12-2
太陽がよろよろと顔を出し、やがて南の低い頂点に昇りきっても母は目を覚まさなかった。
鎮痛剤の効力は午前中には切れたはずなのだが、依然として目を開く様子を見せない母に代わる代わる病室を訪れる医者や看護婦も暗い顔を並べていた。
僕は早朝に母の秘書に連絡を取って事の次第を説明し、入院の必要があるため当分母の出勤は不可能だと伝えた。
鮎川という名のその秘書の声は不自然なほど冷静で抑揚がなかった。
僕と彼とのやり取りは非常に無機質で、僕はロボットに向かって話しをしているような気分だった。
受話器越しの短い会話だけで彼がいかに無駄無く全てを完璧にこなし秘書として非常に優秀なのかということが理解できた。
母が死んだと伝えても驚かないであろう彼には一人の人間と言うよりも一つの機能という言葉がしっくりくる。
この男には母は愚痴の一つもこぼせないだろう。
軽い世間話すらできやしない。
彼も母のストレスの一要因であることは間違いない。
午前中パイプ椅子にもたれてうつらうつらしていた由紀は昼になると入院に備えて母の身の周りのものを取りに家に帰った。
僕は「少し寝てくるといい」と声を掛けたが、由紀は何も言わず疲れた顔を横に振って背中を向けた。
それから僕はベッドの脇に腰掛けてひたすら母を見つめていた。
太陽があっという間に色を変えながら傾いていき、戻ってきた妹が変わらぬ母の様子に落胆の色をありありと見せても、僕は黙って母の顔を眺め続けた。
母は時折唸るように大きく息を吐くのだが、それ以外は相変わらず能面のような無表情を保って眠っていた。
僕は久しぶりに目の当たりにした母の顔をただ飽きることなく眺め続け、いろんなことを考えたようで、それでいて何も考えていなかったような贅沢な時間を過ごした。
何も言わず、ぴくりともしなくても母はやはり母だった。
僕の心は静かに満ち足りていた。
「やっぱり私、ちょっぴり寝てきたの。お兄ちゃんも少し横になったら?」
病院に戻ってきた妹は努めて元気な素振りを見せて「仮眠室があるみたいだよ」と僕に勧めた。
由紀の目の下には隈ができている。
家で横にはなったかもしれないが、眠ることはできなかったのだろう。
健気な妹の言葉は胸が締め付けられるほど有難かったが、僕は昨晩病室に入ってから不思議と眠気を感じることがなかった。
あごに手をやるとざらつく髭の感触に長い時間の経過を悟るが、母の側にいる間何故か僕は睡魔とは無縁だった。
「もし……。もしよ、仮にお母さんがこのまま目を開けることがなかったとしたら……。お兄ちゃんと私二人きりの家族になっちゃうんだね」
二人きり。
その言葉は身震いするほど寂しく聞こえた。
「死なせるかよ」
離れて暮らしているということと、この世に存在しないということとの間には決定的な差がある。
母のいない世界など考えられなかった。
具体的に何ができるわけでもないのに、僕は自分の手で何が何でも母を生き続けさせると心に決めた。
そうしなければ自分自身が生きていけないという根拠の無い強迫観念に僕は迫られていた。
もう一度母の笑顔を見たい。
それさえ叶えば後は何もいらない。
僕は純粋にそう思っていた。
僕はそのときむせ返りそうになるくらい息を飲んだ。
母の口元がぴくりと動いた気がしたのだ。
僕は由紀の手を引き寄せ二人で母の顔に視線を注いだ。
気のせいではなかった。
母は少し唸るような声を上げて首をゆっくり振った。
僕は覆いかぶさるようにして西日に照らされて紅く染まった母の顔を覗きこんだ。
由紀は母の手を取り「お母さん!」と叫ぶように呼びかけた。
するとさらに母は目元を歪め瞼を震わせた。
間違いない。
母はこちら側に帰ってきたのだ。
僕と妹は水平線に姿を見せた船に手を振る漂流者のように、次第に近づいてくる母の魂に向かって一心に呼びかけた。
俄かに騒然とし出した病室内の様子に看護婦が慌てて飛び込んできたかと思うと、また踵を返して出ていった。
まもなく白衣を纏い聴診器をぶら下げた医者が病室にのっそりと現れ半狂乱の僕と妹に「そのまま呼びかけてください」と微笑みかけた。
僕はその医者の態度に腹の奥でむっとした。
母の命を預かっている人間が何とも他人任せに思えたのだ。
言われなくても生死の境をさまよう母のためなら僕と妹は咽喉がつぶれるまで呼びかけるだろう。
善人ぶった微笑を浮かべながらも、一歩離れたところから親子を芝居の役者を見るような観客席からの視線で眺めているだけの彼の態度が僕にはとても冷ややかなものに思えた。
必死の呼びかけが功を奏したのか、やがて母は蕾が割れて花冠が開くようにゆっくりと瞼を開けた。
薄く開いた目でぼんやりと虚空を見つめる母に僕は如来を連想した。
生死の境をさまよって母は何かを悟ったのではないかと僕は思った。
「お母さん、分かる?私よ。由紀よ」
切羽詰ったような勢いで離しかける由紀とは対照的に母はスローモーションのようにゆっくりと顔をこちらに傾けた。
「私……、確か……」
聞く者がいたたまれなくなるほど細く心許ない声だったが、確かにそれは母の声だった。
「お母さん、一昨日の夜中に倒れたんだよ。背中が痛いって。救急車でこの病院に来て注射を打ってからずっと眠ってた……」
由紀はそこまで言うと布団に突っ伏して「良かった、良かった」と声をあげて泣き出した。
「ありがとうね。由紀」
母は脇に顔を埋めて泣いている由紀を慈しむように見つめ、それからゆっくりと僕に目をやった。
意識の戻った母の頬には幾分赤みがさしていて、僕はもう大丈夫だという確信を持った。
「母さん……」
「ごめんね、保。迷惑かけたね」
そのとき母の目から涙がこぼれた。
次々溢れてくる涙は母の髪と枕を濡らした。
久しぶりに会った母に最初に言わせたのが謝罪の言葉だったことに僕は自分の不甲斐なさを痛感した。
死に直面しながらも生きて帰ってきてくれた母に息子の僕は何を謝らせているのか。
弱々しく首を横に振りながらもあまりに自分が情けなくて僕は目頭が熱くなった。
僕はハンカチを取り出し濡れている母の目元を拭いながら、親を泣かせる事の罪深さを痛いほど感じた。
「背中やお腹は痛くありませんか?」
母の足元に控えていた医者が愛くるしいほどの笑顔をのっそりと出して母に容態を尋ねた。
母は鼻をすすって大きく息を吐き医者に向かって頷いて見せた。
「痛くはありませんが、全身に感覚が無いような感じです」
「ずっと眠っていらっしゃいましたからね。まだ眠いようでしたらもう少しお休みください」
医者は母の言葉にうんうんと頷いてまた頬が崩れるほどの柔和な笑みを満面に湛えた。
僕にとっては気味の悪い笑い方でも心細い病人には天使の微笑みに思えるのだろうか。
母はまるで催眠術にでもかかったように白衣を着たペテン師に促されるまま再びゆっくりと目を閉じた。
医は仁術ではなく忍術だと僕は思った。
「保、由紀ちゃん。ごめんね。もう少し寝かせてね」
すぐに母は眠りに落ちて静かに規則正しく寝息を立て始めた。
それを見届けると医者は看護婦に何事か耳打ちしてそそくさと病室から出て行った。
残された看護婦が何やらほくそえみ、僕の視線を感じて慌てて表情を打ち消して逃げるように医者の後を追った。
あの二人はできてると僕は直感した。
看護婦はきっと今晩の待ち合わせを告げられたのだろう。
こんな想像を膨らませるようになったのは先生の影響だろうかと僕は思った。
二日会わなかっただけなのに僕は妙に先生を懐かしく感じた。
再び病室には家族だけが残された。
母を見つめる僕と妹の間には先ほどまでにはなかった弛緩した空気が漂っていた。
「何だか急に眠くなってきたわ」
由紀が大きく開けた口を手で押さえあくびまじりにそう言った。
「仮眠室で寝てこいよ」
「そうする。お兄ちゃんは眠たくないの?」
「俺か。俺はいいよ。お前が戻ってくるまではここにいる」
「分かった。じゃあ、二、三時間寝たら交代するね」
由紀が出ていくと病室は急に世界から取り残されたような静寂に包まれた。
いつの間にかたそがれ時は過ぎ、外の暗さが余計に部屋の静けさを助長しているように感じる。
僕は改めて母を見つめた。
不思議なもので、目を覚ますまでは能面のように無表情だった病人の顔が今は別人のように血色がよく、僕の目にはうっすらと微笑んでいるようにさえ見えた。
母親と二人きりになるのは何年ぶりか思い出せないぐらいだと僕は思った。
そう考えると不意に照れくささが背中をくすぐって僕は落ち着かない気分になる。
僕は一旦病室を出て自動販売機でカップのコーヒーを買った。
増量ボタンを押して砂糖とミルクをたっぷりにした甘いコーヒーだ。
立ち上る湯気が僕を落ち着かせる。
舌にまとわりつくような甘さが疲れた身体に心地よかった。
父が死んで遺された家族は各々が急に色々なものに目がいくようになり、ここ数年互いが互いを見詰め合う時間など無くなっていた気がする。
母の今回の急病で結果的には家族の大事さを認識できたのは怪我の功名だったと思う。
僕も由紀も親の有り難味と兄妹の存在の大きさを痛いぐらいに味わった。
僕がいなかったら由紀は気が動転したまま泣き続けていたかもしれないし、由紀が母と暮らしていなかったら僕は今頃自分の親不孝さに悔やんでも悔やみきれない事態に直面していたかもしれない。
昨晩「私、看護婦さんになろうかな」と由紀は言っていた。
進むべき道が見えず毎日を淡々と送っていた由紀にとっては母の入院は大きな転換点になるかもしれない。
僕たち家族の前には大きな問題が横たわっている。
父が遺し母が切り回している会社をこれからどうするか。
僕は次に母が目を覚ましたときには母に社長の座から降りることを勧めるつもりになっていた。
かと言って僕が母の後任に就く気も無い。
今は何百人もの社員を抱えるような企業のトップを一家族が代々世襲していくような時代ではない。
足の引っ張り合いの厳しい時代の流れの中では気概ある有能な人材がリードしていかなくてはその企業、社員延いては社員の家族までもが路頭に迷うことになってしまう。
母も今回の入院で自分の身体がこれ以上激務に耐えることはできないと悟っただろう。
僕に継ぐ意思がないと分かれば母もどうしようもないはずだ。
母にとってはつらい決断かもしれないが、結局そうすることが僕たち家族にも会社にとっても一番良いのだと思う。
病室にもどった僕はいつの間にかパイプ椅子の上で舟を漕いでいた。
無理な体勢だったのか首と腰が重く痛かった。
時計を見ると三十分ぐらい眠っていたらしい。僕は目を擦りながら椅子に座りなおした。
「あれ。起きてたの?」
いつの間にか目を覚ましていたらしい母は僕の方を見て微笑んでいた。
こんなことでは仮眠室で寝ている由紀に怒られてしまう。
「私も今起きたところよ。久しぶりね。保の寝顔を見るのは」
そう言って母は小さく笑った。
母の笑顔は優しく温かくて、僕はいつまで経っても自分が小さな子供だということを知った。
「そうやって座って居眠りしている姿はお父さんそっくり。お父さんも忙しい人だったからよくそうやって椅子に座ったまま居眠りしていたわ」
以前の僕なら父と似ていると言われると良い気分はしなかった。
僕はあの尊大で傲慢な父親とは鏡で映したように正反対の人間になりたいと思っていた。
しかし、今母に言われても不思議と悪い気はしなかった。
少し懐かしささえ覚えていた。
今回のことを経験してそう思えるようになったのだろうか。
「まあ、親子だからね」
僕は照れながらもそう言えた自分が少し大人になったように思えた。
「保」
「何?」
「あなたに言っておきたいことがあるの」
母の顔はいつにも増して真剣だった。「これから言うことがあなたにとってどう影響するかは、無責任かもしれないけど私にも分からない。ある面ではプラスだろうけど、必ずマイナスに働く部分もあると思うわ。とにかくあなたにとって何らかの、それも大きな影響を持つ事実であることは間違いない。……でもしっかりと受け止めて欲しい」
言っているうちに母の眼の光は弱々しくなっていった。
僕に対して何かを謝罪したげに見える。
会社のことだろうか。
今回倒れたことで自分の健康に自信をなくし、いよいよ社長の座を誰かに譲り渡す決心でもついたのかもしれない。
そういうことであれば僕に気兼ねなく英断してほしい。
僕には母の会社に対して野心もなければ、責任感もない。
何も僕に詫びることはないのだ。
僕は少し頬を緩め母の次の言葉を促した。
「保。あなたとお父さんは血が繋がっていないの」
「え?」
僕は耳を疑った。
母が搾り出すようにして口にした言葉そのものの意味は分かるが、何度頭の中で反復しても内容が理解できなかった。
「血が繋がっていない」という文字が僕の脳内を飛び跳ねる。
跳ね回りつつその体積を増やし、すぐに脳全体に広がって僕の頭の中を内側から強烈な強さで圧迫し始めた。
頭が割れそうに痛む。
母は救いを求める僕から目を反らした。
「由紀も知らないことだけど、由紀とあなたは異父兄妹なのよ」
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