2話「平凡な日常、平凡な世界」
偽名ではない。ネタでも冗談でもない、マジだ。
しかし周りの友人からはネタにされ、大人や教師からは皮肉めいた苦笑いをされている。身長、体重、50m走、通知表、すべてが平均値で皮肉なことにお似合いである。その名前通り
某スパイ映画が好きな親父が酔った勢いで役所に提出してしまった。父よ――俺にどうして欲しかったんだ? 子供にどんな夢と希望を託したんだ? 名は体を表しているぞ? きっと何も考えていなかったんだろう? このくそったれ。他にも変なキラキラネームがクラスに二、三人居てくれたら自分はその中に埋没し出来ただろうけどさ、せめてここがそんなキラキラした都会ならご同輩が居たのだろうけどさ。
生憎、ここはそんな都会ではない、そしてド田舎でもない。どっち着かずの地方都市――小さな街の小さな町だ。
そこで俺は今ある課題を抱えていた。それは高校の地理の課題、
「……止めときな」
「えー」
祖父の忠告に、シンプルな抗議の声を上げる。
「今時向いてねえよ。こんな小さな町の着物屋なんか」
小さな呉服屋を営む祖父の、貴賤ない生々しい意見を聞いて言う。
「……そうかなあ。売るもん変えてもなんとかやってけないの? 最近の若者向きのとか、なんとかさ」
祖父の眼から見てこの街に必要なものは何か――ここで商売をする上で気を付けるべきところは? 仮にこの店を続けるのなら、と、いろいろ質問したのだが。
見た感じ、客がいない。人っ子一人いない。
考えてみればそれは当然である。着物屋なんて入学式や卒業式、成人式のある春か冬、夏の浴衣にしか客が来ないのが宿命だ。年に二、三度、それぞれたった一日だけだ。その稼ぎ時に稼ぎ、あとはそこでできた縁を頼りに顧客として抱え込み、修繕や仕立て直しで細々と稼いでいるのである。それも、今は下火だ。成人式に着物を買う家は今は少ない、皆レンタルなのだ。
普段使いで着物を着る人種なんて、街規模でもごく数名の華道家や茶道家、それに書道家だけで、和服はもう圧倒的需要の無さなのである。
だから思うのだ。だから、新規顧客の獲得、新たな購買層の開拓を目指したらと思う訳なんだけど。その意見なんだけど。
「なんとかってのはなんだよ」
「和ロリ? 洋物のフリフリした奴が着物の裾とか袂、袖口に付いてる奴、知ってる?」
「ああ、最近テレビで見るなあ」
若者向きだろう。隣の大きい街で、夏祭りで、この辺りでもだいぶ見かけるようになったのだが。しかしこの店には置いていない、つまり需要を逃していると思うのである。それは商売として勿体ないのではないのか。
「お花を着てるるみたいだよな。他にはアクセサリー……普段使い出来る、和物の、洋服にも合うヘアピンとかヘアゴムを、ちりめん細工で。 知ってる? いまはシュシュとか言うんだけど」
「出来ないことじゃねえが、うちの仕事じゃねな」
「そうかな?」
「大体若いモンが、この辺のどこにいるって言うんだ」
「……あー、それか。……いねえよなあ……」
納得せざるを得ない。着物を買わなくなった、文化としてのそれ以前に、買う人間そのものが居なくなったのだ。小、中学校に行く、町内から行列を作って通うその光景は今はもう存在しない。パラパラパラパラと。
街の学校のそこかしこが定員割れ続きで、余所と統合し別の場所に移っている。そのくらいに減っている。お陰で町の文房具屋は真っ先に潰れた。
「……昭和の終わりの頃、お前の親父が社会人になった頃ならまだなぁ……」
祖父はそんな事を呟く。
その頃なら、まだただの着物屋としてやっていけたのだろうか。
今は――
「理由は?」
「生に一度しか着ないなら無駄だとよ。親が来てたもんを子供に着せれば、どうしても色柄が古くなるからまあ気持ちは分らんでもないが」
ただ一度のために生活を圧迫する高い着物を買う気にはなれない。記念品、晴れの日の晴れ舞台に晴れ衣装――一生に一度の一生モノ、とはいかない。文化として廃れて来ている。人の数の問題だけではない。親子で同じ店で同じ思い出を……というのは必要ないということだ。
それを聞いて思う、心に花がない。精彩がない。寂れていると。
ただ実際、実家のこの店に閑古鳥が鳴いているのは確かなのだ。
「なんか、寂しくね? ……いい店なのに」
「ああ? バカか。子供が何言っとる」
「ネット販売とかは? 同じ職人さんの中にそんなことをしてる人はいないの?」
「遠くじゃあるっていうけどなあ、この辺りじゃしらねえよそんなもんは」
まあそうだろうな。着物の海外需要は割と有りだが、型紙を外国人用に一通り研究しなければならないし、売り方として他にも色々問題はある。和服は基本オーダーメイド、そうでなくても仕立て直し、寸法直しが必要になる。
どうにもならないというわけではないのだが。やろうとしたら人の手も知識も足りないだろう。
「そういうおめえはどうなんだよ。知ってんのかよ、ネットなんちゃら」
「いや。どうやるかは知らねえ」
「だから考えが甘いんだよ。商売を売り込むなら自分がまずそれをよく知っておけ」
「うん。そこはまあ実際、色々と勉強中なんだよね。で、ここに来れない客足でも買えるのはいいと思ってさ? 着物は実採寸が出来ないから着心地が一枚落ちるかもしれけど。そこで、さっき言った小物ならどうかなとは思うんだよね」
値段も遥かに手ごろで、作る手間、商品単価と発送費用、システムにもよるが。
「ならもしやるんなら、お前がやればいい」
「なるほど。え、いいの?」
「ちゃんとどっかで修行して、勉強させてもらってくるんならな。まあもし、この店を全部どうこうってんなら良い職人さんとこで弟子入りしてこい」
「えっ? 継いでいいの?」
「いや――ここ以外でならの話だな」
「ふーん。分かった。ならそんときはそうするよ。そんでいつか俺の店の物買わせてやる」
「ばぁか。五十年早い」
「まあ冗談だけどさ」
たかを括った笑いを浮かべ、そして祖父は言う。
「……まあ、何だっていいさ。本気ならじいちゃん応援するぞ」
「じゃあそんときは頼むわ、親父の説得」
「……まあ心配かけなければ平気だろう」
「どうかな」
きっと、本気だと言ったら。親父は俺の正気を疑うだろう。
そしてこの祖父はそれでもずっと待ってくれるんだと思った。
後日、レポートを提出した帰り道。クラスメイトと自転車を飛ばす最中、当然ながら話題としてこれを選んだ。
「なあ、おまえどうする? 進路希望調査」
「消防署かな」
「おれ警察ー」
「教師で」
「自衛隊で」
「市役所だろ市役所ヒャッハー!」
現実の世知辛さに打ちのめされ安全志向一辺倒だった。うん。
みんな見事に教育されていた。され過ぎている。倍率一位で『夢は公務員』で、それ以外もみんな街の外にある株式上場企業への就職とある。無理めな医者と弁護士とかはいないのがまたね。ちなみに進学組は地元の国立と都会の国立で割れていた。うん、現実的過ぎて先生も乾いた笑いしか出てなかったよ。先生も、大きすぎる夢を持つと頭を叩くんだけどね。
みんな作曲家か作詞家でカラオケ印税生活とかそんなことほざいてたのにな。
頭の中では温かい家庭と、殺風景な街が見事に調和しているんだろう。アリとキリギリスの蟻だ。だからもう――日常万歳。としか言えないね。
「で、おまえは?」
「公務員で」
そしてクラスメイトに聞かれてついそう答える。満場一致でそれはどう考えても悪いことではないと納得している俺がここに居る。結局人のことは言えないが、安定した生活、安定した未来、安定した収入――考えるだけで胸がホッとするのは間違いだろうか? いいや間違いじゃない。
とりあえず社会に出て働ければいいと思ってるけど。その目的と目標が見つからないけど――さっきの話、祖父の店を継ぐという案、別の街に行き職人になるというそれはあくまで例え話のようなものだ。まだ本気とは、お世辞にも言えない。だから言わない。
みんなこんなものなんだろうか? 違うように思える。
みんな、はっきりとした目標があるように見える。
それが無難で堅実でつまらない進路に見えても、そこに生き甲斐や目的を見つけて全力で四苦八苦しているように見える。活き活きとしている。苦労と苦肉の顔、それがとても羨ましく思える。
いや、自分が決して活き活きとしてないというわけではないのだが。自分の周りの友人には、本気の生き方、本気の生き様、本当の気持ちで本当の想いがあるように思えるのだ。浮ついている自分とは違って、ただ家族の為でも、ただ一人自分の為でもその中で自由に生きている。それは不自由に見えて可能性がないようで、実はとても色々なものが満ち溢れてるように。
それが羨ましい。皆と同じように、部活をして、バイトをして、遊んで、勉強して、バカやって。毎日ギャーギャー騒いで――それだけじゃなくて、きちんとした将来の目標を持っている彼らがとても羨ましい。中学の頃、高校生になったら自分もきっと何かを見つけているのだろうかと思っていた。
けど見つからなかった。皆と同じことをしている筈なのに。思いのままに行かない。皆、バイトをしている間、勉強をしている間、友達と遊ぶ内に、先輩に付いていく内に、テレビやネット、スマホを繋げて見ている内に――
みんなしっかりと、それをみつけたのに。
どうしてなんだろうか。自分と皆との差はなんなのだろうか?
同じように。毎日を楽しんで、毎日を苦しんで、毎日何かを探していて、毎日何かが物足りなくて、それなのに何もやりたいことが見つからない。どういうことなんだろうか? どんなに一生懸命目を凝らしても何も見つからないって言うのもよく聞くし、それも普通だとも思うけど。
けど、本当にそれでいいのかな?
やりたいことを見つけなくていいのかな?
将来の目標を持たなくていいのかな?
好きなことを、我慢することを、思いのままに――
例えばあの童話――冬に死ぬキリギリス。
題名は違うが気にせず行こう、だってそういう話だ。
あのキリギリスがもし、アリの家に招かれ金を貰えるだけの演奏家だったら、彼は冬に死なずに済んだんだろう。
そういう生き方もある。彼がもし特別なキリギリスになれていたら、彼は死ななかった。そうじゃないただのキリギリスなら死ぬ。これを人に置き換えるなら――趣味では生きていけないということだ。ただ楽しいだけではいけない。でも突き詰めた特別な努力と過程とそして成果を得られたのなら彼は生きられた。そうしなければ生きられなかったともいう。
じゃあ、働き者の蟻は? ただの平凡な蟻――働くことが使命で、仕事で、それしかないという彼ら。暖かい家という幸せを手に入れられる彼ら。彼らは働くことが当たり前の環境だから働いているのか? それともしっかりそこに幸せを見出しているのか。それは後者である。でも、もしそうなら、彼らはキリギリスと同じだ。
やりたいことをやっている、どちらもしっかり幸せの中で生きていた。
片方は後で後悔の中で死んだが。
要するに、キリギリスは将来を考えていなかった。これは夢に生きちゃいけない、家庭を守らなくちゃいけない――働きなさいという話であり、そしてどちらも夢を見ていたという話なのだ。
報われる、報われないにせよだ。働きアリだって現実では決して身を粉なにして働いても暖かい家が必ずあるわけじゃない。アリだって不幸になることもある。キリギリスだって幸せになることもある。
だから思うのだ。
本当にやりたい事、好きな事――
それを見つけるって、将来を見つけるって、とりあえず生きていくことなのかな?
それで幸せになれるのかな。
やりたいことって、それとも、誰だって同じ可能性の中で、たった一つ自分の幸せを見つけることなのかな?
「で、実際どうよ。他は?」
皆が口々に言う。
「俺は家継がなくちゃだからさ」
「親が絶対大学は出ろって」
「俺実はさあ、東京行ってラーメン屋の修行したい、んで帰ったらここらで最強の店作るから」
「いいねいいねえ」
「まじで? ここで東京の味食えんの!?」
「応援するわ!」
「いやいやマジ待ってるよ」
「てめえら全員たかるつもりだな」
「ごちっす」
うん、みんな普通だな、普通だよな、普通そうだよな。
悩んでいても本当は大体決まってて、背中を押してもらえるか、応援されたり、覚悟が決まるなり、踏ん切りがつくかを待っているのか。
時間が来るのを待ってるのだ。見つかったとか見つからないではない。
「……そういえばさ、どうするのかな」
「あー、あいつ?」
「……ああー、……」
そして、そんな話が始まった。
みなどこか、気遣わしげに。ある人物のことを指していた。
高校入学と同時に引き籠もりになった、元クラスメイトのことだ。
彼女は、苛められていたわけでも無視されていたわけでもない。家庭の事情で学校に来ることを止めた。
確か、高校には入学手続きだけして、親が休学届けを出しに来たらしい。
でも仮に復学しても肩身が狭くて中退することになるだろう。
「ジェームズ、おまえ連絡とってたんだろ、何か聞いてねえの」
「いや。……」
そう、俺と彼女は知り合いだ。同じ中学の、同じクラスメイトだった。
「……親が言うには、ベッドで寝た切りなんだってさ」
そう聞いている。
「……ところでジェームズ、そういうおまえは?」
「いや、さっきもだけどさ――そのあだ名禁止って前言ったろ!」
「じゃなくて、進路。本音」
「ああうん、大絶賛迷ってます……とりあえず大学? そんでこの街を出る?」
「あれ? お前県外受けるの?」
「できれば?」
「どこ」
「国立? 京都辺りの?」
「いやいやいや無理無理無理」
「おいこの成績身長体重能力全て平均値の俺様に不可能があるとでも?」
「いやむしろ無理じゃん!」
「いやいやいや、きっと何やらしても平均値たたき出すよ? お笑い芸人なら鳴かず飛ばずでも決して消えないひな壇の顔、プロ野球なら球速一三〇、一試合一ヒット一エラー、打順は五番で確定だからな?」
「お前全然野球知らないだろ!」
「テヘ。でも成績はともかく遠出で一人暮らしするとなるとその費用がなあ……今までとこれからのバイト金つぎ込んでも際どいし、そのあと生活費稼ぎながらで、留年もせずに……って結構本当にきつそうだ」
大学なんて勉強が普通に出来る奴しかやっていけない。そう、自然に勉強ができるやつだ。自分では四苦八苦かもしれない。
でも、職人としての修行に入るにしても、その先、商売をする上で基礎学力、海外で日本の商品を売るためには高度な語学力は必要だ。
学校の英語なんてほぼ通話の役に立たないのは知ってるけど。満遍なく他も学び人脈を作っておくには必須だろう。だが、
「……親は学費以外無理だし。要するにここから通える四年制になるんだろうけど」
「そんなもんだよなあ」
大学行かせてもらって我儘でその傍ら職人修行、なんてバカバカしい贅沢だ。せめて働き出してから、その傍ら通い詰めさせて貰うところからだろうか。
誰かが言う。
「あー分る。無理して欲しくねえし、無駄にしたくねえし――何このジレンマ」
「じゃあ就職しろよ」
「……行かなかったら、親がやばい」
「はあ?」
誰かが返す。
「呪いとサブリミナルのレベルで普段から口癖が大学はいい大学はいい大学に行け大学は必要だ、大学大学大学大学だぞ? 多分行かなかったら一生ねちねち言われる」
「あ、わかる。おれも大卒だけは必ず手に入れろ、って」
「そうなんだよなー」
やはり誰かが聞いて頷く……それだけで心は楽になる。
彼女には、それがなかったのかもしれない。
もっと在るがまま、思いのままに自分を受け止められていたら……。
もしかしたら、自分が本当はそうなれたかもしれないのに。
「――そういえばお前、じいさんの店継ぎたいって本当か?」
「え? いや、高校の課題でただ単にこの辺りで店とか就職とからどういうことになるのか訊いただけだけど?」
夜、家族の食卓で、そんな話が始まった。
うぉ、耳が早い。それも何やら早合点してるっぽい。
口に運んでいた箸を止める。でも、内心で既にムッとしていた。ろくに話もせず人に聞いた話を頭ごなしに――なんて。
頭にカチンと来ていた。しかし表立って強くは翻意しない。そんなことをすれば余計にこちらが本気だと思われるし、余計にうるさくなるからだ。
そんな気遣いに反し親父は、
「止めとけ」
おい。断定口調だよ。もうこの時点でダメだと分っているが。
「ふーん……。――なんで?」
「せっかく大学まで行けるのにそんなことしてどうするの? ちゃんとしたいい会社か市役所にしときなさい」
お袋も口を挟んでく来たよ。くそ、そんなに安定志向がいいのか。
言いたいことはわかるが。その所為で強く出られないこともあるが。
「下手がやる気を出すな」
やる前から決めつけてるよ!
「いや、まだやってもいないんだけど」
「だったら尚更下手に手を出すな」
やばい、内圧がメラメラと上がっていく。
「……始める前から我慢しろって?」
「それが一番良いに決まってるだろ。現に、俺のうどん、旨くなっただろう?」
父はうどん屋になりたがっていた。でもやらない。上手くいかないとわかっているから。やる前から諦めていた。
「ああうん、その辺の下手なそば屋よりは旨いよね」
半分皮肉だが、正直冷凍讃岐うどんのほうがちゅるちゅるのシコシコだと思う。
勝算がないから止めておく、至極真っ当な理由だ。いや、要らん苦労をしたくないからだ。
「だろう? でもこれで商売はできないな。これを一日に何食分打つことになると思うと、一人で? 他の料理もしながら? 俺には無理だ」
いや、皮肉だって気づけよ――言ってることは一応わかる。
生活するためには――家族を養うためには思い付きで商売はやれない。
何も間違えていない。この人も働きアリだ。あの祖父に育てられた、商売人の息子なのだからその辺はしっかり弁えているのだ。
俺なんかより商売について分っているだろう。出来る出来ないじゃない、やらなくちゃいけない、という理念ではなく、やれるならやるべきと言う理論だ。
けど思うのだ。何も試さずに、模索もせずに――
自分が何を知らないのかを、知ればいいんじゃないのかなと。
要するに、いろいろと経験することだ。例えば大学で勉強しながら、
「他の道も残しつつ勉強したら?」
「中途半端が一番悪い」
「いや、そんなこと言ったら学校で勉強すること自体無駄じゃ」
「誰がそんなこと言ったんだ」
「目の前にいるクソ親父が?」
「そんなこといってないだろう」
「言ってるだろ。遊ぶことは無駄だ、無駄になることは無駄だって」
「そんなことは言ってないだろう」
「言ってるだろ。全然分ってないだけで」
「ハッ働きもしてない癖に」
「バイトしてるだろ」
「バイトは仕事じゃねえ、遊びだ遊び」
「真剣な人に謝ったら?」
「苦労が違うんだよ。お前本当に馬鹿だなあ……」
「クズだな」
「誰かに養われてる身分は何も偉くないんだぞ? ん?」
「……そんなに今すぐ出て行って欲しいのかよ」
「ああ? お前今何て言った」
喧嘩売ってんですか?
ああ、心底……。
「こんな、人の苦労もなにも分からない親が自分の親だなんて、情けない……」
「……誰のおかげで飯食ってるんだ?」
笑い顔が消えている。ドラマで人を殺すような犯罪者の目だ。
いくら睨みを利かせても、筋が通っていなければ無駄である。
「食べなければ満足するんだ。へえ……」
「おい。そういうことじゃないだろ」
「はっ、ほら分ってない」
「ああもう止めなさい。今日はもうここまで。五月蠅いったらありゃあしない」
「……」
「……」
母親は、何気に引き時を弁えているが、同時に、ただの事なかれ主義で、問題を先送りにするたちだと思う。
最近父親が疎ましい。子供の頃はそれなりに尊敬していて、優しくて立派で、近寄りがたい苦労人で、そして家族を養うために毎日働いてる偉い人だと思えていたのだが――
いまでは一々言動から行動まで粗が見える。なんていうか幼稚なところだ。
どうしてこんなに情けない、頭の悪い親になってしまったんだろうか。
「――みんなそんなもんだって」
「そうかあ?」
携帯電話で友達と駄弁る。うちの親がどうだこうだ。いま面白いテレビやってるとか一しきり無駄話をして。
落ち着いてきた。ああうん、やっぱり無駄は無駄じゃないな。ささくれ立った心の隙間も埋まるよ。大切な隙間産業だ。
「――んじゃあな」
「おう、またなー」
ちゃんと自分で買ったそれを切る。もう今日の分の勉強は終わっている。広げた布団の上で足を投げ出して、いろいろと頭の中を整理する。
親父は家業を継がなかった。最初からどこぞのサラリーマンを目指していた。実はラーメン屋だか蕎麦屋を目指していたとか言うが(うどん屋はどこに行った)それらは早々に見切りを付けていた。それは家族を安心して養う為だと口々に言っていた。
――お前たちが居なかったら今頃は――お前さえ認めてくれれば、と。お袋に、自分の親に、そして俺に。それでも立派だったとは思っていた、なんだかんだ言って自分のやりたいことを我慢して周りに合わせた親父は優しくて立派なのだと。
でも……きっと、俺が普通に普通職や公務員を目指したくないのはその所為だ。
自分のやりたいことを我慢して、周りに当たり散らして不幸ぶっている、情けない背中。
母親も、割り切ってお金のために働いているが、人のために働ける、必要とされることを嬉しがっているが……。残業だらけで夕食はいつも最後に食べている。お風呂にも満足に入ろうとせず、そのまま居間で寝てしまう。自分の事が何も出来なくなるくらい。人に尽くして尽くしてボロボロだ。
そんな姿を見ていて思う。普通に働いて――辛い、辛い、もう辞めたいと口々に言葉にする共働きの両親を見ていて、こうなっちゃいけないんだな、これは不幸な事なんだな、これは嫌だな、と思わされた。普通に働くことは不幸なことなんだと思わされた。だからなんだろう祖父の仕事――普通ではない職人の堅気な仕事に興味を持ったのは、その所為なのだろう。
と、ようやく理解する。
酷い話だ。あれだけ苦労して、自分を育ててくれてるのに。
子供のために働く、家族のために働く。それが言い訳に聞こえる。
この恩知らずめ。
でも普通に働いても、決して幸せになれないんじゃないのか?
普通に働くって本当に幸せなのか? そう思う。
生活が出来るって、家族と幸せに生活が出来るってことではないのではないか?
ただただ我慢して働いても、愛情すら、不満を家族に叩き付ける言い訳にしかならないのではないか? お前のために働いてるって、殴られたことはないかな?
それが一人前の社会人――大人に、親になるってことなのかな?
それは違う気がする。
大人になるって、人に迷惑を掛けなくて、誰かの助けになれて――
自分を自分で成長させて、自分の行動に責任を持てるようになることだと思う。
――それって何なのかな?
――働くってそれを失わせることなのかな?
幸せに働くって、幸せが働くってことじゃないのかな。
「……働くってなんなのかなぁ……はあ~あ」
分らない。今働いている大人たちを見て。親を見て、決して幸せになれるとは。
思えない。ただ生きているだけで幸せなのか。
分らない。これからどうやって生きていくのか。
分らないのだ。どうしたらいいのか。
「……夢が叶ったら、本当に幸せなのかなあ……」
アリとキリギリス。
不幸になるアリもいる、たくさんいる。
キリギリスは、ほんの少し、アリより多くの苦労と努力を背負い込んで。
夢を追うのか、夢をあきらめているのか。
誰かの為か、自分の為か。どちらが一体幸せになれるのか。
きっとその間ぐらいが丁度良いんだろうけど。
でも――
人はどこで、どんな場所でどんな生き方を選んだとしても、決して後悔しないことが出来るのかな?
後にして思う。
――この物語は、きっとそんな話だった。
寝ている。風呂にはとっくに入ってジャージで布団に。
でも眠れなかった。今まで考えていことが脳裏に明滅している。
特に、あの頃のことを思い出すのだ。
彼女は委員長で、俺はたまに、放課後一人残っている彼女を手伝っていた。
そんなことをどこで知ったのか、教師は彼女が本格的に引き籠りだと分ってから、ほんの少し縁があった俺に「友達だろ?」と言って電話を掛けさせたのだ。
正直、仲が良かったわけではない。縁があるクラスメイト、というだけだった。
俺はそれから彼女に度々電話を掛けていた。正直、言われなければそんなことしなかったのだが、なんかそんな気になっていたのだ。いや、気になっていた、心配していた。同じクラスの見知った仲が一人だけ来ないんだ。でも携帯番号も各種アカウントも知らないような仲だったので――
最初は家の電話に紙の連絡網から直接だった。
彼女の両親はひどく驚いた。そして電話の子機を彼女に渡した。
彼女の声は、生気が全く抜け落ちていた。何かに疲れ切っていた。
彼女はなにか、酷くとてつもない何かを振り絞った――その残り滓のような声で。ポツリ、ポツリと、話をしてくれた。きっかけは――行きたい高校に行かせて欲しい、その一言だったそうだ。ただ、そこで、
「――お前の気持ちなんて関係ない、そんなものは在ったとしても認めない!」
そんなことを言われたらしい。
親の言葉じゃないとは、ただの平凡な俺にも分かった。
教室で彼女は誰からも頼られ、誰からも信じて貰え、いつでも穏やかに微笑んでいる。彼女が居るだけでみんな安心していられる。それぐらい信頼が厚かった。
ただ本当は、親に愛されたくていい子でいる、人に迷惑を掛けられない、自分を気遣えない、そんな人間だったのだ。
彼女の本当は、そんなこと望んでいなくて。親にただ愛されたくて――
必死で、いい子で、いい子で、いただけだった。いつか報われると思っていたそのをすべて否定されて潰れてしまった。
親の言葉を聞いた瞬間、繋がっていた何かがプツンと途切れたという。
それからとても静かなのだと。
彼女にはもう何もないのだと言っていた。
夢も、目標も、希望も、生き甲斐も、楽しさも、全て親の為に、全て他人の為に、全ての自分を使い尽くしてなにも残っていなかったのだという。
だから、やりたいことも、正しいことも、間違っていることも、辛いも悲しいも苦しいも何も残っていなかった。だからもう何も思えない、何を思えばばいいのかも分らない。何も考えられない、これからどうしたらいいのか分らない。どうもしたいと思っていない――と。
やりきれない思いだった。聞いてるだけで壁を殴りつけたくなった。
そんなことが許されるのか。だから言ってやった。
「遠慮せず親を困らせてやれ――」
彼女は困った様子で、ほんの少し、ほんの少し、ほんの少しだけ嬉し気に、
「ありがとう、でも、ごめんね? 何も言えない……」
そして、彼女は電話を切った。
それが最後だった。
彼女はアリにもキリギリスにもなれなかった。
いや、懸命な働きアリだった。
でも幸せになれなかった。
……それからしばらくして、彼女は眠り姫になった。
何が起こったのかは分らない。れがどういう状況なのかはわからない。
病的な意味か、ただの引き籠りか。ただ、彼女の言った通り、いま彼女は本当に、世間に溢れる音も、世界に溢れる光も、風も、熱も。闇も、影も。何も感じられないのだろう。本当にそうなってしまったのだ。
彼女の両親は、特別何かを隠しているようではなかった。
我儘を言え、自分の俄を通せって意味で言ったんだが、これは俺のせいか。電話なんかじゃなくて直接会って話をして親の代わりに抱き締めでもすれば彼女は救われたのだろうか。なんて思う。
最後にまともに話した相手として、俺は事情をいろいろと聞かれた。彼女は遺言のように、彼を責めたら許さない。彼に救われた。でも何も返せなくて本当にごめん、と、言伝を残していたので大事には至らなかった。ほんの少しの逢瀬だったのに、こんなに心が痛んでいるのは――そういうことなのかもしれない。
夢は始まっている。
夢の中、真っ暗闇がそこに佇んでいる。
これは夢だと分かる夢だ。夢の外で自分の寝息が聞こえている。うん、寝ている。これは夢だ。そう夢の中にいる自分を自覚する夢だ。
彼女の夢を見ていた。そこに自分の体が突然放り込まれていた。
それはもう終わっている。何時思い出しても、後悔しかない。
ふわふわしている、地面の感覚がない。重力が存在しない。
別の夢が始まった。それはくだらない毎日のくだらない一ページだった。
別の夢が始まる。それはまだ見ぬ未来予想図で、自分は京都で職人になっていた。
別の夢が始まる。それはただ会社で働き、ただ家に帰り親と子供の顔を見ていた。
別の夢が始まる。それは子供の頃の夢、親が少ない時間を見繕って遊園地に連れて行ってくれた。渋滞で半日かかり夜になって閉園していたが、今はいい笑い話だ。
別の夢が始まる。
明滅する。それでもどうにかしたい自分がいる。諦めようとしている自分がいる。
明滅する。夢を見つけたい自分と、もうあきらめている自分がいる。
明かりを探す。諦めない自分がいる。
そうだ、自分でものづくりを始めよう。将来やる店を、そこに置く品を。早速明日から調べ物をしよう。爺さんにも聞いた方がいいかもしれない。
明かりを思い出す。
彼女は諦めるべきじゃなかった。自分がもっとそばにいて話を聞くべきだった。
どうしてもっと気にしなかったんだろう。いまじゃ後悔しかない。泣きたくなる。
ノイズが走る。
諦められない。絶対にあきらめられない。泣きたくなるくらい情けなくても。
諦めたくない。
ほんの少しでもいい、何か始めなくちゃ、何も始まらない――
どうして助けられなかったんだ?
どうしても彼女の顔が離れない。それは教室で最後に見た彼女の笑顔だった。
ありがとうと言っていた。今はどんな顔をしているのか。
助けたい。
悔しいんじゃないだろうか。泣きたいんじゃないだろうか。悲しいんじゃないだろうか。それを少しでも、少しでもいいから――
ノイズが走る。
声を分けてほしい。今度はもっと話をしよう。無理やりにでも楽しいところに連れていくからさ。
辺りが真っ白になった。
もやもやが晴れた。頭の中がすっきりした。これで本当に眠れる。
夢の中で眠って、朝になったら欠伸をしながら起きるだけだ。
後は眠るだけ……そう思っていた。
――助けて。
夢は始まっている。
それは彼女の声に似ていた。ああ、うん、助けるよ。頷きながらそう思う。
早くそう言ってほしかったんだ。
女の子の声だ。それは寂しげで、淋しげで、ずっと泣き枯らしたような声だ。
……いや、これは夢だ。
いつだったか、異世界に行って世界を救うゲームの冒頭が、こんな場面だった。
それはこんな声から始まる。
――助けて……っ。
つまりこれは記憶か。つまりこれは夢か。夢以外あり得ない、そんな響きだ。
ただ、最初に聞こえた声とは違う。別の誰かだろうか。
自分は誰かを助けたいのか? 無きにしも非ずと言える。英雄願望があったのか。
その声は、命の底から叫んだぎりぎりのもがきのように、今も聞こえている。
――助けてください。
また、違う声。複数の声だ。女性の、様々な女性の声が混ざっている。
それには泣き声も、混じっていて……。
助けを求める声に被って、泣きじゃくる子供の声がする?
夢の中で、目を凝らし、視界を回した。ぐるぐる、ぐるぐる、と――
闇に
それはたった一人だった。彼女が声の主なのか――いや、男の子、か?
分からない。男の子のようにも、女の子のようにも見える。
それは顔も影も形も分からない、それなのに陰影だけが両腕で体を抱きかかえ、座り込んでいた。
……ともかく、放ってはおけない。
そこに近寄る。音もなくスゥーっと視界だけが移動すると、俺は夢の中で彼、もしくは彼女に腕を伸ばした。触れた途端、
「――お願い……一人にしないで」
……分かった。
「――お願い、だれか…… 君、」
いや、分かってるから。
そう何度も言わなくても。君が辛そうなことぐらい。
本気で助けを求めていることぐらい、分るから。だから言う。
――分かってるよ。
今度は俺の声だ。でもきっと、彼女には届かないんだろうな。
……。
静まり返っていることに気づく。
泣き声は止まった。誰かがこちらを見ている――その視線を感じた。
誰なのか。振り返る。居ない。振り返る。居ない。
女の子の影が消えている。そして光が差し込んでいた。
闇の中に突如として差し込んだ光が、手の形になって伸ばされている。
ひらひら、まるでくじでも探るように、あっちこっちに手を伸ばしている。
なんか、間抜けに見えるが。
その手は必死に足掻いて何かを求め――もがいているように見える。
真っ白な女の子の手だ。
手を伸ばすしかないだろう。
約束したしな。いや、していない? いや、約束だ。
現実ではまだ何も出来ないけどせめて夢の中ぐらいは、誰かの力になりたいし。助けられなかったことを後悔したくない。
そんな衝動に突き動かされる。ヒーロー願望ではない。ただの泥臭くてみっともない終わった後の悪足掻きだ。ただの後悔なのだ。
真っ暗な中、自分の手の平の感覚を――腕を伸ばす。それと同じ速さで、光が遠ざかっていこうとする。
一瞬、遠慮しているような気がした。迷惑じゃないのかと気にしている気が。
(バカか?! ……クソッ!)
そんな罵倒をしたくなる。
気にすんなよ。そんな苦しいならなりふり構わず助けを求めろよ。
追い掛ける。どんどん遠ざかっていく手を。もはやそっぽを向いて手を引っ込めてしまった光を。追い掛ける。足掻く。ここは夢だ。夢の中なら何だってできるはず。夢の中でさえ足掻けないなら現実でもどこでも何も出来やしないはず。だから息を切らせて、必死で、追い縋った。みっともない意地を見せる。何度も足がもつれそうになる。冷静を気取らない。足掻け、足掻け、足掻け、足掻け!なりふり構わず手を振り回して! ああくそ! そっちこそ掴もうとしろよ!
彼女は逃げようとしている。
(――もっと足掻けよ! 助かろうとしろよ!)
懇願する。でないと――
目の奥を横切った。ベッドで寝り続けている彼女が。
まるで死体だった。泣きたくなった。自分が情けなくて悔しくて。悲しくて。
もっと自分が押しつけがましく前に出ていれば。無理やり抱き締めてでも、迷惑がらせても生きさせていれば――
喉の奥から熱が来る。
だから叫ぶ。
「――もっと、助けてほしいって言えよ!」
彼方から、――無言の叫びが聞こえた気がした。
その時、誰かの手を掴めた気がした。
瞬間、光が溢れた。
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