第十話 少女プラス犬(九月十五日 瞳子)

 土曜日の朝、洋は予定通り外出した。

 その時はいつもと変わらない洋だった。

 鞠子は案の定、事件が忙しくなったようで朝から姿が見えない。瞳子も予備の鍵を持っていたので、自由に遊びに行くことができたけれど、まだ動くわけにはいかなかった。

 洋が出かけてから二十分後に瞳子の携帯電話が鳴った。防犯目的で持たされたこども用だが、ちゃんとつながる。

「もしもし」

「私。聡子」

 聡子からだった。今日、洋が女性と会う約束をしていると相談したところ、

「それじゃ絶対に尾行が必要よ。そうよ、現場を押さえるしかないわ」

 と、後をつける役を買って出てくれたのだ。半分は自分の興味関心によるものだろうが、瞳子は嬉しかった。

「今どこにいるの」

「田中の前。洋さん、女の人と田中の前で待ち合わせて中に入った」

 そこで聡子は言葉を一旦切った。なんだか興奮しているらしく、携帯電話の向こうから聡子の激しい息づかいが聞こえてきた。

 しばらく待つと、彼女の息が安定してくる。

「ごめんなさい。ちょっと取り乱してしまった。もう大丈夫」

 いつもの聡子の声だった。

「相手の女の人は綺麗だけどオバサンよ。趣味が悪いわ」

 聡子は溜息をつく。

「浮気するなら、私のほうが若くていいのに」

 ――やはり、興奮していたのはそれが理由か。

 このまま放置すると、何をするか分からない。

「今から行きます」

 瞳子は家の戸締まりをして自転車を持ち出す。

 いざという時には「散歩に出た」という言い訳ができるように、散歩用の笛をポケットにねじ込むとカニコ二号を連れて、松本市内中心部にある田中デパートに向かった。


 田中デパートの前まで行くと、どこからともなく聡子の声が聞こえた。

 ――建物の陰に隠れているのね。

 声がしたほうに行ってみる。すると、首から双眼鏡とデジタルカメラをぶら下げて、大きめの帽子を被り丸いサングラスを着けた完全武装の聡子が立っていた。

「サトちゃん、その格好……」

「東洋の女スパイを意識してみました」

 いや、むしろ非常に目立って仕方がない。

 ともかく、それどころではなかったので聡子に笛とカニコ二号を預けると、瞳子は田中デパートに突入した。


 田中デパートの二階にある喫茶店には、ほとんど客の姿がなかった。

 洋は奥のほうに座っていた。入口に背中を向けていたので表情が分からないが、相手の女性は入口側を向いていたので顔を見ることができた。

 ショートカットの髪を明るく脱色して、ところどころ毛先を逆立てていた。大きな瞳をくるくると動かし、たまに細めて笑う。

 鞠子とは違うタイプ、いたずら好きな猫のような印象の女性だった。

 瞳子の胸の奧がチクリと痛んだ。

 ――なんだかとっても楽しそうだ。

 瞳子は、相手から見えない位置で声が聞こえる場所はないか、あたりを伺った。

 喫茶店の前を通り抜けた先はトイレになっており、その前に待ち合わせ用のベンチがある。今は誰も座っていなかった。

 喫茶店と通路の間は観葉植物で仕切られ、ベンチの寸前から壁になっていた。

 ――あそこなら死角になっているけど、声は聞こえるに違いない。

 瞳子はデパートの中を大回りして、喫茶店から見えないように逆方向のトイレ側からベンチに近づいて、座った。

 洋の声が聞こえた。

「――りがとうございます。注意したつもりでも間違いがまだありましたか」

「はい。ちょっとしたところですが」

「さすがですねえ、よく気がついたものです」

「職業病でしょうか。日常生活でも、誤字や誤用に気がついてしまうと、どうしても直さないと気が済まなくて」

 女性の溜息が聞こえる。

「先日なんか駅のキオスクで新聞の間違いに気がついて、キオスクの店員さんに指摘してしまいました」

「まあ、仕事に誇りをもっているということでしょうか」

「そう言っていただけるとは光栄です」

 そして、洋と女性はお互いにくすりと笑った。

「それにしても、今回の注文は今までとはずいぶん違いますね」

「そうですね。今までは民家でしたが、今回は公共の施設ですから。条件もさすがに厳しくなります」

 二人の親密そうな姿とはうらはらに、瞳子が恐れ、聡子が期待していた浮気ではなさそうな会話の内容である。瞳子はひとまずほっとした。

 信頼できるパートナーと仕事の話をしている洋、ということらしい。

 公共の施設ということは、洋の会社が展示会でもやるのだろうか。しかし、仕事の話ならは会社でできるはずなのに、休日の喫茶店でわざわざ待ち合わせしたのはなぜだろう。

 瞳子の疑問をよそに、二人の話は続いた。

「基本的な計画は、既にお話しした通りで問題はないでしょう。ただ――」

「ただ?」

「今までと違って、美しくないのが気になっています。美学がない」

「確かに。先生はそういう点を気にされますからね」

 相手の女性が楽しそうに笑った。


 ――先生?


 意外な言葉に瞳子は驚く。なおも話は続いた。

「今回の計画では、AとBという目標があります。自分が狙っているのがBである場合、それをAであると偽装するためには、Aに対する念入りなケアが必要です。関心がないことを悟られたら終わりですから。そのためには、どうしたらよいか。まあ、簡単で分かりやすいのは贈り物ですね。Aに対して関心があることを形で示し続ける。そうすることでBへの関心から目を反らす」

 そこで洋はコーヒーかなにかを飲んだらしい。カップがかちりと音をたてた。

 話が抽象的になってしまったので、瞳子には何のことを言っているのか理解が難しかった

 が、会社の仕事ではなさそうだということは分かった。

 仕事の話だったら盗み聞きしてはいけないと思っていたが、もう少し様子をみることにした。

 洋は続けた。

「しかし、今までの正々堂々とした潔さがない。確かに公共施設は手強いけれども、手段がちょっとフェアではない」

「リアリズムと考えればよいのでは」

「それにしては生々しすぎる。もはや、これは現実のシミュレーションに近い」

 ちょっとした沈黙が訪れた。

 しばらくして、相手の女性が口を開いた。

「ところで、九月十二日にメールで頂いた修正ですが、あれにはどんな意味があるのですか」

「ああ、あれはわざとです。前日に動きがあることで、警察に現場の警備を強化せざるをえなくさせるためのものです」

 ――警察?

 瞳子はまたもや驚いた。

 ――どうしてここで警察が出てくるのだろう。

「なるほど。では当日の方はそのままでよいのですね」

「ええ、前日の騒ぎでマークされるでしょうから、当日は別な手段が必要です。覆面怪盗としては、指令を完遂することに最大限の努力をしなければならない」

 瞳子は固まった。今、とても不味い言葉を聞いたような気がした。

『覆面か糸』

『育メン回答』

『含め解凍』

 しかし、彼女は分かっていた。現実逃避に意味はない。

 覆面怪盗だ。確かにそう言った。

 瞳子は急いでその場を離れた。

 警察を呼ぼうと思った訳ではない。ただ話を聞いたということでは、警察は動かない。

 それは警察官の子供として理解していた。警察官はとても忙しいのだ。自分の家族に問題が発生していても気がつかないぐらい忙しいのだ。

 田中デパートの階段を駆け下りながら、瞳子は混乱していた。

(ひとまずサトちゃんにこのことを……)

 そこで瞳子は立ち止まった。

 聡子に何を相談するというのだろう。

 ――パパが実は覆面怪盗で、田中デパートで犯罪計画の打ち合わせをしていました。

 馬鹿げている。

 それに聡子まで巻き込んでよいことではなかった。これは瞳子の家族の問題である。自分で解決しなければならないことだと思った。

 それに洋は決して犯罪に手を染めたりはしないし、染めたとしてもそこにはかなりの重い理由があるはずだ。例えば誰かの命がかかっている、とか。

 鞠子はたぶん、家族の危機となれば警察を即座にやめてしまうだろう。


 その時、瞳子はかなり深刻な顔をしていたに違いない。

 目の前に人影が現れてこう言った。

「何か困ったことでも起きましたか?」

 はっとして瞳子は顔を上げる。目の前には高齢の女性が立っていた。

「落とし物でもしたのかしら?」

 女性はゆっくりと腰を落とすと、瞳子の目線に自分の目線を合わせる。

「あ、その、違うんです。ちょっと考え事をしてしまいまして」

 瞳子はあたふたと答える。女性は視線を和らげると言った。

「困ったときには大きく息を吸って、それから吐くのです。いい考えが浮かびますよ」

「はい、有難うございます」

 瞳子は言われた通りに息を大きく吸って、吐いた。気分が落ち着く。

「申し訳ありませんでした」

 そういうと彼女は聡子への言い訳を考えながら階段を下りた。

 女性はその後姿を見送る。しばらく身動きをしなかったので、同行していた男性が声をかけた。

「刀自、どうかなさったのですか」

 刀自と呼ばれた女性は、立ち上がりながら言った。

「いえ、なんでもありません。行きましょう、高見」

 そのまま、背筋をぴんと伸ばして、彼女は階段を登り始めた。

 高見はその背中を見守りながら、こう考えていた。

「恐らく、孫娘のことを考えておられたのだろう――」

 彼は眉を少しだけ潜めると、その姿を追いかけて階段を登り始めた。

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