第42話 42 殺るか逃げるか

 何が起きているのか視認はできた晃だが、脳が見たものの理解を拒む。

 バールを手にした佳織は、無表情でその先端をクロの顔に突き立てていた。

 左眼に深々と突き立った釘抜きが、ひしゃげた目玉を視神経と一緒に抉り出す。

 次の一撃は鼻梁びりょうの左横に穴を穿うがち、そこに眼球の残骸を乱雑に埋め込んだ。

 クロの頭部は壁に叩き付けられ、その衝撃で空の眼窩がんかから血と脳が混ぜ合わされた半固体がドロッとこぼれ出る。


「なっ、かっ――かぁ」


 何やってんだよ佳織さん! と大声を出して止めようとする晃。

 しかし、上手く声が出せない。

 狂った情景が舌の動きを――というか、思考と行動の接続を阻害していた。

 優希は佳織と距離を置いて、壁にピタリと背をつけて眼を見開き、絶叫を抑えるように両手で口をおおっている。

 バールの持ち主だったダイスケは、クロの顔面開墾が行われている傍らで、呆然とその作業を眺めていた。

 佳織が散らした血や脳漿のうしょうを浴びながら、阿呆ヅラで口をパクパク開け閉めしている。


「いっ、いいから! もういい、もういいって!」


 佳織に駆け寄った晃は、振り上げられた右手を背後から掴む。

 血その他でヌメっていたのもあってか、佳織の手からバールがすり抜けて壁にぶつかり、床に転がって鈍い金属音を短く鳴らした。

 数テンポ遅れて振り向いた佳織は、唐突に不思議なものを突きつけられたような、気の抜けた顔で晃を見てくる。

 

「え……何?」

「いや何じゃなくて! もういいから! もう死んでる」

「うん……でもホラ、そういう問題じゃなくない?」


 妙にハキハキとした調子で、滑舌かつぜつよく答えてくる佳織。

 これはダメだ――晃は胃から腹にかけて疼痛とうつうを感じる。

 今日だけで何度も遭遇した『タガを外してしまった人』の姿に、更なる厄介事の予感は留まるところを知らない。

 晃は大声で喚き散らしたくなる気持ちを捻じ伏せ、この状況を作り出した戦犯と思しきダイスケの胸倉を掴んで問い質す。

 

「どうなってんだ? 何でバールを渡した?」

「え、あの、渡したっていうか、置いといたら勝手に――」

「アホかぁあああっ! そもそも、どうして止めねぇんだよ! 何してんだっ!」

「待って、聞いて! 晃くん」


 ダイスケを締め上げていると、優希にシャツを掴んで止められた。

 それで少し冷静さを取り戻した晃は、ダイスケから手を離して振り返る。


「あっという間のことで、私もダイスケくんも反応できなくて」

「つうかさ、何で目を離せるの。そんな難しいこと? ここってそんな広大な場所? 馬鹿なの? なぁ、馬鹿なのかお前ら?」


 八つ当たり気味な晃の詰問に、優希は僅かに怒気をひらめかせつつ応じる。

 

「あの男が喋り始めたら、急に佳織がバールを掴んで……何を言ってるのか、イマイチわかんなかったんだけど」

「そうか、こいつがまた……」


 センスのない現代アーティストが酔っ払って作ったオブジェみたいに成り果てたクロの死体を見遣り、それからボケッと突っ立っている佳織を見据える。

 慶太のことか佳織自身のことか、どちらにせよショックを与えて場の主導権を握るつもりだったクロが、匙加減を間違えた――といったところか。

 自分に向けられた憎悪の凄まじさを察知できなかった、との線もある。

 何にせよ、こうなってしまってはクロのことはどうでもいい。

 ここからどうするか、それを考えなければ。

 焦るばかりで浮き足立つ心をどうにか鎮めながら、晃は次の行動を検討する。

 

「なぁ、どうすんだよ、こん――」

「今、それを考えてる!」


 クソの役にも立たなかったくせに、賢しげに余計なことを口にするダイスケを一喝で黙らせる。

 クロからの情報収集は、失敗と言わざるを得ない。

 佳織は混乱状態こそ治まったようだが、虚脱状態なのでお荷物と化すのは避けられない雰囲気。

 慶太の安否については絶望的で、玲次はどこにいるのかわからない。

 そして霜山とリョウは、どこで何をしているのか不明。

 これが最大の問題なのだが、どうしたものかの対処法は思いつかない。


「どうするかは二択、だよね」

「は? 二択?」


 様々な選択肢を脳内で並べていた晃は、予想外な優希の発言に鸚鵡返しをしてしまう。


「大雑把に言うと、だけど。これから慶太さんと玲次くんを探すか、もう諦めて私らだけで逃げるか」

「あ……ああ、そうか。そう、なるのか」


 優希の指摘によって、混濁していた晃の思考がシンプルに整頓される。

 確かに、自分らの選ぶべき道は二つに一つだ。

 無線の音声が途切れたのと、さっきまでの騒々しさの合わせ技で、霜山達が異変に気付いた可能性も否めない。

 どちらにせよ、方針を早く決定して動き出さなければ。


「……罠を、仕掛ける」


 二十秒ほどの黙考を経て、晃はそう告げた。

 優希とダイスケからは、どういう意味かと問う目線が返ってくる。

 佳織は明後日の方を向いて、場の空気にそぐわない鼻歌をうたっている。

 こんな有様の佳織を連れて逃げるのも一苦労だしな、との言葉を飲み込みつつ晃は説明へと移った。


「希望的観測で動いて、それがハズれてたら目も当てられない。だからここからは、最悪のケースを想定しておこう」

「最悪、というと」

「こっちがクロをさらったのがバレてて、このフロアにいるのもバレてる。それで、連中が慶太と玲次を人質にして俺らを脅して、また拘束しようとするってトコだ」


 質問に答えると、ダイスケが不快そうに顔をしかめる。

 気持ちはわからないでもないが、そのくらいに危機的状況だというのはサッサと自覚してもらいたいので、どうしても晃の態度は冷淡になる。

 慶太はもう殺されていると知りつつ、佳織を刺激しないようにそのことを無視する――そんな欺瞞が、晃の神経をささくれ立たせているという事情もあった。


「あの二人が、慶太さんと玲次くんを連れてここに来るの」

「多分そうなるけど、それが確実になるように工作する。だから罠、だ」

「意図的におびき寄せる……となると無線機を使うのかな?」

「ああ、それだ」


 優希は話が早くて助かる。

 無線の存在に気付いてないフリで、こちらがクロの尋問を行っているのを伝える。

 それから、慶太と玲次が殺されているとクロから教えられた、という設定の芝居でもって、地下にいるであろう霜山とリョウへの復讐のために放火する、みたいな計画を語って聞かせる。

 そうすれば連中は先手を打とうと動き出すのではないか――というのが晃の考えだ。

 簡単にそんな流れと、その後で仕掛ける奇襲攻撃について語ると、ダイスケはシラケ面でもって訊いてくる。


「そんなに上手く――」

「行かせんだよ。他にアイデアがあるなら言え。ないなら黙れ」


 文句ばかりで使えないダイスケにウンザリしてきた晃は、キレ気味に吐き捨る。

 不安なのは皆が同じだっていうのに、何でワザワザお前を安心させるサービスを行わねばならんのだ、というイライラはもう隠しようがない。

 そういう機微に鈍いらしいダイスケは、一方的になじられたのが納得行かないと言いたげに、舌打ちをしてから濁った音の溜息を吐いた。


「よし。じゃあまずは俺と優希さんが、処置室に戻って連中に聞かせるための会話をしてくる。本気っぽくするために、最後は無線をブッ壊す感じで。その間、ダイスケは――」


 迎撃のための仕込みを指示してから晃は優希と共に処置室へと向かう。

 とりあえず、まだ誰かが周辺を歩き回っている気配はない。


「ねぇ……あいつらがもう、そこら辺に隠れてたら……どうする?」

「そりゃぁ、もう……どうしようもない」


 実はそれが最悪のパターンなのだが、言ってもしょうがないので伏せておいた可能性に言及され、晃は苦味たっぷりの苦笑を浮かべる。

 奇襲をするつもりが逆に奇襲を受けては話にならないが、実際問題としてそうなってしまう可能性は決して低くはない。


「連中は完全に雑魚を相手に遊んでるつもり、だろう。そこで反撃されたとなると、警戒するよりも先に、ナメた真似をされたことへの意趣返し、って意識が先行するんじゃないかと思う。だからこそ、そこに隙ができる。そこを狙って、全力の一撃をカマす」

「うん……そうだね」


 晃の言葉に、優希も同意してくる。

 やや都合の良すぎる作戦だとは理解しているが、何かしらの隙を作れることを想定しておかないと、あの二人には――特にリョウには勝てるヴィジョンが浮かばない。

 そのまま何事もなく処置室の前へと辿り着き、晃は血と尿の臭いが充満した部屋の扉をスライドさせた。

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