第42話 039 誅滅
『見ない方がよろしいかと』
ディスターからの忠告が、素早く伝わって来る。
自分にもそんな予感があったが、小さく頭を振ってから窓へと近付いた。
凝った意匠が施された窓の向こう、眼下に展開されていた光景は、当然ながら訓練などではなかった。
脳裡を過ぎった嫌な予感は、最悪に近い形で現実となっていた。
「余の配下、忠勇なる兵士たるには鋼鉄の意志が必須となる。故に、新兵にはまず『人を殺める』のに慣れてもらわねばならんでな」
練兵に使われているのであろう、砦の広場。
そこには既に、兵士達の姿はなかった。
いるのは、ミーデンから連れて来られたであろう村人達だ。
眠そうな目の老婦人がいる。
切断された頭部が槍の穂先に突き刺され、もう何も映さない瞳を空に向けている。
驚いた表情の中年女がいる。
轢断されかけた腹から桃色の内臓をこぼれさせ、その手は訓練場の土を握り締めている。
寄り集まった子供達がいる。
頭蓋を殴り潰され、眼球を穿り出され、裸の背を弓矢の的にされ、四肢を試し斬りで断たれた亡骸には、どれ一つとして五体満足なものがない。
守られるべき者が、それを守るべき立場の者の手で
殺人の練習のために行われた殺人。
遊び半分の気配が
あまりの惨状に惑いながらシュナースを見れば、奴は満面の笑みを浮かべていた。
心を乱した私を見て楽しげに。
言葉を失う私を見て満足げに。
「益体もない百姓共だったが、こうして最後に国に奉仕できたのは
何を言ってるのだ、この阿呆は。
この数年で私は無数の死を目の当たりにし、自身の手でも少なからぬ人数を討った。
だが、今ここで起きているのは何だ。
人が殺されるということに、まるで意味がない。
混乱する思考は、シュナースが明らかに喋りすぎている理由に気付くのを遅らせた。
シュナースの右手が小さく動いたのに気付き、不意に我に返る。
次の瞬間、全身に激しい衝撃を感じた。
視界には、床と天井が交互に映し出される。
直後、金属が石畳に弾ける音がいくつも続いた。
「お怪我はありませんか」
「ぅ、ああ……」
自分を抱き締めているディスターの声に、何事が起きたのかを大体把握する。
こちらを始末しようと、シュナースが衛兵達に攻撃を合図。
その意図を察知したディスターが、私に跳び付いて床に転がりながら回避。
そして間髪を入れず、投擲された手槍が殺到した、というわけだ。
立ち上がりながら、槍の雨が降り注いだ方を見る。
仰向けに倒れたローランの体に三、四本が深々と突き立っている。
その近くでは、副官が腹への直撃を受けて痙攣していた。
刺さった場所と出血量からして、二人とも恐らくは助からない。
「避けるでない。二度手間になる」
面倒臭そうに言い放ち、シュナースは第二撃の合図を出そうとする。
目の前で踏ん反り返っている腐れ外道に、言うべきことは無数にある。
でも、こいつは確実に聞く耳を持たないだろう。
そう判断した瞬間、体が自然に動いていた。
通常であれば七歩か八歩の距離を、息を詰めて五歩で駆け抜ける。
「閣下を守れっ!」
衛兵の声が悲鳴に近い色合いで弾けるが、その前にこちらの手が届く。
シュナースの顔が、恐怖――ではなく驚愕で歪みかけた。
渾身の右フックを顔面に炸裂させ、シュナースが豪奢な椅子ごと倒れかけたところで、今度は左脇腹を全力でもって蹴り上げる。
衛兵の反応は遅れたものの、すぐにシュナースを取り囲んで守りを固めた。
抜刀した衛兵達は、私の攻撃を許したことで動揺し、殺気立っている。
一斉にかかってこられたら、ディスターの援護があっても無事では済まないだろう、と判断して四ケン(八メートル)ほど下がっておく。
次の一手を待って睨み合っていると、人の壁の奥から怨念の篭もった呻きが上がった。
「ぐぉおおあぁ……くっ、この下賤のっ、薄汚い雌犬めがぁ! 由所正しき血統を保つ大貴族に連なる、余に手傷を負わせるとは……」
「何が血統だド阿呆め。女のパンチも避けられないヘボガキが、何様のつもりだっ! パパの金で人殺しの親玉をやってる小便タレごときが、賢しげに貴賤を語るな!」
「ふっ、ふざけたことを……偉大なるシュナース侯爵家、アーグラシア王家と並んで古く貴きこの血の流れる我が身は、神に近しい存在なるぞっ!」
「だからどうした! お前の論法が正しいなら私は神だっ!」
傲然と言い放つが、シュナースは左頬の腫れ始めた顔で、私を不思議そうに見返してくる。
衛兵達も「何を言ってるんだコイツは」という空気を出してキョトンとしている。
十秒くらい無音が続いた後、ディスターが静かに告げた。
「貴殿を殴り飛ばしたのは、レウスティ連合王国の第二王女にして、練士の号を授かりし求綻者。エリザベート・ド・レウスティ姫殿下にございます」
室内に、分かりやすく動揺が広がる。
そして先程よりも更に長い無音期間を経て、「フハッ」と力の抜けた笑いをシュナースが発した。
「どうせ殺すのだ。貴族だろうと王族だろうと構いはせぬ……やれ、こやつらは密偵だ」
「お、女の処断は、いつも通りに尋問した後でいいですかね?」
「好きにするがよい」
下世話なニュアンスを込めた部下からの申し出に、シュナースは不機嫌そうに応じる。
こいつらは皆、揃いも揃って畜生の類だ。
すぐにでも叩き斬りたいが、狭い場所での乱戦では思わぬ怪我をする恐れもある。
まずは後背の兵を蹴散らして、この場を脱するとしよう。
『心得ました』
こちらの思考に答えたディスターは、私が部屋の出口に向かって動き出すと同時に、ボサッと立っているだけの兵士二人を斬り伏せて逃走経路を作る。
その背中を追って通路を走り抜け、下りの階段を数段飛ばして駆け降りる。
異変に気付いて制止してくる連中を無視し、正門を目指して全力疾走すると、意外にあっさりと砦から脱出することができた。
息を切らしながら隣のディスターを見るが、汗をかいてすらいない平静さだ。
「どうしますか、姫様」
その言葉の意味するのは、シュナースとその手下をどうするのか、だろう。
このままシャレルに親衛軍の凶行を報告し、それが事実と認められたとしても、あの小僧が表立って罪に問われはしないだろう。
ここにいても、すぐまた兵士に囲まれる――どうするべきか。
ソミアの練兵場。
ミーデンの廃墟。
コルブズの中庭。
そこで自分が目にした光景を思い返してみると、数秒と経たずに答えは導き出された。
「……ディスター」
「はい」
「砦を焼き払え」
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