駿 二〇一五年 春

 二〇一五年の三月も終わりに近い頃、夜の七時半。


 樋渡駿(ひわたししゅん)は、大阪市平野区にある自宅の前で自転車から降りると、いつもの通りに隣の家の二階を見上げた。

(もう帰ってきてるんや)

 綾川翠(あやかわみどり)も、今日は中学の同級生とお別れ会をすることになっていたはずだ。

 駿も翠も、この春に中学を卒業して高校に進学する。そこで、駿は中学の剣道部で同学年だった数人と、全国チェーンの焼き肉食べ放題店で肉をたらふく食うことにした。

 さすがに酒は飲めないが、雰囲気には飲まれやすい『中学生以上高校生未満』である。店では馬鹿な話で散々盛り上がり、最後には店長からしこたま注意されて平謝りした。

 帰り間際も「たまにはこの面子で集まろうや」と約束したりと、忙しく遊んでから帰ってきたので結構遅くなったが、女の子はそんなこともないのだろうか。

 駿も翠も家から近い公立校を幼稚園から中学校まで経由していたので、これまではずっと一緒だったが、さすがに高校になると隣に住む幼馴染と同じ学校に進学するというのは、なかなかあることではない。

 高校は中学までと違い、地理的な分類から学力別の分類へと移行することになるからだ。

 しかも、翠は中学の中だけではなく県下の、そして全国の同年代の中でもトップの成績である。

 既に中学進学の段階で、

「私立か教育大附属を目指せばいいのに」

 と言われていたのだが、その時は何故か翠が強硬に拒んだらしい。

 しかし、さすがに高校は大阪市内の超有名私立高を選択して、当然のように合格していた。

 どちらかといえば部活動に専念していた駿としては、最初から白旗を上げざるをえない。それでも、上の下ぐらいの高校に無事収まることができたのは、幼馴染の薫陶によるところが大きかった。

 翠はガキの頃からわけがわからないほど頭が良かった。

 同じことを同じように聞いているのに、駿はすぐに忘れてしまったが、翠はいつまでも鮮やかに覚えている。

 トランプの神経衰弱をさせようものなら、めくられたカードの配置は当然のこと、二順目になるとめくられていないカードであっても数字と絵柄を的中させることがある。カード一枚一枚の汚れ具合や曲り癖まで記憶してしまうからだ。

 本も一字一句頭の中に残っているらしい。

「どうして、そないなことできるんや?」

 と聞いたことがある。翠はにっこりと笑ってこう答えた。

「頭の中に棚があってなあ、そこに順番を決めて綺麗に整理して並べるんや。ほしたらいっつでも好きな時に取り出せるやん」

「そんなん、俺はできへん」

「駿ちゃん、整理するの苦手やもんね」

「ホンマになあ、部屋を片付ける身になってほしいわ。あれは魔窟や。どこぞに迷い込んで遭難しそうや」

「おかん、大げさすぎるわ」

 駿がむくれて言うと、母親と翠は楽しそうに笑った。

(あれはまだ小学生の頃のことだろうか)

 駿はぼんやりと考えながら、自転車を押して自宅の門から中に入る。

 と同時に、玄関から凄い勢いで母親の樋渡智美(ひわたしさとみ)が飛び出してきた。

(やば、帰りが遅いから怒っとる)

 駿は身構える。

 ところが智美は自転車の鍵を開錠しながら、

「ええとこ帰ってきたわ、留守お願い」

 と言った。

「血相変えてどないしたん」

「ちょっと玉手行ってくるわ。今、慶子ちゃんからメールで、一円品切れの代わりがプリンやて。駿、なんかないもんあるか?」

 智美は早口で捲し立てる。

 この『玉手』というのは、激安を売りにした大阪では有名なスーパーで、千円以上買うと目玉商品が一個一円で買える。さらに、広告で謳っていた一円の目玉商品が途中でなくなると、他の商品を一円に切り替えることがあって、智美はその切り替え後の商品を狙っているのだ。

「あらへん。ついでに変なもん買うてくんなや」

「わかっとる、わかっとる――」

 智美は、傘を『さすべえ』のパチもんに固定したままの自転車に乗り込むやいなや、走り出した。

 ちなみに『さすべえ』というのは、雨の日に傘を手で持って片手運転しなくてもよいように、傘そのものを自転車に固定する便利グッズのことである。風に煽られた時に危険だということで、販売が中止されたはずだったが、関西のおばちゃんへの普及率は高く、いまだに使われていた。

 駿は智美の後ろ姿を唖然として見送る。

 あの勢いでは、智美はあと一時間は帰ってこない。

 玉手で、豆腐や納豆などの激安な定番品と精肉を買って、一円プリンを確保した時点で午後八時になる。

 ちょうどその時間に、喜連瓜破駅前のショッピングセンターの野菜見切り品半額セールが始まるから、それを眺めつつ切れかけの調味料をPB品で買い足す。

 次に、そのすぐ裏にある八百屋で、閉店間際の最後の値切り。

 とどめに、交差点方面にある関西系スーパー『ライブ』で、やはり半額になる惣菜を品定めしてから、帰ってくることになるだろう。

 関西のおばちゃんは、動き出すまでは縦のものを横にすることすら嫌がるが、一度動いてしまうと弾みがつく。そして、商品毎に安い店が決まっているので、一回の買い物で最低でも三つは店をハシゴする。

(ああ、明日の昼も残りもんの半額惣菜かいな)

 駿はため息をつくと、ふと隣の家のほうをちらりと眺めた。

 

 翠の部屋のカーテンがわずかに揺れていた。

 

 智美と駿のやりとりが気になって外を覗き見たのだろうか。

(おかん、大声やからな。せやけど覗くくらいやったら声もかければいいやん)

 と、駿は少しだけ口を尖らせた。

 小学生の頃の翠であれば確実にそうしていたはずだ。

(最近は全然話もせんなあ。顔も見んし)

 面と向かって話をしなくなってからどれぐらいたつのか、駿には分からなかった。

 翠は小学校高学年の頃から、全国展開しているアルファベットを名前につけた有名進学塾に通っていたので、学校への行きの時間は一緒だったが、帰りの時間は違っていた。

 翠は塾でもやはり他の追随を許さない独走ぶりで、全国の成績上位者しか参加できない合宿形式の勉強会でも常連だった。それゆえ、塾の講師からもなにかと目をかけられるらしく、帰る時間も遅めになることが多かった。

 生活時間が異なることで、話す機会が減ったのだろうか。

(いや、そんなことはあらへん)

 小学校までの行きの通学路では、他愛もない話をしながら仲よく通っていたはずだ。小学校低学年で剣道を始めた駿が、庭で竹刀の素振りをしていると、塾から帰ってきた翠が二階の窓から顔を出して、やはり他愛もない話をすることが多々あった。

 実は駿は、それがなによりも楽しみで毎日竹刀を振っていたのである。府の中学生剣道大会で上位入賞者の常連になれたのは、その副産物でしかない。

 では、中学に入る前ぐらいだろうか。

(いや、それも違うわ)

 いつから、と言われると正確な日付は覚えていないのだが、二○一一年には既に、翠の様子はおかしかった。


 *


 駿が二〇一一年と断言できるのには理由がある。その年の三月、日本では忘れることのできない事件が発生した。

 東日本大震災である。

 関西人はその前に阪神淡路大震災を経験していたから、単に大地震だという点だけでは驚かない。むしろ、発生直後は正直、

(またこれで阪神淡路大震災の時はどうのと言われるのかいな、いちいち鬱陶しいわ)

 と感じる人間もいたのではないかと思う。

 ところが、東日本大震災には、阪神淡路大震災とは違っている点があった。

 原子力発電所からの放射能漏れ事故はもちろんだが、午後十四時十六分十八秒という日中に起こった巨大地震は、津波という大災害をさらに引き起こし、それが人々の活動時間中ということもあって克明に映像で残されていった。

 阪神淡路大震災の、早朝の街並みが燃えさかっている映像もかなりショッキングだったが、東北地方沿岸部の町が津波に押し流される映像が、ほぼリアルタイムで流されるところを見る、という同時性はこれまでなかった。

 日本国内で大量の人間が、今この時間に大量の人が命を失っている。

 その感覚に駿が呆然としていると、一緒にテレビを見ていた翠がぽつんと言った。

「こないな風にみんな流されてしまえば――」

「あぁ?」

 翠に似合わない不適切発言に、駿は思わず視線を尖らせて翠のほうを見た。

 すると、彼女の顔面は蒼白になっていた。

「あ、あ、あ――」

 口から断片的な音が漏れ出していた。

 両手が震えて止まらないのを、身体全体を抱きしめることで抑えようとするが上手くいっていない。むしろ、体全体にその震えが伝わるように、足までが小刻みに震えはじめた。

「なっ、翠、大丈夫かいな! おかん、翠が変や!」

 尋常ではない様子に駿は慌てた。

 母親が出てきて翠を抱きかかえ、彼女の家まで運んだことはうっすらと覚えているが、その後のことは覚えていない。

 ただ、はっきりと覚えていることが一つある。

「流されてしまえば――」

 と口走った翠の口調は、決して軽々しい嘲りではなかった。

 むしろ、とても深刻な『羨望』の響きを含んでいた。

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