第一幕 酸とアルカリ

発端 二〇一二年 秋

 茶碗か何かが割れる音がした。


(――始まった)

 私は、頭まで布団を被り固く目を閉じる。

 しかし、二DKしかないこの家では、キッチンで大きな声をあげれば筒抜けである。布団の中まで音は簡単に侵入してきた。

「またぁ、って何だよぉ。またぁ、って」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「またぁ、で悪かったなぁ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、堪忍して」

 語尾の切れが悪いところから、お父さんはかなり酒を飲んでいるに違いない。

 そこに加えて、お母さんがまた何か失言をしたのだろう。

 今度は、肉と肉が激しくぶつかる音がした。高い音だから、お父さんがお母さんを平手打ちしたのだと分かる。

 拳ならもっと低い音だし、お母さんがお父さんに手を上げる訳がないからだ。それに、そんなことをしたら肉と肉の衝撃音だけでは済まなくなる。

(こんなことを冷静に考えている自分も、相当おかしくなっている気がする)

 私は既に、現実の出来事を自分の世界から切り離して、客観的に対応するという処世術を身につけていた。


 *


 埼玉県三郷市のJR駅前に、国内有数の巨大な公団住宅がある。

 建設されたのは一九七○年代。当初は団地の前に駅がなかったため、居住者は離れたところにある駅まで、バスで移動していた。

 一九八五年になって、操車場跡地を利用して新駅が開業した。

 当時は操車場跡地を挟む形で上下線が敷設されていたため、同じ駅構内だというのに上下線ホームが三百六十メートルも離れており、ギネスブックに「世界一ホームが離れた駅」として掲載されていたという。

 その後、一九九九年に上下線が統合されて利便性が増したが、さらにこの地の環境を激変させたのが、巨大商業施設の進出だった。

 二〇〇八年に北欧の家具メーカーが営業を開始し、二○○九年には国内資本のショッピングモールと、アメリカ資本のスーパーマーケットが進出する。

 そうなると、駅前の景色は一変した。

 多国籍な商業施設群の華やかさにつられるように、駅の周辺に首都圏通勤者の戸建住宅が次々と建てられていった。

 団地にも新規の入居者が見られるようになったが、それは新駅寄りの買い物に便利な地域に限られていた。

 団地の奥まったところは、駅まで徒歩で二十分以上かかる。さらに、エレベータもない築三十年以上の高層集合住宅が多く、三階以上の高層階は相変わらず空家が目立っていた。

 こんなところに住んでいるのは、昔からここに住んでいて、ここから出る力を持たない高齢者か、家賃負担を少しでも抑えたい事情がある者、さもなければ外国人ぐらいである。

 知らない人からは、

「あの駅の前に住んでるの? すごーい」

 と歓声を上げられるが、駅周辺の戸建居住者から見た団地住人は『未開の先住民か、あるいは別世界の生物』だった。

 戸建住民は自分たちのことを、戸建住宅を購入できる高所得者と考え、団地住民のことを、そこから出ることすらできない低所得者と見做していた。

 従って、同じ幼稚園に通っている場合でも、家族単位で見えない壁が設けられていた。

 大人の世界であれば、冷たい視線を浴びせられることはあっても、さすがに面と向かって言われることはないだろうが、子供の世界は残酷である。「団地の子」と呼ばれ、敬遠されることもあった。

 また、確かに何をして生計を維持しているのか見当もつかない団地住民も、多数存在した。

 平日昼間にジャージ姿で、団地の中を自転車でうろついている坊主頭の三十代男性には、危険な団体に所属している構成員だという噂があったし、中央部にある朽ちかけたショッピングモールの一角では、目の座った男たちが数人、何やら密談をしていることがあった。

 生活保護を受けている家庭も多かった。

 その中には「夫と離婚した母子家庭」ということで生活保護を受けつつ、実際には親の家に住民票を移しただけの夫と同居し続けていて、周囲の団地住民よりも贅沢な暮らしを満喫している家族が、複数あった。

 役所の生活調査がやってくる時だけ、夫は親の家に避難する。事前に律儀に訪問日時を連絡をする役所もどうかしているのだが、その目を掻い潜ることをゲームのように楽しんでいる当事者も当事者である。

 団地に住んでいるのは、偽装離婚が見破られないようにするための便宜的な手段であり、生活保護では乗ることを認められない自家用車、しかもミニバンの高級グレードを所有して普段はおおっぴらに乗り回していた。

 何よりも本人達が

「賢く立ち回れば貰えるものを貰って、何が悪い。やらないほうが馬鹿なのだ」

 と開き直っているので、余計にたちが悪い。

 それら、もろもろの澱みが積み重なって、駅前や戸建住宅が林立する地域の「西洋化された明るくファッショナブルな世界」と対比すると、団地内部は「東南アジアの都市はずれの暗くよどんだ猥雑な世界」に似ていなくもなかった。

 もちろん住民は、戦争経験者と出身者を除いて、東南アジアの都市部など見たこともない者が殆どだったが、団地の中と外で空気が違うことは全員が肌で感じて分かっていた。

 

 *


 庄司茉莉花(しょうじまりか)の両親、庄司正雄(しょうじまさお)と庄司明子(しょうじあきこ)が結婚したのは、一九九二年のことだった。

 いまだバブルの名残が残る時期に、二人は「若いから何とでもなるさ」と結婚したものの、バブルが弾けて社会全体が急激に萎むと、弱小メーカーの営業担当で器用でもなかった正雄は、保護された社会の外へと弾き飛ばされた。

 以降の不景気がさらに正雄の働き先の選択肢を狭めていく。無理に慣れない仕事に就いて失敗が重なると、性格的にも弱い正雄は居づらくなって職場を転々とした。そして、職場が変わるごとに支払われる報酬は下がり続けた。

 この団地に移ったのは一九九七年だった。築三十年を超えた団地の五階にある二DKは、設備の古さに目をつぶれば極めて格安で、当座のしのぎにはなったのだが、正雄の給与が下がり続けるため、次第に元の木阿弥へと戻っていく。

 そこに、巨大商業施設の進出と戸建住宅の建設が追い打ちをかけた。

 平日の夜間は家路を急ぐサラリーマンの姿が、休日は幸福そうな家族連れの姿が、正雄の神経を逆なでしていった。

(何故、自分はああいう姿になれなかった。自分のどこがいけないのだ)

 正雄はその憂さを晴らすために酒に飲み込まれていき、そしてとうとう、茉莉花が小学校の低学年の頃から、妻の明子への暴力が始まった。

 以降、七年が経過していることになる。

 当初は、月一回程度の口喧嘩と平手打ちぐらいだったが、次第にエスカレートして茉莉花が中学生になった頃には手だけでなく足も出るようになっていた。頻度も三日に一回ほどになり、明子は生傷が絶えなくなっていた。


 *


「俺は一所懸命やってるだろぉ。なぁんで憂さ晴らしに文句言われなきゃなんないんだよぉ」

 くぐもった鈍い音。お父さんが足元に蹲っているお母さんを蹴ったのだ。

「何で駄目なんだよぉ。言ってみろよぉ」

 お父さんは四十歳を超えているというのに、いまだにお金に対する考え方が甘い。お父さんが団地の途中で安直な居酒屋に入って、適度に憂さ晴らしをするためのお金ですら、今の家の家計にとっては贅沢なのだ、という事実が分かっていないのだ。

 鈍い音が続く。

 お母さんの呻く声が途切れ途切れに聞こえていた。

(ということは、もうそろそろ終わるころだろう)

 私は冷静にそう判断する。お父さんはまだ最低限の理性は残っているのか、お母さんに目立つ大きな痣が残るようなことは避けていた。

(いや――違うな)

 むしろ、周囲の人がこの状況に気が付いてくれたほうが良いのだ。

 両隣の部屋は随分前から空室が続いているから、外部からはこの暴力を止める何かはやってこない。そして、それが暴力の継続に繋がっているのだ。

 家庭内暴力は「外の世界に対して強く出る」ことも「積極的に挑戦する」ことも出来ない、さりとてお酒にもさほど強くないお父さんの、最終的なストレスの捌け口になっている。そして、それを受けるお母さんにとっても、実は「私が至らないから」という自己憐憫に浸るために必要な儀式でもある。

 お父さんもお母さんも実際はとても弱い人間で、お互いがお互いで依存しあっている。その二人が『現実の深刻な問題』から目をそらすための手段として、暴力を利用しているのだ。

 ストレス発散のために暴力を奮いながらも、それゆえ決定的な傷は避け続けるお父さんに、暴力を奮われながらも自己憐憫に閉じこもり、最終的な決断をせずにいるお母さん。

 二人でいることがお互いのためにならないことは分かり切っているのに、混じりあって反応してしまい、離れることすらできなくなった酸性とアルカリ性のようなものだ。

 そんな両親の関係を見ているのは、とても嫌だった。

 小学校の頃は、それでもまだ「母親がかわいそうだ」という意識も残ってはいたのだが、繰り返される暴力を告発しようとしないお母さんに、次第に苛立ちが募るようになる。

 業を煮やした私が、

「警察にいって助けを求めようよ」

 と提案した時、お母さんは、

「何てこと言うの、家族がバラバラになるでしょ!」

 と言って激しく怒った。既に崩壊しているにもかかわらず、である。

 ちょうど、その時期と同じタイミングで私の意識に「大改革」が起こったことも影響しているのだが、私は急に両親の関係が馬鹿馬鹿しくなって以降は考えることすら止めてしまった。


 茉莉花は、小学校低学年の頃から利発さを周囲からも認められていた。

 彼女自身も

「自分に残された最後の逃亡経路はそこにしかない」

 と思い定めて、勉強に打ち込んだ。

 家計に余裕がないことは百も承知だったので、図書館や学校の友達をフルに利用して参考書や問題集を確保し、勉強を続けた。そして、分不相応とは思っていたが、小学五年生になってからは無理を言って学習塾主催の模試を受けたりもした。自分の学力の正確な位置を確認しておきたかったからである。

 そして、それで分かったことがある。

(自分は同じ年齢の子供の中でもかなり成績優秀だ)

 という客観的な事実である。あまりにも優秀すぎて、学習塾から合宿研修の案内が届くほどだった。

 自分の位置付けが想像以上に高かったことで、弾みがつく。

 茉莉花は自分の逃亡先を確保するために、勉強し続けた。


 *


「つまんねぇ」

 息を切らしたお父さんの声が聞こえ、続いて外に出たらしいドアの音がした。近くの居酒屋で飲み直すつもりだろう。

 お母さんの啜り泣く声だけが残される。

(今日の分は終わったか)

 私は布団の中で安堵のため息をつく。

 家の中が「安定」とは言わないまでも「静か」であってくれれば、さらに自分の学力の伸ばしようもあるのだが、こう頻繁に暴力沙汰が起こっていては、落ち着いて夜遅くまで勉強することができない。むしろ、巻き込まれるのも嫌なので、茉莉花は早めに寝るようにしていた。

(先生の言う通りだ。両親は私のことなんて少しも考えていない)

 いくら成績が良くても、褒められたことはない。むしろ、

「どうせ上の学校になんてやれないから、高校入ったらバイトして家に金入れろ」

 とお父さんに言われる始末である。さすがに、学習塾が招待してくれた無料の研修には行かせてもらえたが、それも数日分の食費を浮かすことができるという意味しかもたない。両親は各々が「自分はかわいそうだ」という思いに囚われており、それ以外のことには全く興味がなくなっているようだった。

(先生の言う通りだ。そんなことでは負の連鎖は止まらない)

 負の連鎖を断ち切るには、力が必要だ。

 私には「頭が良い」という客観的な事実がある。

 客観的事実は、家庭の事情(貧困や家庭内暴力)とは関係ない私の力となる。

 客観的事実は、教師や同級生や世間を黙らせる私の武器となる。

 客観的事実は、私の未来を切り開くキップとなりうる。

 お父さんとお母さんは知らないが、私は既にその未来へ続く確実な航路に乗ることができていた。後は邪魔さえ入らなければなんとかなる。

 しかし、今のままでは高校に行けるかどうかすら怪しい。

 特にお父さんがいては駄目だ。お母さんは、大学卒業までならばなんとか私の役に立ってくれそうだが、お父さんは既にマイナス要因でしかない。

 これは客観的事実である。事実をそのまま受け入れた上で、どのように対処すべきか考えなければならない。


 ともかく、マイナス要因はどこかで断ち切らなければ。

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