説得

夕月 櫻

第一章

序 予感

Jane Austen, Persuasion (1818)

ジェイン・オースティン 『説得』より着想を得て……


──────────



「悪いお話ではないと思うのですよ、わたくしは」


 式部卿宮しきぶきょうのみやの妹宮であるそのひとは、扇をひらひらさせながら言った。


「お父君はあのようなお方ですもの。お貸しするお相手が内大臣ないだいじんけ家とあらば、なんら文句はないはずでしょう?」


 ええ、と結子ゆうこは答えた。

 権大納言ごんだいなごんを務める結子の父 藤原義照よしてるの祖父は、さき太政大臣だじょうだいじんだった。家柄だけならどこにも引けを取らぬものであるはずだったが、残念ながら彼が持ち合わせた才能は、その家柄への執着と、己の美しい面立ちへの矜恃だけだったらしい。家柄と美男で知られたがゆえに、都で評判の、彼にはもったいないほどの聡明な北の方を得たものの、その彼女が世を去って家計を采配するするものがなくなると、徐々に家は傾き、今や借金まである身となっていた。そして今、結子たちが住まう、母が受け継いだ二条堀川邸をやむなく人に貸し、借金を返していかねば、という話になっているのだった。


「今はもう、三の姫もいらっしゃらないのですもの、こんなに大きな二条堀川邸よりも、葛野かずらの*のやしきに移られた方が何かとご都合もよろしいと思うのよ」


 ええ、そうでございますね、と、結子はまたうわの空で答える。


内大臣うちのおとどはなかなかの好人物と聞きますよ。北の方も詩歌しいかに秀で、ご趣味に長けた麗人であられるとか……この美しい邸を、そのような方々にお任せできるのならば幸せよ、中の君」


 北の方、という言葉を聞いて、結子は頷くことをやめた。

 そう、内大臣の北の方さまは右大臣家のご出身であられたはず。ならば──


「……どうかなさったの?」


 逸子いつこははたと扇を持つ手を止め、黙り込んだ結子の顔を覗き見た。若い娘の顔は心なしか青ざめ、瞳が暗い影を落としている。


「中の君?」

「いえ……いいえ、何でもありませんわ。お心遣い感謝いたします、宮の方さま」

「そう? ご様子が変よ、中の君」


 逸子は結子にいざり寄った。ざわりときぬが鳴る。

 この、宮の方 逸子という女は、ごく若い時分に夫に先立たれて以来独り身を貫いている女性で、結子の母の良き友人だった。二人は文を遣り取りし、季節の挨拶を取り交わし、時には花を愛でる内々の集いなどを楽しむ仲であり、そして、九年前に結子が母を亡くしたのちには、その母代わりとして、何くれとなく面倒を見てくれているのだった。

 結子は逸子を嫌いではなかった。少なくとも、実の父親や姉妹たちよりはよほど信頼していたし、心許してもいた。決定的な点以外は。


「いいえ、本当に大丈夫です」


 結子は、心配げに握ってきた逸子の手を優しく握り返す。

 本当は逸子も、結子の瞳が曇った理由に気づいているはずだ。その上で、そのような感情的問題には触れまいとする逸子の心配りに感謝すべきだ、と結子は思おうとした。

 現実的に考えても、亡き母から伝わったこの愛すべき邸を人手に渡すのであれば、内大臣家以上の相手はないであろう。


「して、内大臣さまをご紹介くださるのは?」

東宮亮とうぐうのすけ、源延実のぶざねどのですよ」


 ああ……あの、と結子は内心思った。東宮亮の一の姫君は結子の姉 晴子せいこの友人で、最近、何があったか北の方として収まっていたはずの老右大将の許から、二人の子どもたちを連れて戻ったと聞いていた。そしてこの頃はよく、晴子を訪ねてここ二条堀川邸に来ているらしい。

 ここだけの話ですけれどね、と逸子は扇で口元を隠しながら言った。


すけの姫君──右大将の北の方がしょっちゅうこちらにいらしていることは、わたくしも知っています。何をお考えか分からないけれど、あの方とは少し距離を置いた方がいいと思うのよ。だから、お父君と大姫に葛野にお移りいただくのは、本当に好都合」


 そして、逸子はちらりと目くばせした。


「あなたのお父君には、もう亮どのがすっかりお話なさって、まあ、渋々でしょうけれどご納得なされたご様子。家を移るとなると貴女も色々大変でしょうけれど、わたくしもお手伝いしますからね」

「ありがとうございます、宮の方さま」


 結子が頭を下げると、逸子はさらと衣擦れの音を立てて立ち上がった。


「さ、そろそろ行かなければ。……また参りますわね。ご機嫌よう、中の君」


 逸子は、まるで母親がするように結子の頬にそっと触れて微笑むと、静かに出て行った。

 残された結子は几帳の陰でほ、と息をつく。

 この邸を内大臣家にお貸しする。内大臣家の北の方──あの方の姉君さま。


「──あの方が、ここに来られるかもしれぬということ……?」


 結子はひとり、呟いた。




 あれからもう、八年が経つ。

 結子は小さな唐櫃からびつの中から文箱ふばこを取り出し、そっと蓋を開けた。中には、どうしても燃やすことのできなかった、数え切れないふみの束。結子は愛おしげにその束を撫でる。

 長い年月の過ぎる間に、文も結わえた糸も少し色褪せてしまったけれど、わたくしの気持ちは色褪せぬまま──いいえ、想いはもっともっと色濃くなるばかり。

 お母さまの喪が明けた春の日、八年前のあの時。邸を彩る美しい花の色と同じくらい、十七だったわたくしもきっと、輝いていたに違いない──

 結子は思わず、ぎゅっと目を瞑った。



──────────


*葛野

現在の京都、桂のあたり。



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