episode2 アイスキャンディ(壱)
アイスが食べたい、なんて言ったのは誰だったか、そんなことはもうどうでもいいけれど。
ちょうどアイスが食べたかった三人が、コンビニまで歩くことになったのは確かだ。ユメノ、ユウキ、ノゾム。他の仲間たちは「この寒い中アイスなんて食べなくても」と少々呆れ気味に三人を見送った。
そして三人の現在地点は、コンビニから彼らの住処へ帰る途中。ちょうど真ん中あたりだ。なぜそのような場所で足止めを食らっているのかといえば、事の発端はユメノのアイスだった。
ユメノが棒付きアイスキャンディを、ノゾムにぶつかった拍子に落とした。
「あーあ」と嘆いていると、道に寝ていた男が素早くそれを拾って逃げようとした。「そんな落ちたもん持っていかなくてもまだ開けてないのあげるよ」と善意のつもりで声をかけたが、男はいっそう慌てて走っていき、何やら上等な背広を着たチンピラにぶつかった。
ここまでのできごとは、ただの不運としか言いようがない。彼らはその時点で、何もせずに家に帰ることはできたのだ。だが、
スーツを汚されたチンピラが怒り狂うのを、ユメノが「ちょっとちょっと」と止めた。ノゾムは心底首を突っ込みたくなかったが、ユメノとユウキは家なき男を庇う気満々だったのだから仕方ない。
「そのアイス、あたしのなんだけど。あたしがおっさんにあげたやつ」
「はあ?」
だから何だという顔をしていたチンピラも、思い直したようにホームレスの男を突き飛ばしてユメノたちに近づいてきた。金を巻き上げるにあたってか、もしくは単純な面白さにより興味が移ったようである。ホームレスの男は一目散に逃げていった。
あーあ、と今度はノゾムが嘆く。
「てめぇのアイスでスーツがびっちゃびちゃなんだけど」
「ごめんて」
上着のポケットに手を突っ込みながら、ユメノは堂々と謝罪した。もちろん相手はそんな謝罪で満足するはずもなく、「ふざけんな」と煽るように声を荒げる。ノゾムの背中から、おそるおそるユウキが顔を出して「ごめんなさいしました」とふてくされたような声を出した。
「ごめんで済んだら」
「ケーサツいらない? 不要かどうか、ちょっと呼んで確かめてみようよ」
「この女……」
いまにも手を出してきそうな雰囲気に、ノゾムが「まあまあ」と割って入る。
「ほんとに申し訳ないっす。クリーニング代は出しますんでご勘弁願いやす」
少し肩の力を抜いて、「彼氏は話がわかるじゃねーか」とチンピラは笑って言う。「彼氏じゃねーし」と不満そうなユメノを無視して、ノゾムは財布を出した。開けてみて、しばらく沈黙する。やがて、「ユメちゃんユメちゃん」と猫なで声で呼びかけた。
「いくらくらい持ってるっすか」
「持ってるわけねーだろ。アイス買いに来ただけだぞあたしは」
途方に暮れて、二人は顔を見合わせる。何かを感じ取ったのか、ユウキもマジックテープの財布を出した。「200円ならあります」とユウキが誇らしげに小銭を掲げ、「お前の200円はこの際大切にしまっておけ」とユメノは肩をすくめる。
「もうさ、あいつ殴って帰らない?」ため息まじりにユメノが提案した。ノゾムは目を丸くして手を振る。
「帰れないっすよ。あの人見たことないんすか」
「ねーな」
「あれを倒すと、敵が増殖して詰むタイプのゲームなんですわ」
引きこもりのくせによく知ってんなァ、とユメノは感嘆の声をあげた。だからといって、ない袖は振れない。少し捨て鉢な気持ちで、「あのぅ」とノゾムが控えめに声をかけた。
「手持ち金がなくてですね、一旦家に帰ればいくらかあるんですけど」
「はあ? 言い訳すんなや」
「事実しか述べておりませぬ故、何とぞご慈悲を」
尾行されれば家がバレてしまう恐れもあったが、いっそ家まで来てもらった方がいい。そうすれば後は器用な大人がなんとかするだろう。ノゾムはそう踏んでいたが、どうやら事はそう上手く運ばないようだった。
「そんなら金はいいや。女だけで、いいや」
そう言ってチンピラは、ユメノの手首をつかんだ。ノゾムが「まずい」と思ってユメノに手を伸ばした時にはもう遅い。ユメノは驚きと怯えの入り混じった表情で「触んな」と叫びながら、容赦のない強さと勢いで男の股間を蹴り上げていた。
三度目の「あーあ」は、ユウキの口から洩れた。
一体どこに隠れていたのか、男たちがわらわらと集まってくる。
「ほんとだ」とユメノは独り言のようにつぶやいた。「増えたわ」「ね、詰みゲ―でしょ」なんて冷静にユメノとノゾムが言い合う。怯え切ったユウキだけが、ノゾムの腰に抱きついた。
「どうしよっか。もう増えちゃったから殴ってもいいかな」
「わー頑張ってユメノさん」
肩をあたためるユメノに対して、ノゾムはすぐに白旗を出す。もはやそれで済むような状況ではないが。
「そのじゃじゃ馬を殺せ」
物々しい響きに「ひい」とノゾムの後ろでユウキが小さな悲鳴を上げた。「芸がねーな」とユメノが吐き捨てる。「このご時世、『殺せ』なんてユウキでも言えるぞ」と勝手に言ってユウキを鼓舞しようとした。が、それもまったくの逆効果だったらしい。ユウキはさらに怯えたふうに「言えませんよ」と泣きそうな顔をする。「そんな下品な言葉使えねーってよ!」とごまかすユメノに、「何がしたいんすか」とノゾムが呆れて言った。
相対している男たちも「ふざけてんのか」と戸惑い気味に怒声を浴びせた。しかし、「そんなに怒らなくてもいいでしょ」と可愛らしく拗ねて見せたユメノに、鼻の下を伸ばした男が手を伸ばす。
「大人しくしてれば気持ちよくしてやるのによ」
その手を掴んで、ユメノは天使のような笑顔を見せた。次の瞬間、小枝が折れるような音が響く。
女々しい悲鳴があがり、ユメノは素早く男の胸ぐらをつかんだ。「いい大人が多勢に無勢はカッコ悪いよ、おじさん」
涙目の男を捨てて、ユメノは煽るように舌打ちをした。「程々に」とノゾムがなだめる。どちらにしても、相手が止まらないのだからユメノも止まるわけにはいかなかった。
膝を折って小さくなれば、そこに誰かの拳が飛んでくる。立ち上がる勢いを利用して男の腹にグーを入れても、ユメノの力では怯ませるだけだ。間髪入れず顔面に蹴りを入れ、呼吸と一緒に間合いを取る。
ようやく二人。すでに息は上がってきている。
「なんだこの女……」
「『女の子』って生き物は、おっさんたちが思ってるより強かなんだっつーの」
そうは言っても、ユメノは『前に少々やんちゃしていただけの美容師志望』である。本業の方々を前にして、早くも逃走経路を探し始めていた。
男たちも戸惑いと恐れが薄れ、拳をあてたくらいでは怯まなくなっている。「相手は女だ」という余裕もあったろう。その慢心に漬け込むほどの、気力がもうない。
助走をつけて体を浮かせる。吸い込まれるように男の胸に蹴りを入れると、吐いた息が白く消えた。不時着の成功。久方ぶりの運動は、小さな身体をきしませる。
深呼吸しながら体勢を立て直そうとしたその時、ユメノのふたまわりほども大きな図体の男が、上から殴りかかってきた。「殴られたら、痛そう」とぼんやり思いながら目を閉じたユメノだったが、いつまで経っても覚悟していた衝撃は来ない。
当惑のまま目を開けると、ノゾムの背中が見えた。男の拳を受け止めて、その勢いのまま後ろへ受け流していた。
「女の顔にグーパンは引くわ。我が家のアイドルに何すんだよ」
思わずユメノはノゾムの袖を引き寄せ、その頬を勢いよく殴る。「なんで」とノゾムが叫んだ。
「引っ込んでろ! ノゾムが出てきたらややこしくなるだろ! ユウキと帰れ」
「引っ込んでようと思ったっすよ」少しぶっきらぼうにノゾムが言う。「でもユメノちゃんだけ怪我して、それを見てるくらいなら、一緒に怪我した方が楽だ」
呆れた顔をして、ユメノはため息をついた。それから泣きそうにうつむき、「あたしだけで何とかできるし」と呟く。そのつもりで全て、視線が自分だけに向くように振る舞ってきたのに。
「お前のせいだぞ」と言えば、「その通りっす」と申し訳なさそうにノゾムが言った。
「クソガキども、舐めやがって」
誰かがそうぼそりと呟いたのを聞いて、二人は顔を上げる。
ユウキがいない。どこにもいない。逃げたのならばいいが、そうでなければ。
「ユウキ」と切実さをにじませてユメノが声をかける。「ユメノちゃん」と困ったような声が返ってきた。「ノゾム、どこですか」とも。
焦る二人をあざ笑うように、ユウキを腕に抱いた男が前に出てくる。ユメノが悔しそうに殴りかかろうとした手を引っ込め、ノゾムも両手を上げて気の抜けた顔をした。。
「降参降参。ユウキは何も悪くないじゃないっすか」
「このガキがお前らのリモコンか? いいねえ、生意気な少年少女に言うことを聞かせるのは、大人の一番上等な趣味だよなぁ」
「なるほど勉強になるっす。それがほんとの『悪趣味』ってやつだ」
そう皮肉を飛ばしながらも、ノゾムは現状をひたすらに考える。切り抜ける策を、可能性の推移を。
そしてゆっくりと、目を閉じた。
考えることを放棄するように、もしくは現状から目をそらすように。この状況を何とかできるほどに彼は強くなかったし、自分一人で全てを被るほどの度胸もなかった。そんな自分に嫌悪感を抱きながら、ただユメノだけは背中に隠す。
そんなノゾムのポケットから、突如電子音が流れた。ノゾムはハッとして、周りを見る。自分が今、確かに『諦めていた』ことに気付いて拳を握った。「まだ終わっていない」と急き立てるように心臓が早鐘を打つ。
いつまでも終わらない電子音を聞き、誰かが苛立たし気に「切れ」と怒鳴った。「いいや」とユウキを抱いた男が言う。
「出ろよ、女が出ろ」
困惑の表情のまま、ユメノがノゾムのポケットから携帯電話を取り出した。ゆっくりと耳に当て、通話ボタンを押す。聞きなれた声で、電話の主は朗らかに話し出した。
『あ、もしもしー。悪いんだけど俺たちにもアイス買ってきてくれます? センセ―とミユちゃんがバニラで、カツトシが』
「タイラ?」
一瞬の沈黙。電話の向こうで、タイラが首をかしげるのが見えるようだ。「ユメノか?」と静かな確認があり、ユメノは動揺のままうなづく。その動作が見えていたはずもないが、タイラは「どうした」と落ち着かせるように言った。
「な、んでも……ないから」
『ノゾムは? いないのか?』
答えようとしたユメノから携帯電話を取り上げ、男が話し出す。
「あー、親御さんですかぁ?」
そうだけど、と即答でタイラが言った。いつもよりずっと低く、警戒心を隠そうともしていない声だ。
「お宅のお子さん、ちょっとオイタが過ぎちゃってー。こっちも何人か怪我させられてるんですよ。こっちとしてはこのままぶち殺してもいいけど。親御さんとしてはどうしてくれんのかなーなんて」
『どうしてくれた方がいいの』
「そりゃあ、誠意を見せてくれりゃあ気分はいいですよ、こっちは」
『ふうん』
なんてことはない相槌から、言葉の端々までタイラの苛立ちが感じられる。そんな声を聞いて、ノゾムは思わず天を仰いだ。
いいですよ、とタイラは言う。
『すぐ迎えに行くから待っていろと、そいつらに言っておいてください』
その言葉を最後に、電話は切れた。男たちは愉快気に笑っている。さしずめ、子供たちを心配して大金を持ってきた親を散々あざ笑うつもりなのだろう。なんて呑気な、とノゾムは彼らのために憂いた。ユメノも同じ気持ちだったようで、「どうして」と呟く。
「どうしてタイラのこと、怒らせたの?」
不可思議極まりない、という顔だ。「ああ?」と男が睨む。
「だってそんなことしたらタイラが来ちゃうじゃん」
そう唇を尖らせて、ユメノは黙った。不意に震えるように息を吸い、うつむく。やがて地面に小さなシミを点々と作った。泣いていた。
「タイラが、来ちゃう」震えた声で呟いた言葉とは裏腹に、どこか安心したような顔をする。この強がりな少女を泣くほど安心させるのは、本物の強さ以外にない。ため息をついて、ノゾムは頭をかいた。「これだから嫌いだ、あの人」と笑いながら。
何ぶつぶつ言ってんだよ、と男たちが眉根を寄せる。「別にオレたちにはお前らの親を待ってる義理はねえんだぞ」と言いながら近づいている男を見て、ノゾムは笑顔のまま首を横に振った。「でも、来るんですもん。しょうがないじゃないっすか」というノゾムの声と、「あらぁ、ほんとだぁ」という素っ頓狂な声が被る。
男たちが振り向くと、そこには褐色の肌で白い歯を見せる外人らしき男が立っていた。
アイちゃん! と叫んでユメノが笑顔を見せる。やべー、とノゾムも笑って言った。男に抱えられていたユウキまで顔を明るくする。「アイちゃんさんめっちゃ早いじゃん」とノゾムが声を大きくすると、「あったりまえよ」とカツトシが口角を上げた。
「ユメノちゃんが泣かされてるって聞いたのよ? もうほんっと許せなーい」
なんだあいつは、と戸惑いの声が男たちから洩れる。苛立ちでも怯えでもない。ただ純粋な疑問を口にしただけのような響きだった。「僕のこと知らないの?」とカツトシが首をかしげる。それから「じゃあうちの店に来たことある人はいないわね。ラッキー」と言って、ゆっくりと近づいてきた。
ようやく男たちに恐怖が広がる。男たちは少しずつ後ずさり、逃げようと振り返った。それだけの空気が、カツトシにはあった。だけれど男たちの逃亡は失敗に終わる。反対側には、すでに違う男がポケットに手を突っ込んで佇んでいたからだ。
「セイイ? 見せに来たんですケド。ご注文されたお客様はどちらになります?」
声だけを聞いて、ユウキが手足をばたつかせた。「タイラだ!」とはしゃいだ声を出す。
いつもの軽薄さに怒りをまとって、タイラも歩いてきた。たかが男二人に両側から挟まれたくらいで、チンピラたちは見るからにうろたえ、じりじりと真ん中に寄っていく。
「あんたらが親か」
うわづった声で、誰かが尋ねた。「ハァイ」とタイラが手のひらを見せ、「強いて言えば兄弟よ」とカツトシがすねる。
「兄弟って歳か?」「親って歳でもないじゃない」
肩をすくめた後で、タイラが男たちに声をかけた。
「俺たちもそう理不尽に事を済まそうとは思ってねえよ。喧嘩になった以上、恐らくこちらにも落ち度があるだろう。お前らの言う誠意ってもんを見せてやる。いくらか言え。ただし、ない袖は振れねえからな」
「さ、三十万で忘れてやるよ」
「もう一度言うぞ」ひどく無感動に、タイラは首を鳴らしながら言う。「ない袖は振れねえ」
どんな向こう見ずの子供でも、冷静に考えればここで諦めるべきだったと言うだろう。しかし男たちはそこで、自分のプライドを立ててしまった。引き際を誤ったのだ。「んだおらァ」と震えた声が響き、それを合図に怒号が広がっていく。恐らくタイラの口ぶりから関係性を図ったのだろう。男が二人、カツトシに殴りかかった。
カツトシは表情を変えないままその二人の頭をわしづかみ、事もなげにお互いの頭をぶつけ合わせる。一瞬赤い液体が空中に上がり、ぼたぼたと勢いよく流れた。「だから家で待ってろって言ったのに」と痛そうな顔でタイラが嘆く。
「交渉決裂みたいだから」とカツトシは肩をすくめた。「せっかくの誠意が、持ってき損だ」と財布を見ながらタイラは言う。そこにいくら入っていたのか、誰も知らない。いくらと答えれば助かったのか、誰も知らない。
仕方ないという体でカツトシが暴れるのを見ながら、タイラは、ユメノとノゾムの肩を抱き寄せた。
「どうしたノゾムくん、ほっぺた腫れてるぞ」
「それあたし」
「何したんだよノンちゃん」
やれやれと煙草を出すタイラに、ムッとしたノゾムが「先輩は何しに来たんすか」なんて反発をする。「強いて言えばあいつのブレーキだけど」と火をつけながらタイラは言った。「じゃあそろそろ行かないと、死人が出るんじゃ」とノゾムが指さす。
「……やっべえ」
煙草をくわえたまま、タイラは歩いて行ってカツトシを止めた。まだ暴れたりない風のカツトシに、タイラは現在の惨状を顎で示す。
「もう立ってる奴いないだろ」
「あんたが立ってるじゃない」
「あはは、面白い冗談だねカツトシくん」
「あんたさえやる気なら」
不意にタイラが笑顔のまま、カツトシの額に頭突きをした。カツトシは一瞬呻いて、すぐに顔を上げる。「いったーい、ひっどーい。サイテーこのDV男」と騒いだ。タイラが煙草を口から離しながら、「誤解が生まれるのでやめてください」となだめる。
もう頭いてーし帰ろうぜ、と踵を返すタイラに「それはあんたが頭突きするからでしょ」と毒づきながらもカツトシはついてきた。しかし、ユメノたちが動かない。ただ切羽詰まった顔で何かを探している。「ユウキが」と言ってユメノは顔を青くした。
「ユウキがいない。連れてかれちゃった、かも」
空気が変わる。カツトシが驚いたようにタイラを見た。表情は変わらないまま、タイラはゆっくりと首をかしげた。「ユウキを連れて行って、何の得になる」と小さく吐き捨てる。そばに転がっている男を横目で見て、タイラは火がついたままの煙草を指でもてあそんだ。「なあ、お兄さん」と人のよさそうな笑顔でタイラが男に近づく。
「お前らの巣穴はどこだ? 俄然興味が出てきちゃったなぁ」
「なんでお前なんかに」
唐突に、タイラは持っていた煙草を男の鎖骨辺りに押し付けた。「なんでだと思う」と冷たい声で囁く。短い悲鳴が響き、その後ですすり泣きが聞こえた。
「泣きたいのはこっちだよ。教えてくれないか、俺たちにはあの子供が必要なんだ」
明瞭とは言いがたい声で、男は場所を言う。「ありがとう」とタイラは言って、煙草をその場に捨てた。
さて、とタイラが笑う。
「ちょっと行ってくるわ」
厳しい顔で動こうとするカツトシを、タイラは首を横に振って制した。「お前は来なくていい」と言われたカツトシが憤慨する。
「なんでよ。あいつらのねぐらに一人で喧嘩売るつもり?」
「売ってきたのは向こうじゃん。大丈夫だよ、ぶっ飛ばしに行くんじゃなくてユウキのこと迎えに行くだけだから」
「じゃあ僕のことも連れて行ってよ。多い方がいいでしょ」
「お前、あいつらのこと置いて来れんの?」
そうタイラに指をさされ、ユメノとノゾムが背筋を伸ばした。「あたしたちは普通に」とユメノはもごもご言う。それを無視してタイラが続けた。「ユメノなんて拳痛めてるみたいだけど。ほっとくの? ユメノの手が思うように動かなくなったら、誰が俺たちの髪切るんだよ。早く手当てしてやれよ」
カツトシの目に迷いが生まれた。カツトシは、ユメノを実の妹のように大事に思っている。ユメノの美容師になるという夢を、誰よりも応援している。喧嘩の熱気に中てられた頭でも、少しずつ大人としての責任感を思い出してきているだろう。『残る』とも言わないが、『行く』とも駄々をこねない。
押し黙るカツトシの横をすり抜けて、タイラはユメノとノゾムの前でしゃがんだ。
「悪いな。カツトシのことを頼む」
小さな声で二人に耳打ちをして、タイラは笑った。「あいつは連れていけない。ただの喧嘩も戦場になる」それからちょっと目を伏せて、ユメノとノゾムの頭に手をのせた。
「まあ、どうしてこうなったかは俺も興味ねえ。たぶんお前らもちょっとは馬鹿したんだろうが、お前らのせいってわけでもないだろう。だけど覚悟はしとけよ。たぶん明日は筋肉痛で動けねえぞ」
それから立ち上がろうとするタイラの服を、ユメノが掴んだ。何も言わずに、じっと見つめる。ため息をついて、タイラは右手の小指を出した。
「センセ―とも、ミユちゃんともやってきたんだ」
ユメノとノゾムは顔を見合わせて、同じように小指を出す。そんな二人の小指に自分の小指を絡ませて、「ゆびきりげんまん」とタイラが歌いだした。そのあまりの滑稽さに、ユメノもノゾムも破顔する。
「ちゃんと帰って来て」
「おう」
「早く帰って来て」
「なるたけな」
「……ユウキ、お願いします」
「あいよーっと、ゆびきった」
ようやくユメノが手を離し、タイラは立ち上がった。まるで何かを目で追うように、二人に背を向ける。声をかけようとしたカツトシが、しかし押し黙って喉を鳴らした。確かな足取りを崩さないタイラという男の表情が、あまりにいつもと変わらなかったからだ。
こんな時にだって、タイラは楽しんでいる。生きるという行為において、その不確かさという一点をタイラは愛しているのだろう。賭け師も末まで行けば賭けるものがない。まだ見ぬ勝ち分をそこに信じさせてみせる、タチの悪い詐欺師へ堕ち果つだけだ。負けたらそこで退場、勝ったとしても賭け分へ。それでも賭け師が博打をやめないのは、たんにギャンブルが好きだからだ。それのみである。賭け師を続行するか、詐欺師として退場するか。その不確かさを愛する男がいる――――それだけだということを、誰もが理解しない。
だからカツトシは声をかけることができなかった。『ただの酔狂』と切って捨てられるほどのシンプルな行動理念が、シンプルであればあるほど理解しがたい。理解し得ない者が簡単に声をかけるには、その男の道はあまりにも獣道だった。
タイラの姿はもう見えない。それでも、笑いながら行ったに違いない。未来などを望まない男の、それでも望むべき未来をすくいあげるために。
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