第2話 角兎の丸焼き
迷宮の中というのは、アレフが思っているより明るいものだった。
陽の光など微塵も差し込まない石造りの通路だというのに、壁の輪郭ははっきりと見て取れる。どうやら、壁自体がうっすらと光を放っているようだった。
お陰で松明を持たなくても不自由なく通路を歩くことが出来る。原理はわからないが、有難いことだった。
地上の森の木がここまで伸ばしているのか、そこら中の壁から木の根がはみ出している。枯れ果て朽ちた根も辺りに落ちているから、それを松明にすることも不可能ではないだろう。だが、ただ朽ち木に火をつけただけではそう長くは持たないし、煙も酷い。
有難いことといえば、もうひとつあった。
薄暗がりを歩きながら、アレフは不意に腕を無造作に振る。すると、ギュッとかギャッとかいう声を上げて、闇の中で何かが壁にぶつかる音がした。
手探りで、アレフは壁際の地面に落ちた生き物を拾い上げる。額から伸びた長い角と丸い尾、太い後ろ足を持つその生き物は、
手のひらの上に乗ってしまう程度の大きさだが、一本角の獣の多くがそうであるように気性は極めて荒い。れっきとした肉食の猛獣である。その太い足で二メートル近くも跳躍しては、その鋭い角で襲い掛かってきて、人でも重傷を負い、酷い時には突き殺されてしまう事すらある。
だが、今のアレフにとっては重要な食糧源であった。あまり美味くはないが、食べられないわけではない。アレフは壁にぶつかって気絶した
そうして何匹か
「……手荒い歓迎だなあ」
アレフの胸元辺りに壁から飛び出した半月状の刃が、キチキチと音を立てながら壁の中へと戻っていく。常人の体躯であればちょうど首のある高さだ。この迷宮に仕掛られた罠はまだ十分に生きているらしい。
よくよく見てみれば、この罠にかかって命を落としたのだろう。頭のない白骨死体が片隅にうずくまっていた。
首から上は誰に持っていかれたのか。
「ま、考えたって仕方ないか」
アレフは軽い口調で独りごちると、歩を再び進み始めた。
この迷宮にどんな生き物が潜んでいるかなど誰も知らないし、アレフには床に仕掛けられた罠を見抜くような眼力もない。
だが代わりに、高速で飛び出す刃を捉えるほどの反応速度があった。
壁から飛び出る刃を、天井から降ってくる大鉈を、床から迫り上がる槍を、ある時はかわし、ある時は剣で受けながら進んでいく。
そうして進むうちに、アレフは小さな部屋のような場所に辿り着いた。
最初に落ちてきた場所を除けば、初めて通路ではなくある程度の広さのある場所だ。
「よし、ちょっと休むとするか」
アレフは適当な大きさの瓦礫を椅子にして腰を下ろすと、道中拾い集めた朽ち木を並べ、一本を指の力でバラバラに細かく割いて焚き付けにする。剣の柄を外すと、中からは火打ち金が出てきた。行軍の際、火を起こすのに必須の道具だ。
適当に手のひら大の石ころを拾い上げ、火打ち金に打ち付ける。カン、カンと甲高く音が響いて火花が散り、二、三度繰り返すと焚き付けに火がついた。
ふうふうと息を吹いて燃え広がらせ、炎が安定した所で
パリパリとした皮を歯で喰いちぎり、中の肉を噛みしめると熱で溶けた脂肪が溢れだす。適当な血抜きで満足に血が抜けておらず、塩すらない為に味はとても良いとは言えなかったが、丸三日程ほとんど何も食べていない胃は歓喜の声を上げた。
細い骨ごとパキパキと咀嚼して、丸一匹を平らげ、二匹目へと手を伸ばそうとしたとき。ギイギイという不愉快な声に、アレフは動きを止めた。さほど近くはない。しかし、遠くもないどこかに、敵がいる。
そろりと音を立てぬように立ち上がり、焼いた肉を再び蔦に吊るして耳を澄ませながら通路を進む。曲がり角からそっと顔を覗かせると、小さな緑色の生き物達が騒いでいた。
大きさはアレフの腰ほど。粗末な腰布を纏い、棍棒を手にしている。
――
見た目の通り力は弱く、頭もあまりよくない。しかし、群れる。群れで武器を扱えるというのはそれだけでかなりの脅威だった。
幸い、相手はこちらに気付いていない。アレフは風のように走ると、手前にいた一匹目の首を刎ねた。異変に気づき、こちらを振り向く二匹目の胸にどすりと剣が刺さる。三匹目は棍棒を振りかぶった所で、アレフの丸太のような足に蹴り殺された。
四匹目に剣を向けて、アレフはピタリと手を止める。
「女……?」
地面に蹲り、アレフに怯えた瞳を向けているのは、見目麗しい少女だった。その髪はまるで老婆の様に真っ白で、肌はそれに輪をかけて白い。ただアレフを見つめるその両目だけが、赤く色彩を持っていた。
「……いや、
少女の顔立ちは、醜い
「そういや聞いた事があるな。たまに、こいつみたいなのが生まれるって」
何でも醜い
「……つまりは、俺の同類か」
アレフはこちらに襲い掛かる様子もない
「安心しな、切る気はねえよ」
じりじりと地面を這うように後退る
「ほら、食うか?」
「何だ、随分腹が減っていたみたいだな」
下品に両手で肉を掴み齧る様には、せっかくの美貌が台無しだ。だが、その様子に別種の愛らしさを見出して、アレフは喉の奥でくくと笑った。
彼女が肉に夢中になっている間に、アレフは殺した
「じゃあな」
それらを集め布で纏めて、アレフは
「なんだ? まだ肉が欲しいのか?」
振り返ってアレフがそう言うと、少女は応える様に「ぎい」と鳴いた。
「……もしかしてお前、俺の言ってる事がわかるのか?」
「ぎぃ」
そう尋ねれば、彼女はこくりと頷く。アレフは
「お前、虐められてたのか」
「ぎぃ……」
そろそろと手を伸ばし、少女はアレフの肩口をぎゅっと掴んだ。アレフはため息をつき、ぽんと彼女の頭に手を乗せる。
「……じゃあ、俺と一緒に来るか?」
「ぎっ!」
ぱあ、と表情を明るくして、少女は高く鳴く。言葉がわからずとも、その表情と声色が何よりも雄弁な答えだった。
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