episode2 アイスキャンディ(弐)

 荷物のように運ばれた少年は、灰色の地面に転がされていた。痛い上に動けない、気分は最悪である。人の顔を見れば睨まれ、地面を見ても面白くない。

 ユウキは、何度目かのため息をついた。

 もちろん恐怖もあるだろうが、何より少年の心を追いつめているのは「タイラが来る」という確信である。否、それは確信というよりすでに事実に近い。タイラは来る。何があろうとも、来る。

 もちろん助けては欲しいけれど、それ以上に。ユウキは守られたくなかったのだ。金輪際、自分を守って傷つくタイラを見たくなかった。

 強くて、あきらめが悪くていつも楽しそうで。そんな男をヒーロー視していた少年は、だけれども初めて男の苦しげな表情を見た。自分の弱さが浮き彫りになるようだった。どうしたって今の自分にはタイラを支えられない、抱えられない。だから、痛いのなら。せめて、苦しいのなら。

「来なくて、いいのに」

 そう、心にもないことを呟いてみるのだ。

 ジャージのポケットに手を突っ込んで、男が近づいてきた。先ほどの喧騒の中には確かに居なかった男だ。いきなり現れた男は「なんか言ったかよ」とユウキの顔を覗き込む。「なんでも」とユウキは口ごもった。

「なんでもないです」

「随分落ち着いてんだなァ? これからどうなるかわかんねぇのか」

「……お兄さん」

 拗ねたように唇をとがらせ、ユウキは控えめに男を睨む。

「タゼイにブゼイはいじめっ子ですよ」

 男は苦々しい顔をして、ユウキの髪を鷲掴みにした。そのまま持ち上げて、ユウキの顔をじろじろ見る。ユウキは勝気な表情など浮かべていなかった。ただ不安そうな、気の弱い少年そのものだ。だけれどその瞳の中に、媚びるような色も見られないことを知り男は顔を顰めた。

「てめぇら、一体何なんだ?」

「アイスが食べたかっただけです」

「……何故こんなガキを連れ帰ってきたのかと呆れたが、確かに気味がワリい。なるほどここで、潰しておこう」

 男はユウキの首に手を伸ばす。ユウキは驚きで目を丸くしたが、その表情が恐怖で歪むようなことはなかった。その少年の強かさを見て、男はやはり不気味さを覚える。まるでマネキンを相手にしているようだった。

 いよいよ力をこめようというとき、「イマダさん」と声を掛けられて男はユウキを離す。

「んだよ」

「男が、来まして」

「もっと詳しく」

「丸腰の男が、そのガキを返せと」

「父親か? 無謀なこったねぇ、愛ってやつは」

 返してやればいい、とイマダは頭をかいた。しかし若い部下は渋ってみせる。「しかし」と言ったきり黙ってイマダの言葉を待っていた。

「あ? お前はこのガキに何か因縁でもあんのか」

「あいつらやばいっすよ、何か……マフィアとか」

「馬鹿かよ。この街にマフィアなんていねえし」

「とにかく、ここで潰しておきましょうよ。やばいっすもん。殺しておかなきゃ殺される」

 その不思議なほどの必死さに、イマダは首をかしげる。しかし、もともと考えるのは彼の性に合わなかったのだ。「喧嘩してえならすればいい」と軽やかに言って、ユウキや部下に背中を向ける。

「どこに行くんすか、イマダさん」

「いやな、そのガキが真っ当なことを言うもんだから」

 じっとこちらを見つめている子供を一瞥して、イマダは肩をすくめた。「萎えたんだよ」と小さくこぼす。そのまま足を止めず、部屋あなを後にした。

 やがて、細い通路からぞろぞろと人が出てくる。それを見たユウキは、顔を上げて思わず笑顔になった。男たちの真ん中に、タイラの姿を認めたからだ。あんなにも、タイラが来ることに気を重くしていたにもかかわらず。それでもその瞳がタイラの姿をとらえたその時、確かにユウキの心は浮足立った。

「こいつ、本当に丸腰か」と十代もそこそこの青年が当惑する。「当たり前」と楽しそうにタイラが笑った。

「俺はただ、そこの小学生男児を取り返しに来ただけだからさ」

「馬鹿なのか?」

「うん、武器も持ってなけりゃ金もないし、馬鹿かもしれないね」

 自分で自分をそう評し、タイラは幼げな目で周りを見る。「どうしたら返してくれるのかなぁ」と言いながらも、冷静に状況を判断しているようだった。男たちは戸惑いをその顔に浮かべ、誰か何とかしろと仲間たちを睨む。その中の一人が、ようやく「テメェのガキならきちんと見てろや」とタイラに怒声を浴びせた。

「お前らのせいでこっちは仲間が怪我してんだよ。出るとこ出りゃあ傷害罪だぞ。どう落とし前つけてくれんだ」

「それをこっちが聞いてんだけどね。いいの、勝手に決めちゃって」

 勢いをそがれた男は、半歩ほど下がってタイラを睨む。苦笑したタイラが「悪かったよ、ちょっとからかっただけじゃないの」と頭をかいた。この状況で軽口を叩くのだから、下手に出ようという気はなさそうだ。

「お前ら気色悪いよ」と、まだあどけなさの残る若者が言う。頭をかいていた手を止め、タイラは視線をその若者に向けた。口角を上げただけの笑顔を見せれば、若者は怯えて金属バッドを構える。「お前ら?」とタイラはおうむ返しに尋ね、若者に近づいて行った。

「お、お前らこえーよ。なんなのかわかんねえよ。死ねよ、お願いだから」

「虎の尾を踏んだのはそっちだろうに、責任とってよ」

 最後だけ茶化すようにウインクして見せて、それからタイラはその青年を殴り飛ばした。疲れたため息とともに、「ただ生きてるだけのつもりなんだけどな」と呟いた声はかき消される。男たちが武器を手にして怒声を上げた。

 タイラは素早くしゃがみ、転がっている青年の金属バッドを拾って、そのまま走ってくる男の足元をすくいながら一歩踏み込む。バッドの柄で男の腹を突けば、少しの力でも勢いで深くめり込んだ。吐瀉物を避けて、背中から殴りかかってくる拳を受け止める。

「俺はさ、こういうことがやりたいんじゃないんだよ。あいつらもアイス食べたかっただけじゃん。不条理だなぁ! まあ、お互いさまか」

 拳をはらいもせずに至近距離から足の付け根辺りに蹴りを入れ、悶絶する男の顔面をまた蹴った。煽るように低い声を発し、左に二歩かわす。一瞬前にタイラが立っていた場所へ、ナイフを持った男が突っ込んだ。その男の後頭部をバッドで殴れば、派手に血が飛び散った。

「やめようぜ。俺はユウキ返してもらえればそれでいいんだ」

 言葉とは裏腹に、タイラはバッドを振るう。的確に顔面を狙っていき、相手の戦意を喪失させる程度の力で吹き飛ばした。それを彼の冷酷さととるか甘さととるかは、殴られた人間のみぞ知るところである。

 右からの拳を打ち払い、思いのほか強い抵抗によって金属バッドが飛んだ。考えるより先に足が動く。蹴り飛ばした相手がどこへ倒れるかにも興味はない。ナイフ片手に突っ込んできた男の腕を掴んで、鼻の頭当たりを殴ってはナイフを奪った。ナイフを逆さに持ち、短い柄で人の頭を殴る。

 殴る、向かってくる者を、片っ端から殴っていく。

 右、左ときりがない。二歩進み、半歩戻ってはくるりと躍る。息を吐けば、いつからか呼吸を忘れていたことに気付いた。忘れていればよかった。頭痛までもが存在を主張する。

 周りを見れば、男たちの目に浮かんでいるのは怯えとそれ以上の闘志だ。一種狂気じみたその空気は、ひとえにタイラという男をここで潰しておかなければならぬという未来への危惧だった。タイラは不思議に思う。本当に脅威と思うのならば、放っておいてほしいものだ。平穏さえあれば、誰の暮らしも脅かそうとは思わないものを。

 タイラは一歩後ずさり、それから振り向きもせずに出口へ駆けた。「逃げたぞ、追いかけろ」と怒声が響く。ユウキのことは気にかかったが、何もこのまま死なせる気は毛頭なかった。あの子供ならば上手くやるだろう。それに、ユウキに手を出せば今度こそタイラたちを大人しくさせることは不可能だ。それくらい、承知してしかるべきである。

 狭い穴倉を出て、迷いなく走った。右へ曲がれば、非常口へ続く階段がある。階段の横の、人ひとりが入れるくらいの隙間へ身を隠した。壁に背を預けて腰を下ろす。汗をかいていた。前髪を無造作に後ろへなでつける。

 頭痛は続いていた。耳鳴りがうるさく、脳内を侵食する。

 不便だよ先生。

 恨み言をいうつもりなどないが、しかし不便ではある。この痛みは厄介だ。手を透かして見れば、震えているのかそれとも視界がブレているのか判断がつかない。

 戦えない。これじゃあ、届かない。

 胸ポケットから注射器を出した。あまり好きではないフォルムだが、しかし仲違いもできない相棒だ。都からはなるべく打たないようにと言われてきたが、『なるべく』なんていう言葉ではタイラにとって大した拘束力にはならない。腕をまくって、しかし少しだけ考える。運が良ければ自我が勝つが、悪ければどうなるかわからない。否、自分がどういった行動をとるかわからないと言った方が正しいだろうか。都は『判断力の低下』と評したが、どうもタイラにはそれだけとは思えない。本当に自分かと疑うほどに、薬を打った自分に対しては信頼を持っていなかった。

 それでも。

「忘れるな」と自分を戒めて、針を腕に刺す。薬が少しずつ、血管を通っていった。冷たさが駆け巡る。

「忘れるな、思い出せ」

 そうでなければ今度こそ、お前のことはクビだ。

 目をつむる。意識が遠のいていくが、睡魔とは一線を画した朦朧さだ。何もかも境界がにじむ。

 世界が、

回る。

 セピア色の、

世界が。

 まわる、まわる。

 彼の意思とは関係なく、世界が回っていくのだから。彼が世界に合わせてやる義理など、欠片もないだろう。

「へへ……」

 立ち上がり、壁伝いに歩いていく。意識は浅く深く消え入りそうなまま、ただ忘れてはいない。行かなければならない、とだけ。指に粉っぽい埃がついたが、そんなものを気にするはずもない。

 男たちの驚いたような「いたぞ」という声に、タイラはぼんやり顔を上げる。向かってくる勢いを見て、壁から手を離した。

 左に一歩、緩慢な動きで手を伸ばして男の胸ぐらをつかむ。一瞬で男を壁に叩きつけた。鮮やかな赤が飛び散る。他の男たちが、怯えたように後ずさった。

「どこ」と呟く。あまりにも小さな声で、誰にも聞こえていなかったようだ。答えが得られないことに戸惑いながら、タイラは歩いていく。「来るな」と声が飛んでも、彼は止まらない。

 女々しいほどの悲鳴が響き、ユウキは不安げに顔を上げた。ぼんやりと、タイラの姿が見える。ああ、とユウキはたまらずまたうつむいた。

(けんかのときの、タイラの目じゃない)

 喧嘩でなく、人を殴っているのならばそれは。

 怖くはない。けれど目をそらしてしまうことを、どうか裏切りとは思わないでほしい。ただ自分の弱さがそうさせているようで、たまらなく辛くなるのだ。

 空想の中みたいな笑い声が響いて、耳までふさいでしまいたくなる。誰かがジョークを飛ばすのを、優しく容認するような笑い声だった。しかし、激しい暴力の音は絶え間なく聞こえ続けている。

 タイラはいじめられっ子の味方だ。

 そんなことは最初から知っているけれど、それと同じくらいには理不尽ないじめっ子だということも知っていた。楯突くものを許しはしないし、叩き潰すだけの力は持っている。しかしそれでも、普段のタイラならば拳を下ろした相手を殴りはしない。あまつさえ蹴り飛ばして、転がった相手を踏みつけて笑ったりはしないはずだった。それとも、彼にとってこれは加虐行為ではないのかもしれない。友人とじゃれあって思わず声を上げてしまったような、穏やかな響きだ。

 タイラ、とうつむきながらユウキは呟く。何かつぶれるような音がやまない。少しずつ腹が立ってきて、ユウキはようやく顔を上げた。

「タイラ!」

 人の血は、どうして赤いのだろう。他に赤いところなんてないのに。

 真っ赤に染まった黒髪が、その男をあまりに異端へ見せる。タイラは動きを止め、ゆっくりとユウキを振り返った。まるで他に何も見えないように、ユウキを真っすぐ見る。

「おもいださなきゃ? おもいだす?」

 一歩、ユウキに近づいてタイラは首をかしげた。「なにをかなぁ」なんて惚けた表情で。

 タイラは懐から愛用のナイフを出して、そっと鞘から抜く。そして足を止めた。そのナイフに、刃はなかった。ああ、とタイラは納得したようにうなづいて微笑む。その後ろから、金属バッドを振り上げた男が勢いよく飛んだ。「タイラ」と思わず叫んだユウキの声に「俺はただ、」とはにかむタイラの声が重なる。鈍い音が響いた。

 粘着質な血が飛んで、タイラは一歩二歩とよろめきその場に膝をつく。頭から頬へ血が伝い、地面に染みを作った。タイラはそれを、ぼんやりと眺めている。

 この好機を男たちが逃すはずもなく、タイラの腕を二人がかりで抑え込んだ。引きずるようにして、ユウキの前まで連れてくる。

「ガキの前で殺してやろうぜ」

 興奮しきった様子の男がそう言って、ユウキはただ当惑した。タイラはうつむいて沈黙している。意識があるのかもわからない。そんなタイラに手を伸ばして、ユウキは歯を食いしばった。下品な笑い声など全く耳に入らない。男がナイフを振り下ろそうとした。ユウキは目をそらさない。こらえきれなかった、涙が落ちる。

「泣くなよユウキ」そう、低い声が耳を刺激した。それは紛れもない、目の前にいるタイラの声だ。唐突に顔を上げ「お前」と彼は言う。その鋭いまなざしは、周囲の障害などまるでお構いなしでただそこにいる少年にのみ向けられていた。

「――――男だろうが」

 その諭すような威圧感に、男たちは後ずさる。タイラを抑え込んでいる男たちでさえ、鳥肌を押さえられないままに小さく喉を鳴らした。

 一方で、幼い少年は恍惚の表情を浮かべる。次の瞬間には、子供の甲高い怒声が響いていた。場を凍り付かせるような大声。一種の拷問のようである。ユウキを捕まえていた男も、思わず力を緩めて顔をしかめた。その一瞬を見逃さず、ユウキは男の腕に噛みつく。あまりに予想外だったのか、男は泣き言を吐きながらユウキを離した。それでもユウキは男に噛みついたままだ。男が怯えて泣いてもやめない。血が出てもやめない。

「ユウキ」

 いつの間にか彼を押さえていた男たちを地に伏せて、タイラは手を叩く。「そこまでやったらえげつねーよ、お前」と呆れたようにユウキを止めた。ユウキは口からだらだらと血を垂らしながら男を離す。

「やりました!」

「……今日3回は歯を磨きなさいよ」

 駆け寄ってくるユウキを見て、タイラは呆れたようにそんなことを言った。

 周りを見れば死屍累々。立ち上がる気力さえある者はいない。「ここまでやってしまうとフェアじゃないな」とつまらなそうにタイラは呟くが、ユウキとしてはフェアかどうかなど冒頭で出てきたホームレス男と同じくらい気にかけられないものだった。

「やっぱり千円札くらい置いていってやろうか? どう考えても俺たちとお前らの慰謝料じゃ相殺しようがなさそうだしな……」

 そんなことを申し訳なさそうに言いながら、タイラはご丁寧に財布から千円札を出して地面に置く。その時である。今までノーマークだった奥の扉が開いた。

 苛立った風の男が顔を出す。ユウキはその男を知っていた。先ほどタイラが来る前に奥の部屋へ引っ込んだイマダという男だ。イマダは「まだやってんのか、いい加減にしろよ」と静かに吐き捨てた。やがてユウキを見つけ、それと同時にタイラのことも見る。

 なぜかイマダもタイラもきょとんとした顔で、お互いを指さした。

「平和くそ野郎がいる」

「ラムちゃんじゃん」

 ラムちゃんじゃねぇよ、と当惑の表情のままイマダは独り言をこぼす。それから己の不運を嘆くように、こめかみを押さえた。「アァてめえら、こいつに手を出しちまったのか。ついてねえな」と。

「いいか、平和一タイラワイチに関わるな。こいつ及びこいつの仲間は俺らとは常識が違うから」

 ユウキに腕をかまれた男が、涙目で「遅いですイマダさん」と訴える。それを無視して、イマダはユウキの目の前にかがんだ。なるほどねえ、と興味深そうに笑う。「ただのガキとちげえわけだ」と独り言をこぼした。

 それから嫌そうな顔をして立ち上がり、いきなりタイラの胸ぐらをつかむ。

「うちの馬鹿どもがどうもすみませんでしたねぇ! この通りです、お帰り願えますか?」

「どの通りですか」

「勘弁しろよ、後で菓子折り持って謝りに行くから」

「いいけどこの恫喝ポーズやめて」

 油断ならないという顔でタイラを離し、イマダはくるりと踵を返した。「お前ら、もう馬鹿なことせずにお帰りいただけよ」と釘を刺しながら。タイラとユウキは顔を見合わせながら、疲れたように笑う。どうやらもう、終わらせてもいいらしい。タイラはユウキを抱き上げ、怯え切った男たちの間を悠々と歩いた。

 建物の外に出て、ユウキは空を見上げる。もう月が出ていて、すっかり夜だ。

「怖かったか?」

「ぜんぜんこわくなかったです!」

「そうか」

 タイラの首に抱きつく手に、自然と力が入る。「タイラこそ」と小さな声で囁いた。

「こわかったでしょう? こなくて、よかったのに」

 耳元で、タイラのふき出す声が聞こえる。夜空に空っぽの笑い声が響いた。馬鹿にされているようでムッとしたけれど、なぜだかそれ以上の安心感を与えてくれた。いいか、と言い聞かせるようにタイラは目を細める。

「俺は、痛いのも苦しいのも大嫌いだ」

「はい」

「でもそんなの怖くねーよ」

「うそだぁ!」

 いい歳してそんな嘘つかねー、とタイラは上機嫌に笑う。仕方なく納得したふりをしてやると、タイラは初めてユウキの目を見た。「じゃあ、俺が怖いものって何だと思う?」

「チュウシャですか!」

「……それもある」

 なんで知ってるんだ? とタイラは訝しげな顔をしたが、気を取り直すように何度かうなづいて「お前たちだよ」と言う。

「俺は、お前たちがいなくなって人生つまらなくなるのが怖くてたまらないんだ」

 ユウキはきょとんとし、それからいきなりタイラの髪に手を伸ばして強く抱きしめた。ひどく嬉しそうな声で、「いますよ」と答える。「そうか」とタイラも呟いた。その時彼がどんな表情をしていたか、ユウキには見えていなかったし、誰も知らない。

 ようやく見慣れた道に戻り、彼らの住処が近くに見える。「みんなケガとかしてないかな」と不安げに言うユウキに、タイラは真顔で「ノゾムが殴られたくらいだな。ユメノに」と教えてやった。「いつもどおりじゃないですか!」と楽しそうな子供の声が響く。

 そんな声に呼ばれたのか、彼らが住処に到着する前に扉は開いた。中から駆け出してきたのは、都だ。真っ白なタオルを持って、ゆっくり近づいてくる。血だらけのタイラとユウキを見て、幾分顔色を悪くしたようだった。まず濡れたタオルでユウキの顔についた血を拭い、口を開けさせる。「口の中が切れてるわ。痛いでしょう」と言われても、ユウキはピースサインをして見せた。「だいじょうぶです! 男ですから!」なんて、誇らしげに。

 苦笑するタイラを、都は見た。一見すると、どれが彼自身の血なのかわからない。同じように顔を綺麗にしてやって、それから都はちょっと背伸びをする。

「頭を怪我したでしょう」

「よくわかるなぁ、さすが先生」

 都はタイラの目をじっと見つめる。何かに耐えるように、じっと。そんな都の頭をタイラがなでると、彼女は一粒の涙をこぼした。

「ありがとう。君がいてくれたから、あいつらを置いて行けた」

「こういう役回り、もう二度としたくないわ。待っているのがこんなにつらいと思わなかった」

 それから控えめに腕を広げ、都はユウキとタイラを抱きしめる。「おかえりなさい」と心から言いながら。照れくさそうに離した後で、都は古い酒場の扉を開けた。

 ユウキを下ろし、タイラは伸びをする。骨が軋むように鳴った。それから目をすっと細め、叫ぶ。

「ユウキ連れて帰ったぞ、この悪童ども!」

 中から、「お帰りなさい!」と投げやりな声が返ってくる。ユウキが走り出した。タイラも後を追って走る。一気に2階まで駆け上がると、三人が正座をして待っていた。カツトシとユメノ、それからノゾムだ。「お前ら何やってんの」とタイラは素っ頓狂な声を上げる。

「反省したのよ!」

「わかったら早く説教でもなんでもしろ馬鹿!」

「自分は巻き込まれただけっす」

 ようやく追いついた都が、肩で息をしながら「元気ねタイラ」と恨めしげに言った。「これは一体どうしたことか」と聞けば、都も不思議そうに首をかしげる。「優しいから」とぽつり呟いたのはノゾムだ。

「帰ってきたらユキエさんとミユちゃんにすっげー心配されちゃって、落ち込んで反省してんすよ二人とも」

「お前は」

「巻き込まれただけっす」

 目をそらしながら、ノゾムは唇をとがらせる。「自分が反省すべきところなんて」と呟いて少しうなだれた。「二人をちゃんと見てなかったことくらいです」

 兄貴分は大変だな、と言いながらタイラは腕を組む。

「それにしてもこいつらを反省させるなんて、さすがの親子」

「何もしていないわ」

「ちなみにミユちゃんは?」

 都は肩をすくめ、上を指さした。疲れて寝ている、と曖昧に説明する。すっかり興味が移ったようで、タイラはそわそわと3階を見上げた。そんなタイラを見て、慌てたようにユメノが「何か言って行ってよ」と訴える。

 俺はお前らの親父じゃないんだぞ、と顔をひそめながらもタイラはまずカツトシの額を小突いた。

「お前はもういい歳なんだからそっち側に並ぶな」

「何よぉ、せっかくだからあんたの話聞いてやろうと殊勝に待ってたのに」

 それからノゾムとユメノを一瞥して、「好きにやればいいけど、今度はもうちょっと早く俺のこと呼べよ」とだけ言う。ジャケットを翻して、タイラは階段を降りて行ってしまった。仲間たちを全員、振り切るように。呆然とする仲間たちを尻目に、都だけがタイラを追って1階へ降りる。

 カラカラと氷同士がぶつかる音が聞こえた。透明な液体を煽って、タイラは笑う。「可愛いなぁ、あいつら」と、振り返って都にもグラスを差し出してきた。

「いつから正座して待ってたんだろうな」

「直接聞けばいいわ」

 グラスを受け取らずに、都はタイラの頭を見る。傷がどこにあるのかわからない。撫でるように探していると、タイラは微かに嫌がるそぶりを見せた。

「実結、泣き疲れて寝たのよ」

「ちょっと外に出てくるだけって行ったのに?」

「……あなたは、『帰ってこないかもしれない』って恐怖がわかる?」

「わからないだろう、っていう顔で聞くなよ。わからないよ」

 タイラは可笑しそうに目を細める。いつまでも不満そうな都は、ようやくタイラの隣に腰を下ろした。ぼんやりと上を見ると、階段のフェンス越しにユメノと目が合う。驚いたように二人分の足が遠ざかっていった。あれは恐らくユメノとノゾムだろう。二人は逃げていき、それを知っていたかのようにタイラが「あいつらは」と口を開く。

「俺に、親のようにガミガミ言われることを望んでいたのか?」

「そうよ。わかっていたんでしょう」

 背伸びをしながら、タイラは天井を見る。真面目な表情だ。都はその横顔に小さなほくろを見つけて、少し不思議な気分になった。「俺は」とタイラが瞬きをする。

「『器用に生きろ』だとか、『人に迷惑をかけるな』なんてことを言うつもりはない。どんなに正しくて綺麗な思いも、時には反感を買うものだし誰かを傷つけるものだ。どちらも理解してどちらかを律することができるほど、俺は立派な人間じゃない。大抵は勝った方が正しいと思うし、ぶつからないと勝者は生まれないだろう。ただ俺はあいつらのことが好きだから、あいつらが死んだり死なせたりしない限りは、どんなことがあったって何とかしてやろうと思う。それだけ」

 理路整然と、彼にしか理解できないことを平然と並べたてる。タイラはグラスをカウンターに置いて、必死に考えている様子の都の椅子をくるりとこちらに向けた。「泣き虫科学者ちゃん」と楽しそうに口元だけ笑う。

「もう一度おかえりって言ってよ」

「何度だって言ってあげる。あなたが帰ってきさえすれば」

 上手く返したつもりだった。だけれどタイラは、困ったようにもしくは呆れたように都の椅子を戻しただけだ。

 しばらくして、ぽつりとタイラは呟いた。

「泣かないくらいには、早く慣れろよ」

 都はきょとんとして、いたたまれずうつむく。きっとこれからもずっと、彼は都のことを置いていくつもりなのだろう。それはそれで、いい。なんせ彼らに「おかえり」なんて言う者は、自分以外にいないのだから。「善処するわ」と言って都はタイラのグラスを奪った。

「だけどそっちだって、泣かせないように努めるべきだと思うけど?」

 勢いよく中身を飲み干して、都はグラスを置く。タイラは驚いたように目を丸くしながら指さした。「間接キッス」という幼稚な響きに、都は顔を赤くする。

 生娘じゃあるまいし、照れることなんて一つもないけれど。

「おやすみなさい。明日でもいいからちゃんと病院に行きましょうね。頭の傷は大丈夫そうだけど、中身に何かあったら大変だから」

「どうかなぁ。中身はちょっと手遅れかもよ」

 呆れて肩をすくめてから、都は階段を上がった。安い金属の踏まれる音が、小さく響く。タイラは頬杖をついて、その音が遠ざかっていくのをずっと聞いていた。

 何か考えるような顔つきで、タイラは月を見ている。どこにも行き場のない静寂が、室内に降り積もっていた。

 どこからか声が聞こえる。「どうか」と聞こえる。「どうか忘れないで」と。

 彼は恐らく酔っていた。酒で睡眠薬を流し込んだような、混濁した意識の中で目を閉じる。気絶に近い睡眠を、それでも安寧と呼ぶのならば。

 今だけは思い出して許しを請おう。

「今日も殴ったよ。それに俺は痛くなかった」

 理不尽だ、不公平だ、と叫ぶ声は確かに――――鏡の向こうから聞こえたものだった。

 扉の開く音がして、タイラは目を覚ます。音を注意深く拾うと、どうやら3階の奥の部屋だ。しばらくすると子供の足音が響き、階段を駆け下りる。その足音が実結であると断定し、タイラは苦笑をこぼした。ゆっくりと立ち上がり、グラスを持ってカウンターの中へ入る。冷たい水を注いでいると、後ろから鈴の転がるような声が響いた。

「タイラ!」

「おはようミユちゃん」

 緩慢な動きで水を飲み干し、そっとシンクにグラスを置く。小さな実結にはタイラが見えなかったようで、「どこにいるの?」と不安そうな声をもらした。カウンターから顔を出してやれば、パッと明るい顔をする。

「いつかえってきたの?」

「昨日。ミユちゃんが寝てからかな」

「おこしてよかったのに!」

「夜更かしはお肌に悪いよ、ミユちゃん」

 にんまり笑いながら、実結はなんとか背の高い椅子によじ登った。「ミユねぇ」と嬉しそうに話し出す。

「ミユ、だいじょうぶだったよ。ぜんぜんだいじょうぶだった! いいこにしてタイラのことまってた」

 目を輝かせて言う実結に、タイラが悪戯心で「泣かなかった?」と尋ねた。少し虚を突かれたような実結は、「ないちゃだめだった?」と逆に聞く。タイラは思わず笑ってしまい、「いいや、もちろんミユちゃんは偉い!」と頭をなでて褒めた。

 実結は誇らしげに笑っている。タイラが手を止めると、自ら頭を押し付けてもっとなでるように催促した。小動物じみたその動きに、タイラは微笑して少女を抱き上げる。

「ミユちゃんが起きるには、まだちょっと早すぎるから。もう少し眠っていていいよ」

 背中を優しくさすれば、実結は眠そうに瞬きをした。「タイラ」と小さく呼びかける。「おかえり、タイラ」と、聞こえるか聞こえないかという声で言った。「ただいま」とタイラは答える。その声が、実結に聞こえていたかどうかわからないけれど。

 カツ、カツ、と革靴の音が階段を降りてくる。次から次へと、なんて苦笑しながらタイラは顔を上げた。「あらやだ、あんた起きてたの?」と眠そうに頭をかいているのはカツトシだ。

「寝てたよ。いい睡眠薬を見つけたんだ」

「何?」

「アルコール」

「あんた酒飲んで寝るタイプじゃないと思ってたけど」

「ちょっと薬残ってたかもしれない」

「うっかりで永遠に眠れそうな素晴らしい睡眠薬ね」

 そんな軽口を叩きながらも、カツトシは怖い顔で「禁酒しなさい馬鹿」と詰め寄る。肩をすくめてかわしながら、タイラはコーヒーを注文する。

「うちのコーヒーは頼まないんじゃないの?」

「今日は懐があったかいから頼むんだよ。何よりお前のコーヒーは美味い」

 当たり前ね、と嬉しそうな顔でカツトシがコーヒーを淹れはじめた。香ばしいにおいがする。食パンを切り分けているところを見ると、モーニングセットでも作るつもりなのかもしれない。

 コーヒーの完成を待っていると、階段を一段飛ばしで駆け降りてくる音がした。華麗に着地して、ユウキが「おはようございます!」ともごもご言う。どうやら口の中が少し腫れているようだが、しかし少年は至って元気だ。

「よう、ユウキ。痛いところはないか?」

「階段からジャンプしたら足がじんじんします」

「大丈夫そうだな」

 ユウキは素早く寄ってきて、不満そうに「どうしてタイラがミユちゃんをだっこしてるんですか?」と尋ねる。ちょうどその時、カツトシが「お腹減ってんでしょ?」とカウンターから顔を出した。すっかりそちらに興味が移ったようで、ユウキは「オレンジのジャムがいいです」と言って椅子によじ登る。

 パンを焼くにおいに誘われたのか、3階で次々と扉の開く音がした。2分ほどでノゾムとユメノ、都が階段を降りてくる。「珍しく早起きだな」とタイラがにやついた。

「別に、あたしはいつも早起きだけど」とユメノは目をそらしながら言う。「そうっすね」とノゾムはあくびまじりにうなづいた。

「ユメノっちは早起きっすよね。なんで今日に限って自分が起こされたかわかんねーすけど」

 聞いていたカツトシが、思わずという風に笑う。タイラといえば知らないふりだ。

 きっと、と都は伸びをしながら思った。きっと一人ではタイラに会えなかったのだろう。ユメノは素直ではないけれど、根は真面目な女の子だ。「おはよう」の一言さえ、気まずさで口にできないようだった。

 ため息まじりに、都はタイラの椅子をくるりと回転させてユメノに向き直らせる。「あら先生ったら強引」と平坦に呟いて、タイラは頭をかいた。

「……おはよーユメちゃん」

「キモいよ」

「ぐさっときました、ぐさっと」

「……おはよう!」

 少々投げやりに言ったユメノの頭に手を伸ばして、タイラは困ったように苦笑する。結局その手は引っ込めて、「お前が間違っているとも思えないが、あんまり危ない事はするなよ」と控えめに注意した。「女の子なんだから」とつけたせば、ユメノは顔を真っ赤にしてタイラを睨む。

「お前に言われたくないわ!」

「はいはい」

 怒ったようなふりをして、ユメノは奥の席に着く。その表情はどこか安心しているようにも見えて、都もほっと胸をなでおろした。誰より叱られたかったのは、この素直じゃない少女だったのだろうから。

 肩をすくめて、タイラが都を見る。「これでいいのか」と言いたげな表情に、都は笑ってうなづいた。

「やればできるのね」

「俺はなんだってやればできるんだよ?」

 そうね、と都が微笑んだその時。酒場のドアが、鐘の音とともに開いた。「まだ営業時間じゃないのよ」とカツトシが申し訳なさそうに言う。

「構わねぇ。個人的な用で来てるもんでな」

 そう面倒そうにうそぶいた人物を振り返り、タイラがこめかみを押さえた。「昨日の今日だよラムちゃん」と嘆く。イマダはそれを無視して、カウンターまで進んだ。大きなクーラーボックスを置いて周りを見る。

「さて、うちの馬鹿どもを相手に大暴れした嬢ちゃんってのはどこにいんだ?」

 そっとユメノが目をそらして、口笛を吹き始めた。なるほど、とイマダはうなづく。それからクーラーボックスを開け、中から大量のアイスキャンディを出した。「アイス、食いたかったんだろ?」とユメノに投げる。慌ててそれをキャッチして、ユメノは瞬きをした。

「今日は詫びに来たんだ。俺たちが負けたし、俺たちが悪かった。どうもあいつら、オツムが甘ちゃんでなぁ。数で勝てないもんはないと思ってやがる。助かったよ、俺もそろそろヤキいれねぇとと思ってたからな。こりゃ白旗の代わりだ。今回はこれで勘弁してくれ」

 当惑しながらも包装を剥がし、「おじさんだれ? なんか……もしかして前に会ったことある?」とユメノが尋ねる。イマダの代わりにタイラが答えた。

「不良からそのままクズになったラムちゃんだよ」「ざけんなだっちゃ」

 いたる方面から怒られそうな掛け合いをして、イマダはふてぶてしく椅子に座る。

「イマダクルヒト。この似非平和野郎とはな、残念ながら高校が一緒だった」

「ちなみにイマダくんの名前は漢字で書くと未来人みらいじん

「黙れ、ヘイワハジメ」

 へえ、とタイラは目を細めた。「随分お強くなったこと」と言ってやれば、イマダは苦々しい顔でアイスキャンディをタイラに押し付ける。

「すみませんねぇ、勘弁してくださいタイラさん。俺は一生あなた様に勝てないですもんねえ」

「ああ、冷たい。めっちゃ冷たい。強気すぎる敗北宣言」

 呪文のように『腹立つ、腹立つ』と唱えながらイマダはアイスキャンディを押し付け続けた。「お気持ちはわかるっすけど」とノゾムが仲裁に入る。「アイスがもったいないでしょ」

 ようやく我に返ったように、イマダがノゾムを見た。「おう、青年。てめえもこいつの仲間か?」「心情はそちら寄りですけど」

 どういうことだよ、とタイラは嘆く。目の前のカツトシが鼻で笑った。

「しかし……あんたらみんな強いだろう? 何故こんな男のもとにいるか理解に苦しむぜ」

 はあ? とここぞとばかりにユメノが身を乗り出す。

「こいつの下にいるつもりねーし! あたしの居場所にこいつがいるだけ!」

「そうね。少なくともこいつより下って考えたことないわ」

「自分はただ、先輩の背中を狙いやすいとこにいるだけですから」

「タイラといっしょにいてあげてるんですよ?」

 散々な言われように、「お前らブレねーなぁ」とタイラは感嘆の声をもらした。都は曖昧な表情で笑って、実結が「タイラ」と寝言を呟く。

 ふと、イマダは都のことを見た。そのまま凝視して、ごく自然な仕草で腰のあたりに手を伸ばす。

「いい女だな。こんな男のそばにいるとロクなことになんねぇし、どうだい俺と」

 次の瞬間には、タイラに思い切り殴り飛ばされていた。椅子から転げ落ちてぼんやり天井を眺めている。

 拳をひらひらさせながら、「片手がふさがっててよかったね」とタイラは人の好さそうな笑顔を見せた。

「今度本人の同意なしで先生のケツに触ろうとしたら、お前のケツにアイスキャンディ刺してやるよ、イマダくん」

「……同意がありゃいいのか」

「それは先生の自由だね」

 顔を真っ赤にさせながら、都はユメノの方へ逃げる。「娘がいるのよ」と必死で訴えると、イマダは「むしろイイ」なんて起き上がりながら言った。ユメノが犬を追い払うような仕草で拒絶する。

 軽快に立ち上がって、「今日は詫びに来ただけだからよぉ」とにやついた。

「口説くのは今度にしよう。できれば面倒な犬公ナイトがいない時にな」

「おっと、俺のことだけ言っているんなら大間違いだよラムちゃん」

 タイラの言葉に同意を示すように、ユメノが仁王立ちでイマダを睨む。カツトシとノゾムも、嫌悪感をあらわにイマダを見た。慌てたイマダは両手を振る。そんなつもりはなかった、とうつむく姿は、どこか情けなかった。

「俺は平和野郎のことは大嫌いだが、お前らのことは嫌いじゃない。それに事実、お前らは脅威だ。仲良くしてえ」

 素直すぎて打算的なことをオブラートに包みもせずにイマダは言う。ため息まじりにユメノが腕を下ろした。カツトシとノゾムも、目を見合わせて肩をすくめる。

「まあ、いいよ。おじさん、なんか面白いから」

「さすがだな嬢ちゃん。話のわかるいい女だ」

 いきなりカツトシが目くじらを立てて「ちょっと! ユメノちゃんはダメよ!」と大型犬のように吠えた。「まあまあ」とノゾムがなだめる。「未成年は管轄じゃねえよ」と呆れたようにイマダは言った。

「どうやら許していただけたようなんで帰るわ。またな、くそ野郎以外」

 店を出る前に、イマダはタイラを見る。タイラも頬杖をつきながらイマダに視線を返した。仲の悪さは確からしく、イマダが舌打ちをすればタイラは薄く笑う。ほんの一瞬、その場の空気が凍るような殺気がどちらかからもれた。仲間たちが当惑しているすきに、店のドアが閉まっている。鐘の音だけが残った。

 困ったように顔を出しながら、都は「何があったの?」と尋ねる。

「ああ……俺があいつのイチゴミルク踏みつぶしたこと、まだ根に持ってんだろ」

 目をそらして楽しそうに言ったタイラの目は、確かにいじめっ子の色をしていた。そんなことより、と彼は楽しそうに言う。「アイス食いなよ。せっかくだから」と。見ればユウキとユメノがすでに半分ほど食べてしまっている。ようやく起きた様子の実結が、目をこすりながら「アイス?」と呟いた。

「あんたは食べないの」

「俺は仕事があるんで。ドロン」

 実結を都に抱かせ、タイラは立ち上がる。仕事なんて、と都が目を丸くした。

「駄目よ、家にいなきゃ」

 そんなことを言っても無駄だ。聞きやしない。そうわかってはいても、引き留めてしまうものだ。案の定タイラは、手をひらひら振っただけで歩いて行ってしまった。

 ドアを半分ほど開けて、思い出したようにこちらを振り向く。

「戻ってくるよ」

 目に沁みるような朝日の中で、彼の笑顔に少し見とれた。

 いってらっしゃい、と都は小さな声で言ってみる。と同時に、後ろから仲間たちが『戻ってくんな』と声をそろえた。タイラは苦笑いの表情のまま、ドアの向こうへ消える。微かな煙草の香りが、その持ち主のいなくなった場所で急に主張し始めるようだった。いつか禁煙させよう、と都は心に決める。

 ノゾムが立ち上がり、ユメノも階段を上がっていった。ごく自然な解散の流れに、都は当惑して立ち尽くす。「素直じゃないけど正直でしょ」と背中を向けたままカツトシが笑った。曖昧だけれど、よくわかる。「そうね、そう思うわ」と都も笑う。

「ねえ、カツトシ」

「あーらやだ。先生までカツトシって呼ぶんだから。アイちゃんでいいのにぃ」

「タイラは何の仕事を?」

「社長」

「嘘でしょ」

「あの男一人だけど」

「それは社長ではないように思える……」

 興味がないのか、カツトシはそれ以上の説明をしない。仕方なく、都は想像力を働かせることにした。恐らく事務職ではないであろうと結論付けて、実結のためにアイスキャンディの包装を剥がす。すっかり目が覚めた様子の実結が、黄色い声を上げた。

「タイラの分も残しておかなきゃ」

「いらないわよ、あいつそんなに好きじゃないもの」

 そう、と都は喜んでいる実結をぼんやり見つめる。そんな気がしていた、ずっと。

 ユメノたちの帰りが遅くなって心配しているカツトシの横で、『俺たちもアイス食べたいよね』となんでもなさそうに言ったタイラを思い出す。可愛いのはどちらかしら、と。アイスなんてどうでもよかったくせに、居ても立っても居られなかったのは、カツトシではなくタイラの方だったのだろう。本当にここの人たちは、『素直じゃないけど正直』だ。

 都も棒付きアイスを口にする。人工的ながら懐かしい甘さが広がった。それはどこかの、嘘つきな保護者さんに似ているような気がした。

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