説得
夕月 櫻
第一章
序 予感
Jane Austen, Persuasion (1818)
ジェイン・オースティン 『説得』より着想を得て……
──────────
「悪いお話ではないと思うのですよ、わたくしは」
「お父君はあのようなお方ですもの。お貸しするお相手が
ええ、と
「今はもう、三の姫もいらっしゃらないのですもの、こんなに大きな二条堀川邸よりも、
ええ、そうでございますね、と、結子はまたうわの空で答える。
「
北の方、という言葉を聞いて、結子は頷くことをやめた。
そう、内大臣の北の方さまは右大臣家のご出身であられたはず。ならば──
「……どうかなさったの?」
「中の君?」
「いえ……いいえ、何でもありませんわ。お心遣い感謝いたします、宮の方さま」
「そう? ご様子が変よ、中の君」
逸子は結子にいざり寄った。ざわりと
この、宮の方 逸子という女は、ごく若い時分に夫に先立たれて以来独り身を貫いている女性で、結子の母の良き友人だった。二人は文を遣り取りし、季節の挨拶を取り交わし、時には花を愛でる内々の集いなどを楽しむ仲であり、そして、九年前に結子が母を亡くしたのちには、その母代わりとして、何くれとなく面倒を見てくれているのだった。
結子は逸子を嫌いではなかった。少なくとも、実の父親や姉妹たちよりはよほど信頼していたし、心許してもいた。あの決定的な点以外は。
「いいえ、本当に大丈夫です」
結子は、心配げに握ってきた逸子の手を優しく握り返す。
本当は逸子も、結子の瞳が曇った理由に気づいているはずだ。その上で、そのような感情的問題には触れまいとする逸子の心配りに感謝すべきだ、と結子は思おうとした。
現実的に考えても、亡き母から伝わったこの愛すべき邸を人手に渡すのであれば、内大臣家以上の相手はないであろう。
「して、内大臣さまをご紹介くださるのは?」
「
ああ……あの、と結子は内心思った。東宮亮の一の姫君は結子の姉
ここだけの話ですけれどね、と逸子は扇で口元を隠しながら言った。
「
そして、逸子はちらりと目くばせした。
「あなたのお父君には、もう亮どのがすっかりお話なさって、まあ、渋々でしょうけれどご納得なされたご様子。家を移るとなると貴女も色々大変でしょうけれど、わたくしもお手伝いしますからね」
「ありがとうございます、宮の方さま」
結子が頭を下げると、逸子はさらと衣擦れの音を立てて立ち上がった。
「さ、そろそろ行かなければ。……また参りますわね。ご機嫌よう、中の君」
逸子は、まるで母親がするように結子の頬にそっと触れて微笑むと、静かに出て行った。
残された結子は几帳の陰でほ、と息をつく。
この邸を内大臣家にお貸しする。内大臣家の北の方──あの方の姉君さま。
「──あの方が、ここに来られるかもしれぬということ……?」
結子はひとり、呟いた。
あれからもう、八年が経つ。
結子は小さな
長い年月の過ぎる間に、文も結わえた糸も少し色褪せてしまったけれど、わたくしの気持ちは色褪せぬまま──いいえ、想いはもっともっと色濃くなるばかり。
お母さまの喪が明けた春の日、八年前のあの時。邸を彩る美しい花の色と同じくらい、十七だったわたくしもきっと、輝いていたに違いない──
結子は思わず、ぎゅっと目を瞑った。
──────────
*葛野
現在の京都、桂のあたり。
──はじめまして、
どうぞよろしくお願いいたします。
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