十五 急転

『──このたび、若菜の君が婿君をお迎えすることになりました。

 前のお文で書いたわね、式部大丞さまが最近よくおいでになること。本当にほぼ毎日、こちらにいらっしゃってお話相手を務めてくださってたの。若菜の君もお義母かあさまも、ずいぶんと慰められたことでしょう。

 先日、若菜の君ももうすっかり元気を取り戻したので、内々で祝いの席を持つことになり、殿が大丞さまもお招きしたのよ。ところが、おいでにならなかったの。どうしたものかと思っていたら、お義父とうさまが白状なさったのよ、大丞さまが若菜の君に求婚*なさって、そのお返事をお待ちだからいらっしゃらないのだって。本当に驚きました──』



 妹からの文の続きを思いつめた瞳でそこまで読んで、結子は訝しげに首を傾げた。よく分からない。しばらく眉間を寄せて考え込み、それからもう一度、読み直してみる。

 式部大丞 とおるが若菜の君の婿君になる、と──結子の目がおかしくなったのでなければ、その文には間違いなくそう書かれてあった。

 結子は混乱した頭を整理できず、幾度か瞬きを繰り返した。はずみでまなじりに溜まった涙が零れ、袖にぽとりと落ちる。じわりじわりときぬに滲みていく涙と同じように、任子とうこの文にあるその言葉の意味が、結子の心にじわりと広がっていく。

 若菜の君が、あの亨と? 朗らかで快活な若菜の君が、憂いに沈み書ばかり読んでいる亨を選んだと? あれほど無邪気に憧れを抱いていた頭中将ではなく──雅嗣ではなく!

 結子は、大きく息をして思わず胸を押さえた。何をどう考えていいのかすら分からぬまま、文を読み進める。



『──どうりで、大丞さまがしょっちゅう邸にいらしてたわけね。でも、皆とても喜んでいます。

 殿は、頭中将さまが若菜の君のお相手だと信じていたから、中将さまのお気持ちを心配なさってるけれど、わたくしはそんなわけがないと思っていたの。やっぱりわたくしが正しかったのだわ。もうひとつ、殿は、大丞さまがお姉さまに懸想しているとも思っていたそうです。本当に、殿のお考えには呆れてしまいます。

 いずれにせよ、よい日取りを選んで、近いうちに大丞さまをお迎えすることになりそうです。また、詳しいことが決まったらお知らせするわね』



 結子は、静かに文から視線を上げた。

 若菜の君と雅嗣との間にいったい何があったのか、結子には皆目見当もつかなかったし、右衛門佐の妹姫を喪ったのちの亨の気持ちがどこにあったかなど、結子のあずかり知らぬところだった。

 ただ、雅嗣が若菜の君を妻に娶らぬのだという現実を理解した瞬間、結子の中にある苦しみ、恐れ、哀しみ、そのようなものに支配されたこわばりがほどけて、全身から力が抜けた。先ほどのものとはまったく異質の吐息が溢れ出て、崩れ落ちるように床に手をつく。笑いにも似た嗚咽がこみ上がり、結子はかすかに笑って……それから泣いた。

 ひとしきり静かな涙を流したのち、ふと思い出して壺*に咲く梔子くちなしを見た。月の光に淡く浮かび上がる一重の花は苦い思い出の気配を脱ぎ去り、結子の瞳に清かな美しさを映す。


「……茅野かやの


 思い立って結子が呼ぶと、半ば閉じられた襖の向こうから小さく返事する声が聞こえて、茅野がにじり寄ってきた。結子の僅かに後ろで頭を下げた茅野に、結子は囁く。


「あそこに咲いている梔子を、摘んできてくれないかしら」


 それを聞いた茅野は、案ずるような視線を向けた。


「でも姫さま、梔子は……」


 お嫌なのではないのですか? と、結子の過去を知る茅野は戸惑う。つい今しがたの涙も知るゆえに。


「いいのよ」


 穏やかに答える主人を不安そうに見遣ってから茅野は退がっていき、結子は静かに月の光を浴びる壺を見た。

 やがて届けられた、小さな盆に載せられた梔子を、結子はそっと手に取り顔に近づける。かぐわしい香りを胸いっぱいに吸い込んで、結子はほっと息をついた。まだ、どこかで信じられぬ己がいる。それでも、雅嗣の面影を忘れられぬことで感じていた罪悪感から、少しだけ解放されたような気がした。




「中将!」


 内裏から退出する道すがら、聞き慣れた友の声がして、雅嗣は足を止め振り向いた。夏の陽射し照りつける午の刻*の頃、眩しい光に思わず目を細める。


「戻ってきていたのか。いつ?」


 落ち着いた笑みを浮かべてやって来たのは、右衛門佐うえもんのすけ 頼彬よりあきだ。友の顔を見た瞬間、雅嗣は言い尽くせぬ思いに駆られて複雑な笑みを浮かべる。後ろに付き従う小舎人童ことねりわらわ*に車を呼ぶよう申し付けると、頼彬に向き直って言った。


「昨日、戻ってきたよ。もうじき女御さまもお戻りになられるし、若宮さまの五十日いかいわい*もある、そうそう姿をくらませている訳にもいかぬからね」

「兄君……律師りっしさまはご息災でいらしたか?」


 雅嗣は何度か頷いた。


「兄上の姿を見ていると、改めていろいろと考えさせられた」

「……そうか」


 小さく頷いてじっと見てくる頼彬に、雅嗣はうつむき、何か躊躇ためらうようにしばらく黙り込んだあと、おもむろに視線を上げた。


「文も届いたよ。正直に言うと、あの文を読んでこちらに戻ることを決めた」

「そうか」

「ありがとう。思うところもあっただろうに、伝えてくれたことを感謝している」

「そうだな。……複雑な気分ではある。あいつを想ったまま逝った妹のことを思うと不憫で」


 頼彬は少し寂しげに笑った。


「だが、おまえには吉報だっただろう? 違うか?」


 そう言いながら頼彬は雅嗣の肩を抱き、その顔を覗き込んでくる。


「あの時はもう、ひどく追い詰められたような顔をしていたからな」

「……すまぬ、本当に」

「まあ、またゆっくり話そう」


 笑みを浮かべてぽんぽんと雅嗣の肩を叩き、それから慌ただしく去って行った頼彬の背を見送ったあとも、雅嗣はしばらくその場に思案げに佇んだ。

 嵯峨にある寺に滞在していた雅嗣の許に一昨日、頼彬からの文が届けられた。そこには、紀伊守の妹姫である若菜の君の回復具合とともに、彼女と式部大丞 亨との婚儀が決まったことが書かれてあった。

 予想外に急転した事態に雅嗣は絶句し、しばらく呆けたように座り込んだ。その後冷静さを取り戻すにつれ、雅嗣はいいようのない感謝と安堵に、大声で叫びたい気分にもなった。逃げるように兄のいる嵯峨に来てから、およそ半月が経っていた。

 若菜の君があのようなことになって、頭がおかしくなるかと思うほどに落ち込み悩んでいた、ひと月ほど前。

 意思の強いひとにという雅嗣の言葉をはき違え、忠告を聞き入れぬ強情さで危険を顧みなかった若菜の君の行動が、雅嗣に自分だけを見て欲しいと願う彼女の想いゆえと気づいた時、猛烈な反省とともに毎夜紀伊守の邸に通い詰めた。ただ、若菜の君が覚醒することを願って。

 その様子を端から見ていた頼彬が、ある時、雅嗣に言ったのだ。


「それで? おまえは若菜の君が回復したなら、彼女をにするのだろう?」

「え……?」


 驚いて問い返した雅嗣に、頼彬の方がもっと驚いた。


「違うのか? もう、心を決めたものとばかり……」

「まさか。わたしはまだ……」


 慌てて否定した雅嗣に、頼彬はずいと顔を寄せた。


「まだ? おまえはともかく、向こうはすっかりそのつもりだと思うぞ? 姫のお父上も、紀伊守どのもね」


 顔から血の気が引いて、背に嫌なものが流れるのを感じた。あの姉妹の姫君と親しくなり過ぎればどのような結果が待ち受けているか、それは姉の佳子よしこのはしゃぎようからも頭では理解していた。そういう相手として見ようと努力もしたつもりだ。でも、心はついてこなかった。それに、今は何より若菜の君の回復が先だと考えていた。

 顔色を失い、口を噤んだ雅嗣に、頼彬は幾分同情を滲ませた視線を向けた。


「まあ、な。そういうことが得手ではないおまえの気持ちも、分からんでもない。正直、あの姫君とおまえがうまくいくとは思えん」

「……」

「大方、自棄やけでも起こして近づいたのだろう? 何があったかは知らんが」


 知らぬと言いながらもすべて把握できているかのような表情で、頼彬は腕を組んで考え込んだ。


「少し、距離を置いた方がいいかもしれんな」

「距離?」

「そう、互いに冷静になれるだけの。どこか、身を隠せる場所は?」


 雅嗣はしばらくじっと考え、嵯峨の、と呟いた。


「嵯峨の、兄のいる寺に……」

「おお、そこで少し籠って反省してこい」


 ちょうど若宮の産養うぶやしない*もつつがなく済み、少しの間なら宮中を留守にしても許される時期だった。そうして雅嗣は頼彬に促されて都を離れ、紀伊守の邸から離れた──

 車の用意ができたと呼びに来た小舎人童に頷き、待賢門たいけんもんに向かう。控える従者の康清やすきよに二条堀川へと伝えて乗り込むと、ほどなくしてしじ*が外される気配があり、やがて車はゆるゆると動き出した。


「二条堀川……内大臣さまのお邸で?」


 車の外から従者の康清の声が聞こえ、ああ、と短く返事をすると、雅嗣は目を閉じる。

 逃げたのかもしれない。それでも、そうするより他なかった。若菜の君のためにも、己のためにも。

 池に落ちた若菜の君を見て、無我夢中で水に飛び込んだ、あの時。それはまるで、落ちた童を助けるのと同じ感覚だった。彼女を抱いて釣殿つりどのに上がった時にも、その点では至って冷静だった。己の心を占めていたのはただ、純粋に彼女の容体への心配だけで、それは決して、生死の境目にいる愛おしいひとへの物狂おしさ、などではなかった。

 これは断じて恋ではないと、雅嗣はその時、気づいてしまったのだ。

 にも関わらず、頼彬に、若菜の君を妻とするのかと尋ねられ、ようやく己で己の首を絞めたことに気づいた。紀伊守の邸の人々の好意に甘え、その場限りの楽しさに身を任せた雅嗣の行動が、結果的には若菜の君の気持ちを煽り、あのような事故を起こさせ、婿に迎え入れるという期待を持たせてしまったのだ。

 これは、若菜の君を妻として受け入れることは無理だと分かった時点で身を引かなかった、雅嗣の失態だ。当然責任を負わねばならないだろう、若菜の君を妻として迎える、という形で。

 そう考えた瞬間、逃げ場のない闇に追い詰められたような、救いようのない気分に陥った。情けない男だ、と雅嗣は自嘲する。

 二十六になる今まで、何もなかったとは言わない。だが今回は、そのようなかりそめのえにしを結ぶのとはわけが違う。妻として受け入れねばならぬのだ、若菜の君を。それはしかし、どれほど考えても現実感を伴わぬままだった。

 車が大きく揺れて停まった。二条堀川に着いたのだろう。雅嗣は目を開き、崩した背を伸ばす。牛が外されて搨が置かれると、やがて簾が上げられ、美しい邸の車宿くるまやどりが見えた。

 あの時、ずぶ濡れのぶざまな格好で若菜の君を抱えた己の前に現れたのは、この邸に所縁ゆかりひとだった。

 再会して以来初めて、何も隔てるものがないままに相見あいまみえた彼女は、八年前と何ひとつ変わっていなかった。その姿も、己に向けられた瞳も、澄んだ声も、その真摯で思いやり溢れた優しさまでも。

 雅嗣は打ちのめされた。くだらぬ自尊心に囚われ、恨み続けた己の愚かさに。手に入れそびれた存在の大きさに。何より彼女を見た瞬間、己の心がどこにあるのかを、否が応でも気づかされたことに。

 雅嗣の腕の中には、決して受け入れられぬと気づいたばかりの別の女人がいる。すべては手遅れだと感じ、その喪失感に怯え、呆然となった──

 二条堀川邸の廊を通って東の対に向かう。あの桜は、青々とした葉に覆われて枝を揺らしていた。楽しげな姉と義兄 内大臣の声が聞こえてくる。


「来客でも?」


 先導する女房に尋ねると、ちらと後ろに視線を投げつつ、歩を休めずに答えを返してきた。


「式部卿宮の御妹君、宮の方さまが……」


 その名に、雅嗣ははっと視線を上げる。義兄の有恒の声が途切れ途切れに聞こえてきた。


「──右衛門佐からの文で知らされたと書いてあったな。まあとにかく、中将の妻探しはまた一からに戻ったわけだ」

「本当に……突然都を離れたりして、最近の弟はいったい何を考えているのやら、困ったものですわ……あら?」


 実際のところあまり困った様子もなく、扇の陰でほほほ、と笑っていた佳子が、雅嗣の姿に気づいて言葉を切った。御簾で仕切られた簀子すのこに腰を下ろし、一度じっと御簾のうちを見据えてから、小さく頭を下げる。


「戻って参りました、姉上」

「ちょうど貴方のお話をしていたところよ」

「聞こえておりました」


 御簾の向こうに、ほかの二人の女君の気配があった。雅嗣の視線が僅かに揺れた。


「今日は、宮の方さまがおみえになっているのですよ。それから……中の君も。こたびの女御さまの御為の宴について、ご相談をね」


 そう言って佳子が扇で指したその先には、あの日以来、雅嗣の心からその面影が消えてくれぬひとがいた。



──────────


求婚

この時代の結婚は、公達が見初めた姫君に忍んでいき……というイメージが強いですが、実際は姫君の背後に父母や兄弟がいて、言い寄ってくる男を吟味し、選り分け、文を返す相手まで選んでいたといわれます。当然、結婚に際しても、まず男が求婚の文(表向きは姫君宛だが実際は親宛)を送って許可を得、きちんと日取りを決めた上で、衾覆ふすまおおい露顕ところあらわしなど結婚の儀式を執り行いました。


寝殿と渡殿、対屋に囲まれた小さな庭のこと。四季折々の草花などが植えられ、時には遣水が流れていました。内裏の殿舎のうち、飛香舎ひぎょうしゃを『藤壺』、凝華舎ぎょうかしゃを『梅壺』などと呼ぶのは、その殿舎の壺に藤や梅が植えられていたからです。


午の刻

現在の午後0時頃。


小舎人童

近衛府の大将・中将が召し使った、少年の従者。


五十日の祝

子が生まれて五十日目の祝い。当時は赤ちゃんが無事育つ確率は今ほど高くなかったため、五十日目、百日目を無事に迎えられたと祝ったのです。


産養

子どもが生まれると、生まれた当日の夜、三日目の夜、五日目の夜、七日目の夜、九日目の夜に誕生の祝いが行われました。それぞれに主催者が異なり、祖父や外祖父が日毎に分担しました。七日目の祝いは特に盛大に行われ、身分の高い者(皇子皇女の場合、帝など)が主催しました。


牛車に乗り降りする時の、四つ脚の踏み台。

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