駿 二〇一五年 春
高校に進学した駿は、初日に剣道部への入部届を提出した。
正確には「剣道部の顧問が入部届を持って一年生の教室に急に現れたので、その場で必要事項を記入して手渡した」のだが、それほど駿がその高校に入学したことに関係者は喜んでいた。
しかし、駿自身はそのことに全く無頓着である。
剣道は、やっていて楽しいし、自分の気性にもあっていると彼は思っていた。また、綾川翠(あやかわみどり)との接点という意味から、夜も自宅で熱心に練習に励んではいた。
しかし、彼は「剣道が自分の世界のすべて」とは考えていない。
剣道の強豪校として有名な私立高校から『スポーツ推薦』の話があった時も、部活動中心の生活に縛られることを嫌って辞退し、自宅から自転車で通学可能な範囲の公立高校をわざわざ受験したほどである。
これには、中学の剣道部顧問から盛大な溜息をつかれたものの、
「まあ、樋渡だからしゃあないなぁ」
と、最後には苦笑された。
はたして、褒められたのか貶されたのか、駿は未だに分からなかった。
ところで、剣道の試合における駿の対戦姿勢は、極めて特徴的である。
同じ年代の『青少年剣士』たちは、闘争心を剥き出しにして力技で攻めてくることが多かった。従って、中学生の剣道大会は大半が『軍鶏の喧嘩』とそう変わりがない試合だったが、駿だけは違っていた。
彼は序盤、相手の攻撃を自在に躱(かわ)し続ける。そして、中盤以降に疲れてきた相手の隙を見つけては、そこを叩く。所謂(いわゆる)『待ち』の姿勢に徹していた。
それが、彼の大らかな性格には大層似合っていたのであろう。『待ちの樋渡』という評判は、大阪府内の剣道関係者に広く知れ渡っており、彼の実力も同世代の中では抜きん出ていて、中学三年生の頃は府大会では「負けなし」であった。
全国大会はさすがにレベルが異なり、化け物のような持久力を持つ者が相手であったり、似たようなスタイルの相手との睨みあいになることもある。そうなると、なかなか上位進出は難しかったが、それでもその飄々とした姿勢は、見る者が見れば非常に将来有望な素質と映る。
実際、審査員の中には、試合終了後にわざわざ彼の名前を確認しにくる者がいるほどであった。
*
さて、高校での生活が順調に滑り出し、部活動のほうも思ったほど大変ではないことを知ると、駿の関心はどうしても幼馴染の翠の様子のほうに向かう。
中学卒業後一か月ほど経過しても、駿は翠に会えなかった。
彼女の家族にたまに道ですれ違うと、笑って挨拶してくれるので、どうやら家族ぐるみで避けられている訳ではないらしい。しかし、翠には会えなかった。
朝、翠は大阪市内の私立高校に向かうから、そこで待ち伏せしていれば確実に顔を見ることはできるのだが、駿のほうは剣道部の早朝練習があるので、その時間よりも早く家を出なければならない。となると、夜帰ってくるほうを待つことになるが、こちらはこちらで翠が何時に帰ってくるのか全然分からない。
というより、翠は駿が見ていない時間にしか帰ってこない。
夕食の時間であったり、入浴の時間であったり、さすがに庭で素振りをするのが近所迷惑な時間であったり、わざわざそんな隙間ばかりを狙って翠が帰宅しているような気がする。その、なんだか「ストーカーから逃げる被害者」のような避けられ方に、駿は若干落ち込みはしたものの、元来大らかな性格であるから、
「向こうが直接対決を避けるんやったら、こっちも搦(から)め手からいこか」
と、開き直って別な手段をとることにする。
彼は、二宮和美(にのみやかずみ)に連絡を取ることにした。
二宮和美は、駿が知っている中で、翠と一番仲の良い女友達である。
駿と和美も同じ小学校から同じ中学校へと通っており、家がさほど離れている訳ではないことは知っていたが、あまり接点がなかった。それに、和美に会う時には翠が必ずいたので、駿は翠とのセットで和美を認識していることが多かった。
中学校で同じクラスになったことはなかったから、最近は直接話をしたこともない。
しかし、他の有効な手段は思いつかなかったので、中学校の卒業名簿に載っていた和美の自宅の固定電話に電話をかける。すると、最初に和美の親父らしき男性が出て「うちの娘とどないな関係や」とうるさく聞かれて閉口した。
和美が途中で気づいたらしい。何だか受話器の向こう側から大きな声のやり取りが聞こえてきて、最終的に親父から電話を奪った和美が出た。
「樋渡君から電話なんて珍しいやん。何? 愛の告白やったら、もっと遅い時間にしとき」
「あほ、ちゃうわ。ちょっと綾川のことで二宮に教えてほしいことがあるねん」
「ふうん、翠ちゃんのことかいな。そか、そか……」
微妙な間が開いた後、和美はまた明るい声に戻って言った。
「ええけど、それは高いで」
*
土曜日の午後三時、二人は内環状線沿いのファミレスで待ち合わせをした。
先に店に着いたのは駿である。店員に通された席で、彼はアイスコーヒーを注文した。その注文の品が届く前に、二宮は現れた。
「樋渡君、久し振りやね」
「おう、二宮。元気かいな」
「元気、元気。もう絶好調」
そう言うと、和美は駿の前に座った。
和美は根が明るく、気性が爽やかで面倒見がよい。基本的にいつも笑顔で、駿は彼女が眉を顰(しか)めているところを見た記憶がなかった。
全体的に「ふくよかではあるが、太っているほどではない」容姿を含め、『古き良きお母さん』タイプである。ただ、長い髪を左右に振り分けて、それを複雑な形に編み込んでいるところは、年齢相応だった。
中学校で翠に会う時には、かなり高い確率で和美が隣にいた。だから、駿も顔は当然知っていたのだが、翠と口をきかなくなってから和美とも疎遠になっていた。それに制服以外の姿を見る機会は、それこそ偶然街中で会った時ぐらいである。
目の前の和美は、昔と印象が随分変わって見えた。
「二宮、なんや高校行ったら感じ変わってへん?」
と、駿が正直に話すと、和美は嬉しそうに笑う。
「なんやそれ、可愛くなったって遠まわしに言ってるん?」
「ちゃうわ。でもまあ、正直いい感じやと思うわ」
「樋渡君は男の子なのに素直やからええなあ。うちの弟にならへん?」
「無理、同じ年やん」
最近、翠のことで重い気分になることが多かったせいだろうか、目の前でころころと笑う和美を見ていると、駿は心が和んだ。
「なんか頼んだ?」
「アイスコーヒー、自分の分だけやけど。ああ、今日は俺のおごりやから、好きなの頼んで」
「そうなん、じゃあ同じのにするわ」
和美は店員を呼ぶと、追加のアイスコーヒーを注文した。
「で、翠のことを聞きたいって言うとったやん。どんな話すればいいのん?」
「そうやなあ、近頃綾川に会ったことあるか?」
「近頃やと、そうやね――中学卒業してから会ってないかも。お別れの会が最後かな」
「ありゃ、二宮でもそんなもんか」
「そんなもんて、あんたら幼馴染やから、しょっちゅう顔あわせてるのんと違うの?」
「それがなあ――」
駿は隠し事を好まない。また、和美を呼び出した手前、隠す訳にはいかない。
最近の翠の素行を、駿は包み隠さず和美に話した。
一所懸命に話す駿の話を聞きながら、和美は頭の片隅で別なことを考えていた。
(あかんなあ、二人ともまったく無防備やん)
本当に「よく似た二人」だと思う。お互いにお互いのことを考えすぎて気を遣っているので、周りで見ていて歯がゆくて仕方がない。
駿は最近「翠から避けられている」と感じているらしい。そして、それは中学三年生のどこかの時点で始まっているような気がする、と言っている。
しかし、それは間違いなのだ。
少なくとも、中学卒業の時点で、翠は決して駿のことを嫌ってはいない。
なぜなら、和美は見たからだ。
中学校を卒業する前に、仲の良い数人で集まって『最後のお別れ』をした時のことである。
無論、最後になるとは誰も思っていなかったが、最後に「そういう気分」で締めたいということはある。
喫茶店で四時間近く話をして「さあ会計」となった時、翠が割り勘の計算をするためにスマホを取り出した。ちらりと待ち受け画面が和美の視界に入る。
小学校卒業時点の駿の顔がそこにあった。
和美の胸の奥のほうをちくりと小さな針が刺す。
もうすっかり慣れてしまった痛みであったはずなのに、その時は「中学卒業」ということもあり、余計に響いた。涙が自然に溢れだして止まらなくなる。
それを見た友達が「別れを惜しんでいるのだ」と誤解して、貰い泣きを始めたので不自然ではなくなったが、もちろん理由は違う。
卒業して、駿になかなか会えなくなることが辛かったのだ。
和美はずいぶん前から駿のことが好きであった。
翠と仲が良くなったのも、元はといえば駿の存在があったからである。しかし、翠の性格をよく知るにつれて、和美は次第に翠を裏切れなくなっていった。彼女がどれぐらい駿のことを考えているか、和美にはよく分かったからだ。
小学校卒業から中学校の間、翠はそれ以前と比べて、塞ぎこんだり、暗い顔をして考えこんでいることが多くなったが、それも駿との関係に基づいている。
理由は詳しく聞けなかったが――
翠は今「自分が駿には似合わなくなった」と考えている。
駿の話を聞き終えると、和美は大きく息を吐いた。
今の話は、和美にとっては絶好の機会である。
ここで、
「そうやね。なんだか最近、翠が樋渡のことを避けているんやないかと私も気づいとった」
と、話を別な方向に誘導する。そして、落胆した彼を慰め、励ます。そして引き続き相談にのると約束する。
そうすれば、これからも駿に会えるようになるし、いずれは自分のほうに関心を向けさせることができるかもしれない。
駿はあまりにも優しすぎて、他の人を悪く考えることができない。翠もそうだ。
(ただの知り合いに会うために、わざわざ時間をかけて髪を複雑に編む女の子なんかおらへんことぐらい、分からんかなあ)
それが駿のよいところでもある。とても愛おしいぐらいに。
和美は両掌を組んだ。
汗ばんでいるのが分かり、それで覚悟が決まる。
「そうやね――」
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