カエル
柊哉が自殺したのは三年前、茉麻がそれを知ったのはその一年後だ。知ったのはたまたま近所のおばさんたちの井戸端会議が耳に入ったから。それまで全く知らなかったし、姿を見なくても気にしていなかった。大学生なんだから生活スタイルが違うのだろう、くらいに思っていた。柊哉が自殺の理由はいまだによくわからないが、研一がひきこもりになった理由はわかった気がした。研一は大学を一日も行かずに引き籠り、結局除籍となっていた。
研一は柊哉と同級生で同じ学区ということもあり小学生のころから仲が良かった。高校で少し離れたように見えた関係も、同じ大学に行くことになりまた近づいたように見えた。だからいっそう研一にはショックだったのだろう。なぜ死んだのか研一は知っているのかすら茉麻は知らない。ただ昔柊哉に教えてもらったテントウムシの話を思い出していた。あの時聞いたテントウムシが上に向かう習性を走光性というのだと最近知った。私の行くべき場所も習性で分かればいいのにと言えば、柊哉はどんな顔をしたのだろうかと茉麻は考える。
会いたい、もし幽霊でも出てくるのなら、またいろいろと教えてほしい。
魁人のドライブレコーダーの映像を見た次の日、茉麻は再び隆貴の部屋に行くことにした。呼ばれてもないのに行くのは初めてだった。ただもう一度映像に残った声を確認しようと思ったのだ。できれば勝明の音声も同時に聞きたい。同じ声なのは他の三人も否定はしなかった。
マンションの前まで来て連絡をしていないことに気付いた。いなかったら帰ればいいが、いたらメールもなしで来訪したことを責められるだろうか。ならばせめてコンビニでアイスでも買って手土産にしようと引き返しかけたところで晴彦が歩いてくるのが見えた。晴彦は寝ていないのか目の下に隈があり顔の色も悪い。手を振ると茉麻に気付いて少し笑った。
「どうかしたの、隆貴いない?」
「いえ、アイス買ってから行こうと思って」
「じゃあちょうどいいや」
と晴彦が手に提げていたコンビニ袋を広げる。アイスキャンディの箱が入っていた。茉麻が買いに行く手間が省けた。
「今日はこれからデート?」
「いえ、この前の映像、もう一回見てみようと思って」
晴彦の表情がさっと変わり、茉麻はしまったと思った。晴彦が寝ていない理由はどう考えてもそれが原因だった。切れられたら逃げようと思っていたが晴彦は意外と冷静だった。
「どうして?」
と理由を聞いてくる。
「あの映ってた人を確認したくて」
晴彦は少し考えて
「茉麻ちゃんは柊哉のこと知ってるんだよね」
と聞いてきた。
「はい、家が隣だったので」
「俺はね、あれが柊哉だって確信してるよ」
え? と茉麻は驚いて晴彦を見上げる。晴彦は地面を見たまま歩いている。おいて行かれそうになり茉麻は歩調を速めた。
「どういうことですか」
「だって、あんなのおかしいだろ。身近な奴が立て続けに死んで、どっちの死に際 にも変なものが映ってるって」
早口でつぶやき晴彦は苦しそうにうめいた。
「大丈夫ですか?」
「全然大丈夫じゃない」
なんなんだ。じゃあどうして隆貴に会いに来たのだろう。二人を合わせない方がいいかもしれない。そう思ったが留めるすべも思いつかないまま茉麻と晴彦は隆貴の部屋の前に立っていた。
晴彦が呼び鈴を押す。しかし、しばらく待っても反応がない。
「留守ですかね」
少しほっとしながら茉麻が晴彦に言う。晴彦は何も答えず押し黙ったままだ。空回りして苛立っているのかもしれない。乱暴にドアノブを握ってひねった。
ドアはあっけなく開いた。
本当に開けるつもりはなく小さな八つ当たりのつもりだったのだろう。晴彦は驚いた顔で茉麻を見る。鍵を掛け忘れたのだろうか。
「話声がする」
晴彦がつぶやく。茉麻には聞こえない。だが直感的にダメだと思った。部屋に入ってはいけない。足が震える。
「帰りましょう」
何もなかったことにしたかった。晴彦にもそう思ってほしかった。しかし今日の晴彦はおかしかった。ずかずかと靴のまま部屋に入り込み、制止する茉麻を振り払い寝室の扉を開けた。
見てはいけない。そう思ったのに史乃の白い肌に茉麻の眼は釘付けになった。
「あれ? 俺、鍵閉め忘れた?」
隆貴の口調はいつも通りだった。裸のままベッドに横たわり茉麻がいるときは決して吸わないタバコを吸っていた。
「どうして」
声がかすれる。
「どうしてって、なあ?」
隆貴は隣で横たわり気だるげに布団で胸を隠そうとする史乃に話しかける。どうしてその子に話しかけるの。どうしてそんなに普通なの。史乃は隆貴の口からタバコを奪い自分の口に含んだ。
「だって高校生に手、出せないじゃん?」
史乃が言う。
「隆貴がさ、茉麻ちゃんの処女は大事にしたいって。私が代わりになってあげたん だよ?」
どうして笑ってるの?
どうして私が処女だって話したの?
こんなのありえない。だけど言葉が出ない。
「いやだ、いやだぁ」
やっとでた声は情けないもので、あとはもう泣き声にしかならなかった。
「やだなぁ。神経質にならないでよ」
「そそ、遊びだよ、遊び」
膝から力が抜ける。うずくまっても涙が止まらない。二人は茉麻を見て、嘲笑っている。
「いい加減にしろよ!」
怒鳴ったのは晴彦だった。バンと音が鳴り顔を上げるとアイスが床に叩きつけられていた。そんな晴彦を見ても隆貴はへらへらと笑っていた。史乃だけ少し顔をこわばらせる。
「何、いきなり切れて」
「お前、何がやりたいんだよ。人を追い詰めたり、騙したり、馬鹿にしたり。やっ てることが高校の時と同じなんだよ。だから今更、柊哉が出てきたんじゃないの か?」
隆貴の馬鹿にしたような笑いが消えた。ベッドから飛び降り晴彦に殴りかかる。よろめくもすぐに立ち直り晴彦が殴り返す。倒れた隆貴に馬乗りになり何度も鈍い音がした。史乃はおろおろとしたまま布団から出てこない。
これは止めないとまずいのだろうか。茉麻の思考は鈍くなっていてぼんやりとしている。晴彦の気が済んだのか立ち上がって隆貴から離れた。茉麻の位置からは仰向けになって荒い息を吐いている隆貴の顔が見えない。
「帰ろう、茉麻ちゃん。送るよ」
晴彦に腕を引っ張り上げられる。立ち上がっても隆貴の顔はよく見えなかった。そのまま引きずられるようにして茉麻は隆貴の部屋を出た。
夏の日差しが傾きかかっている。さっきまでのことは夢だったのかと思えるくらい、外はマンションに入る前となんら変わらなかった。ただひどく体が重く感じた。
隆貴を置いてきてよかったのだろうか。たぶんあのままだと史乃が隆貴の手当てをするだろう。それは嫌だ。今から戻って隆貴の手当てだけでもしようか。そう思っても隣に晴彦がいるからできない。今は晴彦が一番怖かった。
「ごめんね。実はあの二人怪しいなって思ってたんだ」
茉麻に恐れられていることに気づいたのか、わざとらしいほど優しい顔で晴彦は言った。
「あいつがどういうふうに見えてるか知らないけど、茉麻ちゃんが思うほどいい男 じゃないと思うよ」
いい男ってなんだろう。隆貴はかっこよくて茉麻には優しい。それがいい男じゃないのか。史乃のことはたぶん何かの間違いだ。きっと隆貴はもうしないと言ってくれる。二人きりになれば。
「あの、高校の時に何かあったのですか」
これ以上、隆貴とのことを言われたくなくて話を変えた。さっきの晴彦の言葉も気になっていた。
「柊哉君と何かあったんですか」
晴彦の表情が崩れた。泣きそうな顔で何か言いかけ、口を押える。まさかと頭に思いついたことを聞いた。
「柊哉君がいじめられてたんですか」
研一が隆貴たちを糞と呼んでいた。まったくの被害妄想だと思っていた。柊哉の自殺がいじめのためで、知っていて助けられなかった研一が今、心を病んでいるのか。
しかし晴彦は首を横に振る。
「歩きながら話そう。電車で帰るよね」
そう言って返事を聞かずに歩き出す。マンションから離れたくなかったが、話が気になって茉麻はついて歩く。
「いじめられていたのは研一だ」
えっと晴彦を見上げる。
「本当ですか」
「正直、茉麻ちゃんが隆貴と付き合いだしたのが不思議だった」
「隆貴が、いじめてたんですか? 本当に」
「そうだよ」
「でも、隆貴はいじめているつもりなかったんでしょ。ふざけていただけとか」
「いや、あいつは人が苦しんでいるのを見るのが好きなんだよ」
体温が下がっていくのが分かった。晴彦は言葉を選ばずに隆貴を語る。
「あいつのやり方は今よりわかりやすかったけど、陰湿だった。でも研一が学校を 休み始めるとちょっと問題になってさ、少し隙を作ることにした」
「隙?」
「研一が柊哉と一緒にいるときだけ手を出さないことにしたんだ」
確かに高校の時も柊哉と研一は仲が良かった。二人で登校するのは隣の家だから当たり前にしていたし、帰宅も一緒だったのを見たことがある。
「研一は柊哉に依存し始めたんだ」
駅に着いた。改札にはどこかから帰ってきた人たちと、これから帰ろうという人たちで駅に入るのも出るのも混雑していた。話をいったん切って茉麻と晴彦は人の間を縫って駅のホームに向かった。
ホームのベンチに茉麻を座らせ、晴彦は自動販売機でジュースを二つ買ってきて一つを茉麻に渡した。
「ずっと男友達に頼られて付きまとわれたら気持ち悪いと思わない?」
「兄が、柊哉君のストーカーになってたってことですか?」
缶を開けて炭酸のジュースを飲む。炭酸が強すぎて味が分からない。
「まあ、そんなところ。二人がホモだって噂もあったよ。でも柊哉にとって噂は大 して気にならなかったかも」
そうだろうなと茉麻も考える。柊哉はまじめだった。母親の言いなりだった柊哉。勝手に庭に入ってきた小学生に優しかった柊哉。そして隣の家の同級生を見捨てられなかった柊哉。
「でもね、結局しんどくなったんだと思う。あいつは研一に大学の第一志望を隠 してたんだ」
「え? でも」
「うん、結局同じところになったけど、あれは隆貴がどうやってか調べだして研一 にリークしたんだよ」
そんなことまでするわけがない、と否定しようとしてもさっきみた隆貴の、泣く茉麻を見る笑い顔がフラッシュバックする。
柊哉を研一の逃げ場所にして、柊哉が逃げようとすれば逃げられないように退路を断つ。隆貴は研一をいじめて、一緒に柊哉も苦しめてそれを見て笑っていたのだろうか。
「じゃあ、柊哉君が自殺した理由って」
「距離を取ったはずの研一が同じ大学に入学するって知ったからじゃないかな」
言葉が出ない。研一の性格はよくわかってる。昔からそうだった。自分より弱いと思えば横柄な態度になった。研一には柊哉も弱く見えたのだ。もし柊哉がはっきり研一を拒絶できるほどの強さを持っていれば。
「誰も死ぬとは思ってなかったよ。隆貴もさすがにまずいと思ったのか緘口令を敷 いて」
「晴彦さんもそれに従ったんですね」
「俺は」
「誰も柊哉君のことを」
言いかけて詰まった。茉麻自身何も知らなかった。気づかなかった。それなのに晴彦を責めることはできるだろうか。
「勝明も、魁人も一緒にいじめてたから、もしかしてって思ったんだ。茉麻ちゃん が柊哉の名前を出すまで確信は持てなかったけど、隆貴のあの様子を見てやっぱ りって。たぶんあいつ俺が知らないことも柊哉にやってるよ」
「柊哉君の幽霊ってことですか?」
晴彦がマンションに行く前に確信していると言ったのはこういうことだったのか。しかしそれならば真っ先に隆貴が狙われるのではないだろうか。
「俺はもう隆貴にかかわらないことに決めた」
晴彦はきっぱりといった。見上げると会った時より表情が明るくなっている。茉麻に話してすっきりしたのだろうか。あまりにも身勝手で愕然としたがもう晴彦は茉麻のことも見ようとしない。
「過去にとらわれて自分を出せないのはもう嫌なんだ」
「すばらしい! 僕も賛成だな!」
騒音の中はっきり聞こえた声に振り返る。晴彦の真後ろにそれはいた。陸上選手のようなタンクトップと短パンをはいた、カエルの被り物をかぶった男。
「さあ、新しい世界へ! 新しい仲間の元へ!」
晴彦は振り返らない。恍惚とした表情のまま持っていた缶を取り落す。
「ホップ!」
晴彦が大きく足を前に出す。
「ステップ!」
両足で踏み切る。
「ジャーーーーーーーンプ!」
晴彦の体が線路に投げ出される。
宙に浮いた体を回送列車が薙ぎ払うように通過した。急ブレーキをかけた電車が耳をつんざくような高い音を立て、長い時間をかけて止まった。濃い血の匂いと焦げた肉の匂いが立ち込める。
茉麻はベンチに座ったまま動けない。悲鳴が上がっている。誰かが怒鳴っている。駅員が駆けつけている。しかしどれもうまく頭の中で処理できなかった。晴彦はどうなった? どうしてこんなことになった?
カエルの被り物の男は茉麻の隣にいた。人々が慌てふためいているのを見ているのか。それとも被り物の中からは何も見えないのだろうか。
「君、大丈夫か? 彼は君の知り合いか?」
突然肩をつかまれて振り返ると恰幅のいい駅員が茉麻を見下ろしていた。とっさにその手を振り払い茉麻は駈け出していた。そしてちょうど反対のホームにあった電車に飛び乗る。すぐに発車し、茉麻は閉まったドアにもたれかかるようにして座った。
助けて。
その言葉を言える相手がいない。隆貴に言いたい。でも言えない。あんなこと聞いた後に。
(帰ろう、茉麻ちゃん)
晴彦の声。聞こえたのではなく、ついさっきの死ぬ前の言葉だ。思い出すと急に英に帰りたくなった。静かな住宅街の中にあるちっとも庭の手入れがされていない坂の上の家。あそこに茉麻の部屋がある。茉麻のベッドがあって、布団がある。あの中で丸まって眠りたい。寝て、全部夢だったことにしてしまいたい。茉麻は揺れる車内でふらふらと立ち上がった。
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