第十六話 覆面怪盗からの苦情(九月十八日 洋)
スマートフォンの着信音が鳴った。
ワタヌキからの着信であることを確認すると、洋は車を近くにあったコンビニの駐車場に停めて、電話に出た。
「もしもし」
(いつから気がつかれていたのですか)
挨拶抜きで、ワタヌキの落ち着いた声が電話から聞こえてきた。
洋も挨拶抜きで本題に入る。
「あなたの犯行予告状を見た時です」
ふうっ――というワタヌキの溜息が聞こえる。
(先生が私のことに気がつくのは、もう少し後になるはずでした。先生のアイデアを盗用した時点で、いつかはそのことに先生が気づくだろうとは思っていましたし、気づいて頂く必要がありましたから。それにしても、まさか先生が罠を仕掛けてくるとは思いませんでした。前日の宅配便は、私が犯人であることを確認するためのものだったのでしょう。まったく、恨めしいです)
そこで短い沈黙が挟まる。
(でも、最初に、黙って、勝手に利用したのは私のほうです。大変申し訳ございませんでした)
「まったく真面目なんですから」
洋は嘆息する。
電話の向こう側から、微かに笑ったような気配がした。
(まさか先生のお知り合いに刑事さんがいるとは思いませんでした。しかも、私の事件を担当する方で、そこから犯行予告状が先生の目に触れることになるとは、予想もしませんでした)
「あ、御存知だったのですか。あなたが正直に話している以上、私も話さない訳にはいきませんね。実は、妻が松本警察署の刑事なのです。予告状の絵も、さすがに本物ではなく妻が書いた落書程度のものでしたが、教えてもらいました。それがワタヌキさんを指すものであると気がついた時、正確には、貴方がショコラ・デ・トレビアンの一人であると気がついた時には、驚きました」
その洋の言葉に、ワタヌキは急に警戒した。
緊張する気配が、電波に乗って遠くからやってくる。
(先生はすべて気がついておられるようですね。一応、どうして気がついたのか教えて頂けますか?)
「はい。あなたの予告状には宝石と魚が描かれていました。魚のほうがかなり図案化された抽象的な表現だったのに対して、宝石のほうはラウンドブリリアントカットを正確に表現したもののように見えました。それであれば、ただの宝石の絵のはずがありません。ラウンドブリリアントカットは、ダイヤモンドの代表的なカット方法です」
洋はここまでの話の流れを確認するように、一旦区切りを入れた。
ワタヌキからの反応はない。
つまり、ここまでの洋の推理に間違いはない、ということだった。
「ダイヤモンドは四月の誕生石です。ただそれだけでは四月生まれという可能性もありますが、魚が一緒に描かれているので違うことがすぐ分かります。しかも、怪盗の名前はショコラ・デ・トレビアンです。フランス語との関連を考えてみました」
洋は、またここで区切りを入れる。
ワタヌキからの反応は、やはりない。
「フランス語で『四月の魚』というのは、エイプリルフールを指します。つまり、怪盗はエイプリルフールと関係がある方になります。さすがに怪盗がフランス人であるという想定はしませんでしたから、日本人で考えてみます。すると思いつくのは、かなり珍しい名字の方だけです」
洋は僅かに間を空け、次のように言った。
「だから、
言葉を切る。
電話の向こう側で、
(さすがは先生です。私が意図した通りのことを、ちゃんと理解されている)
「ここまでは難しくありませんでしたが――」
と洋が言ったところで、四月朔日が少しだけ怒ったように言った。
(先生のその、もってまわった言い方をする癖ですが、たまにいらいらすることがありますよ)
「すみません、妻にもよく怒られます」
洋は苦笑した。
「先を続けます。そこまで分かったところで、私には新たな疑問が浮かびました。あなたは出版社の編集者です。だから、明らかな文法上の間違いをそのまま放置することは、普通なら出来ないはずです。なにしろ、駅の売店で新聞の誤りを指摘してしまうほどですから」
洋はそこで話を区切る。
再び四月朔日からの反応はなくなっていた。
「それを甘受しているということから、もともと『ショコラ・デ・トレビアン』という名前自体が、あなたの発案によるものではないこと、そして名付け親があなたに多大な影響力を持つ方だと分かります」
四月朔日からの反応はない。
「しかも、フランス語の文法に対する無頓着さから、音の感じでこの名前を創造したことが推し量られます。同時にその可愛らしい印象から、小さな女の子であると推定できます。かなり蓋然性は低くなりますが」
四月朔日が微かに身動ぎしたのだろう。
衣擦れの音が伝わってくる。
ここまで気づかれたくなかったに違いない。
洋はその反応を無視して、話を続けた。
「そもそも、犯行予告という手法自体、犯人側のリスクが大きいだけで実効を伴わない非効率なやり方です。小説のような架空の世界であればともかく、現実の世界でそのような手法を実行しなければならなかったとすると、ショコラ・デ・トレビアンの基本的な犯行の手法は、その名前と同様に無邪気な子供の空想に基づいて決定されている、と考えるのが自然です。いわばプロデューサーですね。そして、それを現実世界で実行可能なものにするためには、細部を作り込む
そこまで一気に言うと、洋は息を整えるために間を空けた。
四月朔日の反応はない。
「そのような子供の空想を、至極真面目に現実化しなければならなかったのには相応の理由があるはずです。例えば、その子の空想が、今のその子が生きている世界のすべてである、というような」
(――入院しているのです)
ぽつりと四月朔日は呟いた。
それ以上の説明はない。
「そうですか。ふむ。しかし、そうなるとあなたが実際に覆面怪盗として家宅侵入を繰り返している理由の説明にはなりません。子供の治療費を捻出するためにしてはリスクが大き過ぎます。あなたらしくありません」
(――先生、もう答えに気がついておられるのでしょう?)
四月朔日が、少しだけ非難する響きを含めた声で言った。
今度は洋が沈黙する番だった。
(プロデューサーは私の娘です。先天的な免疫性の病気に罹っているために、一生病院の無菌室から出られないと言われています。彼女の世界はショコラ・デ・トレビアンの活躍が中心になっています。いつか怪盗が、自分をこの狭い世界から盗み出してくれる。それが彼女の唯一の希望になっています。それから――)
彼女はここで一旦、戸惑うように区切った。
(離婚しましたので夫はおりません。現実は厳しいですね。出来ればずっと子供と一緒にいてやりたいのですが、生活するためにはどうしても収入が必要です。子供の入院費用は、難病指定されていることから補助でかなりの部分がカバーされます。ですから、今の仕事を続けている限り、なんとかやっていけると思います。先生が仰る通り、目の前の小銭のために大きなリスクを取る必要はありません。しかし――将来のことがあります)
一旦間が空いて、四月朔日は次のように続けた。
(今はそれ以上、お話することができません。これまでの家宅侵入で金品を盗んだことは一切ありませんが、何度も繰り返しておりますので、逮捕されればお咎めなしという訳にはいかないことも覚悟しております)
少し笑ったらしい。
彼女の息づかいを電話が拾った。
(先生はもうそこまでお気づきなのでしょう? 私が実際に窃盗を繰り返していると先生が考えていたとするならば、決して私が逮捕されるところを助けて下さらなかったはずです。美術館で、先生のお知り合い――さすがに奥様とまでは考えておりませんでしたが、その方が警察官であることに気がついて、先生が覆面作家をされている理由が分かりました。奥様が現職の警察官である以上、その夫である自分が、あまり警察の内部事情を詳しく描く訳にはいかない。しかし、作品の質を保つためには、細部の描写が正確でなければならない。そこで覆面作家を選択されたのだと気がつきました。であれば、その作品自体が実際の犯行に使われた計画書であったと判明するのは、先生にとって望ましくはないはずです。しかし、それで悪を見逃すほど先生は甘くはない)
一呼吸分の間が空く。
(にもかかわらず、先生は私を守ろうとなさった。警察官に発見された時、私を助けてくれたのは先生ですね。美術館から出てきた私が何も持っていなかったことを確認してから、危機に陥った私の前に姿を現した)
洋は何も言わなかった。
四月朔日は笑ったらしい。
息づかいが、また電話の向こう側から聞こえてきた。
(私が何か美術品を持っていたならば、先生は私が逮捕されるところを黙って見ていたはずです。何も持っていない、家宅侵入程度の罪であったからこそ、先生は私を助けて下さった。実は私、逃げる途中で「先生は自分の立場や奥様の立場を守るために、私を救ったのではないか」と推測しておりました。しかし、先生が私の娘のことに気がついていたと知った今は違います。私を助けた理由が、そんな自分の都合によるものではないことに思い当たりました。先生は見知らぬ私の娘のことを心配して、私を助けて下さったのですね)
四月朔日は電話の向こう側で頭を下げたらしい。
衣擦れの音がした。
(そのことに大変感謝しています。仮に今後、私が逮捕された場合でも、先生のことは表沙汰にならないように努力したいのですが――既に巻き込んでしまった後では、あまり説得力がありませんね。編集者である私が逮捕されたならば、私が担当していた作家である先生の正体が、明らかにならない訳がありませんから。大変申し訳ございませんでした)
四月朔日が頭を下げた音を、電話が拾う。
洋は息を吐くと、言った。
「その時は仕方ありませんね。ただ、あなたの犯行に気がついた以上、それがどのような目的によるものかは分かりませんが、私はあなたを止めなければいけません」
(望むところです。ただ、私も今の生活を維持し、さらに今後の生活を確実にしなければならない事情がありますので、このまま仕事上の関係は継続させて頂きます。そちらも宜しくお願い致します)
「分かりました」
(先生――)
「はい、なんでしょうか」
しばし沈黙が流れた後、
(夫が先生であれば、どんなによかったかと思います)
早口でそう言うと、四月朔日は電話を切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます