010-1 海 月 jellyfish
平田
だが見えるのはいつも通り、アルミサッシで四角く区切られた、代わり映えのしない一地方都市の雑踏だった。
昨日と、いやこの病室に来てから全く変わることの無い風景を見下ろした真那は、何度目になるか解らないため息をついた。
――どうしてこんな事になったんだろう―――
考えても答えは出ない。そもそも真那には何の落ち度もなかったのだ。
中学校に入って一か月、真那は他と比べて目立たないながらも充実した毎日を過ごしていた。
担任の先生も面倒見がよく、同級生の中でも友達を作り、女子同士のグループにも無事入れた。
気になる男子もいるにはいたが告白しようとは思わず遠くから眺めたりして、いわゆる恋に恋する自分を自覚しつつも楽しんでいたりした。
そんな平穏な時間はある日一瞬にして壊された。
ある日の夕方、自室の机に向かって勉強していた真那は、使っているシャープペンシルの芯が切れているのに気が付いた。
ペン立てやペンケース机の引き出しを探しても残りは一本もない。
少し迷ったが宿題の興が乗っている今、やめるわけにはいかなかった。
真那は財布を手に取りカーディガンを羽織ってコンビニに向かった。
両親からは夕方家から出るのはなるだけ控えるように言われていた。
が、最寄りのコンビニまでは片道5分、替え芯を買って帰るだけなら15分で戻れるだろう。
キッチンで夕食の支度をしている母親に一言断ろうかと考えたが、すぐ戻れば問題ないだろうと思ってそのまま家を後にした。
目的の替え芯と、小さなお菓子を少し買って家路を急ぐ途中、その事件は起こった。
無免許かつ飲酒していた17歳の少年が運転する軽自動車が、横断歩道の手前で信号待ちをしている真那に突っ込んできた。
不幸中の幸いというべきか、車のバンパーが真那に当たる前に、手前にあったガードレールに当たり軌道がそれた。
だが車の勢いは止まらず、真那は軽自動車に飛ばされ意識を失った。
何の罪もない善良な女子中学生と、飲酒により何の根拠もない全能感に満たされて暴挙に及んだ少年との人生が交錯した瞬間だった。
次に真那が目覚めた時、視界に飛び込んできたのは緊急病棟の蛍光灯だった。
まぶしさに顔をしかめる。
――……あれ? ここ私の部屋じゃない。なんでこんなところで寝てるの?
周りを見渡すと、明らかに自分の部屋とは違う。真那が最初に、なぜ自分がここにいるのか疑問に思った瞬間だった。
それから、いろんな情報が真那の周辺を飛び交った。
加害者の少年は高校を早々に中退し、悪い仲間とつるんでいた事。
勤めていたバイト先で接客態度が悪いためにクビになった。
腹いせに仲間たちと飲酒した上で気が大きくなり、鍵が付いていた一時停車中の車を、仲間たち4人で盗み、乗り回していた時に運転を誤り真那をはねた。
挙句の果てに、フロントが半壊した状態でも悪あがきで千鳥足のまま、現場から逃走を図っていたらしい。
未成年とはいえ犯した罪は計り知れない。
真那には医師を通じて、母親から左脚の
両親がいた時はなんとなくこらえていた。
二人が帰ってからギブスを眺めている内に、真那は声を殺して泣いた。
一度泣き出すと涙が止まらなくなっていた。
入院して何日かは、同級生がかわるがわる見舞いに来てくれたが、十日目くらいでそれも途絶えた。
真那の病室に残されたのは、女子の有志が作ったであろう色のグラデーションに凝った千羽鶴。
同じく有志が書かせたと思われる、クラスメイトからの寄せ書き色紙だけになった。
そんな折、見舞いに来てくれたのは、クラスで一番目立たない同級生の女子だった。
その病室での出会いが、真那の心を少しだけ上向きにさせてくれた。
最初は、クラスメイトなのに相手の名前が思い出せず困惑した。
相手の方から、周りに名前を覚えてもらえないと少し笑って話してくれたので、それをきっかけに色々話すようになっていた。
何度か相手が通ってくるたび、いろんな品物をもらうようになっていた。
食べ物のお見舞いの許可が下りているのを確認した上で、彼女が持ってきてくれたのは、はちのすワッフルという変わった名前のお菓子だった。
二人で分けて食べながらどういう由来のお菓子か尋ねてみると彼女からはこんな答えが返ってきた。
「最近出た絵本に出てくるお菓子で、主人公のクマのぬいぐるみがいっぱい作って山や村のみんなにわけてあげるの」
控え目ながらも、彼女は自分の事のように嬉しそうに話してくれた。
――私まだその絵本を読んでいない。少しうらやましいな。
「あ、じゃあ迷惑じゃなかったら、明日持ってくるね」
遠慮しようかとも一瞬考えたが、今現在真那の敵は退屈そのものであった。病院内の図書室にもない本は手放しでありがたかった。
翌日真那が読みたいといってからすぐ買ってきたのか、下校時間からさほどかからずに彼女は見舞いに来てくれた。
紙袋に入った新品の絵本を受け取った。
代金を払おうとする真那に、控え目に手を振りプレゼントだと言ってくれた。
真那はもっと彼女と話がしたかったが、彼女は早く絵本が読みたいだろうからと足早に病室を去って行った。
真那はなんとなく解っていた。
自分の足が完治して教室に戻った時、彼女とは病室にいた時のように話し合ったりはできなくなるという事を。
おそらく彼女の方もそれを理解しているのだろう。
教室で会っても目配せであいさつするぐらいの以前と同じような関係に戻ることを。
決して嫌いになった訳でも、互いを利用し合った訳でもない。ただお互いにとっての普通が元に戻る、言葉にしないまでもそれは肌で感じていた。
絵本はすぐ読みたかったが、いつもの習慣でその日の勉強を片付け気分を落ち着かせてから改めて紙袋を開ける。
――あ、新品の絵本のインクの匂いだ。
真那はこの匂いをかぐとなんとなく気分が高揚する。
絵本はA4サイズで横長の版になっている。
作者は初めて見る名前だからおそらく新人なのだろう。
読み進めると奇妙なことに気付く。各ページの絵柄と各登場人物の色合いは一緒だが、色を塗っている画材が各ページごとに違っている。
色鉛筆のページがあれば、パステルのページもあるし、クレヨンで塗っているページもあった。
ただ内容は純粋に楽しめた。
オレンジ色の身体で、手足の先が白くおなかに黒い大きな『M』の字のアップリケを付けた無表情で飄々としているエムクマ。
体色がアイボリーでよだれ掛けを着け少し気弱で表情がくるくると変わるはりこグマ。
このふたりが、大量に焼き上げたはちのすワッフルを、動物やぬいぐるみの入り混じった村の住人達に分けて、代わりにいろんな食べ物や品物をもらうという、ストーリー自体はシンプルな物だった。
だが、病院内の白を基調とした無機質な眺めに見飽きた真那の眼には、ワッフルと引き換えに受け取る様々な物や、個性的な村の住人達が好ましく映った。
特に、年老いてたてがみが白茶けた村長のライオンが、ふわふわした被毛を生やしたペンギンの赤ちゃんを育てて連れているのが、何だかミスマッチで一目見てからすぐに虜になった。
そうして、様々な物を手に入れた二人のクマのぬいぐるみが、六匹の子持ちの白い母猫にその日手に入れた全部を無条件で渡したのには純粋に感動した。
――お返しできるものが何もないって言うおかあさん猫に、はりこグマがこれが欲しいって頼むんだ。
事故に会ってから今まで、赤の他人の幼稚で根拠のない楽観主義から来る暴力により、身も心も傷つけられささくれ立っていた。
そんな真那の気持ちが徐々に癒されていくようだった。
――この絵本の作者さんもそうだけど、わざわざ持ってきてくれた、あの子にもありがとうって言わないと。
物語の最後はエムクマとはりこグマ、それに背の高いクマ、ながクマの三人が満月に照らされた道をたどり自分たちの家に帰るというものだった。
最後のページには月の明かりで深い紺色に染まった夜空に白抜きの字で英単語三つで構成されたシンプルな文章があった。
その文章の本当の意味を知った時、真那は声を殺して泣いた。
その涙はこの病院に来て初めて流した涙とは全く違う種類の、心の底にたまった嫌なものすべてを洗い流すような涙だった。
泣くだけ泣いた後、顔を拭いてベッドに横たわる。目の周りが熱い。鼻の奥がじんじんする。
だがそれは少しも不快ではなかった。真那は子供の頃の事を色々思い出していた。
5歳の誕生日にプレゼントにもらったドールハウス。
初めて自転車に乗れた日の事を思い出していく。
――それから去年の夏休み、山形の水族館に家族全員で行ったんだった。
海沿いにある大きな建物にいろんな魚や海の生物が展示してあったが、ひときわ真那の目を引いたのは大きなクラゲの水槽だった。
水中で重力が遮断されたように漂っているクラゲの大群を眺めている内に、真那はアクリル板一枚隔てた水中と自分が今立っている地上が境目がなくなり、自分もクラゲの群れの中で一緒に浮かんでいるような気分になった。
たっぷり5分間は父親に肩を触られて我に返るまで真那はクラゲと一緒に漂っていた。
その後館内の食堂で家族で昼食をとった。あれだけ夢中になって眺めていたクラゲが御膳定食やラーメン、アイスクリームの中に普通に入っているのがおかしくて家族みんなで笑った。
そういえば、と真那はベッドわきに置いてある紙袋を手に取った。
入院してすぐに真那の母親が気を利かせて真那の部屋にあるものを色々と持ってきてくれたものが入っている。
真那は紙バッグに手を入れ、目当ての物を取り出す。それは真那の顔より少し小さめのクラゲのぬいぐるみだった。
水族館内で食事をした後、帰り際土産コーナーで勝手もらった物だ。
買った時はテンションが上がっていたのか、それほど気にならなかったが、家に帰って包装紙を開けてよくよく見たらなんでこんなの買ったんだろうという微妙なクオリティで、クラスの友達に見せずに自室の机の上に放置しておいたままにしておいたが、改めて手に取ってみると造形はともかく思い出の品として大事にしようと真那は思った。
しばらくの間、ベッドに仰向けになり両手でクラゲのぬいぐるみを抱えて眺めていたが、ふと何かを思いついたように上体を起こした。
ギブスで固定している左脚を吊り下げている台から両手を使ってゆっくり下ろし、ベッドわきに固定されている車椅子に身体を移す。
続いて自分の膝の上にもらった絵本とぬいぐるみを置く。
そのまま病室を抜けエレベーターに向かう。車椅子の操作は売店や図書室に行く内に自然に慣れた。
エレベーターに乗り込んだら屋上のボタンを押しドアを閉める。
――あーー、屋上って涼しくて気持ちいい。泣くだけ泣いたから顔が熱いな。
真那はスロープをそろそろと下り、屋上の端、鉄柵まで移動した。屋上に
ずっと横たわっていたせいか身体がこわばっていたようだ。両腕を天に突き上げ伸びをしながら深呼吸をする。
外の新鮮な空気を肺に送り込み一息ついた。
絵本を開いてクラゲのぬいぐるみを膝の上に乗せる。日暮れまでまだ時間はある。
真那は改めて絵本を一から読み直す。物々交換による住人達の素朴な交流が真那の心を暖めた。
読んでいる途中のページに手を置いて真那は少し考える。
――絵本持ってきてくれた子に何か返さないと。何がいいかな。
不意に真那は視界の端に違和感を覚えた。緑色の奇妙な物体が鉄柵の向こう側に浮いている。
よく目を凝らして見てみると、その物体には葉のようなコウモリのような緑色の羽が生えていて時折思い出したように羽ばたいている。
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