秘教(後)

「―――彼は元々、神に創造された御使い・・・いわゆる天使と呼ばれる存在の中で、最も優れたる者だった。

 天使たちを天空の星々に喩えるならば、彼はその中で最も強く輝く金星・・・明けの明星のような存在だったという。

 しかし、ある時点で神に対して反旗を翻し、そして敗れて、地に投げ落とされた。

 ・・・いわゆる堕天使というヤツだ」

「・・・」

「反乱を起こした動機については、諸説がある。

 単純に、傲慢・・・つまり、優秀すぎるがゆえの思い上がりだったとか、後から創られた人間への嫉妬だとか、自分は神の創造物ではないと主張したとか・・・」

「・・・・・・」

「だがその中に一つ、他とは少し毛色が違う説があった。

 ・・・人間に智恵を与えるため、自ら地に堕ちたという解釈だ」

「!」


・・・途端に、この5ヶ月で見聞きしたさまざまな言葉が、頭の中で目まぐるしく渦巻き始める。


「オカルト論者にとって、この説は時代を問わず魅力的だったらしくてね。

 特に近世の神秘主義者によって論議され、結果的に世界中のあらゆる場所でカルト的に支持された。

 ・・・個々としての活動は大きくなかったし、現代では陳腐化して久しい概念だが・・・」

「・・・その智恵、っていうのは、智恵の種・・・とか呼ばれてるヤツのことですか?」

「種・・・?

 ああ、確かに人間に植え付ける・・・という意味で、種に喩えられることは多いかな。

 ・・・でも、それが?」

「アンドラスが言ってたんです。

 はるか昔、自分たちの長兄は『種』の運用を巡って父親とケンカになり、家を出たと。

 ・・・長兄について家を出た結果、いつしか自分たちは人間から悪魔と呼ばれるようになったと」

「!」

「最初は抽象的すぎて、文字通り雲の上の話としか思ってなかったんですけれど。

 ・・・でも、つまりそういうことですよね?」

「・・・・・・」


ふたたび、くい、と、先生が眼鏡を押し上げ直す。


「・・・アンドラスという悪魔には、あまり誠実に物事を教示してくれるイメージはないんだが・・・。

 だが当事者がそう言ったなら、そうなんだろう」

「・・・」

「話を戻すが、さっき言ったその神秘主義というのは、つまりは逆転の発想・・・悪く言えば天邪鬼だ。

 すなわち、アダムとイヴに智恵の実を食べることを禁じた神は、実は人を無知なまま支配しようとする偽神デミウルゴス

 逆に智恵の実を食べるよう諭した蛇こそが、人類に叡智と啓発をもたらした真なる神であると。

 この霊的な知性を至上のものとする教義は

 古代ギリシャ語で『認識』を意味するグノーシスgnosisと呼ばれ、さまざまな派閥に細分化して世界中に散らばった。

 そしてその中の一派が・・・」

「ルシファーを救世主として崇めていた・・・?」


西宮先生は無言で頷く。


「・・・元々、ルシファーのルシというのは

 ラテン語で光を意味する『ルクスlux』と同じ語源だったんだ」

「ルクスって・・・電球とかの明るさの単位で使われてる、あれですか?」

「うん。

 ・・・光と智恵というのは古来より密接に関連づけられてきたし、ルシファーは智恵の実の蛇と同一視されることが多いからね。

 規模としては大きくはなかったが、ルシファーを光の救世主と見なすカルトが発生するのは、歴史の必然だったのかも知れない」

「・・・」

「・・・で、ここからが本題だ。

 昨日、僕が広隆寺で言ったことを覚えているかい?」

「・・・弥勒菩薩のいわれとかの話ですか?」

「うん。

 その中で、この京都には弥勒菩薩と似た救世神の伝承を持つ神仏が、他にも祀られている・・・と言ったろう?」

「え?

 ええ・・・」


56億年後に降臨して人類を救うなんて途方もない話だが、どうもこれに限らず仏教というのは

数字をいちいち異様に大きく定める傾向にあったらしい。

まあ、そういうものだと言われればそれまでだ。俺がとやかく言う筋合いじゃない。


「・・・そこの半世紀前の住職は、当時近代オカルティズムとして流行っていた

 グノーシスの流れを汲む思想に傾倒していたらしくてね。

 それまでのその寺の教えと独自解釈の神秘主義を融合させ、独自の宗派を開いたのだそうだ」

「・・・」

「いわく、五百万年前、人類を救うために金星より降り立った光の御子があり、それを魔王尊と呼ぶと」

「・・・・・・。

 ・・・金星・・・って、まさか・・・」

「その御子は永遠に16歳の少年の姿のままと言われる一方で、その寺に鎮座している魔王尊像は天狗の姿をしている。

 ・・・天狗とは堕落した修験者の成れの果てとも言われ、つまりは日本における堕天使と言い換えてもいい」

「・・・先生。

 それって、つまり・・・その、魔王尊っていうのは・・・」


と。

そこで先生は自らを落ち着かせるかのように半歩退き、軽くため息をついた。


「・・・と、勢いで押し切りたいところなんだけどね。

 細かい定義を論じていくと、いろいろと齟齬はあるんだ。

 ここでいう魔王尊の『魔王』っていうのは本来、一般的な意味の『魔王』とはニュアンスが違うらしいし

 歴史上、グノーシスと呼ばれてきた主義は多岐に渡るため、それらが必ずしもルシファーやキリスト教的なモチーフと結び付くわけじゃない。

 ・・・魔王尊像が天狗の姿をしているのも、普通に解釈すれば

 単にその住職よりずっと以前の信仰の名残というだけに過ぎないんだろう」

「・・・・・・・・・・・・」

「だがそんなことを言い出せば、そもそもルシファーという存在からして

 元は単なる誤読から生まれたものに過ぎないという説もある」

「・・・そうなんですか?」

「うん。

 ・・・その誤読されたと言われている聖書の一節は、元はネブガドザルというユダヤ王の失墜を金星になぞらえて謳ったものだったらしい。

 それが時を経て、太陽・・・すなわち神の御座を簒奪しようとした、明けの明星・・・堕天使伝説にすり替わったのだと」

「・・・・・・」


星のことにはあまり詳しくないが、明けの明星という星は・・・確かに、見方によっては

日の出の際に最後まで太陽にあらがっている・・・と、いう風に見えなくもない。


「・・・・・・が、それが単なる誤読なんかじゃなかったということを、僕らは知ってしまった。

 だがあるいは、人の啓発とかインスピレーションというものは、えてしてそうしたものなのかも知れない。

 一見、単なる偶然やボタンのかけ違いにしか見えないものにこそ、真理が宿っているのかも・・・と」

「・・・」


金星。

魔王。

光。

智恵。

天狗と、堕天使。

堕落した、翼あるもの。


・・・ここまで来れば、西宮先生が言わんとしていることなど知れていた。


「・・・俺らはその『解釈』、どう活かせばいいんでしょうか」

「・・・・・・正直、それは僕にもよく分からない。

 だけど君たちがあえて藪をつつくつもりだと言うのならば、この後の方針の参考くらいにはなるんじゃないかい?」

「・・・・・・。

 ・・・美佳」

「・・・ん」


ふいっと背後へ振り返ると、美佳は既にフツノミタマの柄を取り、正眼に構えていた。


「それが布都御魂フツノミタマか。

 ・・・天津甕星アマツミカボシ現身うつしみである加賀瀬君の手に渡るとは、皮肉・・・いや、宿命というべきか」

「こういうことさえなきゃ、今すぐにでもタケミカヅチに突っ返したいんですけどね・・・。

 ・・・どうだ?」

「・・・・・・・・・・・・」


錆くれた神剣を正面に構えながら、美佳はゆっくりと、自分の周囲へ視線を流していく。


「・・・こっち。

 ・・・・・・星が出てる」


美佳はロビーの一角、色褪せた山景が覗く大窓の先を神剣で指し示した。


「・・・ゴモリー・・・で、間違いないんだよな?

 その『星』は」

「たぶん・・・。

 かなりはっきり見えてる・・・ってことは、わたしが今一番気にしていることを指し示しているんだろうし」

「・・・・・・。

 先生・・・」

「・・・やはり、そちらの方角か」


土地勘のない俺には、美佳が指し示したのが具体的に東西南北のどの方角なのかよく分からなかったが、

西宮先生の方はそれを見て何かを確信したようだった。


「そちらはここから見て、ほぼ真北・・・鞍馬山がある方角だ」

「鞍馬山・・・?」

「・・・先ほどの僕の講釈が今の状況と無関係でないのならば、おそらくその星の場所は鞍馬寺だろう」

「鞍馬寺・・・って、天狗伝説とかがある鞍馬寺ですか?

 牛若丸が育ったっていう・・・」

「うん。

 ・・・さっき、魔王尊像は天狗の姿をしている、と言ったろう?

 それはつまり、神秘主義に影響を受けるより以前の、天狗信仰の名残なんだと思う。

 ・・・常識的に解釈すればね。

 しかし今は、その常識的な史観をある程度無視しなきゃならないようだ」

「・・・さっき言ってた寺って、鞍馬寺のことだったんですか」


日本人で牛若丸・・・というか、源義経の名を知らない人間は稀だろうから

必然的に鞍馬寺も・・・少なくとも、その名は広く知れ渡っているんだろうけれど。

まさかそんな、秘教みたいな伝統があるとは。


「行くというなら、二人が行動しやすくなるよう僕からも少し便宜を図ってみよう。

 ・・・本当なら僕も同伴したいんだが、立場的にちょっと難しくてね」

「いや、それだけでも充分ありがたいです。

 俺と美佳は一応戦う術があるし、やっぱ俺たちだけで行くべきなんだと思います」

「・・・そうだね」



――しかし。

西宮先生も今言っていたように、俺たちの方からゴモリーを追うというのは

基本的には藪を突つくような行為だ。


・・・それを承知の上でゴモリーを追いたがっている今の己の心境を、俺は自分自身でも整理しきれずにいた。

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