第十話 嵐の予感

(瞳子)


 パパ宛に一通の封書が速達で届いた。

 

 封書の表にはうちの住所とパパの名前以外、何も書かれていない。ただ、その厚みから何枚か紙が入っているらしいことが分かった。

 パパが開けてみると、その中には四月朔日さんの丁寧な筆跡で、

「先日は有り難うございました。今度、信濃大学で開催される弊社後援イベントのチケットを入手致しましたので、お送り致します。アリーナのS席となりますので、くれぐれも無駄にはされませんように」

 という、注意書きとも脅しともとれそうな簡単な文章とともに、大学の体育館で開催される試合のチケットが五枚と簡単なパンフレットが出てきた。それによるとプロレスラーと一般人が対決するらしい。

「これは困ったな」

 言葉とは裏腹に、パパはそれほど困っていないような口調で言った。

「私に、必ず来いと言っているようだね」

「一枚はパパのだとして、残りの四枚はどうするの。会社のお友達に配るの」

「いや、会社の人を連れていくのはどうだろうね」

 なにしろ、送り人があの四月朔日さんだ。当日は覆面作家方面で何が起きるか分からない。

「じゃあ、事情を知っている私とサトちゃんだったらいいかな」

「えっ、小学生がプロレス観戦かい?」

「駄目なの?」

「いや……大学の体育館で開催されるぐらいだから、そんなに危険なことにはならないと思うけど――」

「サトちゃんはこういうの好きだと思うなぁ」

「そうかい。うーん、そうかもね。でも、山田さんのご両親が駄目と言ったら、駄目だよ」

 要するに、笠井家はオーケーということだ。

 基本的に私のパパとママは私の世界が広がりそうな機会であれば、危険が伴わない限り認めてくれるので、私はとてもやりやすかった。


(三好)


 イベント当日の早朝。

 アマゾネス斎藤は、機材を積み込んだ大型トレーラー二台と、スタッフを詰め込んだ貸し切りバス一台を連ねて、松本市に乗り込んできた。

 目を丸くした私たち四人の顔を見て、

「これでも必要最小限の機材に絞り込んだんですけどね」

 と、斎藤は苦笑混じりに言った。そのあまりの屈託のなさに、初対面の浅月がさらに驚く。

「言葉遣いが丁寧ですね。なんだか、隣のお姉さんが帰省のついでにうちに遊びに来たような感じです」

 先日、一晩を一緒に過ごした男三人が感じながらも言語化できなかったことを、浅月が適切な表現に落とし込んだ。

 そう、斎藤には『世間一般が思うプロレスラーのイメージ』とは離れたところがある。

「ああ、それ、よく言われるんです」

 斎藤は腰に両手をあてて、笑った。

「幼なじみの影響かしら。とてもおっとりとした子とずっと一緒にいたからでしょうね。こういう稼業だと、相手に舐められないように知らず知らずのうちに言葉遣いが荒れやすいんだけれど、私はこんな自分が好きだから変えなかったんです。彼女もそのほうが私らしくていいと言ってくれますし」

「大事なお友達なんですね。とても羨ましいです」

 横で見ていた三好は気が気ではなかった。

 浅月が家族からの高すぎる要求水準と、それに対する本人の過剰適応に苦しんでいることを知っていたので、斎藤のような人間関係は浅月の疎外感を助長しないかと思ったのだ。現に浅月は寂しそうな顔をしていた。

 斎藤は、そんな浅月の様子に気がついたに違いない。腰を折って顔を浅月の高さまで下ろすと、

「なあに、女の子なんだからいい男を捕まえてしまえば人生の逆転勝利よ」

 と言って、あの全開の笑顔を見せた。

 理屈は通っていない。ストレートにありきたりなことを言っただけなのに、斎藤の存在感が言葉に力を与えていた。

 浅月は素直に応じる。

「そうですよね。乙女趣味と笑われても、素敵な王子様を実際にゲットしちゃえば勝ちですよね」

「その通り――」

 と、斎藤はまた背筋を伸ばして腰に両手をあてると、おもむろに爆弾を投下した。

「で、あの三人のうちのどれにする? 各々、わりといい感じに仕上がっているわよ」


(瞳子)


 サトちゃんに電話をしてみた。

「もちろん、洋さんも一緒でしょうね」

 サトちゃんの第一声は想定通りだった。

「一緒だよ。むしろ四月朔日さんはパパに用事があるみたい」

「――くっ、あの女狐め。まだ洋さんにちょっかいを出そうなどという姑息なことを」

(あの……サトちゃん、それは自縛自縄じゃないかな)

「行くわ、私のお父さんやお母さんが反対したら、駆け落ちしてでも行く!」

(だから、相手はどうするの)

 結局、サトちゃんのパパとママは面白がって賛成したという。さらに、サトちゃんのパパとママは大人だけの時間を満喫するつもりらしく、残り二枠から早々に逃げられてしまった。

 私のママは相変わらずショコラ・デ・トレビアンの予告状に振り回されている。当日もどうなるか分らないらしい。

 ということで、非常にもったいないことに残りの二つは空席と確定してしまった。


(三好)


 体育館の役員控室で午後二時の開場準備をしながら、四人は何となく落ち着かなかった。

 当日の設営はプロの仕事で、驚くほどのスピードで進められている。四人が手を出すほうが邪魔になるので、そちらは完全にお任せである。他の準備は二時間もあれば終わる。

 要所要所には同好会の先輩が配置されているので、そちらも基本的にお任せである。午前十時にはすべての段取りが完了して、四人は控室で待機していた。

 手が空いてしまうと、斎藤の爆弾が破裂したおかげで少しだけぎこちなくなる。


 全員が状況を等しく理解していた。


 浅月の「王子様」は決して乙女趣味ではなく、家という拘束からの解放を象徴するものであること。

 そして、三人は「自分がその王子様たらんこと」を望み、お互い口には出さないものの切磋琢磨していること。 仮に自分が「王子様」ではなかったとしても、浅月の相手にはその資質を充分に有していて欲しいと望んでいること。

 それが斎藤によって、言語化された。

「――みんな、冷たいお茶いる?」

「あ、ありがとう」

「お、おう。すまん」

「ども」

 なんだか言葉が少ない。いつもは空気を読まないムードブレイカーの浅月まで構えてしまっている。

(ええい、やりにくい)

 今回のイベントの仕切りは、すべて三好に任されている。このような事態を収拾するのも三好に課せられた役割の一つに違いない。

 彼は覚悟を決めると、立ち上がって他の三人を見回し、その顔に怪訝な表情が浮かんでいることを確認したところで、おもむろに切り出すところで――


「おはよー、なんか凄いことになっているけど大丈夫かよ」


 という元気な声に、すべて持っていかれてしまった。

 声と共に役員控室に入ってきたのは、背の高い男性だった。細いけれどくっきりとした眉の下に鋭い目が輝いている。

 鼻筋が真っ直ぐ通って、その下の意志の強さを象徴する口元に、違和感なくすんなりと繋がっている。

 長めの髪と服が少しだけ乱れていたが、全体的にすっきりとまとまった風情の男に、三好は見覚えがなかったものの、

「初めまして――でいいんでしょうか?」

 声に聞き覚えがあった。

「あ、君が三好君か。初めまして、権藤です」

「えっ、格闘技通信の権藤編集長ですか!?」

 野沢が身を乗り出した。

「毎号買ってます。愛読書です」

 これは事実。

「おう、有り難う。いやぁ、もう少し早く来るつもりだったんだけどよ。昨日の校正が押せ押せで」

 そう言いながら権藤は滑らかな身のこなしで、パイプ椅子に座ると、

「いやぁ、遅れて済まなかった」

 と頭を下げた勢いで、机に頭をぶつけた。

 三好はその姿を見て、とうとう我慢ができずに吹き出してしまった。

「――ああ、大変失礼しました。想像していた権藤さんの姿とあまりにも違っていたのに、声と行動が電話そのままだったので」

「ああ、そいつはよく言われる」

「黙って座っていればファッション紙の編集長で通りそうなのに、喋った途端に『年末のテレビでよく見るアメ横の大将』みたいな感じになりますけど」

 浅月がこれまた適切な表現をした。権藤はその評価に慣れているらしく、にやりと笑うと、

「自分が好きなように自分を表現して、その代わりにそれに伴う責任もきっちり引き受けるのが大人の男ってもんよ」

「――責任、ですか」

「おうよ。好き勝手やったら責任取らなきゃ。女もそうだ。普段は甘えて我儘わがまま言い放題でも、いざ決める時は自分で決める。それが大人の女だよ」

「――自分で決める、ですか」

「おうよ」

 そう言って、権藤は目を細めて笑った。さきほどの目付きの鋭さが消え、包み込まれるような温かさを感じる。浅月もなんだか釣られて笑っていた。

 三好は思った。

(朝から見事な大人の見本ばかりだ。浅月の見本は斎藤さんだし、俺達の見本は権藤さんだし。今日は濃密な一日になりそうな気がする)

 そこで、先程から黙っていた沢渡が口を挟んだ。

「ところで、先程『なんか凄いことになっているけど大丈夫か』って言われていましたが」

 権藤がキョトンとした顔をする。何をしても絵になる人だなと三好が考えていると、権藤までがおもむろに爆弾を投下した。

「お前ら、見てないのかよ。会場の入口がすごいことになってんぞ」

 四人は顔を一瞬だけ見合わせると、一斉に役員控室の出口から外に駆け出した。


(瞳子)


 昼前に会場に到着すると、入口前に長蛇の列が出来ていた。パパがその中の一人に聞いてみると、当日券のために並んでいるという話だった。

 こんなにいっぱい会場に入れるのかしらと疑問に思いながら、前売り券(というよりは招待券)がある私たちはその横を歩いた。

 前売り券組も集まり始めているようで、先程とは別な列が体育館の入口から伸びている。その最後尾に並ぼうとしていたところで、

「あ、笠井さん。来て頂けたのですね」

 と声をかけられた。四月朔日さんである。

「しかも両手に花ですか」

 私たちの前にかがんで目線を合わせると、四月朔日さんは自己紹介を始めた。

「こんにちは、私は笠井さんに仕事の関係でお世話になっている四月朔日です」

「あ、四月朔日さん。この子たちはもう覆面作家の件は知っているから大丈夫です」

 パパがいきなり暴露した。

「えっ、あら、まあ。そうなんですか」

 四月朔日さんは驚いていた。まあ、覆面作家がいきなり正体を明かしているわけだから驚きもするか。

「こっちのツインテールが私の娘で、笠井瞳子です。こちらの淑女が知人のお嬢さんで山田聡子さんです」

 まあ、この呼び方の格差は大人の世界では常識だからしかたがないが、サトちゃんは持ち上げられて完全に舞い上がった。

 さっきまで四月朔日さんを親の仇のような鋭い眼光でにらんでいたのに、今は完璧な淑女モードに切り替わっている。

「はじめまして、山田聡子です」

 サトちゃんは一重の切れ長な瞳を輝かせると、スカートの端を持って肩すれすれで切りそろえた癖のない黒髪を揺らしながらお辞儀をした。

 このような仕草がいちいち堂に入っているからあなどれない。

「あら、ご丁寧にどうも有り難うございます」

 四月朔日さんのほうは、右手を前方に、左手を背中のほうに流して、舞踏会でダンスを申し込む男性のような挨拶をした。こちらも、ショートカットの髪といい、とても似合っている。

 ただ、私にはなんだか軍鶏が喧嘩の前に羽根を大きく広げて威嚇しあっているように見えた。

「さて、まだ開場までは時間がありますが、特別に会場内をご案内致しましょうか」

「えっ、いいんですか!?」

「はい。皆さんは私がご招待したお客様ですから、私の権限で一足お先に場内をご案内致します」

「まあ、素敵!」

 サトちゃんは『特別扱い』という言葉にたいそう弱い。

 先程までの軍鶏の威嚇はすっかり忘れ、足取りも軽く四月朔日さんの後に小鴨のようについてゆく。その姿を後ろから追いかけながら、パパと私は苦笑した。


(三好)


 会場の入口に駆けつけた四人が見たものは、当日券販売コーナーの前から伸びる長蛇の列だった。

「――おい、三好」

 沢渡が震える声で言う。

「この間のチケットの枚数の件は済まなかった。謝る。それで――これはどう対応しようか」

 三好の頭は白くなっていた。

 チケットの前日までの販売枚数は予想通りの八百枚。当日券を入れても千人を超すまいと高をくくっていたのだが、この列の長さからすると――

 当日券の販売をお願いした三回生が駆け寄ってくる。

「三好、もう五百は集まってる。まだまだ増えるぞ。今、当日券をコピーで増産しているけど、この人数を収容できるのか?」

 無理だ。体育館の中にギリギリまで椅子を並べ、壁際を立ち見にしても、千五百人以上は無理だ。

 それ以上は断るか。しかし、この調子で人が集まるとかなりの数があぶれるから、断る際に何か一つでもトラブルが起こると収容がつかなくなる。

 どうする。

「どうするよ」と、野沢。

 どうする。

「どうしよう」と、浅月。

 どうしよう。


「どうってことないわよ」


 そう、どうってことは――って、えっ?

 振り向くとそこには斎藤が立っていた。その後ろから権藤がゆっくり歩いてくるのが見える。

 斎藤が腰に両手をあてて言った。

「こんなこともあろうかと屋外用のスクリーンを持ってきました。会場に入りきらない分は外で観戦させればいいし、入場料を半額にすれば文句は出ないでしょう」

 三好は小声でそれに答えた。

「しかし、後半部分は――」

「ああ、そこは屋外には出せませんね」

「それではやはり、不満が出るかもしれない」

「いえ、大丈夫です」

 斎藤は胸をそらし、

「そのために隠し玉を準備しておきました。ねえ?」

 と言いながら、斎藤は権藤の肩を叩いた。

「やっぱりかよ。なんだかおかしいと思ったんだよ」

 権藤は頭をかいた。

「面白いネタになるから必ず来て下さい、と呼び出しがあったもんだから来てみれば、後半はマスコミ非公開で月刊誌編集長なんかもっての外だと言われた上に、屋外の連中の相手とは。まったくお前らは揃いも揃って人使いが荒い」

 そこで大きく溜息をつく。

「わかったよ。今回のは貸しにしとくから今度必ず返せよ」

「いつもながらいい男ね。権藤さんは」

「うるせえ」

 権藤は言葉ほど怒っていない様子で立ち去りかけたが、二歩進んだところで立ち止まった。そこで振り向くと、なんだか人の悪そうな表情を浮かべて斎藤を見つめながら言った。

「そうそう。外の連中を黙らせるためには、やはりとっておきのネタを披露しないといかんわなぁ」

「なんですか、権藤さん。ずいぶんと薄気味悪い顔をしていますよ。私には別に特別なネタなんかありませんから」

「ふーん、そうかなあ」

「ありませ――」

 それまで余裕の表情を見せていた斎藤が、一瞬にして固まった。急に顔が赤くなる。

「――ま、まさか」

「そのまさかよ」

「えーっ、それは反則技だわ! 場外乱闘の凶器攻撃よ!」

 何事にも動じない巌のような雰囲気だったアマゾネス斎藤が、今は女子高校生のように真っ赤になって、権藤に噛みついている。

「いいじゃないか、減るもんじゃなし」

「減ります。それに『月刊格闘技通信の編集長』という、権藤さんの肩書が泣きます」

「かまわんよ、俺は気にしない」

「気にしてください!」

 そう言って斎藤が権藤に食ってかかる姿は、なんだかとても可愛らしかった。


(瞳子)


 入口のほうから女の人の声がした。そちらのほうを見ると、今日の主役であるアマゾネス斎藤さんだった。

 真っ赤な顔をして男の人に食ってかかっている。男の人はなんだかとても楽しそうだ。私たちはその様子を遠巻きにしながら、会場内へと入っていった。


 体育館の中には大きなリングが作られていた。

 ゴムの臭いとと油のような臭いが空間を漂っている。金属が擦れあった時の金物臭い臭いもしていた。

「リングに登ってみますか」

「はい!」

「あ、はい」

 サトちゃんの元気な声に遅れて、私もお願いした。

 四隅の階段を登って、ロープの間をすり抜けてリングに上がる。上は、なんだかふわふわしていて、つるつるしていて、そしてとても広かった。想像していたよりも広かった。

(私たちが小学生だからかもしれない)

 いや、それだけでもないような気もする。

 この空間だけが照明で照らされていて、周囲は暗闇の中に沈んでいた。周囲に人がいることは分かる。表情もよく目を凝らしてみると分かる。でも、リングの上と下は全くの別世界だった。

 この四角くて白くて輝いている空間で、今日は何が起こるのだろうか。

 サトちゃんはリングの中央で、勝ち名乗りをあげる練習をしている。私はむしろリングの上から見る周囲の景色に心を奪われていて、そのために気がついた。

 観客席の向こう側、壁沿いの暗闇の中を『発光しながら泳いでゆく魚』の姿があった。

(間違いない、あれは――)


(三好)


 役員控室に戻ると、沢渡はさっそくネットに繋いだパソコンで「今日のイベントの情報がどの程度拡散しているのか」を調べ始めた。すると大変なことになっているのが分った。

 私たち四人は昨晩から部室に詰めていた(浅月は一人暮らしにも拘らず、毎晩定時に実家から状況確認の電話が入るので、その時だけは男三人は物音を立てられなかった)ので、世間の動きを気にする余裕すらなかったのだが、昨晩、有名なサイトにあるプロレス専用掲示板に、今日のイベントのことがアップされていた。

 実は三好たちは、今回のイベントの趣旨が「新人勧誘」であることから、大学の行事にとどめておくために学外への広報活動を殆どしていなかった。

 そして、なんとか当初目標通り八百枚のチケットを完売できたから、それ以上はもう何もしていなかった。

 ネットでの情報拡散は『午後二十二時四十五分』という、非常に適切かつ絶妙なタイミングで行われていた。

 もう少しアップが早かったら、場内と場外をあわせても会場のキャパシティを早々に超えていただろうし、もう少し遅ければほとんど話題に登らなかったはずだ。

 客は集まり続けていた。場外の観客席が急いで準備されて、浅月が速攻で作り上げた観覧システムの説明文も投入されたため、混乱は少なかった。

 最悪の事態は無事回避されたものの、三好は違和感を拭いきれなかった。

 なんだか踊らされているような気がして仕方がない。

(だいたい何故、斎藤さんは最初から場外設備を準備していたのだろうか。機材は必要最小限だと言い切っていたのに)

 権藤との言い争いの流れで役員控室までついてきた斎藤が、パソコンの画面を覗きこんで掲示板の文章を読んでは大笑いしている。

 その他意のない姿を見ながら三好が疑心暗鬼に囚われつつあったその時、控室のドアが控えめにノックされた。


(瞳子)


 間違いない。さっきの影はあの人だ。

 関係者以外立ち入り禁止のはずの開館前の会場でその姿を見たということは、あの人も『関係者』の一人であることを示している。

 他の子ならば、

「そんなところにいるわけがない」

 と簡単に割り切るだろう。

 しかし、私は知っている。あの人が格闘技のイベント会場に来るのは『あり得る』ことなのだ。

「さぁ、次のところを案内しますよ」

 四月朔日に呼ばれてリングを降りたところで、素早く会場の中を見回してみたが、もうあの人の姿はなかった。

「まだ時間がありますから、ちょっと休憩させてもらいましょうか」


(三好)


 役員控室のドアが開いて、三人の男女が入ってきた。

「こんにちは」

 女性が挨拶をした。

「今日の責任者の方はどなたでしょうか」

「はい、私ですが。何か御用で――あっ!?」

 三好は立ち上がって応対しようとして――硬直した。

「あら」

 相手も気がついたらしい。

「あなたは確か、あの時のアルバイトの学生さんで――」

「そうです。信濃大学の三好です。今日のイベントの責任者です」

 三好は頭を下げた。同じく面識がある浅月も、頭を下げていた。

「――どうして刑事さんがここに?」

「それはもちろん仕事だけど――あら、他の方が放置状態ですね」

 背筋を伸ばすと彼女はよく通る声で言った。

「松本警察署刑事部刑事課の笠井鞠子です。連れは同じく松本警察署刑事部刑事課の馬垣と榊」

 アマゾネス斎藤よりも大きそうな男性二人が頭を下げた。

 室内にいた全員が怪訝な顔をした。その様子を見て鞠子は苦笑すると、言葉を付け加えた。

「なお、彼らは苗字が違うことからもお分かりの通り、他人の空似であり双子ではありません」

 馬垣と榊が、少しだけ照れたように笑った。


 そこでまた、部屋のドアがノックされる。


 既に室内には、三好、沢渡、野沢、浅月の格闘技同好会四名と、アマゾネス斎藤および権藤、さらには笠井、馬垣、榊の松本警察署刑事三名がいたので、かなり混みあっていた。

 そこに今度は、小学生らしき女の子二人と白髪頭の男性を連れた四月朔日が入ってくる。

「あれ」

「あら」

「おや」

 なんだか収拾がつかない声が室内に充満する。

 まず、小学生の一人、ツインテールの髪型と大きな瞳、広い額がとても印象的な子が言った。

「ママ、どうしてここにいるの?」


(瞳子)


 四月朔日さんに連れられて入った控室は人でいっぱいで、しかもママと馬垣さん、榊さんまでが驚いた顔をして立っていた。

「あら、瞳子とパパ、それに山田さんじゃない」

 驚いたママは、つい家用の声をあげた。

「鞠子さん、事件ですか。殺人? それとも爆破予告か何か?」

 サトちゃんが、大人しそうな外見からは想像もつかない、思いきり不穏当な発言をした。

「まだ何も事件は起きていませんよ。それにしても、どうしてパパまでここにいるの?」


(三好)


 笠井刑事は白髪頭の男性を見て「パパ」と言った。

 三好と沢渡は、その男性に見覚えがあった。田中デパートで彼らの後に四月朔日と打ち合わせをしていた人物だ。

「ああ、このイベントを後援している会社の方から招待状を頂いたのでやって来たんだ。こちらがその会社の方」

 白髪頭の男性が四月朔日を手で示す。

「初めまして、高段社のワタヌキです。ご主人にはいつも大変お世話になっております」

「初めまして。あの、どこかで――」


(鞠子)


 会場の入口で係員から聞いた話では、今回のイベントの主催者は大学の格闘技同好会、その後援しているのが出版社ということだった。

 会社で経理を担当しているパパが出版社の方と接点を持っている点は不思議だったが、他にもおかしな点があり、私の脳はそちらに振られていた。

 この『ワタヌキ』という名前には聞き覚えがある。

 しかし、事件に関連する文字情報の長期保存や視覚情報の画像処理に優れている私の脳は、それゆえのことなのか、短期記憶にまわしてその場で処理してしまった情報は残り難い。


(三好)


「あの、それでご用件はなんでしょうか」

 先日の非合法活動以来、あまり警察とはお近づきにはなりたくなかったが、あまりにも先の見えない展開につい苛立ちを覚えて声を出してしまった。

 これはまさに犯罪者の心理状態そのものだ。

 後でよく考えてみたら、このままほのぼのとした展開が続いて、そのまま終わってしまえば理想的だった。隣にいた沢渡の、

(あっ、余計なことを言いやがって)

 という顔が三好の視野の片隅に入ったが、やってしまったものは仕方ない。そのまま強硬突破する。

「人が大勢集まったために、近隣から苦情が出ているとか」

 今思いつく中で一番穏当なものを引き合いに出してみた。

「ああ、そういうことではありません。私たちのような刑事課の人間が担当しているのは、刑事事件であることが明らかな事案についてです」

 笠井刑事はそう言うと、夫のほうを向いて、

「パパ、ごめん。仕事だから瞳子と山田さんをお願いできないかしら。四月朔日さんは関係者ですか」

「まあ、出席者の友人として関与している程度です」

「イベントの運営に直接関与されていないのであれば、申し訳ありませんがご退出願います。他に部外者の方は?」

 沢渡が答えた。

「今日のイベントの出席者と運営者という意味であれば、それでよいと思います」

 しきりに残念がる小学生二人を促して、白髪頭の男性が退室する。

 そして、やっと、

「さて、用件ですが――」

 笠井刑事は仕事モードらしい、はりのある声で言った。

「本日早朝、松本警察署に手紙が投函されました。実物は『捜査上の機密事項』に該当すると判断されたためお見せすることはできませんが、犯罪の予告状とだけ申し上げておきます」

(犯罪の予告状?)

 室内にいた刑事を除く全員が、微妙な顔をした。野沢が、その場の全員の思いをいつもの美声で代弁する。

「その……何かの間違いではありませんか? 犯行予告をされるようなものはここにはないと思うのですが」

「そう思われるのも無理はありません。私たちも、普通であればいたずらか嫌がらせを疑うべき事案だと思います。しかし、届いた犯行予告は本物なのです」

「どうしてそんなことが断言できるのですか?」

 という野沢の追究を、笠井刑事は右手を挙げて制した。

「その点が捜査上の秘密なのです。連続家宅侵入犯および連続窃盗容疑者本人と、事案を担当している刑事しか知らない符丁があり、それで本物であることが分かります」

「ちょっと待ってくれ」

 慌てて権藤が後ろから身を乗り出した。

「遮って悪い。先に俺の素性を明かす必要がある。雑誌の編集者をやっている権藤だ」

「――ああ、マスコミの方がいらっしゃるのは承知していましたが、非常に適切な判断です。私のこれまでの発言およびこれからの発言は、現時点では報道協定の対象ではありません。仮にマスコミに情報が流れても、皆さんが訴追されることはありません。背景説明は以上でよろしいですか?」

「どうもご丁寧に有り難う。質問してもいいですか」

「どうぞ」

「さっきの刑事さんの発言に、ちょっと引っかかるところがあった。連続家宅侵入犯、これはいささかショボいが意味は分かる。しかし、連続窃盗容疑者というのは訳が分からん」

「言葉通りです」

「いや、その説明はおかしい。それでは窃盗があったのか、なかったのか分からないことになり、しかもそれが連続していることになる。しかも、それを刑事がわざわざ追いかけているのはどうしてなんだ?」

 笠井刑事は溜息をつくと、両腕を上げて掌を正面に向けた。

「分かりました。もう少しだけ補足説明はしますが、言葉通りにそのまま受け取って質問は繰り返さないで下さい」

 笠井刑事は左手を腰にあてて右の人差し指をたてると、一気に言い放った。

「犯人は、事前の犯行予告あるいは事後の犯行通知により、一般家屋及び公共施設に侵入したことを表明しています。しかし、家屋の居住者及び施設の管理者からは具体的な物品の盗難届は出ていません。何が盗まれたのか分からないのです。何も盗んでいないという可能性すらあります」

「つまり、わざわざ警察に予告状まで送っておきながら、侵入するだけで何もしていないということか」

「その通りです」

「なんのために」

「その質問には答えられません」

 笠井刑事はそう言うと、視線を権藤から三好に移した。

「というわけで、本日のイベントについて我々三名が場内及び場外の警備にあたることに同意して頂きたいのです。もちろん、同意がなくとも警備にはあたりますが」

 三好は同意するほかなかった。


 *


 この時点で、刑事たちと権藤を除く五人には疑念が生じていた。

(二番目あるいは三番目の条件が、笠井刑事の言うところの犯行ではないか)

 しかし、それを指摘することは彼らの非合法活動を白日の元にさらすことと同じである。

 しかも、二番目の条件自体は『公共施設への立ち入り』だが、家屋や施設内部への侵入行為ではない上に、窃盗行為は一切なかった。

 三番目の条件については、今日のイベントスタッフに臨時の大学内への立ち入り許可証が出ていることから考えて、違法性はないと抗弁できないこともない。

 それよりも、これまでの事件と今回の事件の詳細を知らない彼らには、それらが一連の事件であることが証明できない。


 ただ一人、前回の事件との接点に気づいた者以外は。


 *


(瞳子)


 いいところで追い出されたサトちゃんは、盛大にむくれていた。

「もーっ、せっかくこの『美少女名探偵』が事件現場にいたというのに追い出すなんて。この『白色の単細胞』――」

(サトちゃん、それすごく頭が悪そうだよ)

「――身体は少女、心は乙女の『美少女名探偵』を無視するなんてっ! もう迷宮入りしておしまいなさいっ!」

(サトちゃん、微妙に聞いたことがあるフレーズだけど、事実そのままだよ)

 パパと四月朔日さんが、苦笑しながらなだめている。しかし、サトちゃんはおさまらなかった。手にしていたハンドバッグを勢いよく振り回した拍子に、中からおサイフが飛び出す。

 派手な音とともに、小銭が辺りに散らばった。

「あああっ」

 想定外の状況に、矛先を別なところに向けるサトちゃん。

「もーっ、お父さんったら! 出がけにお小遣いを小銭で出すんだもん。入れるところがないと言ったら『ポケットに入れておいたら』ですって! 乙女の勝負服にポケットなんかありません! あっても動き回ったら中の小銭が落ちるので、迷惑なんですうっ!!」

 もうすっかり頭から湯気が出ていた。

 回りにいた人たちは微笑みながら小銭を拾ってくれていた。頭から湯気が出ている時でもサトちゃんはなんだか可愛い。私も笑いながら手伝っていたのだが、ふと、あることに気がついた。


 なるほど、おサイフがないと急にお小遣いを貰っても困るんだ。


(三好)


 また、役員控室のドアがノックされた。


 扉が控えめに細く開けられて、

「あのー、こちらに茜ちゃ――いや、斎藤さんはいらっしゃいませんでしょうか?」

 という、おっとりとした優しい声が聞こえてきた。途端にアマゾネス斎藤が盛大に天を仰ぐ。

「あっちゃあ、そうだった。淳子のことをすっかり忘れてた。皆さんすいません。私は試合の準備があるので後は宜しく」

 斎藤が勢いよく立ち去る。ドアの向こうから、

「もう、茜ちゃんたら忘れんぼうなんだから」

「悪かった。いろいろとトラブルがあってね……」

 という話し声がしたが、次第に小さくなって、消えていった。

「では、我々も配置につきますので」

 続いて笠井刑事と部下も退出した。仏像のような二人は、とうとう一言も喋らなかった。

「じゃあ、俺は外の準備をするわ。じゃあな」

 最後に権藤が滑らかな身のこなしで颯爽と退室した。

 四人だけになると、役員控室の空気が一気に弛緩する。誰もが椅子にだらしなく座っているところで、野沢がぼそりと言った。

「ところで、淳子さんって誰よ?」

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