12-1
由紀からの電話は全く要領を得なかった。
しかし、由紀のその金切り声と同じ単語の羅列が事の重大さと緊急性を如実に僕に伝えていた。
お母さんが、お母さんが、倒れて、お腹押さえて、お兄ちゃん、倒れて、誰もいないの、お兄ちゃん……。
母の身に何か起きたことは間違いなかった。
妹の拙い説明でも母が病院に運ばれたことは理解できた。
どこの病院かを由紀に何とか吐かせると僕はすぐさま行動を起こした。
僕は不思議なほど落ち着いていられた。
狂ったように取り乱していた妹と対峙したからかもしれないが、僕は母が倒れることをあらかじめ予測していたような気がしていた。
携帯電話の画面に由紀からの着信が表示されているのを見たときには、これから由紀が何を言うのか何故か僕は手にとるように分かっていた。
僕は何度も予行演習をしていたかのように焦らず無駄のない動きをした。
電話を切ると僕は財布の中身を確認してから時計を見た。
まもなく日付が変わる。
終電はまだあるかもしれないが、乗り換えや駅からの道のりを考えると初めからタクシーを使ったほうが速い。
僕は足早に先生の部屋に向かった。
先生は期待通りの飲み込みの早さで即座に僕に三万円を貸してくれた。
これで僕の財布の中は四万円になった。
これだけあればとりあえず困ることはないだろう。
僕は先生に礼を言い、素早く自分の部屋に戻って厚手のダウンジャケットを掴むと冬の寒くて暗い道路に走り出た。
吐き出した息がいつまでも白く宙に漂っている。
鼻から空気を吸い込むと鼻腔の粘膜がちりちりと痛くなるほど気温は低かった。
大通りに出ると一台のタクシーが僕が止めるのを知っていたかのようにタイミングよく僕の目の前に滑り込んできた。
妹からやっとの思いで聞き出した病院はかなり名の知れた大きな病院だった。
行き先を告げると運転手はただ小さく「分かりました」とだけ言ってアクセルを踏んだ。
無口な昔気質の職人を連想させるその仕草に僕は安心して背もたれに身を委ねた。
窓越しに冬の夜の街に眺めていると、僕は今日と同じようにタクシーで病院に向かったあの日のことを思い出さずにはいられなかった。
僕の隣には朋子さんがいた。
窓の外にちらちらと舞い降りる雪ははかなく可憐で、肩には朋子さんの重みと温もりを感じ、あのときほど僕は時の流れの早さを恨めしく思ったことはなかった。
反対に今日はタクシーが遅々として進んでいない気がしてならない。
外を見やれば吸い込まれそうな錯覚を覚えるほど深く気味の悪い闇がどこまでも続いている。
僕は不意に背筋に悪寒を感じてダウンジャケットの襟を掴んだ。
目を閉じてみたがそこにも闇が広がっていて、得体の知れない嫌な予感が僕の全身を駆け抜けていった。
深夜の面会者に嫌な顔一つしない愛想の良い看護婦に案内されて薄暗い病室に入ると、「お兄ちゃん」と涙をこぼしながら由紀が飛びついてきた。
由紀は僕のダウンジャケットに顔を埋め、泣き腫らして紅く濁った目で僕を見上げた。
僕は由紀の細い背中を強く抱きしめ二度、三度と髪を優しく撫でた。
微かにシャンプーの匂いがした。
由紀は僕の胸の中で小さく鼻をすすった。
僕はこのときほど妹を可愛いと思ったことはなかった。
兄であることに緊張と誇りを感じた瞬間だった。
僕はもう一度由紀を強く抱きしめた。
「……大丈夫か」
「うん。もう平気」
「お前じゃないよ。母さんだよ」
「あ、そっか」
由紀は顔を起こし照れたように笑った。
しかし、その目には今にもはらはらと流れ落ちそうな溜め涙が浮かんでいた。
ノーメイクにパーカーとジーンズというラフな格好の由紀は先日会ったときよりも幼く見え、泣き濡れて僕を見上げる面持ちは甘えん坊で泣き虫だった小学生の頃と変わってはいなかった。
「今は眠ってる。痛み止めの注射を打ってもらったから、その影響で朝になるまでこのまま眠り続けるみたい」
久しぶりに見る母は予想外に変わった印象はなかった。
しかし、ベッドの脇にあるわずかな明りに照らされた母の寝顔をよくよく眺めると、やはり白髪が増え皺も深くなったようだ。
痛みや苦しみは見られないが、顔色はあまり良いとは言えず、その表情の無さは能面を連想させる。
微かな胸の上下の動きが無かったら、あまりに静かで生きているのかどうかさえ不安になってしまうほどだった。
「安らかだな」
「縁起でも無いこと言わないで」
由紀が僕のダウンジャケットを叩く乾いた音が病室の中に響いた。
僕は脱ぐのを忘れていたダウンジャケットをパイプ椅子に掛けて、由紀と並んで腰を下ろした。
「お母さんね、一端六時過ぎに帰ってきてまた出かけたの。そのときにはもう顔色が良くない気がしたから、行くのやめたらって言ったんだけど、どうしても抜けられない大事な会合だからって出て行ったの。それから帰ってきたのは十一時ぐらいだったと思う。私はリビングでテレビを見てて、いつまでたっても帰ってきたお母さんが顔を見せないからおかしいなと思って玄関に見にいったら、お母さんがうずくまってて」
「……」
「顔色がものすごく悪かった。青ざめたって言うよりは壁の色って感じ。土色って言うのかな……。お母さん、背中が痛いって言ってそのまま倒れて気を失っちゃったの」
「背中?」
「うん。すい臓が悪いみたい。急性すい炎だって先生が言ってた」
「すい臓か……」
口に出してみても何の感慨もない名前の臓器だった。
胃や肺や肝臓だったら幾つか病名も頭に浮かぶし、心臓と聞けば即座に生命に関わるという印象を持っただろう。
しかし、高校の生物の授業以来耳慣れないすい臓という臓器について僕が持っている知識はゼロに近かった。
それだけに母の身体に巣食う病気が何とも得体の知れない恐ろしいものにも思えてならなかった。
母が今どれだけ危険な状態なのかは想像もつかないが、楽観できないということだけは案内してくれた看護婦の妙に親切な態度から何となく察しがついていた。
由紀が下唇を噛んで僕を見ているのが気配で分かる。
由紀が何を言いたいか僕には痛いほど理解できた。
お兄ちゃんがもっとしっかりしてくれないからお母さんがこんなになるまで働かなくちゃいけないんだよ、と妹の薄紅い目が僕を責めている。
僕はその眼差しを直視できなかった。
「お兄ちゃん……。帰ってきてよ」
「別に俺は家出してるわけじゃないよ」
僕は鼻から息を抜くように苦笑した。
自分でも不快な笑いだ。
後ろめたさを感じている証拠だった。
「お兄ちゃん!お母さんはきっと頑張りすぎなんだよ。もともと身体が強いわけじゃないことお兄ちゃんだってよく知ってるじゃない。このままの状態が続いたらお母さん本当に死んじゃうよ!」
妹は上気した顔で僕の袖をぎゅっと掴み「それでもいいの?」と問いかけた。
答えるまで離さないと言いたげな由紀の目にまたじわじわと涙が浮かんでくる。
梨花一枝春雨を帯ぶ。
由紀が唇を結んで涙をこらえる様子は兄の僕から見ても可憐で美しかった。
「いいわけないだろ!」
僕は強引に由紀の手を振りほどいて立ち上がった。
でも、どうしようもないじゃないか。
責められて当然だとは分かっている。
このままの暮らしを母に続けさせるのは母に死ねと言うようなものだ。
しかし、俺なんかに何ができる、という気持ちが何よりも激しく胸を揺さぶり僕は膝が震えて足が前に出ない。
二十歳の僕に会社を経営できるわけがない。
会社のことについて何も知らなければ、名前と顔が一致する職員もほとんどいない。
スタッフも親の七光りでしかない僕についてきてくれるとは思えない。
取引先も僕が相手では頼りないだろう。
合併話まで持ち上がっているような会社の浮沈がかかっているこの時期に僕が社長になったとしてプラス材料など何一つ生まれてくるはずがないのだ。
代われるものなら代わりたいとは思う。
幼いころから僕を父の鉄拳から身を挺して守ってくれた母の身体を病魔が蝕んでいると考えただけで、僕の心は焼け付くような痛みを覚える。
しかし、僕はあまりに無力だった。
やつれて健康を崩しベッドに横たわっている哀れなこの母よりも、僕ははるかに非力なのだ。
父が遺した会社のトップに立つと考えただけで足が竦み手は震え僕は全身が戦き強張るのを感じてしまう。
会社なんて無くなってしまえばいい。
そう考えない日はない。
父が遺したもの全てが僕にとってはプレッシャーだった。
母がどうして社長の座にこだわるのか僕には未だに見当もつかない。
この会社さえなければ僕は自由気ままに大学生活を謳歌し、母も安気に老いを迎えられるのだ。
母さん。
大学を卒業するまでは僕を自由にしてくれると約束したじゃないか。
僕はまだ自分の生活に充実感を見出せていない。
先生と出会って、朋子さんを好きになって、やっと人生というものの楽しい面が覗けたような気がしてきたところなんだ。
これ以上自分の人生を美しく彩ろうとするのは我儘だって言うのかい。
僕は問いかけるように母の顔を見下ろした。
眼下の母は相変わらず青白い顔で横たわっている。
寝息も立てずに静かに眠り続ける母を見ていると時が止まったような気がしてくる。
その側で由紀が鼻をすする音だけが病室に響いている。
僕はいたたまれなくなって妹をおいて病室を出た。
先ほど病室を案内してくれた看護婦がナースセンターからほの暗い廊下に出てくるのが見えた。
院内を見周りに行くのだろうか、手には懐中電灯を持っている。
僕は彼女に声をかけ母の病状について尋ねた。
その看護婦は急性すい炎という病気について僕に説明してくれた。
すい臓内のすい液がすい臓自体を消化してしまう、軽症でも入院しなくてはならない生命に関わる恐ろしい疾病だと聞き、改めて母は危うく死にかけたのかと思うと僕は身体が細かく震え膝の力が抜けていくのを感じた。
彼女は母の急性すい炎の原因は過度のストレスとアルコールが原因だと言った。
母が酒を飲んでいるということを僕は全く知らなかった。
母が酒を飲むところなど見たことがない。
自分でも「好きじゃない」と言っていた酒を呷って死にかけた母が哀れに思えて仕方なかった。
「今は鎮痛剤が効いてますので、お母様は明日の朝までは目を覚まされません。妹さんと交代ででもお休みなられた方がいいですよ。おそらく大丈夫だとは思いますが、急に顔色が悪くなったり息が荒くなったりしたらすぐに呼んでください。いつでも集中治療室に移れる準備はしてありますのでご安心ください」
彼女は僕に微笑みかけて僕の心配を払拭しようとしているのだろうが、「集中治療室の準備」と聞いて僕は余計に不安を募らせる形になって部屋に戻った。
由紀は僕を見上げて「さっきはごめん」とポツリと謝った。
僕は俯いて兄を責めた自分を悔いているように見える由紀に何か言葉を返そうと口を開いたが、適当な台詞が見当たらずそのまま妹の隣に腰掛けた。
「少し休めよ」
案の定、由紀はかぶりを振った。
「お兄ちゃんこそ」
小さく頷いたが、僕ももちろん横になる気になどなれなかった。
それから僕達兄妹はほとんど何も喋らず、皮肉にも久しぶりに家族水入らずの一夜を過ごすことになった。
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