弥生 二〇一五年 春
私は毎朝、電車で通学している。
通っているのは、青葉区桂台の自宅から結構離れたところにある、偏差値が『上の下』ぐらいの私立高校だ。
悠太ほどではないが、私も中学校での成績はそこそこ良かった。だから、もっと自宅近くにある高校も選べたけれど、私はあえてここを選んで受験して、合格した。
この学校を選んだ理由――それは「同じ中学から入学する連中が少なかった」からだ。
中学時代(私としては実に不本意なことに)校内で発生する様々な揉め事に関与してしまい、いろいろな武勇伝を残してしまった。その「中学時代のあれやこれや」を、高校の人間関係にまで引きずりたくなかった私としては、ここで断固として過去を断ち切る必要があったのだ。
この学校には、そのためにうってつけの環境が揃っていたのである。
特に、この高校には空手部がなかった。昔はあったらしいが、十年ほど前に生徒が不祥事を起こして廃部となり、今では当時のことを知る先生も残ってはいないという。この点がよかった。
さすがに空手経験者には、私の面は割れている。
私は、私の過去を知らない人々の中で、念願の『普通少女』デビューを果たす。これでやっと『武闘少女』の看板を隠蔽(いんぺい)することができた。
汗臭くない、体格も華奢で、性格も控えめな、ごく普通の一般人にしか見えない、女の子の友達も出来た。
休み時間に急に呼び出しを受けることもなく、日々が平穏に流れてゆく。
実に心地よい。
明るく楽しい平和な学園生活よ、こんにちわ。
ついでに高校では、空手とは無関係な平和な文化部に入りたかったのだが、この点は『帰宅部』で妥協せざるをえなかった。悠太とのことがあって「自由に動ける時間がほしかった」こともある。
しかし、主たる理由は「祖父が関与していた空手道場のほうで忙しかった」ためである。
*
その空手道場は他の道場一般と比べて、女の子が入門してくる数が格段に多かった。
原因はインターネットだ。
誰かは知らないが、どこかの馬鹿者が「試合中の私の姿」を動画サイトにアップしたらしく、それが発端となっている。「らしく」というのは、現時点では元となった動画が削除されているためである。私の周辺には『馬鹿者の正体を掴んだ連中が、ご挨拶に伺って半殺しの目にあわせてきた』という不穏な噂が流れていたが、私自身は全く関知していないので真偽のほどは分からない。
そして、私が関知していたら、半殺しで済んだかどうかが分からない。
ともかく、その動画の残滓がいまだにネットの海を漂流していて、ネットサーフィンをしている少女たちに偶然拾われて――瞳を輝かせた少女たちが、空手道場にもかかわらず集まってしまうのだ。
昔から私は、何故か下級生の女子に非常にもてる傾向にあった。バレンタインデーには、下級生により水面下で分刻みのスケジュールが、事前に決められていたほどである。
どうして「瞳を輝かせた青少年たち」が集まらないのか、これも私にはよく分からない。極めて不本意なことに、瞳の濁った青少年たちがデジタル・カメラを握りしめて待ち伏せしていることは、よくあった。
(彼らは速やかに私の周辺から排除されていたが)
さて、入門後の若い女の子たちを指導する役目は、ほぼ私の担当するところとなっている。
妙齢の叔母様方は何人かいる。しかし、若い世代の女性で、後進の指導ができるほどの腕前の者はいない。男性指導者は皆、尻込みした。寸止めに失敗しようものなら「一生の」補償問題となるからだ。
結果、平日の半分は道場に立ち寄らざるをえないことになる。その日も指導日だった。
「いつ見てもすげえなあ」
上島正雄(うえしままさお)は、すっかり口癖になってしまった台詞を吐いた。
「どこかの劇団の練習風景みたいだ。他の道場じゃ有り得ないぞ、こんな光景は」
目の前には、五歳から十五歳までの年齢がまちまちな女の子が、十人ばかり並んで型の練習をしていた。
「私はこの道場しか知らないから、他のことはよく分からないよ」
「大会行ったら男しかいないだろ。あれが標準なんだって」
「ふうん」
「本当にすげえなあ」
上島はにやにやしながら女の子たちを眺めている。
その姿だけ見ていると女好きの軟派な高校生だが、実際はかなり修練を積んだ実力もある技巧派である。私と同じく高校一年生なのに、身長は既に百八十センチもあり、外見からして「巌の如し」だった。
そして、彼が「悠太と同じ中学校出身の同級生」である。
「その後、城島の姿は見たか?」
彼は何気なく聞いてきた。
「全然。多分、完全に避けられている」
「そうか。俺のほうでも昔の友達関係や、今のやつの同級生関係を当たってみたけど、どうやら全滅みたいだ」
「――ということは、悠太はすべての人間関係を避けているということ?」
「そう、そういうこと」
「むむむ」
私は眉を潜める。私だけではなかったのだ。
上島は隣でうんうん唸っている弥生を、横目で見ていた。
(まったく、外から丸見えだって……)
上島は弥生に気づかれないように、静かに鼻から息を抜く。
彼が最初に弥生から城島のことを聞かれた時、弥生自身は「最近、元気がなさそうだから気になって」とその理由を語っていた。
しかし、もうその時点ですべては明らかである。
普段の彼女には見られない歯切れの悪さと戸惑いの表情。女の気持ちにはさほど敏感ではない上島でさえ、誤解のしようがない。
(間違いなく、弥生は城島に惚れている)
本人がそれを自覚していないほうが、上島には不思議だった。
弥生は自分がどれほど人気者なのか分かっていない。
練習や試合の時に邪魔になるからと言って、常に肩より上までしか伸ばそうとしない真っ直ぐで癖のない黒髪。
小さめの頭にバランスよく配された、よく動く大きな瞳に、ときおりアヒルの嘴(くちばし)のようになる口。
身長は百六十センチと小柄だったが、その分、敏捷に動くすらりとした手足。
物おじはしないけれども、礼儀を失することもない言葉遣いに、細やかな気配り。それでいてさっぱりとした性格。
空手の技は同年代の中でも一つ上だったが、それを決して自分の武器として使うことはない。
人助けも、どうしても仕方のない時以外は武力行使を極力避ける。
そして、ときおり驚くほどに「無防備でか弱い」姿を見せる。
容姿および性格その他を含め、彼女は理想的な『女の子』だった。
道場内外には、弥生のためならばどんなことでもやる、という男が結構いる。
そして、弥生に何かしようとする者がいたら、身を挺して阻止する者も結構いる。
上島もその一人であり、城島繋がりで縁ができて、こうやって傍(かたわら)に立っていられるようになっただけでも嬉しかった。
また、上島から見ても城島は気持ちの良いやつだった。
城島も中学校の中ではかなりの人気者であったが、それを鼻にかけるような素振りを見かけたことは一度もない。
それどころか、普段は帰国子女ということもあり積極的で外交的なのだが、こと自分の話となると急に控えめになる。
弥生から相談を受ける前には、弥生と城島が幼なじみであることを上島は知っていた。
なので、折にふれて上島は城島に弥生のことを聞いていたが、弥生との関係になると城島は急に照れて挙動不審になる。
これも端から見ていて非常に分かりやすいサインである。
(城島も弥生のことが好きに違いない)
頭が良くて積極的だが自分のことには控えめな城島と、明るくさっぱりとした気性で気配りのできる弥生とは、とてもお似合いだと上島は考えていた。
したがって、上島自身は弥生に対する思いはあるものの、それは別物として二人を見守っていたのである。
それが最近、なんだか城島の方の樣子がおかしかった。
それは弥生に相談される以前から上島も気づいていたことである。
上島は弥生に話していないことがあった。
つい三日前、上島は城島に会っていた。
しかも、青葉台駅前から少し離れた喫茶店に連れ込んで、二人だけで話をしていたのである。
城島はとても疲れたような表情をしていた。上島が最近の樣子を聞こうとしても、断片的な返事しか帰ってこない。
これがあの「クラスの人気者で、愛想と頭が良く、積極的な」城島なのかと、上島はその変化に驚愕した。
それで、言わないつもりのことをつい言ってしまう。
「弥生がお前のことをすげえ心配しているぞ」
その時だけ、城島の方がぴくりと反応したことを上島は見逃さなかった。
唇が震えて言葉を探している。両手を忙しく絡み合わせていることからも、内面に吹き荒れている風の強さが推し量られる。
しかし結局、城島の口からは、
「迷惑だ、と伝えてくれ」
という短くて投げやりな言葉しか出てこなかった。
上島にはそれが城島の本音とはとても思えなかったし、弥生にも話すつもりはない。
ただ、城島がどういう理由かは知らないが弥生を自分から遠ざけようとしていることは理解できた。
俯いた城島の暗い瞳を睨みつけながら、上島は腹を決めた。
(お前がそうやって弥生を苦しめ続けるのならば、俺はお前を許さない。お前から弥生を守るために、俺は何でもすることになる)
上島はテーブルの下で、白くなるほどに両の拳を握る。
(だから早く目を覚ませ、城島――)
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