第八話 隠す理由(九月十三日 瞳子)

 その日は朝から学校全体が少し沸き立っていた。

『児玉水力は五年東組の鈴木真凛さんのパパ』という情報が学校中に伝わり、教室の外には真凛を一目見ようと他の学年やクラスの子供たちが押しかけていた。

 真凛はいつもの取り巻きの同級生に囲まれて、とても得意そうな顔をしている。瞳子と聡子が教室に入ってきた時、真凜はちらりと横目で見て無視した。

「なんか、嫌な感じね」

 聡子がぽつりと呟いた。

 瞳子はその日ずっと、季節がかわっても枝の先に取り残されたままの蝉の抜け殻のような気分で過ごした。


 放課後、旭町小学校の児童クラブで瞳子が本を読んでいると、珍しく鞠子が迎えに来た。忙しくなる直前になると、鞠子は早めに仕事を切り上げて帰ってきた。

 そしてそんな時には洋にかわって迎えに来てくれるのだが、さすがに現職の刑事が学校にやってくると他の母親達が遠目に観察している空気が感じられた。

 鞠子はそんなことはまったく気にしていなかった。

「サトちゃん、お久しぶり」

「あ、鞠子さん。こんにちは」

 聡子も両親が仕事で不在の時には放課後児童クラブにいる。今日は幸一が迎えにくることになっていた。

 聡子の声がそっけない。洋が迎えにこなかったことが不満なのだ。

 彼女は瞳子の父親が大好きで、挨拶でもされようものなら、

「あ、洋さん。お仕事お疲れ様でした。今日も大変でしたね。外は暑くなかったですか。」

 と、それはもう大変な勢いである。

 瞳子は前に真顔で聡子から聞かれたことがあった。

「トコちゃん、私がママになったらどうする?」

「どうって――」

「嫌なの?」

「い、いえ、嫌ということはないんだけど」

「じゃあ、問題ないわね! ふっふっふ――」

 その続きは怖くてとても聞けなかった。


 瞳子と鞠子が家についた時には、洋は既に料理の下ごしらえをおえたところだった。

 瞳子は食後に読もうと思って、児玉水力の最新刊だけを居間に置くとランドセルを自分の部屋に置きにいった。

 戻ってくると居間のテーブルの上に本がない。瞳子はぴんときた。急いでキッチンにいくと、鞠子がいつもの勢いで瞳子の本を読んでいた。

「あー、私の本!」

「あ、ごめん。いつも熱心に読んでいる様子だったので、ちょっと覗かせてもらった」

「いいけど、私の前でストーリーを言わないでよね」

「わかってる、わかってる」

 と言いながら、鞠子はコーヒーを取った。

「わかっているんだが――」

 珍しく歯切れが悪い。

「どうしたの、ママ」

「いや、気のせいかもしれないので、いい」

 しかし、目つきが違っている。

「なんか気になることがあるの? 教えてよ」

「なんでもないってば」

「あー、中途半端に話をそらすのはいけないよ。私がやると怒るくせに」

「分かりましたよ」

 コーヒーカップを置いて、鞠子はきゅっと眉をよせた。速読した内容を検索するときの癖である。

 瞳子はこんな表情をするときの鞠子が、とてもセクシーだと思っていた。

「子ども向けの本なのに、警察に関する記述がとても正確なのよ。もちろん難しい言葉が使えない分、簡略化されているところがあるんだけど、キャリアなのかノンキャリアなのか、ノンキャリアでも優秀なのかそうでないのかで正確に階級が書き分けてあるし」

 キャリアという言葉は鞠子から教えてもらったことがあった。

 警察官には、日本全体から採用されたキャリアと準キャリア、地域で採用されたノンキャリアがいる。

 偉くなるのはキャリアか準キャリアだということや、鞠子がノンキャリアで、別にそのことにはこだわっていないことも瞳子は知っていた。

 鞠子は正義の味方になりたいと子供の頃から考えていた。

 大人になるに従って世界のすべてを救うのは難しいと分かったけれど、身近な人々を助けることをあきらめたくなかったために、いつまでも現場の近くにいられるノンキャリアの警察官になったという。

「ちゃんと調べたらわかることじゃないの」

「そうなんだけどね。別にそこまで正確である必要はないじゃない」

 瞳子も確かにそうだと思う。こども向けの本で、わざわざ現実の難しい上下関係まで再現する必要はない。

「ママ、この作者の児玉水力さんについて、学校で噂が流れているの」

 そう瞳子が言った途端、洋がおたまをおとした。

「あ、ごめん」

 洋が謝る。いつも冷静な洋がミスをするのは珍しかったが、瞳子は話に集中していたので、そのことに気づかなかった。

「この本を書いた人なんだけど――」

 鞠子と洋が身を乗り出してきた。瞳子はその勢いにおされそうになりながら言った。

「――真凛ちゃんのパパなんだって」

「真凛ちゃんて……あ、交通課の鈴木巡査部長の娘さん」

「そう」

「じゃあ、警察内部には詳しいかもしれないけど――」

「どうしたの」

「いえ、ちょっとね」

 瞳子は鞠子を睨んだ。

「わかったわよ。でも細かい話はできないわよ」

 鞠子は考えをまとめるためだろう。コーヒーを啜ってから息を軽く吐き出し、そして話を続けた。

「今担当している事件があって、その内容とこの本の内容に似ているところがあるような気がしてね」

「えー、だってこれは最新刊だよ」

「だから自信があるわけではないの。なんて言ったらいいのかしら。いろいろな犯罪の現場を見ていると、ああ、これはあの事件の犯人の癖と似ているな、と感じることがあるの」

「よくわかんない。警察官だったら誰でも知っている有名な事件を下敷きにしているとか」

「無理ね。私だって昨日初めて知った事件の内容に似ているような気がするのよ。なにか私と別なルートで情報を得ているのでない限りはありえないわね」

 鞠子は椅子に反り返って言う。

「まさか、児玉水力がその事件の犯人?」

「それはないわね。そもそもあの鈴木さんには似合わないし」

「そうなの」

「そうよ。この文章から推察される作者のプロファイルは――」

「プロファイルは?」

 今度は瞳子と洋が身を乗り出した。

「作者は男性ね。しかもかなりのイケメンで高い知能を持つ」

 瞳子と鞠子は同時に吹き出した。

「でもね、警察官が捜査情報を利用するのは問題があるから、本当に鈴木さんがこの作者だとすると大変な問題になるわね」

「そうなの」

「そうよ。警察官には守秘義務があるもの」

 そう言って鞠子はいたずらっぽく笑った。

「例えば、こんなものがなにを意味するのかわかったら、実際の事件にとても役にたつのですが。どうかしら少女探偵さん」

 と言いながら新聞のチラシを裏返して、そこに宝石と魚の絵を書き始めた。

 鞠子は瞬間視という能力のおかげで、簡単な絵でも特徴を見事に表現することができた。その絵もさらさら書いている割には、かなり実物に近い。

 しかし、だからといって瞳子に正体が分かるとは限らない。

「なんなのこれ?」

「やっぱりわかんないわよねえ。重要な操作情報だから、ほかの人には言っちゃダメよ」

 鞠子はその紙を細かくちぎってゴミ箱にすてた。

 その時、瞳子の視界に洋の表情が入った。洋はとても厳しい顔をしていた。

「さて、と。着替えるわね」

 鞠子は洋の様子に気がつかず、そう言うと寝室に行ってしまった。

 瞳子が鞠子の背中から洋の顔に視線を戻した時には、洋の表情はいつもの温和なものに戻っていた。


 瞳子が食器を並べる手伝いをしていた時のことである。

 どこからか電話の着信音が聞こえていた。この音は洋のスマートフォンだ。

「はい、笠井です」

 ――相手の声、女性かしら?

 瞳子は何気ない顔で聞き耳を立てる。

「ああ、ワタヌキさん、ちょうどよかった」

 洋は玄関に移動した。かすかに、

「九月十五日の打ち合わせですが、十時に……」

 という言葉だけが聞こえてくる。

 瞳子はさきほどの宝石と魚の絵を思い浮かべた。

 その後、ふと山根がつけていた魚のアクセサリを思い出していた。

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