチ。平和という字に一を足した半端な名前だ。母親と父親の名前のイニシャルがYとHだったもんでワイチになった」
「愉快な親御さんですね」
「そうだな。彼らも自分の子がここまで名前負けする人間になろうとは思わなかっただろうが」
作業着のポケットに手を突っ込んで、タイラは目を細める。ようやく気付いて、イブは「慰めてるんですか?」と目を丸くした。彼はそのことについて何も答えず、「俺もお前に友達がいないのは名前のせいじゃないと思う」と言った。
「居場所が違うんだよ、お前」
「い、居場所?」
「どこに行ってもダメなヤツってのはよく見てきたが、お前それとは違うよ。置かれた場所がお前と合ってねーんだ。それだけ」
歩みを止めて、イブはタイラを見る。「それって逃げればいいってことです
か?」と首を傾げれば、呆れたような顔をされた。
「お前は甘いよ。世界中のどこを探したって天国みたいに楽で救われるような場所はないし、どこも似たような地獄ばかりだ。考えてみろ、地獄から地獄に逃げて何になる。俺が言ってるのは……どうせどこに行っても地獄なら、お前に合った地獄を選べってことだ」
理路整然とそう言われ、イブは小さなうなづきを返す。『みんなつらいんだ』とはよく言われた言葉だが、誰も『自分が許容できるつらさを選択しろ』とは教えてくれなかった。もっと彼の言葉を聞いていたいと思った。だけれども、タイラはもう何も言わずに歩いていてしまう。
「それにしてもお前、なんで狙われてんだろうなぁ」と独り言のようにタイラがこぼす。
「わからないです。本当に、誰にも迷惑かけてないつもりなのに。この街に来てからなんて、ご飯食べてちょっと歩いてSNSに写真あげて、寝てただけ」
「死のうとしている割には充実してんな。SNSってなんだよ」
イブは携帯電話を出しながら、「世界中に写真とかが共有できるんですよ。私は友達いないからだれも見てないけど」と説明した。SNSの画面を起動させて、しかし動きを止める。何度やっても、ログインできない。それもそのはずだ。
「アカウントが、なくなってる……?」
「それは簡単になくなるもんなのか」
「は、初めてです。なんだろう。違反しちゃったかなぁ、私」
タイラは顎に手をあてて何やら考えていたが、やがてイブの携帯電話を手に取った。「お前が世界中と共有してた写真とやらは見られるのか?」と尋ねられ、控えめにうなづく。それからしばらくして、タイラが「なるほどね」と低く言った。イブも自分の携帯電話を覗き込む。どうやら、ビルから飛び降りようとしたあの夜に撮った写真のようだ。タイラはその写真の一点を拡大してイブに見せた。
「見えるか?」
「暗くてよく……人が見えるかなぁ。何かを担いでる」
「正真正銘、人が人を担いでんだよ。死体を、かな」
「死体!?」
写真をよく見てみるが、確かなことはまったくわからない。若い人影が、何か大きな袋を肩に担いで歩いているようには見えるが、その袋の中身までは見えなかった。だけれど確かに袋からはみ出た黒い物体が、人間の髪の毛のようにも見える程度だ。そう思ってイブは少しえづいた。
「この街から少し離れた山奥で、一つ死体が上がったのは知ってるか」
「ニュース、見てないです」
「議員の殺死体だ。暴力団組織二荒会の関与が疑われたが、奴らはこれを強く否定している。確たる証拠もなく、事件は膠着状態だ」
「詳しいんですね……。まさか、この人が?」
「少なくとも、この袋を担いでいる若い男は二荒会の奴だな。担がれてるのが殺された議員かまではわからない」
写真をじっと見つめて、「つまり」とイブは言ってみる。そこから先に、言葉は続かない。代わりに、「殺人事件の証拠写真を撮っちゃったのかもね」とタイラがウインクしながら言った。笑い事ではない。
そう深刻な顔をするなよ、とタイラは言いながら歩く。「足して一になる数字。君の世界はまるごと喜劇であれ」と歌うように諭された。意味はよく分からなかったが、どうやら励ましてくれているようだ。
ふと、タイラが立ち止まり、イブも足を止める。首をかしげ、タイラがまた歩き出した。小道の階段を軽やかに降りて、人気のない奥まで入っていく。「他人様に迷惑はかけるなと、教わらなかったのかねぇ」とぶつぶつ呟きながら。そんなタイラの様子を見ながら、イブは周りをきょろきょろと見た。いいから、と厳しい顔でタイラに制される。建物の間の通路に入っていくと、行き止まりに杖を持った初老の男が立っていた。男は帽子を軽く浮かせて挨拶をする。
「やあ、お若い人。その娘さんを私にいただけないかな」
ひどく物腰は柔らかな老人だが、目は笑っていないように見えた。イブはタイラの背中に隠れる。タイラが「嫌だね」と答えた。
「まあそう邪険にしなくてもいいじゃないか。じじいの名前を聞いてからの答えでも遅くはないだろう」
「知っているよ。まさかアラキ会長様がわざわざ出向いてくださるとはね」
「知っていて断ってくれるのかい? 若いっていうのはこれだから……」
ため息をつきながら、アラキはこちらに歩いてきた。身構えていると、二人の間をすり抜けて行ってしまう。タイラが、イブを背中に置きながら振り向いた。アラキもこちらを振り向き、また向き合う。ぞろぞろとアラキの後ろに男たちが集まってきていた。
「写真は消す」とタイラは言う。
「この小娘は何も知らない。今日のことも忘れて、それでいいだろう」
「忘れない。一度放流された写真もなかなか消えない。それにあの写真に写っていた可哀想な若者はきつくお仕置きされたというのに、そのお嬢さんが何もないのは不平等だろう?」
「無知で覚悟も持たないただの子供だぞ」
「それじゃあ今から持ちたまえ。ここはそういう街だ」
話が平行線であると悟り、タイラは黙って懐から何かを出した。それが鞘に納まったナイフだと分かった瞬間、金属の衝突音が響く。男の中の一人が、タイラに切りかかっていた。タイラは力づくで押し切り、間合いを開けさせる。そのまま男の腹に拳を入れ、膝をついた相手の頭を足蹴にした。
「イブ」と呼ばれて顔を上げる。「絶対に動くなよ」と釘を刺された。
男が二人、同時に向かってくる。三人は一緒に通れないような路で、派手にナイフと鉄パイプを振り回していた。タイラはまず鉄パイプを素早く奪い、そのまま二人の男の首を軽やかに突く。男たちは悲鳴をあげてひっくり返った。その後ろからも、また男が来る。鉄パイプを得たタイラは、的確に相手の目の横あたりを殴って吹き飛ばした。
しかし不意に、タイラは動きを止める。その視線をたどると、アラキが銃を構えていた。タイラは後ずさりをしようとして、なぜだかその場に踏みとどまる。おもちゃのように小さな銃声が鳴った。
熟れすぎた果物が弾けたような音がして、赤い液体が飛び散る。タイラはよろめいて、自分の左太腿あたりを押さえた。アラキが朗らかに笑う。
「どうして避けなかった? その娘は君の命の恩人か何かかね」
顔を上げたタイラが、「全然」と言いながら目を細めた。その頬を、汗が滴る。どうして避けないのか、イブにもわからなかった。ただ目の前の彼が確かに傷を負ったという事実に、恐怖と焦燥感を感じて震える。
彼はゆっくりと立ち上がり、鉄パイプを構えた。アラキも、また銃を向ける。一瞬後、タイラが動き出した。飛ぶように鉄パイプを振り回す。銃の引き金は二回引かれ、鉄パイプが吹っ飛んだ。「集中力が途切れているぞ」とアラキは嘲笑した。「痛みに慣れていないな、若いの」と言いながら銃を下ろした。
「それにしても惜しい人材だ。君、そのお嬢さんさえ渡してくれれば見逃してあげよう」
落ちていたナイフを拾いながら、タイラは足を引きずって歩いていく。
「うるせーな。こちとら命が惜しくて生きてるんじゃないんだよ。そんな本末転倒な生き方してられるか。小娘ひとり背負って戦うのなんか軽いけどな、そんな小娘でもひとり見殺した事実抱えて生きていくのは重すぎるんだよ」
ナイフを構えなおし、タイラが右足で一歩踏み込んだ。男が倒れこむ。返り血を浴びて、タイラは顔をしかめた。「死ぬか生きるか一か八か、お互いさまってことで」とひとりごちる。アラキが苦い表情で口元を歪めた。殺人者め、と吐き捨てる。「それこそお互い様だ」とタイラは笑った。
「だけど、まあ、俺は人殺しはやめてるんだ」
「それにしては随分と迷いのない刃だな」
そのまま、タイラはナイフで真横に切り払う。それを避け、アラキは杖で彼の太腿を突いた。タイラが少し怯み、アラキは力任せにそのまま突き刺し続ける。痛そうに息を吐いて、タイラは素早く後ろに退いた。男たちはその隙を見逃さず、勢いよくぶつかっていく。コンクリートの壁に背中を強か打ち付けたタイラは、しばらく悶絶していた。男の一人が、タイラの胸ぐらをつかんで腹を殴る。タイラはうずくまり、涎を垂らしながらえづいた。
立ち上がったタイラの瞳には、強い反発の光が宿っている。「まだやるか」とアラキが呆れ顔をした。
男たちが一斉にタイラを囲み、一人が後ろから腕を押さえこむ。容赦のない暴力を音が、イブの耳奥まで響いた。それでもタイラはよろめきながら、殴ってきた相手を殴り返して進む。どうして、とイブは思わず尋ねていた。
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
タイラはちょっと笑って、「お前のためだと思ってたの?」と逆に聞いてくる。それには答えられないでいると、しっかりとした足取りで、タイラはまた男たちに向かっていった。小柄な男の頭を鷲掴み、壁に強く打ち付ける。
「実績が欲しい。できないところまでやった、という実績が」
浅い呼吸をしながら言うタイラを、アラキが鼻で笑う。
「実績が欲しい? 君はもう十分やったよ。もうこの辺で寝たふりでもしているといい」
「話のわからないご老人だこと。俺は絶対にその小娘を見殺さない。俺が死ぬまでは絶対に」
「正気か」
「正気だ。これ以上ないほど」
偽善だ、とアラキは吐き捨てる。そうかもね、とタイラは笑った。「だけど知ってるか? 偽善だって死ぬまでやれば価値がある」
また戦おうとするタイラの服を、思わずイブが掴んだ。「もう、いいよ」なんて言えば、一瞥されただけで手を振りほどかれた。
「じゃあ、お前はそこで死んでろ。俺も好きにするから」
そしてナイフを片手に突っ込んでいく。狙いは真っすぐに、アラキだ。杖をなくした老人は少し気おされて、銃を構えた。その銃を蹴り飛ばして、タイラはナイフを振り下ろそうとする。もう少しのところで、横やりが入った。男がナイフで応戦し、激しい小競り合いの音が響く。ナイフを弾かれたタイラは、恐らく無意識だろうが左足を引いた。そのまま回し蹴りをしようとして、痛みに顔を歪める。傷口から、自然と血が噴き出た。相手が、ナイフを前に突き出す。
壁に追い込まれながら深く刺され、タイラはずるずると沈んでいった。脇腹を押さえて、「割と入ったな」と悔しそうにこぼす。
タイラ、とイブが呼びかけた。わかってるよ、と言いながらタイラは立ち上がる。脇腹を押さえている右手から、血があふれていた。
「もう立ち上がるな」とアラキが不憫そうに言う。一度深く息を吐いて、タイラは真っすぐにナイフを向けた。
「首を獲りに来い。じゃなきゃ俺も、倒れどころがわからねえ」
澄み切った瞳に、誰もがその場を動けないでいる。タイラだけが、肩で息をしながら瞬きを一度した。戸惑いながらも武器を構えなおす男を見て、イブは思わず立ち上がる。先ほど飛ばされたアラキの銃を拾って構えた。
「動くな、じゃじゃ馬。そんな危ないおもちゃ触って、暴発しても知らねーぞ」
タイラにはそう苦言を呈されたが、しかしイブは震える手を押さえながらアラキを狙う。
アラキはどんなふうに撃っていたっけ。タイラはどんなふうに使っていたっけ。
安全装置を外して、イブは引き金を引いた。弾が入っているかどうかは、もはや賭けだった。
アラキの帽子を撃ち抜いて、弾は壁にめり込む。どよめく声が上がった。イブは震えながらも、男たちを睨んだ。
「今度は、必ず頭です!」
タイラでさえ、目を丸くしてイブを見ていた。しばらく待っていると、アラキの笑い声が響く。「面白い」と言った老人の目は、確かに笑っているようだった。
「気に入った。若いというのはやはりいいものだ。いいぞ、また会おうじゃないか。向こう見ずな君らが、その前に死んでしまわなければだがね」
アラキが片手をあげれば、男たちはぞろぞろと撤退していく。アラキも最後に帽子を拾って、去って行った。残されたイブは、呆然とその様子を見送る。「お前、強いなぁ」とタイラが呟いた。あなたほどじゃないです、と言いかけて、やめる。代わりに「病院、行かなきゃ」と言ってやれば、タイラは腹を押さえながら、少し首をかしげた。「子どもが大人の心配をするな。俺は俺で、上手くやるから」とほとんど上の空のように言われる。それからタイラは、足を引きずりながら明るい道の方へ歩いて行った。姿が見えなくなって、ようやくイブはハッとする。急いで追いかけたけれど、どこか細い道に入ってしまったのか、見失ってしまった。血の跡さえ、残ってはいない。
まるで全てが夢だったかのようになくなってしまい、イブは途方に暮れた。立ち尽くしながら、それでもイブは彼と再び会おうと心に決めたのだった。
それから三か月が過ぎ、イブは家財一式と暮らせるだけの資金を持って街にいた。両親を説得するのはさほど難しい事ではなかったけれど、来年にはこの街の高校へ入学できるように勉強をしなければならなかったし、アルバイトは合法な職場を探すことの方が難しい状況だった。それでもこの街で生きていくことを、イブは選んだ。選択した。
イヤホンを耳に突っ込んで、携帯電話で音楽を流す。横断歩道を闊歩して、途中で立ち止まった。懐かしい、においがした。
ゆっくりと振り返れば、向こうも同じように振り向いていた。楽しそうに笑いながら、右手を軽く上げている。
「よお、アバズレ」
「ひどぉい」
「あんなことがあっても懲りずにこの街にいるような女はアバズレに決まってる」
そう言って、タイラは向こう側に歩いて行ってしまった。慌てて追いかける。
「怪我は」
「俺か? どちらかというと、あちらさんの方が重症だったりしてな」
冗談めかしてそんなことを言うタイラに、イブは思わず笑ってしまった。「お前はどうした」と尋ねられ、「選びました」と答える。それだけで納得したようで、タイラはそれ以上を聞いては来なかった。だから自分から、丁寧に伝えてやる。
「本橋はぁ、この街で生きていきます!」
「そうか」
「そしていつか、タイラのお嫁さんになります!」
「そうか、頑張れよ」
そうあっさりと言って、タイラはイブの頭をくしゃくしゃと撫でた。「無理だろうけどな」と不要な言葉も添えて。まるで相手にされていないようで、イブはムッとする。
「今回の借りは、ちゃんと返しますからね」
観光地となっている駅前の神社が見えた。長い階段を二段飛ばしで上がっていきながら、タイラは「いらねーよ」と不敵に笑う。上着のポケットに手を突っ込んで、どんどん先に行ってしまった。イブは両手を振りながら、それを見送る。
「またねぇ、タイラ。絶対にぜったいに、何かあったら、助けますからねぇ」
また大きな声で、いらねーよと聞こえた。そういえば自分が警官になるつもりであることを言ったら、彼はどんな顔をするだろうか、と少し思ってイブは目を細める。きっと、ひどく嫌そうな顔で「アバズレめ」と言うに違いない。それは、大人になるまでお楽しみとしてとっておこう、とイブは軽やかに新しい住処へ急いだ。
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