事件 二〇一二年 秋
二〇一二年、秋風が吹き荒ぶ日の午前三時。
宿直待機中に警電で叩き起こされた埼玉県警本部三郷警察署刑事課の警部と巡査部長は、旧型のクラウン車内に仏頂面を並べて事件現場に向かっていた。
最近定期点検から戻ってきたばかりの覆面車輛は、エアコンがとても元気だった。
それ自体は(逆の場合が非常に多い警察車輛としては)喜ばしいものの、温度の微調整ができない旧タイプなので車内が無意味に温まる。そのため、時折窓を開けて調整をしなければならないのだが、その日は寒波が埼玉県上空で猛威を振るっており、窓を開けると瞬時に車内の温度は急降下した。
何度か温め直しを繰り返した後、鬱陶しくなって締め切ったままの車内温度は、先程から我慢大会のような様相を呈していた。
前日までの張り込みにより、車内には煙草の匂いが、灰皿には吸殻が充満している。
署の総務課から「市民の目を意識して、車内清掃に遺漏なきよう」という回覧が回っていたけれど、車も人も酷使されている現状では、とてもそんな余裕はなかった。
今日は宿直で、明日の朝からは非番の予定だった。しかし、この調子では現場の状況確認と報告書の作成で、明日の午前中まで忙殺されるだろう。
あと五年で定年退職を迎える警部は現場叩き上げの質実剛健な独身男性であるが、運転している巡査は未だ既婚者という夢を捨てきれない三十代前半である。彼は先ほどからずっと愚痴を垂れ流していた。
「ヤマさん、あの団地何とかならないんでしょうかね」
「ならねえな。おっと、ヤス。対向車に気ぃつけろよ。覆面で当てちゃあ、笑い話に使われるぞ」
「すんません。にしても、ひと月の呼び出しの三割ぐらいは団地が発信源じゃないですか。あれがなかったらどんなに楽なことか」
「そしたら、人員減らされて仕事の量は変わんねえよ」
「そりゃあ、そうですねえ。と、そろそろ現場に着きますよ」
ヤマさんと呼ばれた初老の警部は、前方に見えてきた団地群を目を細めて眺めた。
黒いシルエットの中に、ところどころに明かりが灯っている。その一角、汚れの浮き出た団地の壁面に、先着車輛の回転灯の赤が反射していた。光源になっている白と黒に塗り分けられた車輛には『埼玉県警』の文字がある。
黄色いテープが貼られた区域の手前に旧型クラウンを駐車すると、二人は車外に出た。
折から団地の合間を縫うように冷たい風が吹き抜けてゆく。二人はコートの前を慌てて閉めた。
「所轄の担当が殿様出勤かよ。あとで署長(おやじ)にドヤされんぞ」
顔見知りの鑑識がにやにや笑いながら大声でからかってくる。右手の一振りで挨拶すると、ヤマさんとヤスは現場である団地の五階まで向かった。
途中の歩道には、さすがに未明ということもあって野次馬の姿は少なかったが、大事件の発生に近隣の棟を含め一帯の家々から明かりが漏れており、人影が揺らめいていた。ヤスはその様子を一瞥して、鼻を鳴らす。
エレベーターのない現場建屋は、担当交番の記録簿によれば三階以下の八割と四階以上の二割にしか住民はいない。現場は人気のない六階の、空家になってからかなり時間が経過している三LDKの物件だった。
格安を求める層は二DK以下にしか住まない。三LDKに住もうと考える者は、ここには来ない。二DK二戸をぶち抜いて広めに改造したことが裏目に出て、このタイプの物件はどこも『空き』ステータスに長期滞留している。そこを狙っての犯行であった。
息を切らして急な階段を登り切る。
同じことを何度も繰り返しているのだが、決して煙草を止めたくならないから不思議だ。
鑑識の連中が蜜蜂のように出入りしているところに身体を割り込ませて、土足のままで奥まで通る。犯行現場は南向きのリビング(と辛うじて呼べそうな部屋)で、そこには――
無造作に、黒いビニール製の袋が置かれていた。
洋画に出てくる死体袋によく似ている。それともわざわざ現物を輸入したのだろうか。
中を見なくても、外側のラインが内容物を明白に物語っている。
「百六十センチ後半の男性ってところですかね」
「そんなところだろう」
「それじゃあ、御開帳と行きますか」
凶悪事件の現場であればあるほど、刑事二人の口は軽くなる。それは、現場を覆う目に見えない『悪意』を拭い去るための、『無駄な努力』の賜物だ。
ヤスは手袋を嵌めると、わざわざ手袋用に作られたとしか思えないごついファスナーを引いた。
「え……」
と、百戦錬磨の殺人事件担当刑事が絶句する。
どれどれ、と横から覗き込んだ定年間近の老兵も、あまりのことに声が出せない。
それほど、中にある『もの』は尋常な状態ではなかった。
恐らく、かなりの回数に亘って念入りに蹴ったり叩いたりされたのだろう。
体表面の殆どがどす黒く変色しており、白いところを見つけるほうが難しい。
さらに、袋を揺すってみた感触での判断だが、皮膚の下の骨格の主要部分はすべて折れるか外れるかしているようだ。袋に縦方向の振動を加えると、遺体(ボディ)は嫌な感じで横揺れする。皮膚が破れて漏れ出した血液やその他の混合液が、防水性の高い袋の内部に留まっていた。
口だったと思われる部分のみ、念入りにビニールテープと包帯らしきもので縛られており、その他の服はすべてはぎ取られている。お陰で、外観を見ただけで男性であることが何とか判別できた。
「有り難いことですね。かき回さなくて済んだ」
「まあな」
軽口が重くなる。
「声が出ないように口を念入りに塞いでから、袋に詰め込んで密閉。そのまま外から蹴りまくるか、叩きまくる、と――どうしてここまでやったんですかね」
「さあな」
「ここまでの執拗さは、よほどの恨みがあったか、さもなければ狂気ですよ」
「そうだな」
短い言葉で応じつつ、初老の警部は昔のことを思い出していた。
教祖の暴走に引きずられた信者集団が、組織内の裏切り者と断定した者を執拗にリンチした事件――それと精神構造がよく似ているような気がする。
(が、しかし、ここまで念入りで執拗なことは『狂気』ではできない)
彼は眉間の皺を深くして、こう断定した。
(この事件の犯人は極めて冷静だ――)
まだ単数形にすべきか複数形にすべきか、判断はつかない。
*
その後の調べで、被害者は団地に住む四十代男性サラリーマンであることが判明した。
男性は発見される二週間前、会社から帰宅する途中で失踪したものと見られている。
会社にも出社していないことを知った家族から、失踪届が出されていた。(家に帰らないこと自体は、過去に何度かあったらしい)
袋に残されていた靴跡から、犯行は複数名によるものと判断された。わざわざ履き替えての単独犯――この線は最初から想定されていなかったが、変質狂的(パラノイアック)な鑑識課員がいて、靴の大きさや跡の残り方にもバラつきがあるので、それは考えなくてもよいだろうと結論付けられた。
生命保険には入っていたが極めて常識的な金額であり、「ヤバい筋と関係を持って保険金絡みのトラブルに巻き込まれた」可能性はないと判断されたため、支払い手続きは速やかに行われた。
遺体発見後、体調を崩した母親に代わって、葬儀は娘と親類縁者、会社関係者によって速やかに行われており、その際、所轄の担当として出席した初老の警部は、後日こんなことを言っていたという。
「喪主を務めた娘さんだけどよ。ありゃあ別に悲しんではいなかったな――」
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