「べこん、べこん、べこん」
「・・・あ!
二人とも、あれ!」
美佳の声にはたと前方へ目を向けると、丸太に新たな異変が起こっていた。
「・・・!
腕が・・・」
先ほどまでまごつくような動きばかりを見せていたヒル人間の腕が、丸太の上面へべしゃりと手を掛けたのだ。
そして次の瞬間。
『・・・と・・・ぉ・りゃ・・・せ・・・』
「!」
「・・・うわっ・・・」
・・・丸太の裏側からぬっと這い出てきた、ヒル人間の上半身。
まるでプールのヘリから地上へと這い上がるかのように、重力に引きずられた重々しい動きで、蒼ざめた亡者がその顔なき顔を覗かせる。
『・・・とぉ・りゃ・・・せぇ・・・』
「・・・・・・」
「・・・どうなっているんだ、あの裏側は・・・」
・・・何度も言うようで申し訳ないんだけれど。
丸太の裏側には、決してヒル人間の全身が隠れるようなスペースはない。
『・・・こぉこ・は・・・どぉこ・・・の・・・』
そもそも、今見えてるヒル人間の肩幅と丸太の横幅がほぼ同じくらいか、ヒル人間の方がわずかに広いくらいなのだ。
今見ているものをありのままに認めて、なおかつこじつけるなら、あの丸太の裏側に落とし穴型の四次元ポケットでも開いていなければ説明がつかない。
・・・いや、その例えも全然説明になっていないっていうのは分かっているんだけれど・・・。
『・・・・・・そ・みち・・・じゃ・・・』
でも多分、俺たちが今あの丸太の裏側へと回りこんでみたところで、きっとそこには穴もなければ、まして四次元ポケットなんてものもないんだろう。
今見えているこちら側と同じように、なんも変哲もない丸太と地面がただあるだけのはず。
『・・・ひぃるこ・・・さぁまの・・・』
・・・ここは、そういう場所なのだ。
校舎内での部屋同士の切り替わりとか、図書室から見えた現実世界の風景とか。
今までだってさんざん『あの現象は、あそこでこうしていたらどういう風に見えたんだろう』という疑問はもたげていた。
『・・・ほそ・みち・・・じゃぁ・・・』
でも、もういちいち疑問を抱いている局面じゃない。
敵の心臓部をヒル人間が守っている。重要なのはそれだけだ。今はそれへの対策だけに集中せねば。
「・・・美佳。
この丸太がある空間、実質的な『道幅』はどれくらいだ?」
「へっ?
・・・あ、うーん・・・。
切り株地帯の切れ目辺りがボーダーライン・・・かなあ?」
この異次元迷宮において美佳の星が指し示しているのは、あくまで『正解の道しるべ』だ。
だからその指し示した道を外れれば、なんらかの災厄が降り注ぐことになる。
言い換えれば、正解のルートにはそれ自体に踏み外してはいけない『道幅』のようなものがあり、道幅とはすなわち足を踏み入れても安全な『移動可能範囲』と解釈できるのだ。
そしてそれは、ゴールであるこの切り株地帯も例外ではないはず。
「たぶんそれ以上グラウンド側とかに足を踏み入れると、よくない目に遭うと思う・・・けど・・・」
「けど?」
「さっきも言ったけれど、わたしに見えるのはあくまで『正解』であって、『どこからが不正解』とかじゃないから・・・。
そもそもここら辺一帯は何から何まで真っ暗だから、具体的にどこまで歩いていっても安全かとかは、あんまり自信ないよ。
・・・ただ、少なくとも切り株地帯の中にいれば、どっかに飛ばされるとかはないと思う」
「そうか。
・・・よし」
俺は顎を引くと、切り株地帯の前方をすっと見据える。
「・・・二人とも、一番向こうの丸太に左側から回り込むぞ」
「えっ?
あっ・・・う、うん!」
そして言うが早いか、切り株地帯の向かって左側――つまりグラウンド側を、100mほど先に見える最も離れた丸太に向かって駆け出し始めた。
「・・・一番奥を狙う理由は?」
一瞬遅れて走り始めた西宮先生が、すぐ左後方から追い上げながら質問してくる。
「今のところ、ヒル人間が出没しているのは一番手前の丸太だけです。単純に、今見えてるあのヒル人間から一番離れた丸太を狙うのがいいだろうってのと・・・
あいつら、俺らが丸太に近づくまでは反応しないんじゃないかと思って」
「でもそれって・・・結局、近づいたら奥の丸太からもヒル人間が出てきちゃうかも、ってことじゃない?」
右側を並走している美佳が、不安げな表情のまま視線のみをこちらへと送ってきた。
「そうだな。
・・・だから、『すれちがいざま』を狙う」
「『すれちがいざま』?」
「・・・立ち止まらず、走りながら灯油を浴びせるってことかい?」
「そうです。
・・・で、その後もう一回走っていって火をつける。
あいつら動き自体は緩慢だから、走りながらならまず捕まらないでしょう」
言いながら、俺はちょうど脇に差し掛かった最初の丸太をちらりと横目に見た。
『・・・ぃいきは・・・よい・よぃい・・・』
ヒル人間は既にその全身を覗かせきっており、丸太にもたれかかるかのようにその場に座り込みながら
上半身のみをぐるりと捻ってこちらを視線で――まあ、眼球などありはしないんだが――追ってきている。
『・・・かえ・・・・・・りは・・・・・・』
最初に近づいた方向から90度左側に回り込んだ角度で丸太を見ているわけだが・・・
・・・やはり、先ほど死角になっていた丸太の裏側には、何の仕掛けもないようだった。
「・・・なるほど。
しかし、そんな火の点け方でどこまで燃やせるものか・・・」
「そうですね。
・・・でも、とりあえず着火しないことには話にならない。
あわよくば、這い出てきたヒル人間たちも巻き添えにできるでしょう。
それで倒しきれるかはかなり怪しいけど・・・」
とは言え先生の懸念は最もで、ポリタンクの口から瞬間的に吐き出させることができる灯油の量なんてたかが知れている。
しかも、それをなるべく無駄撃ちせず正確に浴びせねばならない。
そもそも当初のプランでは、一度の点火では地中に埋没している部分までは焼き尽くせないだろうということで、じっくり何度も繰り返し点火し直すつもりだったのだ。
『・・・かぇ・れぬ・・・ながら・・・もぉおぉ・・・』
・・・しかし、言うまでもなくこの状況ではそんな悠長なことをしているヒマはない。
もうヒル人間は立ち上がってこちらに向き直ろうとしている。本格的な追跡が始まる前に――
「!!」
――その時。
ヒル人間の右脇――もっと正確に言うとヒル人間の右脇にある丸太の裏側から、そのヒル人間と全く同じ色合いをした細長いものが、音もなく伸びてきた。
『・・・とぉおぉ・・・りゃん・・・せぇえ・・・・・・』
その細長いものは、やはり丸太の上方へべしゃりと先端を叩きつけると、重力にひきずられた緩慢な動きで――
「・・・・・・」
「・・・そうだよな。
当然、一体だけなワケがないよな・・・」
――緩慢な動きで、丸太の裏側から、ぬっと本体――つまりは上半身を這い上がらせたのだ。
「二体目・・・!」
「・・・どうやら高加君の言うとおり、多少強引にでも焼き払うことを最優先した方が良さそうだな」
『・・・とぉ・・・りゃん・せぇえぇ・・・』
・・・最初の一体目が姿を現した時の光景を、そっくりそのまま再現したかのような二体目の出現だった。
「このままだと、おそらく三体目もすぐだな。いつ打ち止めになってくれるか・・・」
「いえ・・・先生。
もし、さっき一斉に消えたヒル人間たちがそっくりそのままこの切り株地帯の防衛に回っているとしたなら、
もうそんなレベルじゃなくなります。いくばくと経たない内に、この空間はヒル人間の大群で埋め尽くされるかも知れない」
「・・・やっぱり消えちゃったやつらって、全部ここらへんに潜んでるのかな?」
「たぶん、正確に言うとちょっと違うんだろうけどな。
でもその理解で問題ないと思う」
平行世界とヒル人間の状態の相関関係については、俺もろくすっぽ理解しきれていないため、美佳にいちいち説明することはしなかった。
なぜ、一見全く差がないように見える平行次元同士で、ヒル人間の数や位置、丸太の形状だけが変化していくのか、興味のようなものはあったが・・・。
おそらくは人智を超えた原理で、説明されて理解できるようなものではないんだろう。
あるいは、ヒル人間も丸太も本来は『異物』――逸脱した存在だから、そういうひずみのようなものが発生してしまうのかも知れない。
「・・・よし、今度こそ僕がやろう。
高加君、ライターを返してくれるか?」
西宮先生は左手でポリタンクを持ったまま、右手をこちらへと差し出す。
「え、でも・・・」
「君は手を怪我してるから手元が狂ってしまうかも知れないし、さすがに生徒ばかりを矢面には立たせられない。
なに、少し離れたところからこの灯油をかけるだけだ。なんの問題もな――」
ベコン。
「・・・」
「え?」
と。
先生の言葉を、突然『ベコン』という奇妙なノイズが遮った。
「な、なに?今のお――」
・・・直後。
ベコン。ベコン。ベコン。
「な・・・」
それを皮切りに、畳み掛けるように連続で響き始める謎の『音』。
「な、なんだこれ?今度はなんだ!?」
それはまるで、何かの合成樹脂・・・ビニール容器とかペットボトルをへこませた時のような音だった。
・・・同時に腕の先から伝わる、かすかな振動。
「うわあぁッ!?」
突然、すぐ隣を走っていた西宮先生が悲鳴を上げながらポリタンクを放り投げる。
ごとん、と地面に落ちて倒れ伏したそれは、なぜか形状が少しいびつになっているように見えた。
「先生・・・?
・・・!」
ベコン。ベコン。ベコン。
刹那。ぼんやりと理解した。音の正体を。
・・・そして、すぐさま持っているポリタンクへと視線を下ろす。
ベコン。ベコン。ベコン。
「・・・・・・ッ!!」
・・・ポリタンクの底が、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
いや、歪んで『いって』いた。
ベコン。ベコン。ベコン。
ポリタンクは底の辺りから上方へと駆け上がるかのように、へこみ、ゆがみ、ひしゃげて・・・そして、まるで内側から裏返るかのようにメリメリとねじくれていっていたのだ。
「・・・う・・・」
ベコン。ベコン。ベコン。
どういう負荷を加えたらこんな破壊が可能なのか、ポリタンクの表面がぐにゃりとある種の柔らかさを伴った質感でへこみ、
そのままグリュグリュとまるでクロワッサンの生地でも巻いていくかのように螺旋状にねじれ、萎縮していく。
・・・そのさまを呆然と見つめている内に、禍々しい破壊の波はポリタンクの半分以上を侵食しようとしていた。
「さっちゃん!はやくはなしてッ!!」
「高加君!巻き込まれるぞ!!」
ベコン。ベコン。ベコン。
「・・・・・・くっ!!」
二人が言い終わらないうちに、俺はポリタンクを叩きつけるように地面へと放り投げた。
先生が放り出したものよりもやや右後方に落ちたそれは『へこみ』の衝撃でびくん、びくんと生物のように脈動し、雑巾を絞るかのようにじょろじょろと灯油が漏れ始める。
「なんだこれは・・・何が起こったんだ・・・」
「・・・初めて見るぞ、こんな『破壊』・・・」
――いや。
自分で口に出してから、俺はすぐに今の自分の言葉が正しくないことに気づいた。
「・・・これ、ひょっとして・・・」
そう。
二度目だったのだ。
メリメリとめくれ返るかのような、いびつな破壊。
内側へ内側へとねじれ、萎縮していく全容。
この禍々しい変形を目の当たりにするのは、二度目だった。
・・・いや正確には、変形『していく』さまを見るのは初めてだったが。
ベコン。ベコン。ベコン。
ポリタンクはなおも変形していく。
灯油はどんどん地面に漏れ出ていっていたが、俺たちはただ見守っていることしかできなかった。
ベコン、ベコン・・・。
・・・数秒後、脈動がようやく終わりを告げた。
「・・・・・・・・・・・・」
俺も美佳も先生も、言葉を失っていた。
ポリタンクの変わり果てた姿に。
ほんの少し前までポリタンクだったはずのそれは、もはや原型を留めていなかった。
アメ細工のようにグリュグリュにねじくれきって、細長くて、いびつで・・・
・・・合成樹脂でできた、青色の、巨大な『ヒル』がそこにはいた。
ちょうど、図書室で窓から放り投げた、あのシャープペンシルの芯入れのように。
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