032 少年はとっくに置いて行かれていた


「ごめんね、三人とも」


 夏希はそう言って曖昧に笑った。

 病室に入るや否や、少々やつれた顔の夏希がいて、思わず駆け寄っていた。

 そんな資格はないというのに。それは、隣のセレネがするべきことだった。


『夏希!』

「だいじょぶだよ、セレネ。……修二くん、黙っててごめん」


 ぞっとした。

 謝るのはこちらのほうだ。修二は、何も知らずに彼女を振り回していたのだ。


「いや……別状はないんだよな」

「うん、大丈夫だから。休んでればすぐ治るよ」


 そういう夏希は点滴を打たれて、疲れたようにベッドに背を預けている。

 髪を解いて病院着を着る夏希が妙に色っぽく見えて、修二はそんなことを思う自分を殴りつけたい思いだった。


「それで、その」


 聞くべきか否か判断がつかず、修二は意味もなく辺りを見回した。


「お父さん?」

「あぁ、いや、うん、そうなんだけど」

「今出張で京都にいるから、ちょっとね。さっき連絡は来たよ」

「そう、か。それで、お母さんは」

「いないよ」

「え」


 ちょうどいいから話そうか、と夏希は言った。修二のことなどおかまいなしに。

 修二が受け入れる体勢を整えるより早く、夏希は語りだした。

 夏希も、何かしていないと不安なのだろうか。


「何年前かな。私が小学生の頃……ほら、フライヤーの運行システムがハッキングされた事件、あったでしょ」


 七年前だ。修二もおぼろげに覚えている。

 その頃は公共交通機関としてのみ運用されていたフライヤーが、サイバーテロによってハッキング、そのままシステムダウンを起こし一斉に墜落。


「私と弟とお母さんがね、それに乗ってたんだ」


 修二はもう話の先を察していた。夏希の表情からどんどんと色が抜け落ちていくのを見て。

 もしそうなら、あまりに残酷ではないか。


「私のナノマシンがおかしいかもしれないって、検査に行った帰りでさ。ちょっと美味しい物食べようって話だったんだけど。フライヤーはビルに突っ込んで――私はこの通り、五体満足で……お母さんと真冬は、重体で。周りは火事で、隔壁は閉まっていて。胸は苦しくて……それで」


 決まっている。

 夏希は、選んでしまったのだ。


「私じゃ大人は背負うには重すぎた。だから、お母さんを見捨てた」


 淡々と語る彼女の顔があまりに平静としすぎていて、修二は心臓を掴まれたかのようだった。


「真冬を背負って、まず隔壁をハッキングした。やったことなかったけど、やらないと死ぬし。それで、どうにかビルから這い出して。――その日が最初。私が発作を起こした、最初の日」


 見ていられなくなって、修二はイスカの顔を見た。

 イスカは、やっぱり言葉なく修二に訴えた。


 逃げるおつもりですか。


 じゃあどうしろと言うんだ。呻きそうになるのを堪えた。

 それでも修二は椅子を引っ張ってきて、夏希のすぐ前に腰掛けた。


「それから、頻発するようになったんだ。私は結局元からおかしくって。それを押しとどめていた普通の部分が、ぽろっと壊れちゃった」


 それが彼女の体のことだけではないと、修二は分かってしまった。

 夏希は自分の両手を見つめている。


 夏希は頻繁に倒れるようになった。体育の時間、試合に熱中した時。テスト中、難しい問題に直面した時。

 発作のハードルはどんどん下がっていって、ついに物を覚えようとして発作を起こした日に、夏希は高校中退を決めた。


「分かってるんだよ。じっとしてるのが一番なんだ。こうして、一人で、ぽつんって。心を鎮めて、何も考えずに暮らすのが一番いいんだって。学校に行くとしたって、物静かな女の子として読書でもして過ごしてさ。運動もせず帰って。またじっと眠るのが」


 ――分かるかな。翼を持ったイカロスなんだよ――。

 夏希の言葉が反響して、その波の一つ一つが修二を打ち据えるようだった。


「でも、セレネと出会って、やっぱりダメだなって思ったの」

『夏希……』

「セレネは悪くないよ。感謝してる。その時まで、なんで生きてるのかも分からなかったから、私」


 ――出たいんだ。私を幽閉するこの塔から――。


「私は結局単純で、馬鹿なんだ。勝つか負けるかの世界でなら、私はずっと勝っていられる。勝つのが楽しいんだって気付いてしまった」


 ――蝋の翼を広げて、目一杯に羽ばたき続ける――。


「セレネが私を連れだそうとした。翼をくれた。私は、飛んだ」


 そして陽に近づいたイカロスは、その翼を失ってしまう。


「――楽しい! こんなに楽しいなんて! やればやるほど勝てる! 勝利が見えてくる! 確実になっていく――私は」


 海の深くへ……落ちていく。


「ばかだから。さいっこうにきもちよすぎて、逆らえないんだ」


 そんなことを、こんな笑顔で言わなければいけないのか、夏希は。

 修二は必死に口元を引き結んだ。。


 それが彼女の本能だというのなら、神様、俺は絶対貴方を許さない。

 彼女をこんな目に遭わせたことも、――俺と彼女を引きあわせたことも。


 修二は歯を食いしばった。叫びだしそうなのを必死に抑えていた。





 気が付くと、修二は廊下にへたり込んでいた。


 一度に色々なことがありすぎた。つい五日前、修二は完膚なきまでに叩きのめされ。それが気がついたら、病室で彼女の身上を聞かされている。

 聞かされて、何も言えないままだった。


 言えるわけがない。

 ありきたりの言葉しか思いつかないのに、苦しみの半分も共有できていないのに、そんな心ない言葉を出すことは……彼女たちを汚してしまう。


 気高く、美しく、愚かで――。

 彼女たちは、修二からずっと遠い所にいた。


「どうしてだろうな」


 イスカは黙ったまま、修二の隣に控えている。

 いつもそうだ。イスカは無言で、修二はその隣で滑稽に怠惰に平然と暮らしている。

 馬鹿の一つ覚えは、最悪なことに日々を浪費することだった。


 修二は自問自答する。イスカは自分から助けようとはしない。そして助けを求められることでもない。

 苦しい。けれど彼女の苦しみは分からない。

 痛い。痛くて苦しい。ただひたすらに苦しかった。

 残酷な現実の一欠片が修二の手のひらを傷つけて、血を流させた。触れようとしたせいで。


「……鷲崎修二さん、ですか? それにイスカさん」


 ふと顔を上げると、修二を覗きこむ誰かがいた。


「そうだけど、あんたは……あんたは……」

「失礼しました、夏希姉さんの弟で、雛森真冬といいます」


 ぺこりと一礼する彼に、彼の姿に、修二は驚愕した。


「あ、んた」


 アンドロイド特有の象の耳のような側頭部のアンテナを上下させて、彼は言った。

 擬似生体金属オーガンライクメタルに覆われた少年の体からは、ところどころ機械が顔を出していた。


「……姉さんから聞いてないんですね。いえ……こんなところに座らないで、椅子がありますからそちらに」

「あ、ああ」


 促されるままに、修二は椅子に腰掛けた。

 弟だと言いながら、怪我をしたと表現しながら、その弟がアンドロイドである理由なんて、そうあるものじゃない。

 重度の火傷で、粒子機械による再生も追いつかないほど損傷したというのなら。


人格転写手術リーンカーネイト……七年前じゃあギャンブルみたいな成功確率だったろ……」

「運がよかったんですよ、僕も、姉さんも」


 脳機能は未だブラックボックスを残しているものの、高度粒子機械と量子コンピュータ、シリコンメモリキューブ、知性演算結晶を合わせれば知性を維持できることはアンドロイドが証明していた。

 故に脳から記憶を抽出して、それを移し替えることが出来れば、理論上は人間に新たなボディを与えることが出来る。

 ――未だに、完全な実用化には至っていない技術だ。


「機体名称は、横須賀・TRANS・真冬といいます。……ありがとうございました。お二人のおかげで、姉さんは大事なかったと」

「俺は、そんな……何も、してないよ」

「隣にいてくださったんでしょう?」


 修二は横に首を振った。


「そのつもりだった……だけだ」


 その様子に何を感じたのか、真冬はうなだれる修二をしばらく眺めて、それから何も言わずに一礼して病室へと入っていった。


 ぷしゅっとドアが閉まる音を聞いて、どうしてだ、と修二は呻いた。


 修二は平和に暮らしてきた。逸脱のない家庭だった。

 父は軍に勤めるシリコノイド専門の外交官だけれど、母親は専業主婦だ。

 ホストファミリーだけれど、それは今時珍しい話ではない。平凡という言葉の振れ幅に十分収まる家庭だ。

 親に愛され、よき姉がいて、その中でただの高校生として暮らしている。


 では夏希は?


 生まれつきの重病で。早くに母親を失って。弟は肉体を失って。

 麻薬のように身を削りながら、勝利という快楽に縋っている。


「どうしてだよ」


 安っぽい苦悩が防音の廊下をこだまして、修二の耳を何度も刺した。

 それは修二だけを目指す呪詛だった。


「どうして……」

『理由が必要ですか、修二様』


 イスカはいつも通りに冷たく、修二を打ち据える。


『答えは……貴方が弱くて子供だからです』


 じわりとこみ上げた嘔吐感にむせた。

 ああ、その通りだ。所詮鷲崎修二は、どこにでも転がっている子供でしかない。


 この大気が、巡り巡って夏希と繋がっている。それさえ無情な、修二を殴りつけるような事実だった。

 修二は無力だ。無力で、弱くて、何も出来ない子供だった。

 そして卑屈で、くだらない、馬鹿な男だ。修二は両手を見つめた。


 ふと、触れた体の柔らかさを思い返す自分がいた。


 ――耐えられなくなって、修二は走りだした。

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